畏怖
雨季が明けた。
前日まで、まるで降り止む様子のなかった雨。空も灰色一色であったのに、眩しくて目を覚ましたら、窓の外が、青空だった。
夢にうなされ、サヤに起こされた時は、窓を叩く雨音を聞いていた記憶がある。
「……明けた」
つい、そう呟いていた。
寝台を下りて、布靴を足に引っ掛け、窓辺に向かう。
窓を大きく開け放つと、まだ水気を多く含む、重たい空気の匂い……。
「だけど、明けた……!」
窓を開け放ったまま、俺は衣装棚前に移動した。
雨季の間は汚れの目立たない、暗い色合いの細袴を選びがちであったから、気分転換に淡い色を手に取る。それに履き替え、長衣をどうしようかと悩んでいたら、コンコンと扉が叩かれ、おはようございます。と、サヤの声。
「おはようっ」
「お早いですね。何かございましたか?」
弾む声音で返事をした俺に、やって来たサヤが首を傾げるものだから、俺は長衣選びを放り出して、サヤの手を取った。
「え?」
「こっち」
窓の方に引っ張って進み、外を見せる。夜番用の寝室には、窓なんて無いから、気付いていない様子だったのだ。
サヤはされるがままに引かれて歩き、止まった俺の横で、不思議そうに俺を見上げ……。
「あの?……あっ、青空⁉︎」
「ああ、明けた」
サヤが、窓枠に手を掛けて、外に身を乗り出す。
そして何故か胸いっぱいに、空気を吸い込んでから、破顔した。
「まだ、雨の匂いしかしいひんのに、青空!」
輝く笑顔でそう言ってから、跳ねる様にして、俺の方に向き直る。
「おめでとうございます!」
と、満面の笑顔で言った。
とうとう雨季が明けた。氾濫を、防ぎ切ったのだ。
「全部、サヤのおかげだ……ありがとう」
「違います。皆さんが、頑張ったからです」
笑顔でそう言うサヤ。
だけど俺も、違うと首を横に振る。
「サヤだよ。君が居なかったら、この瞬間は絶対に、無かったんだ。
だから、サヤのおかげだ。全部君から始まった。ありがとう、本当に」
この世界に来てくれて、俺の傍に居てくれて、ありがとう。
愛おしくて、つい抱きしめたくなったけれど、そこはぐっと堪える。
「サヤ、すぐに着替えるから、朝食までの間に、少し……散歩に出ないか?
ちょっと早起きし過ぎてしまったし、久々に晴れた外を、歩きたい気分なんだ」
「うんっ」
「ありがとう」
サヤは、久しぶりに浴びる朝日の中で、とても魅力的に輝いてみえた。
男装してたってそう見えるのだから、始末におえない。
この前から特に……サヤが美しく見えて仕方がない。
指の動き一つにすら、視線が引き寄せられてしまう。
なんでだろうかと考え、きっと、少し弱ったサヤを見たからだと気付く。
自分が嫌いだったと言った、あの時のサヤの言葉が、彼女を守りたいと言う気持ちに、大きく作用しているように思えた。
サヤに手伝ってもらい、着替えを終えた。
そうしたら、執務机に向かい、ハインに言伝を残す。
ちょっとさんぽしてくる、さやがいっしょだからしんぱいするな
そうしておいてから、二人で館を出た。
まずは村の中を散策することにする。
村の畑は雑草が蔓延り、畑の合間にある民家の扉はまだ閉ざされている。
貴重な農閑期は、勤勉な村の皆の朝も少し遅くなる。だが、それでも例外はある様子で、途中でユミルとカーリンに遭遇した。
「レイ様! サヤさんも、おはようございます!」
「やあ、なんだか久しぶりな気がするね。こんな早くから仕事なの?」
そう声を掛けると、二人は顔を見合わせてニッコリと笑った。
「ありがとうございます!」
「……え? 何が?」
急にありがとうって言われても意味が分からない……。
すると二人は、クスクスと笑いあい、俺に言うのだ。
「何がって、嫌だわレイ様、全部ですよ」
「です。川のことも、仕事のことも、全部のお礼です」
「雨季、明けたんですよ? 氾濫起きなかったんです! そりゃお礼、言いますよ!」
「何度も水が川岸を乗り越えたのは知ってます。でも、全部あの壁が防いでくれました。
だから、お会いしたら一番にお礼を言おうねって、今話してたところだったんです」
二人で畳み掛けるようにそう言われて、少々たじろぐ。
だけど、お礼を言われる様なことじゃない。川の氾濫防止は、俺の仕事の一環なのだし、この二人だって、とても沢山、頑張ってくれたのだ。
「うん、ありがとう……。
けど、二人だって賄い作りを頑張ってくれた。その働きがあってこそなんだよ。
だから二人にも、ありがとう」
そう伝えると、キャー! と、手を取り合って喜ぶ二人。
その微笑ましい様子に、サヤの表情も自然と綻んだ。柔らかく微笑む優しい顔に、俺の心臓が跳ねる。こんなに美しく見えてしまっては、男装がバレるのじゃないかと、ヒヤヒヤしていると、
「レイ様は、サヤさんを伴ってどちらに? こんな早朝から、お仕事ですか?」
「いや……せっかく雨季が終わったから、見回りがてら、散歩をね」
「そっか。私たちも、つい早く家を出ちゃったもんね」
どうやら動機は俺と同じであったらしい。少し笑ってしまった。
俺は二人に、今日も美味しいご飯をお願いするよと伝える。
すると二人は、笑顔ではいっ! と、良い返事を返してくれた。そうして一礼してから、軽い足取りで食事処の方へと歩いていく。
二人を見送ってから、土嚢壁へと向かった。
夜通し経過観察を続けてくれていた近衛方々に、お疲れ様ですと声を掛けると、ピッと、折り目正しいお辞儀を返される。
「おめでとうございます」
「えっ? あ、あの……」
ここではおめでとうときた。
慌てる俺に、近衛の方は爽やかな笑顔で「無事、雨季を乗り切られましたこと、心よりめでたいと思いましたもので」と、説明してくれる。
「い、いえ……こんな田舎まで来て頂いて……王家の盾である皆様に警護やら観察やらさせておいてあの……本当に、ありがとうございます」
「大変、有意義な体験でした。
沢山のことを学ぶことが出来たと思います」
お一人がそう言って、また頭を下げる。
やめて下さいとお願いして、なんとか顔を上げてもらったのだが、すると今度は、もう一人の方が、口を開いた。
「貴方様は、姫様の愁いを祓って下さいました。むしろ我々が感謝を述べるべきかと」
そう返されて、更に焦った。こ、近衛の方に貴方様とか言わせてしまったっっ!
「ち、違いますっ、そんなことじゃ……たまたまですあれはっ!」
たまたまだ。状況が上手く転がったというだけのこと。感謝される様なことじゃない!
慌てふためく俺に、近衛の方々は微笑みを絶やさない。そうして更に、こんなことを言うのだ。
「正直はじめは……何故姫様が、この様な田舎の、妾腹出に執着するのか……とすら、思っていました。自分の無知を恥ずかしく思います。身分など、所詮生まれた場所でしかないのだと、分かっていた筈であったのに……。
お恥ずかしながら、嘆願書を見ても、この事業のなんたるかが、私にはきちんと理解出来ていなかった」
「……自身の未熟さを痛感致しました。ここに来ることは、確かに必要なことだった。
実際自ら行動し、こうして成果も得た今、この瞬間に立ち会えましたことを、誇りに思っています」
「お、俺なんかにそんな、やめて下さい⁉︎
俺は何もっ、一人では何もできない未熟者なんです! 全部皆に、周りに助けてもらって、結果的にこうなったというだけで、俺は何もしておりませんから!」
必死でそう言う俺を、二人は微笑ましく見つめてくる。居た堪れなくなった俺は、では失礼します! と、その場を逃げ出してしまった。
暫く走ってから、サヤを置いてきてしまったことに気付き、慌てて振り返る。
あ、ついて来てた。
脱力する俺に、サヤはくすくすと笑う。そうしてから、
「レイ、謙遜しすぎや。そんなに恥ずかしがらんでもええのに」
普段の口調でそう言い、息を切らせる俺の背中を手でさすってくれた。
彼女の息は乱れてもいない……ううぅ、体力つけないと……。
女性に大敗を喫している状況に少々落ち込んでいると、
「レイは、凄いで。
無理やって思う状況に、人は普通、足を止めるんや。
成功するかどうか、分からへんことには、尻込みしてしまうもんなんや。
なのにレイは、動いた。ちゃんとやり遂げたやろ?
今のこの形になるまで進む為に、みんなの前に立った。それは、簡単に出来ることやない。
みんな、それを褒めてくれてはるんやろ? 後ろ盾のない、成人前のレイが、その覚悟を全うしたことを」
そんな風に言って、誇らしげに、笑う。
「まあ、それでも自分は何もしてへんって、当たり前みたいに言うて、人を褒めるレイが、私は好きやけど」
…………好き?
びっくりして息が止まった。
好き……好き? え?
さらりと言われた、その言葉の解釈について暫く戸惑う。
なんでもないことみたいに、口にしてたし……ただ好感が持てるという意味の好きなのだろうとは思う。恋愛的なものじゃなく。
そう結論付けたにも関わらず、何故か、ぶわりと顔が熱を持った。
心臓が意味もなく暴れて、愛おしさというか、何かムズムズとするものが込み上げてくる。
俺の反応を見て、サヤも自分が何を言ったのかに気付いたらしい。
表情が固まったかと思うと、彼女も一気に顔が赤くなる。
そうしてから、恥じらう姿を隠すみたいに、後ろを向いてしまった。
馬の尻尾の様に纏められた髪の合間から、火照って色付いたうなじや耳たぶが見える。
「わ、私っ、は……レイのそういう、身分とか関係なく、人を、大切にするところ、ホンマに、好きやって思う。よ?」
否定されたり、勘違いするなと諌められたりするのだと思っていた。
なのにサヤは、それをしないどころか、まさかの上塗りをしてきた。
頭に血が上って、手を伸ばしそうになる。愛おしくて、腕の中に収めてしまいたい衝動に駆られていた。
その時、急に強い風が吹いて、サヤの髪が舞った。
跳ねた毛先に視線を奪われ、それがパサリと元の位置に戻る……。
しかし俺の視線はその毛先のあった場所に留まっていた。
川を挟んだ向こう側、丘の中程に見える、無骨な……っ。
一気に血の気が引いた。
駄目だ。これじゃ……サヤが……サヤが幸せになれない。
「サヤ、行こう」
背後から腕を取って、急ぎ、足を進める。
俺はせき立てられる様な心地で、目的の場所へ急いだ。
橋を渡り、緩やかな坂道を登り、別館の横をすり抜けてから目指す先。
「……レイ?」
サヤと出会ってから今日まで、一度も来なかった。行けなかった場所。
無意識に、恐れていた場所。
ここに来てしまったら、サヤが戻る手掛かりが、見つかってしまう気がして、何もかも無かったことになる気がして、ずっと避けていた。
返さなきゃならない。サヤをサヤの世界に。大切な人の元に。そう思っているのに、思っていなかった。雨季の間だって言い訳して、一度も、意識することすら、避けていた!
急勾配の坂道に、あるかないか分からない様な、人の通る痕跡。
道は長雨に泥濘み、足場が悪い。露に濡れた草木に触れた部分から、じんわりと水気が移ってきて、あっという間に服は斑のシミだらけになった。
サヤはただ、引かれるがままに歩き、ついてくる。
そうして、息が多少上がった頃、俺たちは辿り着いていた。
出会った場所。「望郷の泉」に。
サヤの手を離し、無言で泉に近付く。
上着を脱ぎ捨てて、袖を捲るのももどかしく、泉に腕を突っ込んだ。
「レイ?」
「約束だったろう? 雨季が明けたら、帰り方を探すって」
その言葉にサヤは、動きを止める。
「俺の夢は、叶ったよ。サヤが、叶えてくれた。
だから今度は、俺の番だ……。
サヤの帰り方を探す。雨季が明けたらという、約束だった」
沈黙。
空間が、バシャバシャと、泉を掻き回す音だけになる。
「……帰り方……?」
「うん。ごめんね、長いこと、待たせた。二ヶ月以上、経ってしまったね……。
そしてまだこれからだ。今から始めるってだけ……サヤを今すぐ、故郷に帰してやれない。
だけど、必ず……必ず、帰り方を見つけるから。もう暫く、待ってもらえるか」
何か手掛かりはないものかと、泉の底を丹念に撫でていく。
浅い泉の底は、こうしていても普通に見えている。なんの変哲も無い小石や砂地。掻き回すと、小さなものは舞い上がる。
この砂地の下か?そう思って掘ってみたけれど、何も特別な感触は得られない……。
ホッとする自分を、必死で罵って、もっと奥へと手を伸ばす。
「私、帰ったほうがええの」
「当たり前だよ」
感情のこもらない、サヤの言葉。
それに対し、俺も薄っぺらい返事を返す。
だけどこれは、どうしても必要なことだった。
だってな、どう考えても、サヤから全部を奪って良い理由なんて、一つも出てこなかった。
サヤの大切なもの全て。
それと引き換えにできる程の価値があるものなんて、この世界のどこを探したって、ありはしない。
結局、どうしたって、その結論にしか、達しないんだ……。
「帰らなきゃ駄目だ。サヤの大切なもの、大切な人、全部あるのは、サヤの世界だろう?」
戻さなければならない。今まで通りに。サヤのいなかった時のやり方を、思い出さなければ。
これからも俺は、ここで生きていく。サヤがこの世界に落としていってくれた知識を、守ってくれたこの村を、俺の手で守り続け、生きていくのだ。
だから、サヤの居なかった時の、二年続けたやり方を、思い出さなければ……。
「……レイは、また私を、居なかったことにするん」
「違う。違うよ……サヤの帰る準備を始めるだけだ。
俺はサヤが好きだよ。その気持ちは、これからもずっと変わらない。
君が、俺の中で一番大切なものだ。君が君の世界に帰ったって、変わらない。ずっと、そうだよ」
サヤは、俺の人生の中で、一番輝く、宝物だ。
持ってはいけない俺に、望むことを許してくれた。俺に沢山与えようとしてくれた、掛け替えのない存在。
「だからこそだよ……。
サヤから奪うのだけは、したら駄目なんだ……。
君は、幸せにならなきゃいけないんだ。
そして君の幸せがあるのは、君の世界だ」
こんな恐ろしい場所じゃない。
俺の横にいるっていうことは、ずっと、危険と隣り合わせでいるってことなんだから。
だってそうだろう。
さっき、風が吹いた時、視界の先にあったのは、俺の罰。
あそこからは、あの無骨な建物がほんの少し、見えただけだった。
だけど俺は知ってる……兄上の部屋から、あの場所は、よく見えるのだ……。
気の所為だと思う。だけど、そう思ってしまったらもう、耐えられなかった。
兄上と、視線が合った様な、気がしたのだ。
虚ろな視線が、じっと、俺たちを見据えていると、そう感じた。
あの人に、サヤを近付けては駄目だ。
雨季が終わったなら、ここは安全じゃなくなる。お客人は皆、王都に帰る。そうしたらサヤは、異母様に……兄上に、晒されてしまうのだ!
サヤを守る一番確実な方法は、サヤをサヤの世界に帰すことだ。
それで万事解決する。
サヤは失われない。サヤの世界で、ちゃんと、幸せに……⁉︎
肩を掴まれ、力任せに引っ張られた。
予想していなかったことに、抵抗も何も出来ない。
勢いのまま尻餅をつくと、顔を挟み込まれた。
「さっ……?」
「私の目を見て、言い」
サヤの両手が、俺の顔を挟み込んで、逃げることを封じていた。
至近距離に、凄く怒った顔のサヤがいる。
ぬかるんだ地面に膝をついて、俺の方に身を乗り出して言った。
「もう一回、私の目を見て、同じことを言うてみい!」
「…………サヤは……帰らなきゃ、駄目だ」
キリキリと胸が痛む。
失いたくないと、悲鳴をあげる。
だけど意味が違うだろう? と、自分に言い聞かせた。
サヤはここから居なくなるだけだ。サヤの世界でちゃんと、笑ってくれる。
ここに居たら、どんな目に合わせてしまうか、分からない……俺の傍に居ることは、サヤを不幸にしかしない。
グッと、サヤの手に力がこもった。
瞳にちらついていた怒りが、より強くなる。
「違うやろ? レイが私に言うべきなんは、その言葉やない」
「違わない……! ちょっ、い、痛い……っ」
「違うやろ⁉︎ 私のこと好きやって、さっきも言うたくせに!」
「そうだよ⁉︎ そこはそうだよ!
だけど、それとこれとは別なんだ!」
「何が別⁉︎ 意味分からへんしっ。レイは、私のこと必要やって、言わなあかんのんやろ⁉︎」
「違う! 俺に必要なのは、サヤの幸せだよ! ここに居ることじゃない、サヤがちゃんと幸せだって分かることだ!」
「あっちの世界に帰った私の幸せが、どうやってレイに、分かるって言うん⁉︎」
そんな風に言われ、一瞬、言葉に詰まった。
だけど、すぐに言い返す。
「家族と、幼馴染と、生活してきた場所と、時間を、取り戻すんだよ?
サヤは泣いてたじゃないか……もう、会えないの? って、言って、泣いてたろう⁉︎
それだけ大切なものだ、その場所に帰るんだから、幸せに決まってる!」
「私の幸せは、私が決める!
レイは私の世界の私を、何も知らへんのに、勝手に私を、幸せやって決めつけて、放り捨てんといて!」
そんな風に叫ばれて、サヤの両手が背中の方にすり抜けた。
俺に馬乗りになったサヤが、俺の身体に密着してきて、頭を抱え込まれる。
顔のすぐ横にサヤの顔がある。頬が触れている……肩に、サヤの顎が……小さく、小刻みに震えていた……。
「なんで、そうなん……。
なんで分からへんの……私が今帰って、幸せになれるわけあらへんのが、なんで分からへんの」
そう言ってから、腕に力を込めた。
しがみつく様に、逃がさないとでも言うかの様に。
首筋に、サヤの吐息を感じる。男装してくれていて良かったと、何故か場違いなことが思考をよぎった。
こんな体勢、女性のサヤにされたら理性が飛びそうだ。
「なれるさ。ここの世界は、サヤの夢なのだと、思ってくれたら良い」
「思えるわけあらへん。言うたやろ。ここに居るのが、私の現実やて。
沢山関わった。沢山知った。せやから……」
そう言って……。
「いっつも綺麗に、笑顔を作る。……作っとるだけや……。
レイが、私に向かって、本当は笑ってすらいいひんのん、もう分かってしもうた。
そんなうわべだけ取り繕うてるレイを、ほっといて帰れるわけない。
本気で私を帰したいんやったら、そんな顔せんといて」
耳元で囁かれたその言葉に、どきりとする。
ちゃんと、出来ていたつもりだった。感情の表現は、もうかなり上手に、違和感なく行えるようになったつもりだったのだ。
「本気で私を帰したいんやったら、レイがちゃんと幸せなとこ、私に見せてくれなあかん。
私のこと一番大切やって言うてるのに、手放そうとする人の、どこに安心したらええの?
好きやって言うなら、レイがすべきことは……わ、私を、離さへんことなんと、違うの」
…………それはっ⁉︎
俺がサヤを求めても、良いって、意味?
全身が泡立った。
歓喜と、興奮と、不安と、混乱。どれもであってどれも違う不思議な感情に、頭を揺さぶられたのだ。
自分が感情の何を使い、どう動けば良いのかが、分からない。
だけど……。
何度間違えば、憶えるんだ?
あと何人、必要だ?
頭の中でそう囁かれ、一瞬で現実に引き戻される。
そうやって、あの人みたいに、サヤを失くすのかと、あざ笑う兄上の声。
「……嫌だ、サヤを、失いたくないんだ。
あの人みたいにはしたくない……だけどここに居たら、いつかその時が……」
あの人みたいにしてしまう日が、きっと来てしまう!




