優劣
「マルさんが仰った、血脈に病の巣があるという話ですが……、それ、あながち外れてはいない様に、思います」
お茶の準備を済ませ、サヤがそう、話し合いの口火を切った。
膝の上の手を強く握ったサヤ。
引っ張り出す知識に自信が無いのか、凄く、不安そうに見える。
俺は、サヤの向かいの長椅子に腰を下ろしていたのだが、移動して、サヤの左横に座り直した。
一度、触れることを拒否されてしまったから、正直勇気を振り絞った。本当なら、震える身体を抱きしめて安心させてあげたかったけれど、隣に座るのが精一杯だ。
「大丈夫。鵜呑みにはしない。
サヤの話は、仮説の話だよ。何が正しいかなんて、誰にも分からない。
ただ、俺たちが知らない一つの道筋を、サヤは知ってる。それが、何かの手掛かりになるかもしれないって、思うんだろう?」
サヤの方を見ずに、自分の手元を見据えたままでそう問うと、サヤがこくりと頷くのが、視界の端に映る。
それで充分だと告げると、サヤが少しだけ、肩の力を抜いた。
「はい……では、お話しします。
えっと、人の設計図の話ですけど、その二万五千枚の中には、優劣が存在します。
例えば私の黒髪……これは高確率で遺伝します」
そう言ったサヤは、部屋の隅の小机から紙と墨壺を持ち出して来た。
それを机に置き、省略化されたサヤと思しき黒髪の人。その横に、髪の塗られていない、同じく省略化された人を描く。
その下に線を引き、その線を三つに分け、そこにまた、三種類の人を描いた。黒い髪の人、斜線で髪を塗られた人、そして髪の塗られていない人だ。
「私が、ギルさんと結婚したとします。
その場合、生まれてくる子供が金髪である確率はとても低くなります。黒が一番確率が高く、茶褐色となる場合も多いと言われます。
瞳も同じく、碧眼の子供となる可能性は低く、鳶色よりとなる場合が多いと思われます」
なんでギル⁉︎
正直、話の内容はすっ飛んだ。
俺の驚愕の顔に気付いたサヤが、ボッと顔を朱に染める。
「ちっ、違います! 私の世界には、この世界ほど多様な色彩は存在しないんです!
遺伝子の優劣を説明しようと思うと、色合いに差をつけなきゃ分からないから……、それで、私の世界で一般的に多い髪と瞳の色が、たまたまギルさんなんです‼︎」
慌てるサヤに、マルが追い打ちをかける。
「へー、レイ様の色もですか?」
って、おい⁉︎
「銀髪藍瞳もありませんからっ‼︎」
顔を両手で覆ったサヤが突っ伏してしまう。相当、恥ずかしかったらしい……。
だって、分かりやすくって思って、想像しやすくってなったら、ギルさんしか妥当な色合いの方がいらっしゃらなかったんです、マルさんもハインさんも、無理だったんです。仕方ないじゃないですかっ。みたいなことをくぐもった声で訴えてくる。ご、ごめん……ちょっと俺も、動揺しすぎた……。
「ご、ごめん……。ちょっとその……誤解しかけたというか……」
そうだよな、カナくんもたぶん黒髪なのだし、例にはあげられなかったか……。
なんとか宥めすかし、話を続けてもらう。
いや、分かってたのに、何反応してるんだ俺……。サヤとギルが結婚って考えただけで、心臓が変な動きした。
「……い、遺伝の優劣って、私も、よく分からないんです。
例えば、レイシール様みたいな銀髪と私みたいな黒髪だったらっていうのが、想像出来ません。
私の世界では、三種の肌色の人種が存在します。褐色肌 白色肌、私の様な黄みがかった肌。
褐色肌の方と白色肌の方から生まれた子供は、大抵褐色肌ですが、親のものより若干薄い肌であったりすることも多い様子でした。ただ、白色肌で生まれてくることは、ごく、稀です。
黒髪の方と金髪の方の場合は黒か、茶褐色が多い。金髪はごく稀。事実としてそれは知っているのですけれど、黒髪の方と白髪の方の場合はどうなるのか……実例を知りません……。でも、私の世界に純粋な灰髪や銀髪は存在していなくて……どちらかの色になるってことなのか……この世界の様に多様な色彩を有している場合、どの様な遺伝が起こるのか……全然、分からないんです……」
「褐色肌……シザーみたいな肌色ですかね。シザーは曽祖父か祖父が異国人でしたっけ」
「両親は普通の肌の色だったのに、先祖返りをしたって話だったよな。……ああ、シザーの肌も、設計図の優劣が影響しているのか……」
サヤが不安そうだった理由が分かった。
きっと、遺伝というものは、神の領域なのだ。優劣はある様だと認識出来るものの、それがどんな仕組みでどう順位を組まれているのか、どんな風に選別されるのかが、分からないということだ。
サヤの居た文明世界でも分からない。それくらい複雑怪奇なのだろう。
「分かった。じゃあ、憶測で良い。サヤが思うことを、話してくれる?」
「は、はい……。
……私が、聞いた話では……王族の方は、上位貴族との婚姻が多いとのことでした。その、上位貴族というのを、教えて下さい。どの範囲なのでしょう?」
「ここ近辺……二百年程の内は公爵家ですね。四家あります。
国の内情が安定してからは、主にその四家から王妃を迎えてらっしゃいますよ」
「公爵家の四家から嫁がれる方というのは……やはり、身分のしっかりした方となるのですよね?」
「? 公爵家は、皆身分がはっきりしていると思うけど……」
俺の問いに、サヤは少し、言いにくそうに表情を曇らせた。
それでも、言わなければならないと気持ちを固めた様だ。口を開く。
「いえ、その……妾の方とか、順位の低い夫人の、お子では、なく……」
「ああ、その王妃様自身の血筋が、上位の血筋同士かと確認したいのですか?
それなら、そうですね。だいたい同等以下の血にはあまり嫁ぎませんしね。せいぜい一つ、でも稀です。異母様みたいな例外もありますが。
過去にも、類を見ない美女なんて言われる方でも、第四夫人の子だという理由で嫁げなかったりして、出世欲に駆られた実家が策略を巡らし、殺生沙汰に発展したみたいな話もありますし」
マルの説明に、サヤが縮こまる。それを見て察した。
ああ、俺に気を遣ってたのか。
サヤに大丈夫だよと笑いかけると、申し訳なさそうに眉が下がる。
まあ俺は、庶民に戻りたいと思ってるくらいだし、全然気にならないのだが。
「異国から、嫁いで来られる方は、多いのですか?」
「ほぼ無いですね、近年は。かつてはありましたよ?
お互いの国が、内情の露見をあまり好まないので、上位貴族の方ほど、他国に嫁ぐ、他国の血を招く、というのを嫌います。
地方貴族や下位貴族は、そこまで硬く言われませんけど、異国の血が入ると出世しにくいなんてのもありまして、率先している血筋は無いのではないかと」
「えっと、つまり……言い方は悪いのですが、血筋の高貴な方ほど、血の交流が一定の範囲内で凝り固まっている可能性が、高いですよね」
サヤの問いに、マルがぶつぶつと何かを思案しつつ「まあ、そうなりますね」と肯定する。
「例えばリカルド様自身が良い例ですよ。
一子のハロルド様が王家への婿入りとならなかった理由は、そこでしょうしね。
リカルド様の母君は、同じく公爵家、ベイエルから嫁いでます。対してハロルド様は子爵家出の母だ。そうやって突き詰めていくと、あまり下位の血が入らない構造になりますね」
それを聞いたサヤは、納得といった表情だ。そして「それが原因かと思われます」と、言った。
「私の国では、近親婚はタブー……禁忌とされています。
国の規則として、直系血族と、三親等内の血族での結婚は認められません。
私の国以外でも、大抵の場所はそれを禁じられています。その理由が、血が濃くなりすぎることの弊害を知っていることにあります。
血が濃くなりすぎると起こる弊害というのが、劣性の遺伝子の顕在化です」
「サヤくん、具体的に、直系血族と三親等血族とは何か、聞いても良いですか?」
マルの要求に、サヤはこくりと頷き、先程の絵に追加を描き始める。
サヤらしき黒髪の人の上に、同じく人型二人。その二人の横に、線を引っ張って一人。サヤの親と思しき二人の上にも、祖父母と思しき四人。
サヤらしき黒髪の人の横に、もう一人、その下に、また子と思われる者を一人。
「直系血族というのは、私から見て、私の父、祖父、息子、孫、等ですね。直接の血の連なりがはっきり続いている者同士を指します。
三親等というのは、私から見て、兄弟姉妹、更にその子供。親の兄弟姉妹となります」
「ふうん……親の兄弟姉妹の子や、祖父の兄弟姉妹は大丈夫なんですか」
「はい」
絵を指差しながら教えてくれたので、まだ分かりやすかったが、言葉で言われると分かりにくかったろうなぁ……と、漠然と思う。
「異国では違う場合もありますが、概ね、似たり寄ったりです。
では次に、血が濃くなりすぎると起こる弊害、劣性遺伝の顕在化について説明します。
まず、分かり易いように、仮の話をしますね。
私の世界では、人の血には、数種類の型があることが知られています。
血液型と呼ばれるそれは、A型、B型、AB型、O型と四種類。その血液型は、親から引き継がれるものなのですが、親子で必ず同じであるとは限りません。遺伝の組み合わせによって、変わります」
そう言ってから、新しい紙にA。B。AB。O。と、書き記す。何かの記号のように見える。
「私はA型です。私の父もA型ですが、母はB型です。
私の両親からは、全ての血液型が生まれる可能性があります」
そう前置きしてから、父=AO。母=BO。サヤ=AO。と書き込まれた。
うん……?Oの記号は何故付いたのだろう……?
「私は、父からAを、母からOを、受け継いで、AOとなりました。
例えば、父からAを、母からBを受け継いでいたならば、ABとなります。
私の家系では、全種類の血液型が生まれる可能性があるのですが、同じくA型とB型の親子でも、AB型しか生まれない場合があります。
その家系の両親の血液型はAA。BB。と、なります」
「え?形が違わない?」
「あ、分かった。同じ型でも、二種類が存在するんですね」
マルが、サヤから筆を受け取って、紙の下部AA・AO=A型。BB・BO=B型。と、AB型。OO型。と、書く。
待って、何故そうなる……なんでマルはその結論に至った?
「なんでって、例題を聞けば分かりますよ。サヤの家系は全種生まれる可能性があって、もう一つの家系はAB型しか生まれないのでしょう?
両親から半分ずつ受け継ぐ法則はここでも健在の様ですし、そうなると、こうなりますよ」
そう説明されてやっと分かった。……けど、根本的なことが分からない。
血の型って、どういうこと? 血は血だよな……赤い。それに差なんて無いだろう?
俺が理解不能である様子に、サヤは少々困った顔をする。
「血の型自体は関係無いので、一先ずは、血には種類がある。程度に理解して下されば充分です」
「……う、うん。それはまぁ、分かった」
とりあえずそこはもう理解したということにしておく。血には種類がある。……あるんだろう。
疑問は捨てて、そうであるということにしたのを見届けてから、サヤは、ABとOの間にVの記号を書き込んだ。開いた方が、ABを向いている。
「血液型には分類すると六種あるとなりますが、この中でO型のみ、劣性遺伝子です。
OはO同士でしか現れません。AとBには優劣が無い為、ABとなります。つまり、OAは存在しません」
「ふむぅ……。
サヤくん、これ、直前だけで考えればそうなんでしょうが……祖父や曽祖父も関係するんですか?」
マルの質問に、サヤが困った顔をする。そして「します」と肯定した。
「分かりやすく、簡潔にまとめてますけど、本来はもっと複雑です。血の種類だってもっと細かく分類することも出来ます。ただ、大まかにこうであると思って下さい」
これ以上複雑なのは無理だ……。そう思ったのが顔に出ていたのか、サヤも「私も、これ以上は分からないです」と、言葉を濁す。
「とりあえず、優劣の仕組みだけを理解して頂けば良いです。
AA。BB。の間にも、Oが生まれる可能性はあります。ただ、本当に、ごく稀。それこそ、二万人に一人生まれるとされる白い方よりも、更に。
先祖の方次第で、大きく誤差も発生するのでしょう」
「ふはぁ、壮大ですねぇ。
けど、言いたいことの意味は見えました。
姫様の血は、濃くなりすぎた結果、そのOの様に、通常であれば顕在化しにくい状態が、現れやすくなっている。Oを持つ者が、圧倒的に増えているということですね」
マルの言葉に、サヤがこくりと頷く。
「私の世界にも、血が濃くなりすぎて滅びた一族が存在します。三親等以内の婚姻を繰り返した所為で、平均寿命が縮まり、疾患も増え、精神的や肉体的な異常も多かったと聞いてます。
有名なのがハプスブルク家という一族なのですが、例えばフェリペ四世と呼ばれたスペイン王は、姪と結婚しましたけれど、五人の子のうち、二人しか成人しなかったそうです。……似ていませんか」
似てる……。確かに、似ている!
まず白く生まれるという疾患が多発すること。早逝する者が多いということ。十五を迎えるまで公にしないというのも、ただ病弱なのではなく、生命に関わる疾患があったりするということかもしれない。
「ふむぅ……三親等……四親等……あ、従兄弟や大叔父を四親等と仮定しますね。あ、当たってるんですか? 了解です。
そうですね。この国では三親等から結婚が許されてます。流石に二親等以内はありません。法律上の問題で。
また、一定の範囲内での婚姻が繰り返されている為、四親等以降であっても血が濃い可能性が高いですね」
「はい、つまり、ハプスブルク家よりは緩やかであるものの、どんどん血が濃縮されているのだと思うんです。
その行き着くところが、王家です。かつては、王家から降嫁される方も、いらっしゃったでしょうから……」
「そうですね。かつてはありました。なにせ、二千年続いているのですし。
だから王家特有の設計図は、王家以外の上位貴族にも受け継がれているわけですね。
……そういえば、王家に白い方が生まれ出したのは、この国の歴史において、中頃からであると言われる説がありますね……。設立当初から由緒正しき白であったと主張する人もいらっしゃいますから、真実の程は疑わしいのですが。でも、白以外の方も、たまに生まれますしね……とはいえ」
そこで、マルが一度、口を閉ざす。
「それが正しいかどうか、確認出来ませんね。十五歳まで育つことのなかった王家の方は、名も公開されませんし」
調べれば、ある程度は分かりますが、正確ではないですしねぇ。と、マル。
凄く調べたいと思ってるな……この顔。だけど王家の系譜など、一般人が目にする機会は無い。
マルが言う通り、調べればそれなりに分かるだろうが、マルが欲しているのは正確なものであるだろう……。けれど、王家に開示を求めるわけにもいかない。公にできないから、伏せられているのだ。でも、そうであるとしても……!
「調べられないだろうか……。
だって、遡って調べれば、何かが見える筈だ。
子供の死亡率、出産率、白い方の比率を、五十年前、百年前、二百年前、三百年前……遡って計算していけば、増減しているかどうかが、分かるよな?」
雨量を測り、記録を残す為に作ってきていた表……サヤに教えてもらった、折れ線グラフというものを、俺は思い出していた。
あれなら、形になる。目に見えて、変化が分かるのだ。
数年の内容では意味が無い。出来る限り多く情報が必要だろう。二千年続くと言われる王家、その系譜は、残してある筈だ。必ず。
「成る程。証明出来なくとも、形として表せば、変化は明瞭に見える。説得力はありますねぇ」
「王家は衰退していっている。というのは、我々の目から見ても明らかだ。
誰だって王家の出生率は下がっていると、ぼんやりと認識している。
だって、姫様も唯一の後継だ。先代国王も、即位した兄上が早逝していたよな、それで、兄弟揃って国王職に就かれたはずだ!」
「レイ様。落ち着いて下さい。
そりゃ、形にすれば説得力ありますけど、それを調べてどうするっていうんです?」
「決まってるだろう! お伝えしなければ……近い未来フェルドナレンは滅ぶかもしれないんだぞ⁉︎」
つい声を荒げてしまった俺に、マルは困った顔をする。そして「それはすべきではないですよ」と、言った。
反対される意味が分からず、暫く放心してしまった。しかしすぐ、ふつふつと、焦りというか、もどかしさの様なものが湧き上がってくる。
「なんで⁉︎」
「厄介ごとに自分から飛び込まないで下さいよ。言ったところで、どうなるものでもありませんし」
そんな簡単に……状況が分かっているのか⁉︎
「国の存亡が関わっているんだぞ⁉︎ 王家がこのまま朽ちていくのを、黙って見ておけというのか?
血を薄めれば、王家の衰退、死亡率、白い方の生まれる比率を、減らせるかもしれないのに⁉︎
サヤ! 今からでも別の血を取り込めば、効果はあるのだよな⁉︎」
俺の問いに、サヤはこくりと頷いて「確証は持てませんが、おそらく……」と答える。是。その回答に、俺の気持ちは高揚した。
けれど、マルは静かに頭を振る。
「そうですね。減らせるかもしれません。
でも、それを王家や家臣団が納得して実行してくれるかどうかは、別の話ですよ。
血に拘るから、上位貴族との婚姻が結ばれているのです。いきなり弊害があるから止めろと言って、習慣を改めるとは思えませんし、止めるとも思えません。
それに、不敬を咎められる可能性もあります。上位貴族を侮辱していると捉えられてしまったら、レイ様が危険なんです。
まして、貴方は姫様に夫候補と言われている。そんなことを進言したら、先程の様に、姫様を誑かして陰謀を企てているとか、言われかねませんよ?
王家の政策を否定するわけですから、最悪、反逆罪にだって問われる可能性すらあります」
冷静な瞳でマルが言う。そのことに、焦燥が募る。
そりゃ、納得してくれない可能性は高いさ。俺もそう思う。だけど、納得しないだろうから、伝えないというのは、違うだろう⁉︎
サヤを見る。
サヤも、心配そうに、俺を見ていた。
自分の知識の不確かさに不安を抱き、震えつつも、口にしてくれた。
これも、サヤの残してくれた、痕跡だ。
この世界を愛してくれたからこそ、我々に選択肢を与えてくれた……。本来なら、選ぶことも出来ず、ただ進むしかなかった破滅への道が、選ぶ事の許されない一本道ではないと、示してくれたのだ。それを、無駄にしたくない!
そして、姫様……。
彼の方の苦悩を、望むこと、願うことを許されなかった苦しみを、俺は知っている……知っているのに、俺は助けられたのに、手を差し伸べないだなんて……そんなのは、嫌だ!
「力になると、そうお約束した。
姫様の苦悩は、俺と一緒だ……それを、これから先の、姫様の子や、孫にまで、強要するだなんて、姫様はきっと、望まれない!
それに、せっかく知ったことを、知らなかったことにするなんて、嫌だ。
もう自ら手放したくない……諦めて、捨てるのはもう、終わりにしたいんだ」
それしか選べないと思っていた。
そう生まれたのだから仕方がないと、ずっとそう言い聞かせて、自分を納得させてきた。
だけどそれをする度に苦しくて、悲しくて、だから、初めから持たないことしにた。手に入れなければ、奪われることも、捨てることも無いのだと。
でもそれで得られるのは虚無だけだった。
奪われる痛みや捨てる苦しみを味合わないかわりに、ただ、何も無い……。
結局俺はそれを続けることにも疲れて、もう終わることしか見えなくなっていたんだ。
姫様も同じだ。
ただ進むしかなかった破滅への道。
あの苦しみを、彼の方には味合わせたくない……!
「だってな、俺は今、自分から、何かをしたいと思ってるんだ……。流されるままだった俺が、変えたいって、思ってるんだよ。
サヤやみんなに手を引いてもらって、やっと少し進んだ。
そうしたら、見える世界が全然違ったんだ、俺が思うより、ずっと俺は、沢山のものに恵まれていた。
今回のことだってそうだ。諦めかけた俺を、皆が救い上げてくれたろ? 俺は救われた……お前たちに救われたんだよ!
だから、姫様にも、知って欲しいんだ。ただ一人で苦しまなくて良いと、一人で背負わなくて良いと!
皆で考えれば、きっと良い方法があるはずだ、一人で掴むものより、大きなものを得られる筈だ!
俺は、それをしたい。自分で選んで、足を踏み出したい。もう後悔したくないんだ‼︎」
焦る気持ちで、言葉が上手く選べない。
だけど、ただじっとしていたんじゃいけないことだけは、分かる。身体がそれを訴えるのだ。
知ったなら、知らなかったことにしてはいけない。それを昇華しなければ、価値を生みださなければいけないと思う。
知識をどう使うか。
その結果を、俺は今も、身をもって感じているじゃないか。サヤがずっとそれを、教えてくれていた!
「……ふぅ、ややこしいことに首を突っ込むと、大変ですよぅ?」
呆れた口調で、マルが言う。
だけどそれ、今更だよな?
「もう突っ込んでるだろ」
「そうですねぇ……もう火中の栗を拾うしか、ないのかなぁ。拾わなければ、灰になるだけですもんね」
ふぅ、と、息を吐いて、マルが瞳を閉じる。
膝の上で、拳を握る俺の手に、横から手が添えられた。
サヤが、俺を見て、微笑む。
「何をお手伝いすれば、良いですか?」
それに、えもいわれぬ喜びを感じた。
サヤが俺を支えてくれようとしていることが、とても幸せだと思えた。これを手放したくないと、強く願う。ただ権力や運命に押し潰されて、何も出来ないまま、手放したくない……!
サヤ……。俺が絶望の中で見つけた、最高のもの。
そしてマルが、ふむ。と、呟いてから瞼を開く。
「仕方がないですねぇ……けれど、今のこの、情報不足の中で行動を決めるのは下策です。
まずは情報収集ですね」
そう言うとマルは、熟考の時間に入った。
暫く表情を消して、ブツブツ何かを呟きつつ、頭の図書館で思案に耽る様子を見せる。
十分程経っただろうか?
唐突に、口を開いた。
「リカルド様とヴァーリン家周辺の情報を集めます。僕に任せてください。そんなにお待たせしませんから。
次に、取り急ぎやらないといけないことが、王家の系譜を手に入れることですね。
こればかりは……有る場所が限られます。三箇所ですね。王家と、アミ大神殿と、おそらく墓所です」
マルが口にしたことに目を剥いた。
て、手に入れるって、本気か⁉︎ ていうか、なんで系譜のありかなんか知ってる⁉︎
「レイ様の為ですからねぇ。僕もちょっとくらい、奉仕しますよ。
王家の系譜、確実にある二箇所のどちらかを狙うか、比較的安全度の高い墓所を狙うかなんですが……距離的な問題もありますしね。
残念ながら、一番近いのが王家です。
大神殿は、お勧め出来ません。吠狼の皆が、神殿を嫌いますから」
忍び込んで盗み出すのが前提のマルに、暫く呆気にとられていたのだが、吠狼という単語で目が覚めた。
吠狼?
それが、兇手の皆に「忍」として名乗らせると言っていた呼び名であるのは知っている。だが、彼らは、それを受け入れてはいなかったはずだ。
「それは、まだ……」
「ああ、先日了承を得ましたよ。
正確には、もうどっちでもいいやって感じでしたけど。
兇手と知っている者を五人も村に入れて、全く頓着しないレイ様に、呆れてました。
兇手として利用する素振りもありませんし……」
「いやだって、了承してないのに使うわけないじゃないか。初回は特別に、マルの恩を使わせてもらっていたのだし」
「いや、普通ね、あの手この手で使おうとするもんなんですよ。恩でもないものを恩に着せて、既成事実を塗り重ねていくんです。そして雁字搦めにして抜け出せなくなった所をこき使おうと画策するんですよ。
だけどレイ様ったら、普通に、料理人と、大工としてしか、扱ってないんです……」
「だって……料理人と、大工として、やって来たよな……」
他にどうしろと言うんだ……。
俺の返答に、マルが表情を取り戻し、信じられないといった顔で呆れ果てる。
沈黙して見つめ合う俺たちに、プッと吹き出したサヤが、クスクスと笑った。
「レイシール様は、お優しいですから。
意識してらっしゃらなくても、相手が望むことを察して、それを行なって下さる方ですから」
「まぁねぇ、学舎に居た頃からそうでしたよね。だから人たらしって言われるんですよ」
なんとも言い返しにくい昔話を持ち出さないでくれ……。
それに俺は、別段そんな風に、しているつもりもないのにな……。
むくれている俺に、しばらく笑っていた二人だったが、落ち着いてから、真剣な顔になる。
「彼らは優秀ですが、ただ王家に侵入させる気なんて無いですよ。
胡桃の家族同然の者たちです。危険なことは極力、させたくありません。
出来るだけ、難易度を下げる必要があります」
「勿論だ。俺だって、彼らに危ない橋は渡ってほしくない。協力者が必要だな」
「ディート様ですか?」
サヤの問いに、かぶりを振る。
「いいや、姫様だよ。
彼の方は、知らないままにことが進むなんて、嫌だろう。自分自身のことだ、尚更知りたいと思うはずだ」
「でも……もし、間違っていたら……落胆されますよね……」
沈んだ声音でサヤが言う。けれど、それでも良いんだよと、言い聞かす。
「それでも、良いんだ。
彼の方は強いよ。俺なんかの比じゃない。例え間違っていたとしても、それを無駄にしないよう、更に動く方だよ。大丈夫」
俺の言葉に、サヤは眉の下がったままではあったけれど、微笑み、頷く。
それを見届けてから、マルに視線を戻す。
「王家に忍び込むなんて、とんでもないことをお願いするんだ。用意出来るものはきちんと整えよう。
万が一のことがあっても、姫様の指示か、そうでないかで結果は雲泥の差だ。だから、姫様にもきちんと理解して、了承してもらう。
姫様には、俺から話す。サヤにも手伝ってもらうことになると思うから、宜しく頼む。
王家に忍び込む際の、警備配置とかを聞けば良いかな」
「そうですね。隙のある時間帯や場所等があるならそれを、あと、協力者がいるかどうかで打てる手は変わってきます」
「分かった。
……王都まで行くとなると、結構な時間が掛かるな……」
「そうでもないですよ。
人数に限りはありますが、獣化が使える者が走れば早い。彼ら、体力凄いんですよ。速度は馬より遅いくらいですが、休憩はさほど必要ありません。半日ぶっ通しで走り続けても平気です。馬以上の速度を出す場合は半時間程しか保ちませんけどね。
うーん……四日ですね。往復八日。侵入に日を選ぶでしょうから、合わせて十日前後ですか」
王都からここまでがたったの四日⁉︎
呆れるしかないのだが、そうだと言うなら、それを信じるしかない。
「獣化出来る人、そんなにいるの?」
「胡桃を除くと二人です。まあ、獣化すると服を畳んだり出来ないので、世話役に小柄な者をもう一人付けます。交代で乗せて運ぶということで、三人一組で使いますね。それ以上の人数になると、四日では無理ですね」
「目立たないことが最優先だから、人数はさほど必要無いだろう。充分だ」
獣化した胡桃さん、大きかったもんな……人一人くらいは確かに乗れそうだ。
神秘的で勇壮だった、あの美しい姿を思い出す。悪魔の使徒だなんて思えない、神々しいとすら思える姿だった。……下着を咥えるまでは。
「力を貸して、くれるかな?」
「そこは仕事内容と報酬によりますよ。どんなのをお望みです?」
「報酬は……どれくらいが相場か分からないから、マルにお願いして良い?俺の蓄えから出す。対応できる願い等あれば、極力叶える。
仕事内容は、前回と同じだ。生きて帰ることが最優先。系譜は二番目で良い。手に入らなければ、他の手段を考えれば済むことだ。
誰かの命を取ることはしない。極力見つからない様に気をつけて。……何か不測の事態があれば、逃げることを優先してくれれば良い」
「了解です。ではそれで伝えますよ。
明日夜に発つとするなら、ぎりぎり準備、間に合いますかね。それまでに、姫様を籠絡して頂く必要があります」
「そこは努力する」
姫様の人となりは把握しているつもりだ。二年の誤差はあるだろうが、彼の方が何を望み、行動するかは近くで感じてきた。ルオード様やユーズ様を除くなら、学舎では俺が一番、関わったと思える程に、密な時間を共有したのだ。だから、何としても口説き落とす!
「じゃあ、あとはリカルド様ですね。
彼の方がどう考え、どう動くかは未知数です。どうしたもんでしょうね……」
「リカルド様もだけど、配下の三人も気になるな。
意識して考えると、姫様を軽視した行動が目立っていた様に思う。象徴派の者かもしれない」
剣に手を掛けていた者、リカルド様の横柄な態度を当然と受け止めていた者……あともう一人の行動はまだ引っかかっていないが、どうなのだろう?
とにかく注意しておくべきだと心に刻んだ。
そしてもう一つ、気になっているものがある。
聞き取れなかったリカルド様の呟き……サヤは、聞き取っているだろうか?
「サヤ、リカルド様だが、姫様に必ず子を産めとおっしゃった後、何かを呟いていた様に思ったんだ。サヤは、聞こえた?」
念の為に確認してみる。
するとサヤは、頬を染めつつ視線を逸らし、こくりと頷いた。ただ、少し困惑を孕んだ、難しい顔だ。なんとも不思議な反応に、少々戸惑う。
「はい……。扉越しですし、きちんと聞き取れた自信はありません。でも、私には……だっ、誰の胤でも……構いはしない……って、聞こえました」
サヤの言葉に、こっちの顔まで熱くなる。うあああぁぁ……サヤに聞かせたり、言わせたりする言葉じゃない……下手したら、気分が悪くなってたかもしれない……。それによくよく考えればあの内容……結構際どい……。
「い、嫌なことを聞かせてしまって、悪かった……」
「いえ……」
思案する様に視線を彷徨わせ、更に言葉を続ける。
「でも、なんでしょう……不快感は、さほど無かったんです……。
あまり、良い言葉ではない様に、思うのですが……」
良い言葉ではないだろう。誰の胤でも構わない……次の王となる子の父が、自分でなくても構わないだなんて、妻とする相手に対して言う言葉ではない。
違和感もある。自分が王位に就くと嘯いておきながら、自身の子が、次の王位に就くことを求めていないということだから。
姫様に聞こえない様、小声で呟いたその言葉。そこには、リカルド様の本心が垣間見える気がする。
敏感なサヤが、さして不快感を覚えなかったことにも、意味がある様に思えた。
「一応先程、二人だけで話がしたい旨は伝えた。了解は頂けたと思う。
後は、その手段だな。どうやって二人で話す環境を作るか……」
リカルド様だけを連れ出すのは難しいと思う。
彼の方自身も、疑いを招く様な方法は、好まないだろう。
何か違和感の無い手段は無いものか……。
「じゃあ、こうしましょう。ドツォ、あれは目新しいですし、リカルド様へのお詫びとしては、良いのじゃないかと思いますよ」
何か思い付いたらしいマルが指を立てる。
風呂か。あれは見たことのない構造だろうしな。確かに興味を引きそうな気はする。
作戦を纏めることにした。
何度も検討し直して、お互いの動きを確認する。
「じゃあ、今夜、それでいってみよう」




