異話 人形5
翌日から、必死こいて机にかじりつく日々となった。
算術の宿題に、全く手をつけていなかったのだ。だってこれ、やたらと問題数多くて面倒くさい内容だったんだ。
レイは全ての宿題をきっちり終わらせていた。
ここで俺が宿題を忘れたら、かっこ悪すぎる……。
午前中いっぱいを宿題に当てて、昼までに俺の気力は尽きていた……。
もうめんどくせぇ、算術……。
そもそも、こんな初歩的なもん、商人には当たり前すぎてかったるいだけだ。
それなのに分量だけは山ほどありやがるんだ……。
昼食に呼ばれたので、レイに声をかけ、一緒に食事をした。
午前中何してたんだ?と、聞くと、やはり返ってきた答えは読書で、またかあぁぁ、と、内心で打ちひしがれる。
だって俺、わざわざレイに女中を付けたのだ。兵棋盤の相手をしてやるようにと。
兵棋盤というのは、縦横共に九マスある盤の上の駒を動かし、相手の将を仕留める貴族必須の嗜みなのだ。兵法を学ぶにも適していると言われている。
確認した所、案の定レイはこれに触れたこともなく、やり方も知らなかった。
だけど、社交の場でも使われるものだ。貴族のレイが知らないでは困る。だから、暇つぶしを兼ね、今のうちにやり方を覚えておけるように仕向けたはずだった。
「だって、おしごとのじゃま、したらだめだよ」
女中には女中のやらなければならない仕事がある。だから邪魔をしたら駄目だとレイは遠慮したらしい。
そして、貴族であるレイに必要ないと言われた女中は、俺の指示よりレイの指示を優先するしかない。
「……仕方ねぇなぁ」
では息抜きがてら、俺が相手するかということになった。
兵棋盤は俺もよくやるんだ。それぞれの駒の動き、役割を教えてから、コトン、コトンと駒を動かす。はじめのレイは、あっさりとやられた。
けれど五回戦でコツを掴んだのか、急に強くなる。
俺の手法を見て、駒の動きの意味を理解した様子だ。
こういう時、こいつは本当は凄い奴なんだと、実感するんだ……。
何かを求められた時、こいつのそれに応えようとする心は凄い。与えられるもの全てを得ようと、期待に応えようと、貧欲に食らいついてくる。
ほら今だって、周りの全部を無いみたいに集中して、盤に視線を落としている。
何戦だって繰り返す。
十七戦目には、とうとう負けた。
二十戦目には、今日始めたばかりの素人とは思えないことになっていた。
……もう、互角だ、こいつ……。
凄い集中……。俺はもう、ヘロヘロだってのに、こいつは一向に、止めようとしなかった。
もう、勘弁してくれ。
そう言う為に、口を開きかけた時、兄貴が呼んでいると使用人が言ってきて、助かったと思いながら視線をあげると、未だ集中したままのレイが、俺や使用人に気付きもしないで盤を見ていた。
「おい、レイ。レイ⁉︎」
ちょっと休憩……と、声をかけようとすると、部屋の隅で待機していたワドが「ギル様」と、俺を引き留める。
「いってらっしゃいませ。盤は、私が繋いでおりますので」
集中しているレイを、邪魔してやるなということらしい。
なら頼む。と、ワドに任せて部屋を出た。
兄貴の所に向かうと、昨日記した目測をじっと睨んでいる。
「なんだよ」
「ああ、来たか。……ギル、何故左肩……ここの寸法を右と変えている?」
そんなことを聞かれた。
まあ、通常衣装は左右対称に作られるものな。
「なんか左肩庇ってただろ、あのご婦人。この暑い最中肩掛けまでかけてたし。
あそこ、多分包帯かなんかで固めてあるぜ、動きがぎこちなかった」
あのご婦人は多分左利きだ。
色々な小物の配置が、左側にあった。
なのに、湯呑みを右手で持っていて、左手をあまり動かそうとしていなかったのだ。
どうせ根掘り葉掘り聞かれるのだろうと思ったので、その辺も説明しておく。
するとまた、難しい顔をして俺を見る……なんだよ?文句あるならさっさと言いやがれ。
「お怪我をされている……と、思ったんだな?」
「そうだよ。だからなんだよ、だいたい、採寸させねぇって言ってる理由なんざ、それくらいのもんだろ?」
貴族ってのは厄介で、擦り傷一つついても大慌てする。特にご婦人は、靴だって自分で履けないくらい、なんでも使用人にしてもらう生活が当たり前だ。
とにかく、完璧に、美しくなければならないらしい。
あのご婦人は冬の社交界の為に衣装を誂えたいという依頼だった。だいたい貴族の準備は時間が掛かるので、半年前から始めるなんて普通だ。
だから、怪我の程度にもよるけれど、一応、余裕を持たせておく方が良いと思ったのだ。
「……肩のどの辺りの怪我だか、推測できるのか?」
「あ?そんなの兄貴だって出来んだろ」
「いいから、どの辺りか説明しなさい」
ぶっきらぼうに言われ、少々ムッときたけれど、言い合いしたって長引くだけだと思い直す。どの辺りの怪我かって言われても……。
「肩掛けがあったし、あんましっかりは分かんねぇよ……。だけどシワの感じが妙だったのは、肩の半ばから、二の腕にかけてだと思う……。
怪我があるとしたら、肩か、上腕じゃねぇかと思うけど……」
自信がないから声が小さくなる。
けれど兄貴は、それ以上をとやかく言わなかった。
「そうか……分かった。
だが、左右を非対称にするのは最近の流行りじゃないからな。どちらの袖にもゆとりを持たせる意匠で検討してみよう」
「あっそ。じゃ、俺はもう戻って良いよな」
踵を返すと、さして進まないうちに「待ちなさい」と、また呼び止められた。
ああ?今度はなんなんだよ!
「助かった。ありがとう」
「…………おぅ」
うわっ、気味悪ぃ、兄貴が俺を労うとか、明日雨でも降るのか?
これ以上何か言われないうちにと、部屋を逃げ出した。
最近の兄貴、なんなんだ?熱でもあんのかな……。
◇
長期休暇が終わる前日に、俺の宿題はなんとか片付いた。
明日からまた寮生活だ。レイと一緒に過ごすのも、今日で最後となる。
当然、学舎ではまた休憩時間ごとに会うし、食堂で一緒に食事もする。
とはいえ、ひと月もの長い時間を一緒に過ごしたのだし、やっぱり何か寂しいような気がしていた。
レイの振り下ろした木剣を、俺は受ける。と見せかけて、剣先の方を下に傾けた。
力の流れが変わり、木剣が滑る。体重の乗った一撃であっただけに、前のめりに体勢を崩したレイが、それを維持する為に右足を一歩踏み出す。
間合いが詰まったところを見計らって、俺は斜め前……レイの横に踏み込むとともに、木剣を翻して背中側から一撃を加えるが、それをすんでのところで見越したレイが、 そのままさらに進んで避ける。
だが、反転する隙など与えるわけもない。
俺も振り抜いた木剣の遠心力を利用して体重を右足に移し、反転するようにしてレイの背後に肉薄する。
そのまま首元に木剣を突きつけると、それまで!という、声が掛かった。
「お見事、ギル。上手く流れが繋がっていたね。
レイシール様は、足運びをもう少し工夫しなければなりません。そのままですと、どこまでも背中を見せて逃げるしか手段がありません。
前に逃げる際に、牽制で剣を振るなどして相手の攻撃を防ぐとともに、反動を利用して反転致しますと、無駄がありません」
元騎士であるという町の道場師範の言葉に、レイはこっくりと素直に頷いてから、その言葉通りに木剣を振り、動きを確認する。
俺もあそこは反撃を想定しておらず、思い切り踏み込んでいたのだが、師範の言うようにレイが行動していたとしたら、やられていたのは俺だったかもしれない。その場合はどう動くべきだったかを頭の中で確認する。
「本日はここまでとしましょう」
「はい、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
二人揃ってぺこりとお辞儀をすると、師範は若干居心地悪そうだ。
貴族のレイが抵抗なく頭を下げるものだから、戸惑っているのだろう。
鍛錬の終わりを見計らって、女中が飲み物を持ってこちらにやって来たから、二つ受け取り、一つをレイに差し出すと、レイはそれを勢いよく、ゴクゴクと一気に飲み干した。
随分汗をかいたし、喉が渇いていたのだろう。
ワドの指示で、水浴びの準備も整えられ、俺たちはそのまま庭の片隅で、下履き一枚になって水浴びを楽しむ。
こうした開放感ある夏場の水浴びも、今日が最後だろう。
桶で頭から水を被り、大きなたらいの中で寛いでいると、端の方でちょこんと座って水をかけていたレイが、俺をじっと見ていることに気が付いた。
「ん?どうした?」
「ギルは、しょうらい、きしになるの?」
唐突に言われた言葉。
なんで急に?と、思ったけれど、そういやぁレイは、兄貴にそんな話をされてたよなと、思い至る。
レイは考えの読めない……いつもの無表情で、ただ俺を見ている。
「ならねぇよ」
「きしになるのが、ゆめなんじゃないの?」
「いや、別に……そういうわけじゃない。
俺のやれることを考えたら、それが一番かっこいいかなと思っただけで、別に拘ってなりたかったわけじゃない」
そう答えると、こてんと首を傾げる。
拘っていたわけじゃないのに、騎士になろうとしていた。だけど今は違う。その意味が理解できないといった様子だ。
「じゃあ、なにになるの?」
「んー……まだ決まんねぇ。
俺程度の腕じゃ、どこかの地方領主の騎士にはなれても、王都では無理だって言われたし……。
……まあ、ここに拘りがあるわけじゃねぇから……いっそのこと傭兵でもなんでも、良いんだけどな」
パシャンと水を蹴ってそう呟くと、不思議そうに瞳を瞬かせる。
「しょうにんになるんじゃないの?」
「ならねぇよ?だって俺、ここの後継でも、なんでもねぇもん」
「?」
「あー……えっとな、たいてい家を継ぐのは、一子だろ?
うちはもう兄貴が後を継いでるし、兄貴には娘も生まれてる。
だから俺は、ここと関係ねぇんだよ」
キシリと、胸の奥に痛みが走った気がしたけれど、無視した。
レイに弱音を吐くなんてカッコ悪いことはしたくない。
だから、できるだけなんでもない風に聞こえるよう、声を弾ませる。
「この家のもんは、全部兄貴のなんだよ。
だから俺は、学舎を出たら、ここも出るんだと思うぜ。
それまでに、俺の天職ってやつを見つけねぇとなんねぇんだけどな……。まあ、騎士は無理そうだから、もっと別のなんかだな」
「ギルは、ふくすきでしょ?なのに、しょうにんしないの?」
一番言われたくない言葉。
ズキリと、誤魔化しようのない痛みに、顔が強張る。
その俺の反応を見たレイが、怯えたように肩を縮こませるものだから、俺も慌ててしまった。
別に、レイは悪くねぇんだ。思ったままを言っただけ。ズキリとすんのは、俺の気持ちの問題。
「それは俺の役割じゃねぇもん」
だから、なんとか笑って、そう言った。
好きだからって、仕方がないことは沢山ある。剣術は好きだけど、それで食っていけるほどの腕にはきっとならない。だって俺は、剣術よりも好きなもんがあって、それは俺のやるべきことじゃないって、生まれた時から決まってるんだ。
やるべきことを決められてることが、幸せだとも限らないって、俺は知ってる。学舎の友人には、家業を継ぎたくないって思ってる奴だっているから。
まあ、無い物ねだりしても仕方がないってことだ。だから俺は、二番目以降の好きなもので、生きていく方法を探すしかないんだよな。
「そういうお前は、何になるんだよ?」
話を打ち切るために、そうレイに切り返した。
けれどレイは、そんなこと考えたこともなかった様子で……。
「しらない」
まるで人ごとのようにそう答えた。
まあ……レイくらいの年だと、そんなもんかなとは思うんだけど……。
「お前も二子なんだから、将来どうしたいかは考えとけよ?」
心配になって、ついそんな小言めいたことを言ってしまった。
すると、首を傾げてしまう。
こいつ、頭良いんだから、意味が分かってないなんてことは、無いと思うんだ……。
それともう一つ気になったのは、どこか冷めたような……目を背けるような、そんなそぶりに見えたこと。
レイは自分で決めるのが苦手だ。
好きにして良いと言われると、すごく戸惑う。怖がるといっても良いかもしれない。
人の考えてることを察して、それに合わせて動く。
呼ばれないときはいつも静かに、読書をしてる。
暴力が苦手だ。
大人と接することも苦手だ。
そんなのの全部が、レイの実家に原因があるのだと思う。
だから…………、
「ま、どうしても見つかんなかったら、俺と一緒に旅でもするか?」
茶化して、そんな風に問うた。
旅?と、レイが不思議そうに呟く。
「そっ、いろんなもん見てみねぇと、やりたいことなんざ見つかんねぇよ。
二人でいろんなとこ行ってみるって、楽しそうだしっ」
「たのしい……?」
「お前と一緒なら大抵楽しいけどな、俺は」
「そ?」
「そうだよっ」
頭をガシガシと撫でてやると、虚ろな瞳が、どことなく和んだ風に見える。
ホッとしたような、そんなこいつが可愛くて仕方がない。
これで女だったら最高なんだけど、まあ、男だって別に、不満なわけじゃない。
手の指がふやけてきたし、そろそろ出ようぜと声をかけ、立ち上がる。
遠巻きにしていた女中が手拭いを持ってやってくるが、それを受け取って自分で身体を拭いた。
うん、言ってみただけだけど、案外良い案かもしれない。
どうにもならなくなったら、二人して旅に出てみよう。
知らない場所を、沢山見て回ろう。
それはきっと、とても楽しいことだ。
 




