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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第一章
13/515

告白

わかりにくい漢字の読みです


帷…とばり(カーテン)

座褥…クッション

 翌日である。

 俺は陽の昇ると同時に起きて身支度を始めた。

 昨日はかなり忙しく過ごしたからか、朝が早すぎて睡眠不足だったからか……ぐっすり眠れて夢も見なかった。よって今日は快適な朝だ。


 本日の服装は白の長衣に黒の細袴。そして黒の上着。襟と袖口の折り返しには銀糸で刺繍がしてあり、腰帯は深い赤色。更に剣帯を付けている。後で飾りの長剣を下げるのだ。

 ええ、飾りです。俺は長剣が扱えない。振れば手からすっぽ抜けてしまう。普段身につけている短剣を持っている方がまだ戦力になります。

 つまり正装の俺は自分の身すら守れない相当無防備な状態。

 だけど今日は視察という名目だから、普段着に短剣なんて装備ではいけない。見た目が優先される日なのだ。主に外出を怪しまれないために。


「おはようございます」

「おはようハイン。もう着替えたから、すぐに降りる」


 俺の身支度が終わる頃にハインがやって来た。

 すると、その後ろからひょこりと黒い頭が飛び出す。


「お、おはようございますっ」

「サヤ、おはよう」


 昨日と違う俺の古着姿のサヤだ。

 男装を意識しているのか、今日はその艶やかな黒髪を高めに結わえている。

 そして、俺のボサボサ頭を見て一瞬目を見張った。服装しか整えてないから起きたまんまの頭だったのだ。


「あの……良ければ御髪(おぐし)、整えましょうか?」

「ああ、良いですね。ではサヤはレイシール様の手伝いをお願いします。

 私は朝食の準備をしますから。終わったら調理場に来てください」

「畏まりました」


 多少の緊張はあるようで、少し硬い声だった気もするが、ハインは昨日のことがなかったかのように振る舞った。そしてサヤもそれで良いらしく、自然に返事をしているようだ。これなら大丈夫かな。


 ハインはそのまま調理場に向かい、サヤはいったん自室に戻り、何かを持ってやって来た。

 手にしてたのは小さな袋。中から出て来たのは、小瓶と何か不思議な形のものだった。

 まず目についたのは、見事な彫り……材質は木だと思う。

 パッと見ただけで緻密な作業が作り出した特別なものなのだと窺わせたのは、本当に木なのか疑ってしまうほど、細く研がれた歯の部分。そして、立体的に彫られ、本物と見紛うばかりな、花の飾り部分。


「レイシール様、長椅子に座って下さい。まず、髪を()きますから」

「サヤ、それは?」

「あ、これは私のお守りみたいなもので……制服のポケットにいつも入れてたから、持って来てたんです。

 柘植櫛と椿油ですよ」

「不思議な形だね。あと何って? アブラ?」

「椿っていう木の実から取れる油です。こちらには無いですか?」


 (てのひら)に乗る程度の小瓶だ。中にとろりとした、蜂蜜より薄い色合いのものが入っている。

 サヤは、今回はこれは使わないんですけど、と袋の中に戻し、木の櫛を手に持って、俺を長椅子に座らせた。その横にサヤも座り髪を手に取って、先の方から少しずつ梳いていく。

 初めは引っかかっていた髪が、だんだんスルスルと通るようになり、すると今度はもう少し上から梳くといったふうに、上へ、上へ。

 サヤが手を止めた時には、俺の髪は生え際から毛先まで、見事な指通りの滑らかな髪になっていた。

 もつれや寝癖が直るばかりか、ちょっと艶まで出てる気がする。なんなんだこの櫛……魔法の櫛⁉︎


「そんなわけないでしょう。柘植の木を加工して作った、ただの櫛です。

 この櫛は、さっきの椿油を染み込ませてあって……特別な櫛であることは確かですね。

 祖母が、私の入学祝いにくれた品です」


 そう言いながら、今度は俺の髪をその櫛の先で少しずつ分けながら、何やら始める。スッスと、手際よく動く手と、髪をかき分ける感じが、妙に心地良い。

 しばらくされるがままになっていたのだけど。


「出来ました」

「おお……俺の髪じゃないみたいだ」


 まるで麦の穂先のような不思議な形状に結い上げられてしまった。

 腰まであった髪が、胸の辺りほどの長さになってる。凄い!


「そうやっておけば、あまり邪魔にならないと思います。……あの、嫌じゃないですか?

 突っ張る感じがしたり、痛い部分もございませんか?」

「全然無い。凄いなサヤ、こんなの見たことない!」

「髪を結ったりとかされないんですか?」

「うん。まとめ髪のご婦人とかは見かけたことあるけど、こんな結い方は初めて見たな。

 良いなこれ。いつも髪が邪魔で仕方なかったんだ。成人まで切れないし……これなら全然、気にならない」

「良かったです」


 俺の反応に、サヤもホッとしたのか顔を綻ばせる。

 それで俺たちは、準備万端と食堂に向かったのだが……。


「駄目です。首の後ろで括るだけにしておいてください」


 ハインに却下された。なんでだ⁉︎


「それは、サヤと出会った後いくらでもやってください。

 メバックに行くまでは、今まで通りでお願いします。でなければ怪しまれます」

「あ……」


 そうだった……。まだサヤとは出会っていないはずなんだ。

 それなのに、こんな不思議な結い髪してたらおかしいか……。

 仕方ないので、せっかくの髪を括り直してもらった。部屋に戻るのも面倒だし、食堂の椅子に座って飾り紐を取ると、スルスルと自然に髪がほぐれて、もつれも全く無い。


「何故あの絡れ髪がそのようなことに……」

「サヤのツゲグシで梳いてもらったんだ」

「……まあ、昨日洗えませんでしたから、丁度良かったですね……」


 ハインの眉間のシワがぐっと深まったが、サラサラになってしまったものは仕方がない。そして、まさかサラサラにして怒られると思ってなかったサヤを責めるわけにもいかない。

 しゅんとしたサヤに、気にしなくて良いよと声を掛けた。


「サヤは眠くない? 夜更かしだったし、朝も早いし」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

「そっか」


 サヤは俺の髪を梳く間も震えていなかった。ということは、落ち着いたのだと思う。

 ハインが会話に加わっても怖がってはいない。じゃあ何が引っかかったのか……やはり、夜に部屋に行くように言われたこと自体が、問題だったように思う。


「本日の予定ですが、馬車でメバックに向かいます。

 サヤ、貴女は館の使用人に見られるわけにいきませんから、昨日の裏山……あの山の麓で横切った道を覚えていますか? あそこまで行って、待機していて欲しいのですが……」

「一人で、ですか?」

「そうです。私は馬車を運転しなくてはなりません。すぐに合流できると思うのですが……」

「音に気を付けておけば多分大丈夫。

 昨日も、俺たちが帰るのが分かったって言ってたろ?

 朝は使用人も少ないしね」

「分かりました。やってみます」


 数日滞在することになるメバックだが、荷物は最低限で良いし着替えも要らない。

 ただ、買い出しと視察という名目なので、書類を入れた手提げと、道中の休憩道具だけを持参する。

 戸締りを済ませて、玄関の鍵を閉めたらサヤと一時お別れだ。


「じゃあサヤ、また後で。すぐに行くから」

「畏まりました。行ってらっしゃいませ」


 言葉少なに挨拶を交わしてから、サヤはすぐ雑木林の中に身を(ひるがえ)す。

 草をかき分けていく音が小さくなってから、俺たちも厩に向かった。

 馬車の準備は滞りなく済ませてあった。

 厩番に礼を言って、俺は手提げ鞄を座席下の収納に仕舞う。ハインは少し大きめの箱を後部の収納に収めてから御者台へ。俺も馬車の中に乗り込んだ。


「出発します」


 お辞儀をする厩番に見送られて、馬車はゆっくりと走り出した。

 二人乗りの馬車は小ぶりだ。馬一頭で引き、座席は横に二席分。並んで座る形となっている。

 屋根も壁もあるので中は案外暖かいが、運転席は雨風に晒される。今日は天候も良いから、ハインだけずぶ濡れになったりせずに済むようでなによりだ。


 坂道を下り、麓に降りたら山肌に沿った道を進む。村を出る辺りで川に道が突き当たり、向きを変え北に進むことになる。

 川沿いを進み、またゆるく上り坂となる辺りから川を離れていく。そして、裏山の麓を通る部分がサヤとの合流地点だ。

 窓から外を(うかが)っていたのだけど、サヤが見当たらない。

 まさか迷ったりしてないよな? 不安を感じだし、小窓を開けてハインに「サヤはいたか?」と声を掛けたら、茂みからひょっこりと顔を出した。


「一応隠れてました。見つかると良くないのかなって」

「うん、気を利かせてくれて良かった。サヤの黒髪は目立ちそうだし、隠れて正解だ」

「人目につかないうちに、早く乗り込んでください」


 馬車の扉を開けて、中に促す。

 乗ってしまえば中は殆ど見えないが、一応サヤ側は窓に帷を下ろしておくことにした。多少薄暗くなるけど仕方がない。

 乗り込んだサヤは、中をきょろきょろと見回し「馬車に乗るのは初めてです」と言った。


「嘘。そうなの?

 じゃあサヤ、天井見て。取っ手があるでしょ。それに捕まって」

「え? これにですか?」

「うん。今から速度を上げる。揺れるよ」

「え?」


 言ってる間に、ハインが馬に鞭を入れる音がし、騒音と揺れが酷くなった。

 道は舗装されてないから石が転がっていたり窪みがあったり、それに車輪が翻弄(ほんろう)されて、相当揺れる。一応、揺れ緩和のために座褥(ざぶとん)(クッション)が敷かれているが、そんなんじゃ太刀打ちできない。

 だから上部に取っ手をつけてあった。これに捕まって、ある程度の揺れを制御するのだ。

 俺は慣れているので、急にガタンとなっても腕に力を入れて飛び上がりすぎたり、座面にぶつかったりするのを緩和できるのだが、サヤは難しそうだ。「わっ」とか「ひっ」とか、悲鳴を上げている。しかも何故か、取っ手を持とうとしない。


「サヤ、しゃべると舌を噛む。持たないと辛いよ?」

「で、でも。私、壊してしまうかも、しれないか……わっ!」


 最後のわっは、大きく飛び跳ねてしまって、座席にお尻をぶつけた悲鳴だ。

 涙目になっている……。ああもう、半日それじゃ痣だらけだぞ。


「ちょっとごめん」


 声をかけてから右手をサヤの肩に回した。

 なんにも掴まっていないよりは、まだマシかと思ったのだ。

 こっちの手はあまり力が入らないから、ほんと慰め程度かもしれないけど。

 俺に肩を抱かれることとなったサヤは、緊張しているのかガチガチだ。


「一時間ほどしたら休憩があるから、しばらく頑張って」


 俯いてしまって顔は見えなかったけれど、俺がそう言うと、コクコクと首を縦に振ったので、理解はしたのだろう。今度は俺を破壊しないかと緊張しているのかな? そんなに神経質にならなくても大丈夫だと思うけど。


 予定通り、一時間ほどしたら休憩となった。

 まだ朝早い時間であるためか、休憩場所に旅人の姿は無い。田舎だしね。こんなところに旅の目的がある人間は少ないだろう。

 サヤはよろよろと馬車を降り、ペタンと地面に座り込む。

 心なしか呼吸も荒く、顔色も悪い。馬車酔いだろうか? それにしては何か、様子が変な気もするが……。


「サヤは馬車に慣れていないのですね」


 ずっと御者台で運転をしていたハインも疲れていると思うのだが、サヤの方が消耗が激しい。

 まあ、あれだけガチガチになってたら疲れもするよな。

 少し心配になって顔を覗き込むと。


「わ、私の所には、こんなに、揺れる乗り物、遊具ぐらいしか、無いと思います……」


 そう言い、笑みを貼り付けたような顔をするサヤ。

 言葉がまだ揺れているかのように途切れ途切れだと気付き、そこでやっとサヤの様子のおかしさを明確に意識した。

 夜のサヤと同じだ。歯の根が合っていない……血の気が引いているのも、きっと馬車酔いじゃない!


「サヤごめんっ、俺、なんかしたんだな⁉︎

 ハイン、敷物を出してくれ。サヤが辛そうなんだ」

「畏まりました」

「えっ、だ、大丈夫です……」


 ハインはすぐ、馬車の後部の物入れから、休憩の時に使う敷物を出してきた。それを平らな場所に広げる。

 大丈夫と繰り返すサヤをもう一度入念に見たけれど、顔色は悪いままだ。


「我慢はするなと、昨日も言ったよ。

 原因は俺だろう? 本当にごめん、全然気付けなかった……。

 落ち着くまで近付かないから……暫くここで休憩しなさい。分かったね?」


 目を見てそう伝えると、サヤはしばらく視線を彷徨わせた。

 そして、誤魔化せないと悟ったのか、小さな声で「はぃ……」と、返事を返す。

 よし。


「ハイン、お茶を入れよう」

「何をなさったんですか」

「うん……サヤが馬車を壊すって気にして、取っ手を持たないから、肩に手を回してたんだ」

「それだけで?」

「うん」


 馬車に乗ったサヤは、俺の隣に座ること自体を怖がってる様子はなかった。問題があったとすれば、それくらいだ。

 触れられたことが駄目だったんじゃないかと思う。

 また、踏み込んでしまったのだ、きっと。


「サヤ、飲み物は飲める?」


 馬車の移動の時は、休憩用の道具を色々詰め込んでいる。

 俺は農地の視察をすることもあるから、お茶の道具は欠かさない。飲み水が近くに無いこともあるので、小ぶりな樽に入れた水と、薬缶を常に用意しているのだ。

 休憩場所にある焚き火の跡に三徳を設置して湯を沸かし、綿の小袋に茶葉を入れておいたものを放り込んでおけばお茶が入れられる。茶葉の処理も楽で良い。


 木の器にお茶を注いで持っていくと、サヤは敷物の上で丸くなって座っていた。

 膝を抱いて、頭をその上に乗せた体勢だ。

 呼吸は落ち着いたように思う。顔色はまだ少し青いな。震えは……治まってきてるか? だが、近付きすぎないようにする。

 手に触れてしまわないないよう気を付けながら器を渡して、少し離れた木の根に腰を下ろす。

 しばらく黙ってお茶を啜っていると、サヤから話し掛けてきた。


「申し訳ありません……」

「なんで謝るの? 何も申し訳ないことはないと思うけど」

「でも……レイシール様は、何も、なさってません」

「サヤには、そうじゃなかったんだろう? なら、悪かったのは俺だよ」

「いいえ! レイシール様は悪くありません。私の過剰反応ですから!」


 語調を強くして、俺の謝罪を遮るサヤ。そして両腕に顔を埋めた。

 しばらく微動だにしなかったけれど、フゥ……と、大きく息を吐いてから、俺の方に向き直った。


「レイシール様は、悪くありません。私の過剰反応なんです。

 その……実は私、子供の頃誘拐されかけたことがあって……、触られたりするとその……身体が、それを拒否するとことが、あるんです」


 誘拐?

 不穏な言葉に眉を寄せる。

 サヤほどの勇者を誘拐できる猛者がいるのかと一瞬思ったが、子供の頃と言うなら、武術を習う前なのかもしれない。

 サヤはそこまでは一気に喋った。そして、急激に勢いを落とす。言いにくそうに視線を彷徨わせ、小さな声で恥じるように続けた。


「……その……ちょっと、い、いやらしいことを、されました……。

 あっ、大丈夫です。ちゃんと、助けられたから……すぐにカナくんが、来てくれたから……たいしたことは、されてません。

 だけどその……どうにも体が勝手に、拒否してしまって……こんなふうに。

 誘拐未遂が、そもそもの原因、なんですけど……。痴漢とかも度々あって……そのせいで、男の人に、距離を、詰められることが、怖くなりました。

 レイシール様には、そういう気持ち悪さは、全然感じてないんですよ?

 でも、何かの拍子に、無意識に、身体が勝手に、こうなって、しまって……」


 苦笑しながら、自分の震える手を見つめるサヤ。話すうちに、言葉の震えがまた酷くなってきていた。そんな自分に苛立つように、サヤの瞳の奥に自身を責めるような色が垣間見える。

 俺も、血の気が引く思いだった。

 昨日俺は、相当サヤを追い詰めていたのだと気付いたからだ。

 窓越しで着替えをさせたなんて最悪だ。そもそも、男の俺たちと一緒の場所に居続けるというのは、彼女にとって耐え難い苦痛だったのでは⁉︎

 そして、よくよく考えれば、サヤの震える理由。その状態を、俺は知っていた……自分でも、経験していることだった。記憶が蘇る時に起こる。体が勝手に反応してしまう。そうか、そういうことか。サヤのこれは、拒絶反応。俺は、なんて鈍感なんだ!


「子供の頃って……」

「九歳か、十歳か……それくらい、です。結構、記憶もあやふやで……たいして、憶えても、いないのに……本当、不甲斐ない……」

「っ⁉︎ 違うだろ! たったそれだけしか経ってないんだ! 割り切れるわけないだろ⁉︎

 そうか……ごめんな、嫌な話をさせた、本当にごめんっ。

 それから、事情を知らなかったとはいえ、今までずっとサヤに無体を強いて、申し訳なかった!」

「いえ! 無体なことなんて、ありませんでした、本当です!

 それに、普段は結構、平気なんですよ?

 レイシール様やハインさんには、嫌悪感も無いんです。

 これは、条件反射みたいなものなんですよ」

「だが、辛くなかったはずがない。現にこうして震えている」

「これは私が悪いんです。レイシール様は、私を支えておこうとしてくれただけです。

 悪意なんてないのに、怖がる私がおかしいんです」

「っ、おかしくない! サヤのそれは、防衛本能だろ!

 大丈夫じゃないから、身体がそれを訴えてるんだ。それを自分がおかしいみたいに言うな!」


 つい声を荒らげてしまった。

 だけど言わずにはおれなかった。


「サヤ……サヤの身体が、正しいんだ。

 サヤは辛い思いをした。身体は、その傷が癒えていないと、そう言ってるんだよ。

 自分を責めるのは駄目だ。それはサヤに無体を働いた相手を肯定するのと一緒だ。

 サヤは悪くない、おかしくない!」


 俺が急に怒り出したから、サヤは慌ててしまったようだ。オロオロ視線を彷徨わせてから、様子を見守っていたハインに助けを求め、泣きそうな顔を向けた。

 それを見ていたハインは、何か複雑そうな顔をしてから、こちらにやって来た。

 そうして涙目のサヤと、怒る俺をしばらく見つめてから、静かに淡々と話し出した。


「サヤ、レイシール様にお仕えするにあたって、理解しなければならないことがあります。

 貴族の方に仕えるには我慢が肝要。気持ちの制御は必須です。

 自分にとって嫌なことであったとしても、態度に出さず、それを受け入れ、行動する必要がある。

 ですから、今のサヤが正しい。本来は、叱責されるようなことではありません」


 ハインの言葉に、サヤは困ったように眉を下げた。

 その様子にハインは、彼にしては珍しく、語調を弱め、囁くように言葉を続けた。


「しかし、レイシール様に仕えるなら逆です。この方はむしろ、そのような事がお嫌です。

 貴女にとって、周りに合わせてもらうことより、自分が我慢する方が楽だとしても、この方は許しません。

 今回のことは、サヤが自分を虐めるから、レイシール様が怒りました。このように、貴族にあるまじき方向に理不尽な方なのです」


 なんか、俺がおかしいみたいな言い方なんですけど⁉︎


「始めは、多少不自由ですし、我慢することを我慢させられるので辛いでしょうが、これは責務です。

 仕事なのだと割り切ってください」


 をぃ……。


「ですからサヤは、自分を虐めてはなりません。

 サヤの身体が正しいのです。怖いこと、嫌なことを我慢しないで下さい。

 今回お話し頂けたことで、我々も気を付けることが明確に分かりました。

 なので、だいたいの部分は配慮できると思います。

 ですがこれは、貴女に気を使ってやるのではありません。レイシール様のために、するのです。

 お仕事ですから、頑張らなくてはなりませんよ」


 意味が分かりませんが。


 そう思ったけれど、とりあえず自分の神経が逆立っているからハインの言葉を素直に聞けないだけかもしれないと思った。イラついてる時の俺は頭が普段以上に働かないのだ。それは自覚している。だから落ち着こう……。

 サヤに習って、深呼吸。心よ凪げと唱える。

 その間に、サヤもハインの言葉をきちんと理解したようだ。頭を上げ真剣な顔で「はい」と、返事をしていた。やっぱり俺がおかしいのか……サヤは納得してるしな……。冷静になろう。

 自分の頭を冷やしていたら、馬車のことを思い出した。まだメバックまで随分と距離がある。


「ハイン、急ぐのはやめよう。夕方までに着けば良い」

「そうですね。揺れがましなら、中に乗っていられるでしょう。

 サヤ、気持ち悪さは治まりましたか? 震えは、治まったみたいですが」

「えっ、あ……そう、ですね。もう、大丈夫だと思います……」

「レイシール様の横に、座っていられそうですか?

 無理なら外を歩いても良いですし、ちょっと窮屈ですが、御者台にも座れます」

 サヤが俺の方をちらりと見て、視線を落とした。心なしか落ち着かない様子だが……。

「大丈夫です。その……レイシール様が、お嫌でなければ……」

「俺が嫌なわけない。……ごめん、俺が怒ることじゃなかった……」

「いえ……ありがとう、ございます」


 若干居心地悪く謝罪してから、休憩は終了。

 出していた荷物を片付けて、もう一度馬車に乗り込む。

 ほぼ馬の並足程度の速度となったので、揺れは随分と緩和された。

 とりあえず俺は、サヤに触れないよう、壁側に詰めて座る。

 そして、沈黙したまま時間を過ごし、居た堪れなくなって口を開いた。


「サヤ……俺たちと一緒にいるのは、辛くない?」

「え? 辛いなんてそんな……!」

「正直に言って良いんだ。男二人とずっと過ごしていくことになる。

 それは、サヤの経験を思えば、結構な苦痛なんじゃないかと心配なんだ……」


 思えば、初めからそうだった。

 サヤは常に、俺たちに近付き過ぎないようにしていたのだ。それは俺たちが怖いからじゃないのか?

 今はまだ、一日やそこらの付き合いだから我慢していられるかもしれない。でもこれからずっとそれが続くかもしれないなんて……俺なら耐えられない。


「もしそうなら……メバックで、女性の多い職を探すこともできる。

 俺の友人……ギルの所なら、サヤもそんなに不安にならず過ごせるかなって。

 口の硬いやつだし、事情を話しても……」

「いえ! 私は……っ。私を、ここに居させて下さい。辛くなんて、ありません。無理もしていません!

 今回は、昨日のこともあったから、まだちょっと、過剰になってただけです。

 私……ご迷惑を、おかけしてると、思うんですけど、でも……」

「迷惑なんてかけられてない。俺は、サヤがいてくれれば助かるし、嬉しいよ。

 けどね、サヤの苦痛は気持ちだけでどうにかできるものじゃないだろう?」


 俺も身に覚えがあるから……。十五年も前のことなのに、未だに引きずるから。

 たった数年前の出来事を、簡単に割り切れるはずないと、分かってる。

 だから……。


「サヤを苦しませるのが一番嫌なんだよ。

 それは俺も苦しい……」


 自分のことのように、苦しい……。

 あんな思いを、ずっとさせることになるなんて、考えただけでも怖い。

 そんなことになったら、サヤを死なせてしまうんじゃないかと……母のようにしてしまうんじゃないかと、怖くて仕方がない……。


「レイシール様、私……ここに居たいです。

 大丈夫です。無理する大丈夫じゃないですよ?

 ちゃんと、自分の気持ちを大切にすると約束しますから。

 私……きっと大丈夫だって、思うんです。だって……レイシール様は、怒ってくれたから……。

 あっちで、私が我慢するんに気付いて、怒ってくれはったんは、おばあちゃんだけやった……」


 そう言ったサヤが、俺の右手に触れた。座面に置いていた手に、自身の左手を少しだけ触れ合わせたのだ。

 指先が重なる程度の、ささやかな接触。


「同じ様なこと、言われたん思い出しました。

 自分を虐めたらあかんって、小夜はなんも悪うないやろって。

 おばあちゃんと同じこと言うてくれはる人が、悪い人なわけあらへん……。一緒にいて、辛くなるわけあらへんやないですか……。

 せやから、誰かに預けるなんて、言わんといて……」


 真剣な顔で、懇願するように俺を見てそう言った。手を添えたままで。

 その顔が、思いの外近くて……いや、馬車の中なんだから、物理的に距離を空けるのは無理なんだけど……だけどその……っごめん!


「わ、解った……。サヤが、嫌じゃないなら、良いんだ……」


 結局根負けした……。うん……いや、嬉しいんだよ?

 サヤに無理させてるんじゃないなら、俺は全く問題無いんだ。

 だけど、もしまた辛くなったりしたら、必ず言うようにと念を押しておく。

 すると、サヤは笑って「はい」と答えた。そして、最後にこう言ったのだ。


「ハインさんが、レイシール様を本当に大切にしている理由、解ったような気がします」


 そう? ハインは特殊すぎるよ。だいぶん過剰だと思うし。

 それはそうと……この手、どうすれば良いんだ? う、動くに動けない!

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― 新着の感想 ―
やっぱり小夜さんは男性に対して嫌な過去があったんですね(;´・ω・) 正直に事情を話して、レイシールさんとハインさんも理解してくれたからこれからは接し方もすごく気を遣ってくれると思います。 本当にいい…
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