すれ違い
その夜、体調が悪化した。
夕刻くらいから寒気は感じていたのだ。だがまあ、一日の終わりもあと少しと、軽く考えたのがいけなかった。夜になって、急激に熱が上がって来だした様子だ。
グラグラと頭が揺れる。横になっているのに、馬車で揺られているかのような、浮遊感。
しばらくそれに耐え、そのうちにうつらうつらとしていたようだ。妙な息苦しさで意識が覚醒した時には、更に状況が悪化していることを自覚した。
呼吸が苦しくて、胸から喉にかけて圧迫感がある。やばい。これ駄目なやつだ、吐く。
夕食を無理して完食したのが裏目に出た。しっかり食べて体力をつければ、熱も退散すると思っていたのに……。
早めに寝室へ引っ込んだのが功を奏し、このことに気付いているものはまだいない。
なんとか寝台から這い出して、吐いても支障のない場所に移動しようと思った。とはいえ、どうせ、そのうちサヤにはバレてしまうのだろうなと考えていると、
「レイシール様? 眠れないですか?」
サヤが部屋を覗きにきて、あっさりと見つかった。ちょっとご立腹顔のサヤが、一旦部屋を出て、盥に水を張って戻って来る。そこに手拭いを放り込んで、濡らしたそれを、俺の額に乗せようとするから、ちょっと待ってと、手で止めた。
「ごめ……今、吐きそ……」
「不浄場まで行ける?」
無理。正直喋るのももう無理。
限界。
ぐらつく身体を折り曲げた俺に、サヤは風のように動き、盥の水を開け放った窓から捨てた。
それを俺の身体と、寝台の間にねじ込む。
胃が痙攣し、せり上がってきたものを、俺はもう吐くしかなかった。
けれど、サヤの機転のお陰で、寝台を汚さずに済んだのは有難い。一通り吐き終えてしまえば、少し身体が楽になった。そこに、湯呑が差し出される。
「口すすぎ。気持ち悪いやろ?」
言われた通り、湯呑を受け取って口をすすぎ、盥に吐き出す。人心地ついた。
「……ごめん、ありがとう……」
「ううん。けど……もう! しんどいなら早ぅ呼んで! 声上げてくれたら聞こえるのに、ギリギリまで我慢しない!」
怒られてしまった……。
だけど、久々に、顔を作っていないサヤが見れた気がする。
謝っている最中もテキパキと動いて、俺を寝台に寝かし、先程の濡らした手拭いが額に置かれる。
少し待っておくように言われ、盥を抱えたサヤが部屋を後にした。申し訳ない……吐瀉物の処理までさせてしまうとは。
そのまま待っていると、盥二つを重ねて片手で持ち、もう片方の手には水差しを持った状態で、サヤが戻って来た。
「経口補水液作って来たし。水やのうて、こっち飲むんやで。熱も、だいぶん高い……汗と嘔吐で、脱水症状になりやすい。それ以上、体調崩したないやろ?」
そう言いながら、その補水液が湯呑みに注がれ、飲むように促される。
もたもたする俺に、サヤがしびれを切らして手を差し出した。抱き起こされて、背中を支えた状態で体勢維持。湯呑を手渡される。
サヤに従い、それを飲み干した。甘みと、ほんの少しのしょっぱさが、妙に美味に感じたから、きっと身体が欲していたのだなと実感する。おかわりをお願いして、次はもっとゆっくり、時間をかけて飲み干した。
補水液を飲み終えたら、もう一度寝台に寝かされた。そして、濡らし直した手拭いが、また額に置かれる。
盥の一つはまた水が張られていた。
もう一つは、嘔吐用だろう。
寝台横の小机では狭い為、机がすぐ横まで引っ張ってこられ、小机と入れ替えられた。
そして椅子も引っ張ってこられ、サヤがそこに陣取る。
「……サヤ、あとはもう、大丈夫だから……」
「大丈夫やあらへん。そんな熱いのに、放っておけると思うん?」
しかめっ面でそう言われてしまった。
譲る気は皆無だ。まあ、ここまで体調を悪化させた俺が悪い。甘んじて受け入れよう。
もう一度、謝罪と、感謝を伝えて、目を閉じた。
目を閉じても、平衡感覚が揺さぶられ、まるでゆりかごの中にいるかのようだ。
正直しんどいのだけど、なんとなく、くすぐったい。なんか、懐かしいなぁ……。
「なにが?」
心の中で呟いたつもりだったのに、口に出ていた様だ。何が? うん。何が懐かしいんだろう。俺もよく、分からない。
「なんとなく、懐かしい、気がしただけかな……」
だんだんふわふわしだした思考の中で、なんとかそう、返事を返す。
うん。きっとそう、思っただけ。
だって、俺の記憶の殆どは、このセイバーンに戻ってからのものばかりで、それより幼い頃のことは、もう、殆ど、覚えていないのだ。
セイバーンでは、俺はずっと、一人だったから……。
だから、懐かしいと思ったのは、きっと、錯覚。
「せやろか……。レイは、きっと覚えとるんやで?
人の脳は、結構沢山、覚えとる。ただ、思い出すきっかけがないと、ずっと奥の方にしまわれたままになってしまうから、忘れた気ぃが、してるだけなんや。
懐かしいって、思うんは、きっと、そんな悪い、思い出やない。レイも、慈しまれた、大切な時間が、ちゃんとあるんや思う」
ゆらゆらする思考に染み渡る様な、サヤの優しい声。
優しくて、柔らかい何かが、俺の頬を撫でて、髪を撫でてと、あやす様に動く。
心地良い。これもなんだか、懐かしい。なんだろう、思い出したいんだけど、もう、眠い。
「おやすみ……」
最後に、そう言ったサヤの声と、柔らかなものが頬に触れた感触を最後に、俺の意識は途切れた。
◆
まただ。
今日はなんだかおかしい。
いつも見る夢がやってこないのだ。
「フェルくん、ダメだよ、飛び火しちゃう。
それに、お母様に、怒られちゃうでしょう?」
そんな話し声がしている。
僕は、その優しい声の元を探すべく、重たい瞼をなんとか押し上げた。
「あっ、ロレッタ、レイが起きた」
「え? あ、本当。レイ、しんどい?」
好きな声。二つ。
知ってる。母と、兄の声。
母は、僕がこの前まで、入っていたお腹のひと。
兄は、よくわからない。でも僕を、好きでいてくれるひと。
まだよく見えない目で、声の方を見る。ちょっと遠くなるとぼやんとして、もう分からない。
それがなんだか不安で、苦しいのも不安で、寂しくて母を呼んだ。
「あついねぇ、しんどいねぇ。おっぱい飲める?」
抱きかかえられて、ホッとする。あったかくて、やわらかい。
正直お腹は空いていなかったけれど、母に触れていられるのが嬉しいから、促されるままに胸を口に含んで、おざなりに吸った。
「レイ、大丈夫かな……。氷室の氷、もらってきちゃだめなの?」
「うん……だめなの」
「母上、ずるいよね。レイが苦しいのに、ちょっとくらい氷、分けてくれたっていいのに……」
ちっちゃくてふくふくの手が、母の胸に吸い付く僕の手を優しく撫でる。
「フェルくん、触っちゃだめだよ。フェルくんまで病になったら、お父様が悲しむよ」
「飛び火した方が、早く治るって言うよ。
僕はレイより大きくて強いもの。ちょっとくらい大丈夫だよ。
だけどレイは、こんなにちっちゃいもの……きっとしんどいよね……」
うん。しんどい。しんどいってよくわからないけど、体が重くて、いつもより動けなくて、なんだか怖い。
だけど、ふくふくの手が、僕をなでてくれると、ちょっとほっとする。なでられるのは気持ち良いし、うっとりするから好き。
「……ロレッタ。レイは、なんで病になったのかな……」
兄が、僕の手をにぎにぎとしながら、そんな風に、重たい声音で母に問う。
「レイは、寝て、泣いて、おっぱい飲むしかしてないよ。悪いことは何もしてない。
なのになんで、病になったのかな……。泣くのがだめなのかな? でも赤ちゃんは、泣くしかできないのに、それをしちゃだめなら、意地悪だよね」
きゅっと僕の手を握って「母上みたいに、意地悪だ」と、言った。
「神様は、ちょっとのことですぐに罰をお与えになるのに、良いことしても、褒めてくれないよね。
レイは、良いこといっぱいしてるよ。僕を慰めてくれるんだ。レイを見ているだけで、なんだか心が軽くなるんだよ。笑ってくれたら、もっとたくさん嬉しくなる。
悪いことより、たくさん良いことしてるよね。なのに、病にするなんて、おかしいよ」
「フェルくん、病はね、悪魔が弱い子につけ込むからなるんだよ。
神様はちゃんと守ってくださってるの。だから、そんな風に言っちゃだめ」
母が、兄にそう言って、僕を抱えてた両腕の一つを外した。支えてくれる手が離れて、少し怖くなったけど、我慢する。その手が、兄を撫でるために外されたのだと、知っているから。
だけど、次に兄の口から溢れた言葉で、母の手は、兄を撫でる前に止まってしまった。
「違うよ。神は、罰をお与えになるんだ。母上が、そう言ってた。
悪いことをしたら、罰せられて当然だって。
病になるのは、神の与えたもうた罰だって。レイがすぐ病に犯されるのは、大きな罪を犯しているからだって」
僕を支える、母の手が震える。
「けどさ、僕はレイが生まれた時から毎日を知ってる。レイは罪なんて犯してない。寝て、泣いて、おっぱい飲んでるだけだもん」
それまでの重い声音を振り払うように、兄はそう、明るい声で言った。
母がその言葉に、眉の下がった、少し悲しいみたいな笑みを浮かべる。
「フェルくん……ありがとうね。ずっとレイと、仲良しでいてくれる?」
「うん! 僕、レイ大好きだよ。僕は兄だから、レイを守ってあげる。父上にも、そうお約束したんだ」
そう言って、また僕の手をにぎにぎとしてくれる。
うん。僕も好き。兄は、僕をうれしくしてくれる人。
「レイ、早く元気になるんだよ。病になんて負けちゃだめだよ。元気になったら、また遊んであげる」
そう言って、頬にチュッと、口づけを落としてくれた。
うん。元気になる。
元気になったらきっと、兄と母は、笑ってくれると思うから、僕はがんばるよ。
◆
なんか、すごい変な夢を見た……。
あり得ない……なんだあれ。
しかもなんか左頬に、やたら生々しい感触が、残っている気がしてならない。
しばらく呆然と天井を見上げていたのだが、気付いてみると身体のだるさが随分とマシだ。
額に手をやると、温まった手拭いがのっかっている。ああ、だいぶん調子が戻っている感じだ。
少し頭を浮かせて、周りを見渡すと、左腰の辺りに黒髪の頭がチラリと見えた。サヤ、寝ているみたいだな。
きっと、夜中じゅう、額の手拭いを取り替えたり、汗をぬぐったりしてくれていたのだと思う。サヤを起こさない様に、ゆっくりと上体を起こして、身体の節々を確認した。
まだちょっと、頭は重い。けれどまぁ、ここ数日に比べれば幾分かマシだ。夢も、飛び起きるほどの悪夢ではなかったし……いや、ある意味悪夢か?
なんか凄く、支離滅裂だった。母がサヤと変わらないくらいにしか見えない年齢って、兄上が子供って、そんな頃の記憶がある筈ない。
一体、何を思ってあんな夢になった……。正直ほんと、意味が分からない。
意味は分からないけれど…………なんだろうな、この感じ。
兄上にも、母にも、縁が薄かった。だけどもしかしたら、生まれた当初くらいは、望まれていたのかもしれない……。
「……ん。ごめんなさい、寝てました。おはようございます」
俺がもそもそしたから、起こしてしまったようだ。サヤが、目元をこすりながら顔を上げる。
「ごめんはこっちの台詞だ。まだ早いから、部屋に戻ってゆっくり休んで。俺はもう、大丈夫だから」
空はまだ東雲色だ。朝も早い時間。もう一時間くらいは、寝てても大丈夫。
しきりに目元をこすっているサヤ。だいぶん疲れている様子だ。
「いいえ。レイシール様は、胃が荒れているご様子ですから、朝食は別に作ります。
賄いではちょっと重たいんだと思います。あの食事、重労働仕様ですから」
そう言いながらサヤが、ふらりと立ち上がる。ヨタヨタと、なんだか足元がおぼつかない。そのままガツンと足を椅子にぶつけてしまった。
よろけたサヤを、とっさに引っ張って寝台の上に引き倒す。机の方に突っ込みそうだったのだ。
「危ない。俺の食事は良いから、まずは休むんだ。
そんな様子じゃ、俺の体調不良をとやかく言えないぞ」
俺の膝の上に倒れているサヤにそう言い、頭にぽんと手を置いた。そのまま括られていない髪を、さらりと梳く。
夢の中の母は、サヤと変わらないくらいだった。あり得ないことだが、もしあの夢が俺の記憶の一部であるなら、あれは俺が生まれて間もない頃となる。……こんな幼さで、母は、俺を、産んだ。
「お願いだ。無理をしないでほしい。
サヤのお陰で、俺はもうだいぶんマシだから、そんなに無理しなくて良い。
食事が重いと言うなら、汁物と麵麭だけにしておくし、食べる量も減らす。わざわざ作らなくて良いから、その分寝て」
子供が、子供を産んだのだ。
それは、どんな重圧だったろう。それなのに、囲われているとはいえ、父上の庇護下を離れ、俺を守り育てなければならない。たった一人で。
それが、どれ程に母を苦しめたことだろう。
笑っていられるわけがない……。恨まずに、過ごすなんで無理だ。母はきっと苦しんだ。苦しくてどうしようもなくて、俺を恨めしく思うようになったんだ。あの日、あの方法を、選ぶまで、追い詰められて……。
「…………レイ? どないしたん?」
膝の上のサヤが、俺を見上げてそう問うてきた。
今までフラフラだったのに、大きく目を見開いて。
そのサヤの手を見る。夢の、母の手を重ねた。俺を抱いたのは、こんな風に、細く、小さな手だったはずだ。
「……うん。ちょっと、変な夢を見てね……思うところがあって……」
やめようと思った。
母を恨むのは、もうやめよう。
事実はなんだって良い。もう、疎まれていたとしても、構わないとすら思った。
母は苦しんだ。そしてもう死んだんだ。これ以上あの人は、何も得ることができないのだ。
「そんなに、悪い夢じゃなかった。
だから別に、苦しいわけじゃないんだ……」
夢の中で優しかった母と兄上。まるで普通の家族のようだった。
そんな時間があったかもしれないと、そんな風に思うのも、悪くない気がした。
そう思ったら、勝手に一雫だけ、涙が溢れたのだ。
十年、会わないうちに、母は儚くなった。
父上は? もう十二年、お会いしていない。病に伏され、快復されるかも定かではない。
このまま、ずっと会えないままなのだろうか……。それで、俺は、本当に、納得出来る?
…………だけど、考えたって、仕方のないことだ。
俺がどう思おうと、誓約は絶対なのだから。
一瞬の葛藤を、頭から振り切った。そんなことより、サヤだ。
「……サヤ、休んでおいで。夜番を随分続けているのに、更に徹夜までしてたら、体調を崩すのはサヤだよ」
俺がうなされる度にサヤも起きるのだ。サヤだって、俺と同じく寝不足だ。
そう言った俺に、サヤは何故か、傷付いたような顔をした。
「……話して、くれへんの?」
話す? 俺の、夢の話を?
あれはちょっと、口にするには恥ずかしいな……。そう思ったら、つい苦笑が溢れた。
「大したことじゃないよ」
「……なぁ、レイ。
前、レイにカナくんとは似てへんって言うたけど、最近、たまに似てるって思うようになったわ」
唐突に、怒りを孕んだ声音でそんな風に言われ、戸惑う。
俺の膝の上から身を離したサヤが、握った拳を震わせながら、俺を睨みつけてくる。
「そういうところや!
私には、教えてくれへん。適当にはぐらかして、本心は隠す。
本当は笑ってもいいひんのに、適当な笑顔であしらわんといて! 迷惑なら迷惑って、言うたらええやんか⁉︎」
急に声を荒げて怒り出したサヤに戸惑う。
迷惑なんて思ってない。本心を隠していたつもりもなかった。だから戸惑うしかない。声を荒げたサヤも、俺の困惑を見て取ったのか、急に勢いが萎んだ。そして、居た堪れない沈黙が続く。
「……なんでやろ。私があかんのんやねきっと。
私に原因があるし、同じ様に、なっていくってことやろね……」
そう言ってから、身を起こした。
立ち上がって、小声で「寝て来ます」とだけ言って、寝室から逃げるようにして出て行ってしまう。
それで改めて気付いた。サヤとの、距離の取り方が、分からなくなって来ているのかもしれないと。
サヤの表情が読み辛くなって、なんとなく顔を合わせる機会が減っていた。
夜番で毎日顔を合わせるとはいえ、部屋も分けたから、言葉を交わすことも少なくなった。
サヤが何かを隠すから、俺もつい、身構えてしまっている。……いや、言い訳だな。サヤが隠すからじゃない。サヤがそうするようになった原因は、きっと俺なのだから。
「…………はぁ」
溜息を吐いて、寝台に倒れ込んだ。
朝から、サヤと険悪になってしまった。なんかもう、こじれてよじれて、よく分からない。このままどんどん、サヤと距離が開いていくのだろうか。そしてマルが言っていたみたいに、サヤがいつの間にか、俺の前から姿を消す様なことに、なるのだろうか……。
突っ伏したまま、顔を枕に埋めた。
サヤに、カナくんに似てると言われ、こんなに傷付くとは思わなかった……。
俺、どうすれば良かったんだろう……? 夢の話をすれば、サヤは納得したのかな……。
でもきっと、そんな簡単な話じゃない。夢の話はたまたまで、切っ掛けであっただけなんだろう。
枕を握りしめて、溜息を噛み殺す。それすらサヤに聞こえるのだろうから。
そんな時、手に触れた違和感。
枕をどかしてみた。すると、見覚えのあるものが、何故かそこにある。
赤に、白の筋が入った丸紐。それが複雑な形に結わえられている。
こんな不思議な結びをするのはサヤ以外いない。けどそれが、何故ここにあるのかが分からない。
枕を戻した。結ばれた丸紐は気付かなかったことにする。
だって、きっとこれも、俺の為。聞くまでもなく、それ以外に思い浮かばないのだ。
本当は、サヤにこれは何かを、聞きたいと思っていた。
だけど当面、出来そうにない。




