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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第五章
133/515

畏怖

 雨季が明けた。

 前日まで、まるで降り止む様子のなかった雨。空も灰色一色であったのに、眩しくて目を覚ましたら、窓の外が、青空だった。

 夢にうなされ、サヤに起こされた時は、窓を叩く雨音を聞いていた記憶がある。


「……明けた」


 つい、そう呟いていた。

 寝台を下りて、布靴を足に引っ掛け、窓辺に向かう。

 窓を大きく開け放つと、まだ水気を多く含む、重たい空気の匂い……。


「だけど、明けた……!」


 窓を開け放ったまま、俺は衣装棚前に移動した。

 雨季の間は汚れの目立たない、暗い色合いの細袴を選びがちであったから、気分転換に淡い色を手に取る。それに履き替え、長衣をどうしようかと悩んでいたら、コンコンと扉が叩かれ、おはようございます。と、サヤの声。


「おはようっ」

「お早いですね。何かございましたか?」


 弾む声音で返事をした俺に、やって来たサヤが首を傾げるものだから、俺は長衣選びを放り出して、サヤの手を取った。


「え?」

「こっち」


 窓の方に引っ張って進み、外を見せる。夜番用の寝室には、窓なんて無いから、気付いていない様子だったのだ。

 サヤはされるがままに引かれて歩き、止まった俺の横で、不思議そうに俺を見上げ……。


「あの?……あっ、青空⁉︎」

「ああ、明けた」


 サヤが、窓枠に手を掛けて、外に身を乗り出す。

 そして何故か胸いっぱいに、空気を吸い込んでから、破顔した。


「まだ、雨の匂いしかしいひんのに、青空!」


 輝く笑顔でそう言ってから、跳ねる様にして、俺の方に向き直る。


「おめでとうございます!」


 と、満面の笑顔で言った。

 とうとう雨季が明けた。氾濫を、防ぎ切ったのだ。


「全部、サヤのおかげだ……ありがとう」

「違います。皆さんが、頑張ったからです」


 笑顔でそう言うサヤ。

 だけど俺も、違うと首を横に振る。


「サヤだよ。君が居なかったら、この瞬間は絶対に、無かったんだ。

 だから、サヤのおかげだ。全部君から始まった。ありがとう、本当に」


 この世界に来てくれて、俺の傍に居てくれて、ありがとう。

 愛おしくて、つい抱きしめたくなったけれど、そこはぐっと堪える。


「サヤ、すぐに着替えるから、朝食までの間に、少し……散歩に出ないか?

 ちょっと早起きし過ぎてしまったし、久々に晴れた外を、歩きたい気分なんだ」


「うんっ」

「ありがとう」


 サヤは、久しぶりに浴びる朝日の中で、とても魅力的に輝いてみえた。

 男装してたってそう見えるのだから、始末におえない。

 この前から特に……サヤが美しく見えて仕方がない。

 指の動き一つにすら、視線が引き寄せられてしまう。

 なんでだろうかと考え、きっと、少し弱ったサヤを見たからだと気付く。

 自分が嫌いだったと言った、あの時のサヤの言葉が、彼女を守りたいと言う気持ちに、大きく作用しているように思えた。


 サヤに手伝ってもらい、着替えを終えた。

 そうしたら、執務机に向かい、ハインに言伝を残す。


 ちょっとさんぽしてくる、さやがいっしょだからしんぱいするな


 そうしておいてから、二人で館を出た。

 まずは村の中を散策することにする。

 村の畑は雑草が蔓延り、畑の合間にある民家の扉はまだ閉ざされている。

 貴重な農閑期は、勤勉な村の皆の朝も少し遅くなる。だが、それでも例外はある様子で、途中でユミルとカーリンに遭遇した。


「レイ様! サヤさんも、おはようございます!」

「やあ、なんだか久しぶりな気がするね。こんな早くから仕事なの?」


 そう声を掛けると、二人は顔を見合わせてニッコリと笑った。


「ありがとうございます!」

「……え? 何が?」


 急にありがとうって言われても意味が分からない……。

 すると二人は、クスクスと笑いあい、俺に言うのだ。


「何がって、嫌だわレイ様、全部ですよ」

「です。川のことも、仕事のことも、全部のお礼です」

「雨季、明けたんですよ? 氾濫起きなかったんです! そりゃお礼、言いますよ!」

「何度も水が川岸を乗り越えたのは知ってます。でも、全部あの壁が防いでくれました。

 だから、お会いしたら一番にお礼を言おうねって、今話してたところだったんです」


 二人で畳み掛けるようにそう言われて、少々たじろぐ。

 だけど、お礼を言われる様なことじゃない。川の氾濫防止は、俺の仕事の一環なのだし、この二人だって、とても沢山、頑張ってくれたのだ。


「うん、ありがとう……。

 けど、二人だって賄い作りを頑張ってくれた。その働きがあってこそなんだよ。

 だから二人にも、ありがとう」


 そう伝えると、キャー! と、手を取り合って喜ぶ二人。

 その微笑ましい様子に、サヤの表情も自然と綻んだ。柔らかく微笑む優しい顔に、俺の心臓が跳ねる。こんなに美しく見えてしまっては、男装がバレるのじゃないかと、ヒヤヒヤしていると、


「レイ様は、サヤさんを伴ってどちらに? こんな早朝から、お仕事ですか?」

「いや……せっかく雨季が終わったから、見回りがてら、散歩をね」

「そっか。私たちも、つい早く家を出ちゃったもんね」


 どうやら動機は俺と同じであったらしい。少し笑ってしまった。

 俺は二人に、今日も美味しいご飯をお願いするよと伝える。

 すると二人は、笑顔ではいっ! と、良い返事を返してくれた。そうして一礼してから、軽い足取りで食事処の方へと歩いていく。


 二人を見送ってから、土嚢壁へと向かった。

 夜通し経過観察を続けてくれていた近衛方々に、お疲れ様ですと声を掛けると、ピッと、折り目正しいお辞儀を返される。


「おめでとうございます」

「えっ? あ、あの……」


 ここではおめでとうときた。

 慌てる俺に、近衛の方は爽やかな笑顔で「無事、雨季を乗り切られましたこと、心よりめでたいと思いましたもので」と、説明してくれる。


「い、いえ……こんな田舎まで来て頂いて……王家の盾である皆様に警護やら観察やらさせておいてあの……本当に、ありがとうございます」

「大変、有意義な体験でした。

 沢山のことを学ぶことが出来たと思います」


 お一人がそう言って、また頭を下げる。

 やめて下さいとお願いして、なんとか顔を上げてもらったのだが、すると今度は、もう一人の方が、口を開いた。


「貴方様は、姫様の愁いを祓って下さいました。むしろ我々が感謝を述べるべきかと」


 そう返されて、更に焦った。こ、近衛の方に貴方様とか言わせてしまったっっ!


「ち、違いますっ、そんなことじゃ……たまたまですあれはっ!」


 たまたまだ。状況が上手く転がったというだけのこと。感謝される様なことじゃない!

 慌てふためく俺に、近衛の方々は微笑みを絶やさない。そうして更に、こんなことを言うのだ。


「正直はじめは……何故姫様が、この様な田舎の、妾腹出に執着するのか……とすら、思っていました。自分の無知を恥ずかしく思います。身分など、所詮生まれた場所でしかないのだと、分かっていた筈であったのに……。

 お恥ずかしながら、嘆願書を見ても、この事業のなんたるかが、私にはきちんと理解出来ていなかった」

「……自身の未熟さを痛感致しました。ここに来ることは、確かに必要なことだった。

 実際自ら行動し、こうして成果も得た今、この瞬間に立ち会えましたことを、誇りに思っています」

「お、俺なんかにそんな、やめて下さい⁉︎

 俺は何もっ、一人では何もできない未熟者なんです! 全部皆に、周りに助けてもらって、結果的にこうなったというだけで、俺は何もしておりませんから!」


 必死でそう言う俺を、二人は微笑ましく見つめてくる。居た堪れなくなった俺は、では失礼します! と、その場を逃げ出してしまった。

 暫く走ってから、サヤを置いてきてしまったことに気付き、慌てて振り返る。

 あ、ついて来てた。

 脱力する俺に、サヤはくすくすと笑う。そうしてから、


「レイ、謙遜しすぎや。そんなに恥ずかしがらんでもええのに」


 普段の口調でそう言い、息を切らせる俺の背中を手でさすってくれた。

 彼女の息は乱れてもいない……ううぅ、体力つけないと……。

 女性に大敗を喫している状況に少々落ち込んでいると、


「レイは、凄いで。

 無理やって思う状況に、人は普通、足を止めるんや。

 成功するかどうか、分からへんことには、尻込みしてしまうもんなんや。

 なのにレイは、動いた。ちゃんとやり遂げたやろ?

 今のこの形になるまで進む為に、みんなの前に立った。それは、簡単に出来ることやない。

 みんな、それを褒めてくれてはるんやろ? 後ろ盾のない、成人前のレイが、その覚悟を全うしたことを」


 そんな風に言って、誇らしげに、笑う。


「まあ、それでも自分は何もしてへんって、当たり前みたいに言うて、人を褒めるレイが、私は好きやけど」


 …………好き?


 びっくりして息が止まった。

 好き……好き? え?

 さらりと言われた、その言葉の解釈について暫く戸惑う。

 なんでもないことみたいに、口にしてたし……ただ好感が持てるという意味の好きなのだろうとは思う。恋愛的なものじゃなく。

 そう結論付けたにも関わらず、何故か、ぶわりと顔が熱を持った。

 心臓が意味もなく暴れて、愛おしさというか、何かムズムズとするものが込み上げてくる。


 俺の反応を見て、サヤも自分が何を言ったのかに気付いたらしい。

 表情が固まったかと思うと、彼女も一気に顔が赤くなる。

 そうしてから、恥じらう姿を隠すみたいに、後ろを向いてしまった。

 馬の尻尾の様に纏められた髪の合間から、火照って色付いたうなじや耳たぶが見える。


「わ、私っ、は……レイのそういう、身分とか関係なく、人を、大切にするところ、ホンマに、好きやって思う。よ?」


 否定されたり、勘違いするなと諌められたりするのだと思っていた。

 なのにサヤは、それをしないどころか、まさかの上塗りをしてきた。

 頭に血が上って、手を伸ばしそうになる。愛おしくて、腕の中に収めてしまいたい衝動に駆られていた。


 その時、急に強い風が吹いて、サヤの髪が舞った。

 跳ねた毛先に視線を奪われ、それがパサリと元の位置に戻る……。

 しかし俺の視線はその毛先のあった場所に留まっていた。

 川を挟んだ向こう側、丘の中程に見える、無骨な……っ。


 一気に血の気が引いた。

 駄目だ。これじゃ……サヤが……サヤが幸せになれない。


「サヤ、行こう」


 背後から腕を取って、急ぎ、足を進める。

 俺はせき立てられる様な心地で、目的の場所へ急いだ。

 橋を渡り、緩やかな坂道を登り、別館の横をすり抜けてから目指す先。


「……レイ?」


 サヤと出会ってから今日まで、一度も来なかった。行けなかった場所。

 無意識に、恐れていた場所。

 ここに来てしまったら、サヤが戻る手掛かりが、見つかってしまう気がして、何もかも無かったことになる気がして、ずっと避けていた。

 返さなきゃならない。サヤをサヤの世界に。大切な人の元に。そう思っているのに、思っていなかった。雨季の間だって言い訳して、一度も、意識することすら、避けていた!


 急勾配の坂道に、あるかないか分からない様な、人の通る痕跡。

 道は長雨に泥濘み、足場が悪い。露に濡れた草木に触れた部分から、じんわりと水気が移ってきて、あっという間に服は斑のシミだらけになった。

 サヤはただ、引かれるがままに歩き、ついてくる。

 そうして、息が多少上がった頃、俺たちは辿り着いていた。

 出会った場所。「望郷の泉」に。


 サヤの手を離し、無言で泉に近付く。

 上着を脱ぎ捨てて、袖を捲るのももどかしく、泉に腕を突っ込んだ。


「レイ?」

「約束だったろう? 雨季が明けたら、帰り方を探すって」


 その言葉にサヤは、動きを止める。


「俺の夢は、叶ったよ。サヤが、叶えてくれた。

 だから今度は、俺の番だ……。

 サヤの帰り方を探す。雨季が明けたらという、約束だった」


 沈黙。

 空間が、バシャバシャと、泉を掻き回す音だけになる。


「……帰り方……?」

「うん。ごめんね、長いこと、待たせた。二ヶ月以上、経ってしまったね……。

 そしてまだこれからだ。今から始めるってだけ……サヤを今すぐ、故郷に帰してやれない。

 だけど、必ず……必ず、帰り方を見つけるから。もう暫く、待ってもらえるか」


 何か手掛かりはないものかと、泉の底を丹念に撫でていく。

 浅い泉の底は、こうしていても普通に見えている。なんの変哲も無い小石や砂地。掻き回すと、小さなものは舞い上がる。

 この砂地の下か?そう思って掘ってみたけれど、何も特別な感触は得られない……。

 ホッとする自分を、必死で罵って、もっと奥へと手を伸ばす。


「私、帰ったほうがええの」

「当たり前だよ」


 感情のこもらない、サヤの言葉。

 それに対し、俺も薄っぺらい返事を返す。

 だけどこれは、どうしても必要なことだった。


 だってな、どう考えても、サヤから全部を奪って良い理由なんて、一つも出てこなかった。

 サヤの大切なもの全て。

 それと引き換えにできる程の価値があるものなんて、この世界のどこを探したって、ありはしない。

 結局、どうしたって、その結論にしか、達しないんだ……。


「帰らなきゃ駄目だ。サヤの大切なもの、大切な人、全部あるのは、サヤの世界だろう?」


 戻さなければならない。今まで通りに。サヤのいなかった時のやり方を、思い出さなければ。

 これからも俺は、ここで生きていく。サヤがこの世界に落としていってくれた知識を、守ってくれたこの村を、俺の手で守り続け、生きていくのだ。

 だから、サヤの居なかった時の、二年続けたやり方を、思い出さなければ……。


「……レイは、また私を、居なかったことにするん」

「違う。違うよ……サヤの帰る準備を始めるだけだ。

 俺はサヤが好きだよ。その気持ちは、これからもずっと変わらない。

 君が、俺の中で一番大切なものだ。君が君の世界に帰ったって、変わらない。ずっと、そうだよ」


 サヤは、俺の人生の中で、一番輝く、宝物だ。

 持ってはいけない俺に、望むことを許してくれた。俺に沢山与えようとしてくれた、掛け替えのない存在。


「だからこそだよ……。

 サヤから奪うのだけは、したら駄目なんだ……。

 君は、幸せにならなきゃいけないんだ。

 そして君の幸せがあるのは、君の世界だ」


 こんな恐ろしい場所じゃない。

 俺の横にいるっていうことは、ずっと、危険と隣り合わせでいるってことなんだから。

 だってそうだろう。

 さっき、風が吹いた時、視界の先にあったのは、俺の罰。

 あそこからは、あの無骨な建物がほんの少し、見えただけだった。

 だけど俺は知ってる……兄上の部屋から、あの場所は、よく見えるのだ……。

 気の所為だと思う。だけど、そう思ってしまったらもう、耐えられなかった。


 兄上と、視線が合った様な、気がしたのだ。


 虚ろな視線が、じっと、俺たちを見据えていると、そう感じた。

 あの人に、サヤを近付けては駄目だ。

 雨季が終わったなら、ここは安全じゃなくなる。お客人は皆、王都に帰る。そうしたらサヤは、異母様に……兄上に、晒されてしまうのだ!


 サヤを守る一番確実な方法は、サヤをサヤの世界に帰すことだ。

 それで万事解決する。

 サヤは失われない。サヤの世界で、ちゃんと、幸せに……⁉︎


 肩を掴まれ、力任せに引っ張られた。

 予想していなかったことに、抵抗も何も出来ない。

 勢いのまま尻餅をつくと、顔を挟み込まれた。


「さっ……?」

「私の目を見て、言い」


 サヤの両手が、俺の顔を挟み込んで、逃げることを封じていた。

 至近距離に、凄く怒った顔のサヤがいる。

 ぬかるんだ地面に膝をついて、俺の方に身を乗り出して言った。


「もう一回、私の目を見て、同じことを言うてみい!」

「…………サヤは……帰らなきゃ、駄目だ」


 キリキリと胸が痛む。

 失いたくないと、悲鳴をあげる。

 だけど意味が違うだろう? と、自分に言い聞かせた。

 サヤはここから居なくなるだけだ。サヤの世界でちゃんと、笑ってくれる。

 ここに居たら、どんな目に合わせてしまうか、分からない……俺の傍に居ることは、サヤを不幸にしかしない。


 グッと、サヤの手に力がこもった。

 瞳にちらついていた怒りが、より強くなる。


「違うやろ? レイが私に言うべきなんは、その言葉やない」

「違わない……! ちょっ、い、痛い……っ」

「違うやろ⁉︎ 私のこと好きやって、さっきも言うたくせに!」

「そうだよ⁉︎ そこはそうだよ!

 だけど、それとこれとは別なんだ!」

「何が別⁉︎ 意味分からへんしっ。レイは、私のこと必要やって、言わなあかんのんやろ⁉︎」

「違う! 俺に必要なのは、サヤの幸せだよ! ここに居ることじゃない、サヤがちゃんと幸せだって分かることだ!」

「あっちの世界に帰った私の幸せが、どうやってレイに、分かるって言うん⁉︎」


 そんな風に言われ、一瞬、言葉に詰まった。

 だけど、すぐに言い返す。


「家族と、幼馴染と、生活してきた場所と、時間を、取り戻すんだよ?

 サヤは泣いてたじゃないか……もう、会えないの? って、言って、泣いてたろう⁉︎

 それだけ大切なものだ、その場所に帰るんだから、幸せに決まってる!」

「私の幸せは、私が決める!

 レイは私の世界の私を、何も知らへんのに、勝手に私を、幸せやって決めつけて、放り捨てんといて!」


 そんな風に叫ばれて、サヤの両手が背中の方にすり抜けた。

 俺に馬乗りになったサヤが、俺の身体に密着してきて、頭を抱え込まれる。

 顔のすぐ横にサヤの顔がある。頬が触れている……肩に、サヤの顎が……小さく、小刻みに震えていた……。


「なんで、そうなん……。

 なんで分からへんの……私が今帰って、幸せになれるわけあらへんのが、なんで分からへんの」


 そう言ってから、腕に力を込めた。

 しがみつく様に、逃がさないとでも言うかの様に。

 首筋に、サヤの吐息を感じる。男装してくれていて良かったと、何故か場違いなことが思考をよぎった。

 こんな体勢、女性のサヤにされたら理性が飛びそうだ。


「なれるさ。ここの世界は、サヤの夢なのだと、思ってくれたら良い」

「思えるわけあらへん。言うたやろ。ここに居るのが、私の現実やて。

 沢山関わった。沢山知った。せやから……」


 そう言って……。


「いっつも綺麗に、笑顔を作る。……作っとるだけや……。

 レイが、私に向かって、本当は笑ってすらいいひんのん、もう分かってしもうた。

 そんなうわべだけ取り繕うてるレイを、ほっといて帰れるわけない。

 本気で私を帰したいんやったら、そんな顔せんといて」


 耳元で囁かれたその言葉に、どきりとする。

 ちゃんと、出来ていたつもりだった。感情の表現は、もうかなり上手に、違和感なく行えるようになったつもりだったのだ。


「本気で私を帰したいんやったら、レイがちゃんと幸せなとこ、私に見せてくれなあかん。

 私のこと一番大切やって言うてるのに、手放そうとする人の、どこに安心したらええの?

 好きやって言うなら、レイがすべきことは……わ、私を、離さへんことなんと、違うの」


 …………それはっ⁉︎

 俺がサヤを求めても、良いって、意味?


 全身が泡立った。

 歓喜と、興奮と、不安と、混乱。どれもであってどれも違う不思議な感情に、頭を揺さぶられたのだ。

 自分が感情の何を使い、どう動けば良いのかが、分からない。

 だけど……。


 何度間違えば、憶えるんだ?

 あと何人、必要だ?


 頭の中でそう囁かれ、一瞬で現実に引き戻される。

 そうやって、あの人みたいに、サヤを失くすのかと、あざ笑う兄上の声。


「……嫌だ、サヤを、失いたくないんだ。

 あの人みたいにはしたくない……だけどここに居たら、いつかその時が……」


あの人みたいにしてしまう日が、きっと来てしまう!

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