人と獣
さて。そろそろ仕事に戻るか。と、思い始めた頃。
馬車が到着した。
小ぶりな幌馬車だ。人数が増えすぎてしまい、一人で運べなくなった食事を、食事処の面々がここに運んでくれる手筈になっていた。
執務室から音を聞きつけたサヤが、対応しに行き、何故か渋面で戻って来る。
「……どうした?」
「はい、あの……ちょっと、食事処まで行ってきても、良いでしょうか?」
そう言ったサヤの後ろから、ダニルがひょこりと顔を覗かせ、申し訳なさげに付け足した。
「すんません。ちょっとその……やらかしちゃってまして……」
「やらかした……? 何を?」
「夫婦喧嘩っす」
夫婦喧嘩……ガウリィとエレノラか?
首を傾げた俺に、サヤがトコトコと近付いてきて、耳打ちする。
「事情を知ってるのが、私たちだけですから……」
ああ。本来は夫婦ではないのだよな、あの二人。
エレノラがヘソを曲げてしまい、どうにもならないから、サヤに話を聞いてやってほしいということだった。
五人いる兇手の中で、一人きりの女性だ。サヤにしか頼れないのだろう。
一応、サヤも弟子であるという設定だしな。
「なら、俺も行く。もう片方は俺が対応するよ」
喧嘩というなら、ガウリィ側の話も聞くべきだろう。そう思ったのだが、
「親父さんは、だんまりだと思うっす」
と、ダニルが言う。
どういうことだ? と聞くと、言いにくそうに口籠る。
「まあ、だんまりであったらなそれはそれで良いよ。一応行こう。
ここでの生活の、不満とかも積み重なっているかもしれないしな」
「いや、それはねぇすよ⁉︎ 凄く、良くしてもらってる……」
俺の一言に、過剰反応したダニルが、泡を食ってそう言ってきたが、まあ、それは確認してみるよといなしておいた。
貴族相手に文句を言えるはずがないのだ。問題があろうが、無いと言う。世の中はそのようになっている。
「俺も同行しよう」
ディート殿が立ち上がる。
が、彼について来られると、ちょっと厄介だ。
「申し訳ない。料理の秘匿権が絡む場合があります。
かなり特殊な契約をしてもらっていまして、多分、ルオード様止まりの案件なんですよ」
「む。そうか……。だが護衛だしなぁ……」
ここで留守番しておくのもちょっとなぁといった感じらしい。仕方がないので、話を聞く間、離れた場所で待っていてもらうということで妥協となった。ハインが、注意しておきますと視線で知らせて来たので、任せることにする。
食事を運んで来た幌馬車に、そのままお邪魔して、連れて行ってもらうことになった。
サヤが興味津々、幌に注力しているものだから、
「どうしたの?」
「いえ……どうして水が染み込んでこないのだろうって、思いまして……」
その返事に、びっくりした。
「どうって……」
「油や護謨、蝋の場合もあるか。染み込ませてあるからに決まっているだろう?」
「サヤは幌馬車を見たことがないのですか?」
三人して驚く羽目になる。
まさか幌馬車を知らないなんて思わない。そこらじゅうで使われているのにだ。
「だって、館では使っていませんでしたし……」
まぁ、貴族は使わないかな……。
そういえば、サヤは馬車にも乗ったことがないと言っていたのだったと思い出す。
しまった……。ディート殿が居るのに、聞くんじゃなかった……。
「サヤの国には、馬車がないのか?どうやって見かけずに生活して来た?」
不思議そうに問うディート殿に慌ててしまったのだが、サヤも自分の失言に気付いた様子で、ちょっと困った顔をしてから言った。
「いえ……見かけたことはありますよ。乗ったことが、無かったんです」
いや、それも相当変な話だぞ。それこそ一庶民であるなら尚更だ。
「私の国では……駕籠が一般的でしたし」
「…………カゴ?」
「はい。だいたいが一人乗りです。箱や笊を木の棒に吊るして、両端を人が担いで、運ばれます」
「…………人の足で?」
「はい。人の足で」
「…………歩けば良いではないか」
「はい。歩く速度と大差ないので、正直そう思います」
ただ、自力で歩かなくても良い分、楽であるらしい。
しかし、そう語るサヤの目は少し泳いでいて、なにやら白々しいものを感じてしまった。
それで、ああ、これは過去の話なのだと気付く。
今のサヤの国では、使われていないのだろう。
「馬はあるのだろう?何故馬車を使わぬ」
「国が禁止しておりました」
「何故⁉︎」
「……高度な政治的判断?理由は分かりません。何故か、禁止でした」
「……サヤの国は、色々訳が分からんな」
本当だ。訳が分からない。
何百年前の話を持ち出しているのかは不明であるが、それ自体が嘘ではない様子だ。
サヤの言葉に澱みは無い。
ディート殿の様子で、なんとか誤魔化せたと思ったのか、ホッとしている様で、俺も胸を撫で下ろした。
そうこうしている間に、食事処に到着した。
玄関前で下ろされ、ダニルは馬車を置きに店の裏側に回っていく。
しばらく待っていると、内側から扉が開いた。
「あ、レイ様!」
「ユミル、カーリン。久しぶり」
扉を開いてくれたのは、農家の娘二人だ。
そのまま中に招き入れられ、一歩踏み込むと、そこは美味そうな良い香りが充満していた。
「腹が減る匂いだな……美味そうだ」
ディート殿がそう言って腹を手でさする。
昼食にはまだだいぶん早い時間だというのにだ。この人はほんと、ここの料理好きだよな……。
「あ、昼食作りは終わったので、賄い作りをしてたんです。
今日の議題は、古くなった麺麭の活用法だったんですよ!」
「結構美味しくできたと思います。もしよかったら、試食なさいますか?」
朗らかに問う二人に、一も二もなくディート殿が飛びつく。ついでにハイン……。
新しい料理と聞けば、そうなるよな……と、半眼で見ていたら、裏口からダニルが戻った。
「すんません。親父さんたち……上っす」
賄いに気を取られた二人を残し、俺たちは二階に移動した。
生活空間になっているという二階は、それぞれの個室がある様子だ。
案内されたのはその中の一つ、エレノラの部屋。
「姐さん、サヤさん連れて来た。開けてくれ」
返事はない……。
「よし、こじ開ける」
ええっ⁉︎
「聞こえてるんすよ。けどヘソ曲げてっから出てこない。けどこのままじゃどうにもなんねぇんで、こじ開けて結構っす」
「結構じゃないよ⁉︎」
挑発であったようだ。
バン! と扉が開くと、目を赤く腫らしたエレノラがいて、サヤだけでなく、俺までいたことに悲鳴を上げた。泣き腫らした顔を見られたくなかったらしい。
「ダニル、あんだ覚えてな⁉︎」
「知らねぇよ。普通に開けてりゃ良かっただろ?」
そのままサヤの手を引っ張って中に引き入れたかと思うと、バタン! と、扉は閉じてしまう。
……え?
「ち、ちょっ……サヤ⁉︎」
「別に取って食やしないっすよ。
じゃあご子息様、もう一人の方行きましょう。多分、だんまりだと思うけど」
腕を掴まれてずりずり連れていかれた。
エレノラの部屋から一番遠い、対角線上にある部屋だ。
「親父さん、入りますよ」
返事は無い。扉も普通に開いていた。
なのでそのまま押し入ったのだが……。
「来んな」
殺気まがいの気配をまき散らしたガウリィが、本気でご立腹の様子で、俺たちを一瞥するなり言い捨てる。
「あー……、ご子息様がね、話を聞きたいって仰ってんですけど……」
「ねぇ」
「あ、はい。そうっすね」
それだけのやりとりで逃げ出さざるを得なかった……。
うん。まごうことなき喧嘩だ。間違いない。
「……ダニル、こうなったら、君から事情を聞くしかないと思うんだけどね」
サヤを拉致られてしまったので、俺もこのまま引き下がるわけにはいかないのだ。
「あー……そうなる気がしてました。
じゃ、俺の部屋行きます。そこで話すんで」
「ああ、宜しく頼む」
◆
「べっつにね、今に始まったことじゃないんすよ。
もうかれこれ数年、繰り返してる喧嘩なんす」
そう言ったダニルは、はあぁと、大きく息を吐く。その数年繰り返す喧嘩。俺はずっとその被害者なんすよ。といった風に。
「あの二人、夫婦役やってますけど、俺からしちゃほぼ一緒っすよ。
十年くらい一緒に暮らしてる。
親父さんが姐さん拾ってからずっとっす」
「拾った?」
「あー、姐さん、元々はどっかの町の色女だったんすよ。火事のどさくさに紛れて逃げ出して、逃げたはいいけど身を売る以外に糧を得る手段もねぇ。で、娼館に繋がれてねぇ色女の扱いなんざしれてます。
好きに弄ばれて捨てられてんのを、親父さんがたまたま、拾ったんすよ」
なんでもないことの様に言うが、それはエレノラの、秘しておきたい過去ではないのだろうか? 慌てた俺にダニルは、「俺らの中じゃ皆が知ってることっす。姐さんだって隠してないんだ、気にしてないっすよ」と、苦笑を浮かべる。
その表情が、いいとこの坊ちゃんだよなぁと、俺のことを思っている顔で、ちょっと気不味い……。
「や、ご子息様を笑ってんじゃないんすよ。
俺らにゃ、これくらいのことは日常茶飯事っつーか……ありきたりなんすよ。
大体のやつが似たり寄ったりだ。だから誰も気にしない。
まあそんでね、十年一緒に暮らすってことはさ、男女の仲な訳っすよ。やることやってるわけだ」
そう言って、両手の指を複雑な形に絡める。
それが、男女のまぐわいを表わしているということは知っているから、どう反応したものかと困ってしまう。
サヤが拉致られた後で良かった……。こういうのも多分、嫌だろうし。
赤面してしまっているだろう俺を意に介すでもなく、ダニルは話を続ける。
「もう夫婦も同然でしょ。なのに、親父さんはね、姉さんを番にはしないんだ。
今回だって、姐さんがそろそろ一緒になろうって言って、それをまた親父さんがはねつけて、あの状態っす」
なんでだと思います? と、ダニルが問うてくる。
だが聞いただけの話では理由が思いつかない。
料理人としての腕も確かで、こうして店を持たせてみても問題が無い。ガウリィは充分、エレノラ一人くらい養える収入を得れるだろうし、エレノラだってそれなりの料理人なのだ。そして十年共に暮らして、そ、そういうことも、しているわけで……情が無いとは思えない。
「分かんねぇんだ……あんた本当に、坊ちゃんだね」
「……察しが悪くて申し訳ない。教えてもらえるか」
「いや、馬鹿にしたんじゃないんだ……あんたほんとに、気付かねぇんだなって思ってさ。
……親父さんは獣で、姐さんは人。
そこんとこがずっと、親父さんの中ではでっかい痼りでね。
わざわざ獣と番になるなんざ、馬鹿のすることだって言うんすよ」
獣と、人。ああ……だから「妻」や「嫁」ではなく「番」と表現されたのか。
納得出来た反面、とてもじゃないが受け入れられない内容だと思った。
獣人を「獣」と表現することだ。
それは、ハインを卑下することであるし、兇手の面々の中には沢山の獣人が存在する。その全員を貶める発言だと思ったのだ。
俺の不満は顔に現れていたのだろう。
ダニルが、たははと、眉の下がったまま、苦笑を浮かべる。
「なんであんたがそんな顔すんのか、訳分かんねぇ。
本人が言ってるんすよ」
「本人だろうが、人を卑下する理由として、妥当だとは思えない。
……そう言われてきたのだということは、分かる……だが……エレノラは、ガウリィが獣人であることなんて百も承知で、その上でそうしたいと、言っているのだよな?」
俺の問いに、ダニルはそうっすね。と、肯定。
しかし、俺から視線を逸らし、陰りのある表情を見せた。
「けどねぇ……親父さんに限らず、獣の連中は、番いを得ようとはしないっすよ。
そもそも兇手なんてしてる連中の大概は、元から幸せとか、そういうのに縁のない人生を歩んでる。
だから、家庭を築くなんてことに、違和感しかない。
経験したこともないからさ、想像出来ない。自分とは縁遠いものであるとしか思えねぇんだ」
視線を手元に落とし、ボソボソと話すダニル自身が、きっとそう思っているのだというのが、分かる。彼の視線の先が、何も見定めていないのだ。
彼だってその、危うい人生を、歩んで来ている。
そして「姐さんは……娼館に売られる前は、普通の家の人間だった。だから、家庭ってやつを、知ってんす」と、言う。
「姐さんがこういったことを望むのは、幸せな家庭ってのを知ってるからだ。
だから、俺らとは相容れない人なんだって、思っちまう。
俺らにゃ無理っすよ。望まれたって、与えられない。
だから親父さんは、姐さんの幸せを思うなら、離れるべきじゃあないか……。そう思ってんのに、踏ん切ることも出来ねぇんですよ。
姐さんがどんな人生歩んできたかも、知っちまってるからね」
ザワザワと、胸が騒めく。
間違ってると、俺の気持ちは言っていた。
間違ってる。知らないから築けない。与えることが出来ないから、一緒にいられない。それは違う、そうじゃない筈だ。
「けどさ、ここの生活は……その普通を錯覚させられちまって……姐さんもそれに期待しちまって……ついそろそろって、言っちまったんす。こうなるのは分かってんのにね」
矢も盾もたまらず、俺は立ち上がった。
ダニルがビクッとなり、驚いた様に俺を見る。
「……え? ご子息様?」
「間違ってるのはエレノラじゃない。ガウリィだよ」
怒りにも似たその衝動のまま、俺はダニルの部屋を出た。そのままガウリィの部屋に。
訪いも問わず、扉を開けて中に入る。その俺の背後から、慌てた様子のダニルの声が「ちょっと、やばいっすよ⁉︎ 近付かない方が……」などと言っているのが聞こえたが、無視をした。
部屋の中には、先程と変わらない位置に、ガウリィがいる。
窓枠に腰を下ろし、ただ項垂れた様に頭を垂れている。
俺が遠慮なく近付くと、そこから刺し貫く様な視線で睨め挙げられた。
普段の俺なら遠慮するが、今はしない。同じく睨み返す。
「……来んなって、言ったの、聞いてなかったのか……」
「聞く気が無くなったんだよ」
そう言って腕を伸ばすと、高速で動いたガウリィの手に叩かれた。
ビリッと腕の痛覚に痺れが走る。だが引き下がったら最後だとばかりに、その手を再度、突き出した。ガウリィの後ろ襟を掴む。
「何しやがんだ⁉︎」
「俺はお前の雇い主だよな⁉︎ 今、俺との契約を遂行中のはずだ!」
もう一方の腕を、ガウリィの頭に回し、強引に引き寄せた。俺の眼前に。視線を合わせる。
「ならお前は、ただのガウリィだ。これからもずっと、料理人のガウリィなんだよ!
何が獣だ……俺はガウリィを雇ったんだ。それ以上でも以下でもない!
エレノラとは夫婦で、ここに骨を埋めてもらう。お前たちが、ここを出て行こうと思うまでは、このままずっと、それが続くんだ!」
感情のままに言葉を叩き付ける。
俺の管理下で、幸せにならないなんて、そんな選択はさせない。
獣人だからなんだっていうんだ。言わなきゃ分からない様な、そんな些細なことで、エレノラをずっと泣かしているだなんて、そっちが間違ってるに決まってるだろ⁉︎
彼女は何もかも、全部受け入れてる。
あとはガウリィ、お前の気持ちだけの問題だ。
「どんな夫婦だって、手探りだよ……お前たちだけじゃない。当然だろ? もともと他人なんだから。
幸せの形なんて全部違う。分かるわけがないんだよ。お前たちの家庭は、お前たちにしか分からないんだ!」
叩きつける様に言う俺に、ガウリィは瞬きも忘れた様子だった。
一気に捲し立てたせいで、息が続かず、言葉が途切れる。そうしたらもう、言いたいことは一つしか残っていなかった。
「幸せに、なろうとしてくれ……じゃなきゃ、俺は何の為にこうしてる……。ガウリィはもう、俺の領民なんだぞ……」
領主一族の務めだ。そして俺の願いでもある。俺が、なりたくてもなれなかった者たち。ガウリィだって、その一人なのだ。
幸せになってくれ。でなきゃ、俺はここで、何をすれば良いんだ……。
「あんた、頭おかしいんじゃねぇのか? 俺ら獣は……」
「あのな⁉︎ おれは九年、ハインと一緒に過ごして来たんだ! その間ずっと、ハインはハインだったよ! 獣だったことなんか一度だって無い‼︎
エレノラだってな、同じこと、ガウリィに思ってるはずだぞ⁉︎ じゃなきゃ、一緒になろうなんてこと、口にするわけないだろ⁉︎」
「……あのな、それだけじゃねぇだろ……俺らは兇手だって、忘れてんのか?」
「もう兇手じゃなくて、忍だよな。
それに、別に忍じゃなくったって良いんだ。獣人だからって、兇手になるしかないなんて、そんな風に道を選ばないでくれれば、何になったって良い。
俺はハインを失いたくないから、ハインと同じ獣人である君らだって、失いたくないんだ。
だからダニルも、ガウリィも、分からない、手に入らないなんて、思わないでくれないか……。
俺は手に入れて欲しい。いつか、ああこれかって、分かってほしいよ……」
幸せはこれかって、分かってほしい。実感してほしい。
獣だなんて、思わないでくれ。君らはちゃんと、考えて、話して、幸せを求めてくれ。
じゃなきゃ、俺は、ここでこうしていられないんだ……。
ガウリィと睨み合っていたら、彼の視線が俺の後方に逸れた。
その視線を追うと、エレノラと、サヤが立っていて、瞼を腫らし、赤い眼をしたエレノラが、ツカツカと大股で歩いて来た。
だから俺は、場所を譲る。
横に避けると、エレノラはやって来た勢いのまま、ガウリィの頬を力一杯引っ叩き、怒鳴った。
「あたしがいつ、あんたに、幸せにしてくれなんて言った⁉︎」
鬼の形相で、今度は拳を握るから、慌ててダニルと二人で止めに入る。
拗れる! 拗れるからこれ以上は駄目、暴力反対!
必死で腕を抑える俺たちなんか意に介さず、エレノラはもがく。もがきながら、ガウリィを全力で罵倒した。
「あんたと私に違いがあるとしたら、それは種じゃない。
幸せになる気があるか、ないかの差だよ!
あんたは自分がそうなる気なんざ、これっぽっちもないんだ、だから私を巻き込まないって言う。
フザケンナ! 誰があんたに幸せにしてもらうかよ、私がしてやるって言ってんの!」
とうとう腕を振りほどかれてしまい、俺は突き飛ばされた。たたらを踏み、なんとか堪えようとしたところを、背後から支えられる。
けれど、その俺の眼前で、エレノラがガウリィの頭を鷲掴みにし、思い切り唇に噛み付いたものだから、慌てて振り返って、サヤの頭を抱え込んだ。
「え……?」
「い、いいいまちょっと、見ない方が良いと思う!」
舌の絡み合う音。
うっ、うわあああああぁぁぁ⁉︎
今それする⁉︎ 部外者がいるんだけど⁉︎
サヤを抱えたまま、廊下に逃げた。
一階まで一気に降りて、膝をつく。しげ、刺激が、強すぎる……っ!
「お帰りなさいませ。……どうされました」
「お、レイ殿。済んだのか?」
何も知らない風なハインとディート殿が、あっけらかんとした顔でそう問うてくるが、答えられない。
す、済んだ……? いや、むしろ始まろうとしている? ていうかこれ以上何をしろって⁉︎……駄目だ、多分、頭が働いてない……。
言葉を返せず、赤面した顔を上げることも出来ず、うーあー言うしかない俺に、ディート殿とハインが訝しげに顔を見合わす。
因みにサヤは、訳も分からず俺の背中をさすっている。
そんな俺たちを追って、ダニルがのんびりと、階段を降りて来た。
「あー……まあ、あれで良いんじゃないっすかね。
ありがとうございました。送るっす。馬車出してくるんで、ちょっと待ってて下さい」
良いんだ⁉︎
いや、良いならまあ、うん。さっさと帰ろう。あれはなんか、ヤバい感じだ。おっぱじまる前に退散しよう。
必死で皆を急かして、ユミルとカーリンに、上を覗かないよう注意を促してから、馬車に逃げる様に、飛び乗った。
あの後何がどうなっていくのかを考えたくない。多分そうなっていくのだろうと思うが……思うけどね⁉︎ なんでさっきから考えないようにしようと努力してんのに頭から離れないっ。ああもう、そういうのは成人してからでお願いします!
別館に辿り着き、馬車を降りる。
するとダニルが「ご子息様」と、呼びかけて来て、まだ火照った顔で「何?」と返事をすると。
「あのさ……俺ら、領民で良いんすか?」
「いや、もうそうだろ?」
ここに住んでるんだから。
そう答えたら、何かむず痒い様な、困った様な、不思議な表情で口元を歪める。
そうしてから「そっか……あんた、変わってんね」と零してから、さっさと馬車を出発させた
……?
「で。結局夫婦喧嘩は何が原因だったのだ?」
執務室に戻ると、ディート殿がそんな風に問うてくる。
もう忘れようと思ってるのに……今聞かないでくれるかな⁉︎
「犬も食わないやつです。
知ったら知ったで切ない気分になりますよ」
と示唆すると、あ、じゃあ聞かないでおく。といった様子ですっと視線を逸らされた。
ハインは全く興味がないといった風だ。昼食の準備をしますと退室していく。
そんな和やかな状況の反面……。
サヤがまた、何か、考えている……。
先ほどの二人の関係が、何か……良くなかったのだろうか?
サヤからすれば、気持ち悪いと思ってしまう行為、関係性を持っている二人だ。
しかもその相談に乗る形となってしまった……。
元からサヤ名指しであったから、避けることの出来なかったことではいるけれど、彼女がエレノラの話を聞いて、どう思ったかが気になった。
こういったこと、サヤはずっと、一人で、抱えてきたのだろうか……。
俺には、お節介にも口出しをしてくる親友がいる。大体のことが、ギルやハインには筒抜けで、いつの間にか知られていて、説教されることになる。
鬱陶しく感じることもあるけれど、きっと俺は、それで少なからず救われている。
だけどサヤは?
唯一共に暮らしていた身内の祖母には、この娘のことだ……。きっと、心配かけまいと、元気に振舞っていたろう。
そもそもが、身内にあまり、話せる様な内容でもないだろうし……。
サヤは、こんなことでも口に出して相談できる様な友人が、いただろうか……?
ここで唯一の女友達はルーシーだ。
だけど先程のサヤは、ルーシーに相談したといった風ではなかった。
彼女にも口に出来なかったなら、サヤはどこで吐き出して、心の重荷を下ろすのだろう。
守ってやりたいと思う……。
出来ることなら、いくらだって。
けれど、俺にはその資格が無いんだよな……。
重荷にならないよう、距離を取るしかしてやれることがない。
……カナくんも、形は違えど、同じ結論に、達したのだろうか……。
好きだから、嫌うしかなかったのだろうか…………。
そんなことを悶々と考えつつ執務をこなし、昼食となった。
先ほど試食もしたのだろうに、ディート殿の食欲は旺盛だ。なんの問題もなく自身の分を完食してしまう。
「ああ、今日も美味い。あと十日程しか堪能できないと思うと切なくなるな……」
「気が早すぎますよ……」
「そんなことはないぞ。俺以外にだって、言ってる奴は山といるのだからな」
そんな感じに、嬉しいけれど困ってしまう様な話を楽しみ、食事を終えた。
現在、姫様とリカルド様という、犬猿の仲の二人がこの館に居るということで、争いの元となりそうな食事の同席は控えてもらっている。
その為、食事は各部屋まで運んでいる為、平和だ。
食事を終えたら、リカルド様との土嚢壁見学の為に準備に入る。
濡れたり汚れたりしても差し支えのない服装に着替える為、自室に向かった。
着替えなので、ディート殿は部屋で待機してもらい、俺は寝室へ移動する。
「……あれ、ハインは?」
「変わって頂きました。お話ししたいことがありましたので」
着替えの為に戻ったのに、ハインがサヤと交代してしまったという。
いや、それはちょっと! だって俺の裸体をサヤに見せるとか、駄目だろ⁉︎ あいつ何考えてるんだ⁉︎
「い、いや……着替えだから……ハインを呼んで来てくれるかな? 話はその後で……」
「お気になさらず。見慣れていますから」
見慣………⁉︎⁉︎
急に凄いことを言うサヤに慌てふためいた。
見慣れている⁉︎ 一体いつ、どこで⁉︎ そもそもそういうの全般駄目なんじゃなかったのか⁉︎
物凄く狼狽してしまった俺に、サヤも赤面する。そして視線を逸らしつつ、
「ど、道場では……男性は、そこらじゅうで適当に着替えています。
ですから、下着姿くらいは、普通に見慣れています」
「ま、まさか……サヤも⁉︎」
「そんなわけあらへんやろ⁉︎
女の人は更衣室あったしっ! 男の人はどこでも構わず着替えるし、暑うなったら勝手に脱ぐし! 筋肉自慢しあって見せびらかすし‼︎ 嫌でも見慣れるわ‼︎」
………うん……まあ、男って、そういうどうでも良いことを競うとこ、あるよね……。
今更ながら知った。
そ、そうか……道場で着替えは、そんな風か……。いや、まあ……学舎でも騎士訓練所でも、そこら辺で上半身裸になってる奴はいくらでもいた。……サヤの世界も同じであったって、おかしくない。
だ、だけど……っ。
「ほ、本当に大丈夫?」
「今更、ハインさんを呼びに行ってたら、ディート様に怪しまれます!
良いからもう、着替えて下さい‼︎」
いやだって、どうしたって気になってしまうだろ⁉︎
はじめの頃、夜着を見ただけで真っ白になってた姿も見てるんだし。あんな風に震えられたら、そりゃ過剰なくらい気にしちゃうもんだろ⁉︎
焦っているうちに上着を剥ぎ取られた。
なんか俺一人でわたわたしてるのも、妙に意識してるみたいで逆に恥ずかしい。
万が一気分が悪くなったら、すぐにハインを呼ぼうと心に決めつつ、出来るだけサヤに身体を晒さない様、大急ぎで着替えることにする。
うううぅぅ、ハインくらい筋肉質なら恥ずかしくもないのだろうが、俺の貧弱な筋肉が晒されるとは……。
道場の面々を見慣れているというなら、それは相当鍛え上げられた肉体を見て来ているのだろうし、比べられたら嫌だ……もっと鍛えておけば良かった……。
心の中で勝手に傷付きつつ、長衣を脱ぎ捨てると、サヤが息を飲むものだから更に慌てた。
「やっぱり駄目だった⁉︎」
「ち、違います⁉︎
傷が……、嘘……そんな、深い……」
傷?
身体を見下ろすと、左肩から右腰にかけて走る大きなものと、右腰に小さなもの。
それ以外にも、細々としたものがいくつかある。
大きな傷代表は、二年前、兄上に斬られた傷だ。腰のものはハイン。
「ああ……、大丈夫だよ。見た目だけだから」
サヤがあまりに衝撃を受けた様子だから、出来るだけ明るく、気にするほどのものじゃないのだと伝えた。
どちらもそれなりに深いが、命が関わる程ではなかった。
俺は貴族だし、医者がすぐに呼ばれるのだから。
まあ、兄上に斬られた方は、アギー公爵様の配下の方が処置して下さったから、大事に至らず済んだ。メバックから医者を呼んでいたら、もうちょっと危なかったかもしれない。
脱いだ長衣をサヤに渡し、着替えを受け取る。
さっさと傷を隠してしまおう。……あ、傷に気を取られていたから、筋肉は注力されなかったかもしれない。まさに怪我の功名だなぁ。そんな風なことを考えていたら、急に細い腕が身体に回された。
「え? っ⁉︎ サヤ⁉︎」
背中側から、サヤがしがみついて来ていて、ちょっと強いくらいの力で、抱き締められていた。
混乱の極みだ。腕を振り解けば良いのか? いや、サヤの力に俺が抗えるはずがない。ていうかこれは、何⁉︎ どういった状況??
狼狽えてしまって言葉が出ない。そんな俺の反応など御構い無しに、サヤは腕に、力を込めた。
「話したいこと、今、話すことにする」
この体勢で⁉︎
それは色々問題があると思ったから、必死で声を絞り出す。
「き、聞くから……手を、離さないか?」
「今すぐや‼︎」
……怒ってる?
サヤの声が怒りを孕んでいた。
今この状況の、何がサヤを怒らせたのかが分からない。謝るべき⁉︎ でも何に⁉︎と、またもや頭が沸騰してきて、状況に対応出来ない。
「さっきの話、レイは、どう思うて、聞いてはったん?」
さっきの話。
それはまあ、確実に、食事処でのやり取りのことだと思う。
けれど、サヤの耳がどこまでを拾っていたのか分からないから、どの話を指しているのかが、咄嗟に判断出来ない。
返事をしない俺に、サヤはしばらく沈黙した後、また口を開いた。
「エレノラさんが言うてはったこと、レイは、どう思うて聞いたん」
いや……あれはその後の衝撃が強すぎて、思うことが何も無かった……。
口付けが衝撃過ぎて、それからサヤの目を庇うことしか考えてなかった。
けど、そんなこと言っても駄目だよな。絶対納得してくれない。ていうか、口に出来ない。
答えようがない俺をどう思ったのか、サヤの腕にまた、力が篭った。
こ、これ以上締め上げられたら、やばいんですが……。
「ご、ごめんサヤ、何か、気に障ったなら、謝るから……教えてくれないか?」
このままでは駄目だと思ったので、意を決し、そう聞いた。
余計怒らせるかもしれないけれど、聞かないとどんどん締め上げられそうだ……。
そう思ったのだが、俺の問いに対し、サヤの手はするりと俺から離れ、かと思ったら、ぐりんと身体を反転させられたので、一瞬視界が飛ぶ。
「なんで、分からへんの……?」
ぶれた視界がサヤに定まった。すると、泣きそうな顔のサヤが、俺を見上げていた。
怒ってたんじゃなく、涙を堪えていたのか……? 呆然と考える。けれど、何故そんな顔をさせているのかが分からない。
サヤの両手が、今度は俺の腕を掴む。
「さっき、エレノラさん、言わはったやろ? ガウリィさんに、幸せになろうとしてへんって。
レイも同じや、レイも、全然、自分のこと、考えてへん! 自分を幸せにしようとしてへん!
せやから簡単に、忘れてええなんて、口に出来るんや!」
何故昨日のことを持ち出されるのだろう……。
「レイは初めから、私の返事なんか、求めてへんかった!
自分が幸せになってええって、思ってへんやろ⁉︎
せやからガウリィさんに、幸せを願ってくれって言うてるのに……っ。全部、ひとごとみたいに……!
そんなん、そんなん私は、納得いかへん‼︎」
ひと言の度に、サヤの手にぐいぐいと押されて、最後には、寝台に座る羽目になった。
おかげで、サヤが俺を見下ろしながら、怒った顔で、泣く姿から、逃れられない……。
化粧が崩れるとか、声がディート殿に聞こえそうだとか、思うことは沢山あったのだけれど、サヤを泣かせてしまっている事実を前に、そんな言葉を口にすることは出来なかった。
納得いかへんって……言われても……じゃあ俺は、何を、どうすれば良いんだ?
その答えが、見つからない……。
だって、色々前提が……、サヤは異界の娘で、帰らなきゃならなくて、好きな相手がいて、もし求めようと思えば、俺は、願ってはいけないことを、願うしかないのだ。
折り合いのつく場所なんてない。
俺が求めれば、サヤに選ぶべきものを、捨てさせることになる。
「兇手に襲われた時も、そうやった……。
レイは一番はじめに、自分を切り捨てる……。
私は、そんなん、納得できひん。レイが苦しいの分かってて、幸せになんか、なれへんもん。
あっちに帰ったかて、ずっと心配して、後悔せなあかん。
それは、なんでやと思う?」
なんでって、言われても……。
「もう、レイのことかて私には、大切なんや! なんで分からへんの⁉︎」
首に手が回された。
サヤが俺の首に抱きつく様にして、肩にサヤの頭が乗っかっていて、昨日の甘い香りがまた、鼻腔を掠めた。
「やめた。忘れへんから。
レイが私を好きやって言うたこと、忘れへん。
まだ自分でも、よう、分からへんけど……多分私は、それが嫌やない、思う。
せやから、レイも、そのつもりでおって」
ど…………どのつもり? どどどのつもりでどうすればよいんだ⁉︎
「レイシール様、支度は済みましたか? 何を騒いでるんです?」
扉の向こうから、急に乱入したハインの声に、二人して飛び上がった。
心臓が、ハインの声に驚いたからなのか、サヤの発言に動揺しているからなのか、もの凄く暴れる。
「ごっ、ごめんっ、もう終わるからちょっと待って‼︎」
急いで立ち上がって、震える指で必死に長衣の釦を留め、腰帯を締めてから立ち上がる。
サヤに上着を羽織らせてもらってから、雨除けの外套を纏って扉の方に向かい、はっと、足を止めた。
「サヤは、留守番。
霧雨じゃ、化粧が落ちるから、良いね?
あと……目元、崩れてるから、後で、手直ししておいて。
それとその…………つ、続きは、帰ってからで、お願いします……」
続きがあるのかないのかすらよく分からなかったけれど、そう言うとサヤも必死でこくこくと頷く。顔が真っ赤だ。首まで赤い。きっと俺も似たり寄ったりだ……。
半ばやけくそで扉を開き、顔を伏せたまま、大股でハインとディート殿の前を突っ切る。
「行くよ! リカルド様待たせると悪いから! あとサヤは留守番だから! 部屋の片付けしといてもらうから!」
「は?」
「行くよ⁉︎ 俺先に行ってるから!」
俺を一人にするわけにはいかない。だからハインとディート殿はあわてて俺についてくる。
そうやってサヤから二人を引き剥がして、ついでに俺自身にも、心よ凪げと言い聞かす。
落ち着け、落ち着け、とりあえず保留、保留だから。さっきのやり取りについては考えちゃ駄目だ。無心になれ!
そう言い聞かすも全然暴れる心臓も、熱い顔も、収まる様子を見せないものだから、俺は雨除けの外套を目深に被り、雨の降る中で待機するしかなかった。
ま、間に合いました!
二日前に、一から書き直しになった時は、マジで馬鹿だと自分で思った……。けど間に合ったよ⁉︎
際どい場面ありますが、まあ、あの二人は大人なので。ええ。気にしない方向で!
それでは、次の更新も来週金曜日です。どうするんだ次……あの状況で回してどうするんだ⁉︎
なんかもう私のテンションもちょっとよく分からない……。
今回も見て頂いてありがとうございます。次回もお会いできたら嬉しいです。




