神
距離の単位
米…メートル
家具の運び込みは済み、洗濯も終わった。
夕食の準備を始めるまで数時間ほど猶予がある。
そこで俺たちは、もう一度俺の部屋に集まって、これからの方針と、明日以降のことを話し合うことにした。
だがその前に、サヤの特殊な部分を隠す話かな……。
「まず、サヤの事なんだけどね。
サヤが異世界から来たことは伏せたほうが良いって話をしたでしょう?
それと一緒に、サヤに特別な知識が沢山あること、とても力持ちなこと、耳が良いことも、隠しておいた方が良いのじゃないかって、さっきハインと話したんだ」
先ほどと同じ、執務机の椅子に座って、俺はサヤにそう切り出した。
この世界では、病気は悪魔の呪いとか、病魔によってもたらされると言われている。
行いが悪い者は悪魔の呪いに打ち勝てない。生前の行いにも左右されるという。
これは、神殿が神の教えとして伝えていることなので、サヤの知識はそれを否定するものになってしまうのだ。
「サヤの国は、神を信奉している?」
「えっと……私の国には神と仏がいます。人を導く存在としては同じだと思うんですけど、区別されてますね。
とはいえ、信仰は自由とされていますので、私は特に、神様や仏様を特別視していません。精神的な支えになる方なのだと認識はしていますけど」
「おぅ、信仰してないのか、確認しといて良かったな……。
ざっくり説明すると、この国はアミを信仰している。アミは形の無いものを定める神。人の運命とかが、主に言われる。
まあ俺も特別信心深いってわけじゃないから、ざっくりと話すけど……神は常に魔の誘惑から我々を守ってくださっている。けれど我々の心が脆いので、全てを救いきれない。よって人は堕落することがある……とまあ、そんな感じ。
サヤは異国人とする予定だから、アミを信仰してなくても良いと思うけど、神全般を信じてないとかは言わない方が良い」
「じゃあどうしましょう……何を信仰しているって言えば良いですか?」
「正直なんでも良いよ。この国はアミを信仰していて、貴族はアミの民と定められているけれど、民は別に縛られてない。政治と宗教は切り離されているし、アミ以外を信仰する人だって、国内には沢山いる。
このアミも、八百万に分かれた神のうちのひとつ。神はもともと一柱だったけれど、数多に分かれていて、我々が名を知らぬ方もまだ多くいらっしゃるとされる。
つまり、どの神を崇めているかより、どの神も信じていないということが問題視されるんだよ。
神を信奉していないというのは、逆に言えば神の庇護下にいないということだ。悪魔が簡単に手を出してくるってことで、忌避される」
「そのような者に関われば己にも災厄が降りかかるということです。
例えば、孤児はお布施を納めたりしませんし、神の教えに背く行為が多い。なので無神の民となります。
神の教えに背く行為をし、神を崇めないゆえに、病気や不幸から身を守れないと言われます」
それを聞いたサヤはしばし逡巡する。そして、信仰を証明するものを持っていたりするのですか? と、聞いた。
「貴族は成人したら髪を奉納するから、それで充分とされてる。
身体の一部を捧げて、神の民であると証明するんだ。
民は水晶の護符を持ってたりするけど、信仰の証明ではなく悪魔から身を守るためだな……」
「では、例えば私がアミの民であると言ったとして、それを疑われたりはしないということでしょうか? 正直、どんな神様がいらっしゃるか、どんな教えなのかも良く分からないですし……問題無いなら、レイシール様と一緒で構わないと思うのですが」
「なら、今のところアミってことにしておこう。無神の民でなければ問題無いから」
「はい」
じゃあ神様の問題は解決、と。
「とりあえずさ、神は我々を守ってくださっている。けれど、人は脆いので弱い部分を悪魔に付け入られる。それで病気になったり、怪我を悪化させたり、不幸に見舞われたりする。そう覚えておけば良い。
サヤがさっき話してくれた菌の話なんかは、神を信奉していなくても、行いが悪くても関係無いって言ってるようなものだ。それは、神に仕えてる人たちにとって問題発言なんだよ。
そんな感じで、サヤにとって当たり前なことが、ここではそうでない可能性が高い。
何気なく言ったことで捕まったり、異端者だと言われたくないだろう? だからできる限り、サヤの知識は口外しない方が良いと思ったんだ」
俺の説明に、サヤはこくりと頷き理解を示す。
飲み込みが早くて助かる。ハインみたいに頑なに神は信じないと言い切ったりしなくて良かった……。
ハインは無神の民を九年貫いてて、これからもきっとそうだろう。
「だから、何か気になることがあったりしたら、俺かハインに相談すること。
サヤにはどうしても納得できない理不尽なことなんかもあると思うけど、まずは確認。良いね?」
「はい」
「同じように、力が極端に強いとか、耳が極端に良いとかも、悪魔と取引してると言われかねないから伏せる。
適当な言い訳が思いつくまではそれで通すよ。
とはいえ……この中ではサヤが一番強いから、万が一危機に遭遇した場合はサヤを頼る。
その時はごめんね」
「あの……本当に、私が一番強いんでしょうか?」
「うん。そう思うよ。ハインをあんな簡単に凌いじゃったから」
ハインはそこそこ強い。一対一なら本職の騎士とやり合える。
俺だって学舎で剣術の基礎は身につけているし、剣を振れないにしても、身のさばき方は心得ている。サヤの強さをある程度読むくらいはできた。
今、俺の周りで一番強いのは、メバックにいるギルだけど……うん。メバックに行ったら、一度サヤと手合わせしてもらった方が良いかもな。サヤも、自分の実力を知った方が良い。
「そうそう。それでね、サヤが女性であることも、伏せた方が良いんじゃないかって話をしたんだよ。
兄上のこともあるし、男装で通す方が良いんじゃないかって。
女性だと、出先で別室になったり、一人離れた場所に寝泊まりすることになったり、別行動を余儀なくされることが多い。色々厄介なんだ。
その……サヤとしては、嫌かもしれないんだけど……できるだけ、手の届く範囲にいてほしいと思うんだ。
あ、無論ちゃんと配慮はする。出来る限りサヤの意向に沿うようにするから……どうだろう?」
一応穏便な内容で説得を試みる。男と一緒に生活してるから妾と勘違いされるかもしれない……なんて、口が裂けても言えない……。
サヤは、暫く考えてから「分かりました」と、返事をした。
「……良いってこと?」
「はい。お二人が私のことを凄く考えて下さってるのは分かってるので、お二人がそう言うなら、その方が良いのだと思います。
それに……女性を見る目で見られるよりは、同性と思ってもらえる方が、私も気が楽だと思います」
なんか複雑なことを言うな……。女性を見る目? 俺はサヤを女の子だと思ってるけど、それとは違うんだろうか……?
良く分からなかったけれど、サヤが良いと言うんだから、まあ良いかと思い直す。
「ありがとう。あと何かあったかな……あ、あとね、サヤとはメバックで出会ったことにしようと思ってるんだ。
泉から出てきましたって言えないし、口裏を合わせておかなきゃ、いざという時困る。
サヤは説明できないくらい遠くから旅をしてきた異国人で、メバックで知り合ったってことでどうかな。だから、俺たちが出会ったのは、明日ということになる」
これは聞かれる可能性が高いからきっちり決めとく方が良い。
俺は明日、メバックに視察に行く。今年の川の水位が気になるから、情報収集に行くという名目だ。これは、領主代行になって二年とも行なっていることだから怪しくない。
もとから立ち寄る予定の商業広場でサヤと会ったことにしようと思っている。
あそこは旅人も多い場所だ。そして俺が情報収集をする相手……マルも商業会館に勤めているから、俺があの広場に行くのも自然だ。
「そんな感じでどうかな、ハイン」
「違和感は無いと思います……サヤが我々に道を聞いてきたことにするか……いや、レイシール様が旅装の子供が一人で歩いているのを懸念して声を掛けたとしますか。その方が自然でしょうから」
丁度冷めたお茶を入れ替えていたハインが、しばし考えサヤを睨み付け……もとい、注視する。「十四歳……十三歳……くらいに見えてもおかしくないですね……。男子とするなら、年齢も多少下げた方が無難でしょう……サヤは十四歳ということにしますか」と、付け足す。
名前はそのままで良いだろうとなった。正直、ツルギノサヤという異国風の名前は、男性なのか女性なのか判断しにくい。名前でとやかく言われることはないだろう。
「ツルギノサヤ。十四歳。明日、五の月の二十三日に、俺たちと出会う。
子供が旅装で一人歩きしてたから、俺が迷子と勘違いして声を掛けた。
サヤは……路銀を稼ぐ為に雇い先を探していたことにする?
これから雨季だし」
「そうですね。それで良いと思います」
「あの、雨季……というのは?」
「ああ、ここら辺は、大抵七の月が近付くと、雨続きになるんだよ。長雨で旅がし難くなる。
だからこの時期の旅人は、滞在する地で路銀稼ぎしてたりするんだ」
「へぇ、そうなんですね」
一応これで、サヤと出会う段取りは整ったと思う。
あとは、恙無く明日を迎え、メバックに到着すれば良い。
「そんなわけだから、明日はメバックに行く。
数日滞在することになるよ。その間に、サヤに必要なもの一式を確保する。
それから、風呂の仕切りと家具を注文する」
「あとは、川の水位の情報収集と、食料の買い出しも行います。サヤが増えますから、買い足しが必要です」
よし。これで話し合いは終了だ。あとのことは、思いついた時に説明していこう。
そう決まって、明日のための準備となった。
サヤは紙と木筆を渡され、サヤの書ける字で構わないから、必要と思うものを書き出すようにと言われた。
俺はハインと村の見回りだ。
明日から数日空けることになるので、当分いないことを村人にも伝えておかねばならない。
「陽が沈むまでに戻りますから、そこからは夕食の準備をします。
サヤは必要なものの書き出しが終われば、休憩していて構いません。
私たちが戻りましたら、夕食の準備を手伝ってもらいます」
「はい。ではいってらっしゃいませ」
「うん、行ってくる」
三人揃って俺の部屋を出て、ハインが鍵の束からサヤの部屋の鍵を手渡す。
失くしてしまったら変えはありませんよと前置きするのも忘れない。
サヤは、その鍵を手に握りこんでから、俺たちを玄関まで見送ってくれた。
玄関を出た俺たちは、本館側に進み、途中にある厩で馬を調達。
厩番に村の見回りであると告げ、チラリと様子を見るが、普段と変わった様子はない。極力俺たちと口を利く回数を減らし、視線も合わさない。サヤの事はバレてなさそうだ……。
「ああ、そうだ。
明日はメバックへ視察に行くことにした。
川の水位の話と、アギー領の情報を確認してくる。
早朝発つから、馬車を準備しておいてくれ」
「畏まりました」
厩番に馬車の準備をお願いして、本館に立ち寄る。
留守を任されている使用人を呼び、同じことを伝え、状況次第で支援をお願いする事になる大店たちを集めて会議をするから、その場合はまた連絡をすると伝えておく。異母様や兄上が帰還するまでには必ず帰るようにすると伝えるのも忘れない。
それを済ませてから馬に跨り、坂道を下る。
領主の館は裏山の麓、なだらかな坂を少しだけ登った場所にあるのだ。
氾濫が起こった時も、この館は水に飲み込まれることはない。
麓に降りると、使用人や騎士たちの住居と、少しの店が並ぶ。
店といっても、雑貨店が一つ、鍛冶屋が一つ程度。そして外れに麦を収めるための倉庫が並ぶ。そこを過ぎると川があり、木造の橋を渡ると畑が連なる地帯となり、畑の間に農家がぽつぽつと点在するようになる。
この畑側の土地は、使用人たちの住む地域よりまた少し、低くなっている。だから水害は、もっぱらこちら側に被害を出すのだ。
今の時期は、一帯が小麦色。
間も無く収穫を迎える麦が、風に揺られてザザと音を立てる。
その間を農民たちが歩き回ったり、雑草を抜いたり、水路の掃除をしていたり、子供が駆け回っていたり……この時期はもっぱら、鳥を見かけては追い払ういたちごっこが繰り広げられている。収穫前の麦を啄みにやってくるのだ。だから、陽が昇るとすぐに農民たちは畑に向かう。
馬で歩く俺たちに、村人は気楽に声を掛けてくれ、挨拶をしてくれる。
俺もそれに答えつつ、数日村を空ける。川の状態を聞いてくるからと告げていく。
今は異母様たちもいないから、農民達の反応はゆるいものだ。
女性の心配より麦の心配が先に立ち、今年はもう水位が高いんじゃないかと聞いてくる村人すらいる。それには確かなことを確認してくるから、気だけ急いても仕方がないよと言っておく。
収穫は間もなくだ。流石に十日かそこらで氾濫したりはすまい。
「もし危険と思えば、飛んで帰ってきて収穫を早めるから」
それを聞くと、農民は少しだけホッとした顔をする。
収穫前に氾濫した例は少ないが、無いわけではない。老人の中には幼い頃にその経験がある者もいるのだ。
もしそうなってしまえば、税は納められず、収入も畑も家も無くす事態になる。それが一番最悪だ。
俺も水位は高い気がしているけれど、不安を煽っても良くない。
万が一の場合は、麦を捨てても良いから、命を優先するようにと伝えていく。
命を繋ぐための糧を守って、命を捨てたのでは意味がない。
俺はそう考える。
麦を育てている地方はここだけではない。畑は整備すればまた麦を育てられるが、来世に旅立った命は還らないのだ。
まあ……なにかしらの責任は取ることになるとは思うけれど、それは貴族の俺が担う部分だ。農民たちは関係ない。
「麦の状態は良いようですね……。今年も氾濫がなければ良いのですが……」
俺の横を馬で行くハインがポツリと呟く。
俺はそれに同意しつつ、小麦畑の広がる大地を見渡した。
この風景が好きだ。
見渡す限り黄金の海。なんて素晴らしい景色だろうと思う。
俺は子供の頃、よくあの間に隠れていた。
兄上の拳から逃れるために。
屋敷にいると息が詰まりそうだった。
庶民から貴族となって間もなかった俺は、貴族としての良識が無く、やってはいけない事が分からなかったから、何かする度に失敗し、叱責が飛び、躾と言う名の暴言や暴力を浴びる日々だった。
兄上や異母様はいつも冷たい目をしていて、使用人たちの中にも、俺を良く思っていない者は多かった。父上と母は領地管理に忙しく、月に数度も会わない。
だから俺はよく屋敷を抜け出しては、ここに来ていたのだ。
背の高い麦の間に潜ってしまえば、小さな子供の俺は目につかない。追いかけて来た兄上も途中で諦めてしまう。
そして隠れる俺を、農民たちはそっとしておいてくれた。
邪魔だろうに、何も言わず、受け入れてくれたのだ……。
遊んでくれた子ども、ふかした芋を分けてくれた農夫、擦り傷を洗ってくれた婦人もいた。
俺がどこの誰かを知っていて、それでもそっと、優しくしてくれた。
だから俺は、彼らが好きだった。
彼らの中の一人になりたかった。
「もう少し勉強できてればなぁ……。
あと二年王都にいれたなら、もっと役に立つ事ができてたのかな……」
「そうですね……。でも、成人すれば、好きな場所に行けます。また学ぶこともできるのでは?」
「そう……だな」
……だと良いな。
成人するまでは、俺は父上の庇護下にいなければならない。母がもういないから。俺の庇護者は父上だけになってしまったから。
サヤが自分の居場所に帰れたなら、もう一度王都に行くのも良いかもな。けど、ハインは嫌かもしれない……あそこがそんなに良い思い出の場所ではないと思うから。
それならば、もっと南の、暖かい地に行ってみるのも良いか。
航海術とか、船に乗る方法を学ぶことができたら、異国にも行けるかもしれない。なら、隣国のジェンティーローニに赴くのもありかな。
とはいえ、俺はきっと父上の元で助手を続けるだろうから、ここに居続けることになる。貴族ではなく、一領民として。
「そろそろ戻るか。サヤが心配になってきた」
「そうですね」
村を一回りして、異常がないことを確認してから、並足で歩かせていた馬を急かし、館に戻ることにしたのだが、その途中でカミルを見つけ手綱を引いた。
先日脚を怪我した農民の子なのだ。具合が気になった。
「カミル、怪我の具合はどうだ? 膿んだりしてないか?」
「あ、レイ様。大丈夫、血は止まった」
まだ多少脚を引きずっているように見えるが、包帯には血が滲んだりはしていないようだ。だが、泥汚れが気になってしまった。きっともう働いている……。だから包帯が汚れているのだろう。
「カミル……包帯は毎日変えているか?」
「ええ?……二日にいっぺんは変えてるって」
「駄目だ。毎日変えなさい。膿んでしまったらもっと治りが遅くなる。余計ユミル姉さんを心配させることになるんだぞ」
「ええぇ……そりゃそうだけど……」
「もし、家計的に厳しいと思うなら、余計しっかり治せ。
……それから」
ちらりとハインを見てから、やっぱり口にすることにする。
「包帯を、泥で汚さないようにしなさい。
その方が治りが早まるって、学舎で習ったんだ」
「えっマジで?」
「泥で汚してると神の加護が退くのかもな」
「そっかぁ! じゃあ気をつける。ありがとレイ様!」
「ほんと、気をつけるんだぞ。それが一番ユミル姉さんのためなんだからな」
「分かってるって」
馬を再び進め出すと、ハインのこれ見よがしな溜息が視界に入った。
分かってるさ。でも……。
「カミルの所は家計が苦しい……。怪我を悪化させたくなかったんだ」
「そうですね。……まぁ知ってしまうと、黙っていられないとは、思っていましたよ」
ハインの言葉に苦笑するしかない。
そうだな……知ってしまうと、それはもう無かったことになんて出来ない。
怪我が悪化するかもしれないのを分かって、黙っておけるはずがなかった。
「まあ、良いんじゃないですか。
サヤから得た知識だと分からなければ問題無い。経験則からこうした方が良いなんてことは、いくらでもあります。
呪いや、言い伝えとして、誤魔化しながら少しずつ、知識を浸透させていくという手段もあります」
しらっとそう言ったハインに、俺はまた苦笑する。これは、ハインも知らなかったことにはしないと言ったのだ。そしてこっそり糧にして行けば良いと、強かに言ってのけた。当然、サヤに習った料理や調味料も無かったことにはしないつもりでいるだろう。食べさせる相手は選ぶんだろうが……。
厩に馬を返してから別館に戻ると、サヤは玄関広間で待機していた。
「おかえりなさいませ」と迎えてくれる。
まさかずっと玄関で待ってたんじゃないよね? と、確認すると「部屋の窓を開けておいたので、お二人が帰って来たのは聞こえましたよ」とサヤが言う。
おおぅ……因みにどの辺まで聞こえるんだろう……。
「窓を開けておいて、耳を澄ませば馬の嘶きとかも聞こえますよ。たまに人の声っぽいのもありますけど、さすがに何を言ってるかまでは分かりません」
条件が良ければ、距離にして三十米は分かるってことか……やはり凄いな、サヤの耳。
「さあ、それでは夕飯の準備を致しましょう。
夕食は、こちらの料理にしますよ。サヤはまだここの料理を食べていません。
これからは、こちらの味にも慣れてもらわなければなりませんから」
ハインがそう言い、サヤを調理場に促す。
俺はそれを見送ってから自室に戻り、部屋の片付けをすることにした。
明日から数日空けるのだから、机の上に出しているものをしまったり、持ち出していた資料を執務室に返したりして過ごす。
日も暮れてしばらくした頃、夕飯ができたとサヤが呼びに来たので、二人で食堂に向かった。
ハインが配膳を行なっていて、席に着いてすぐに食事となる。
今日の夕食は野菜の汁物に、焼いた肉と麵麭。正しくいつもの味というやつだ。
サヤに、ハインの横で仕事するのは大変じゃない? と、質問しつつ、食事を進める。
なにせ時間配分の鬼だからな、こいつは。
「今の所、大丈夫ですかね?」
小首を傾げてサヤが言う。まだハインに怒られるに至っていないのか、ほんわかした反応だ。怒られてたらこんなじゃないよな……きっと泣く。怖いし。サヤは女の子だし。
「サヤはレイシール様と違って、包丁さばきの基礎ができています。
ですから、思ったより時間を使わず仕事をこなしますよ。たまに力加減に難がありますが、それも少しずつ改善されるでしょう」
調理道具を曲げてしまったりしたらしいが、それも逆に折り返して戻したらしい。
あと、鉄串を器用に使い、湯の中のものを取り出す技術が凄いと言い出した。
聞くと、サヤの国では二本の棒で食事をするのだという。
調理中、鉄串を二本持って、器用に肉をひっくり返したりしたそうだ。
「大抵のことを棒二本でこなしてしまうのですから凄いと思います。
あと、調理器具をいちいち持ち直さなくても良いのが効率良いですね」
……あれは、その二本の棒を用意する気だな……ハインめ、サヤの特殊な部分を隠したほうが良いと言ったのに……忘れてないか?
俺がじっとり見ていると、ハインは平気な顔をして「調理場に二本の棒が置いてあったとして、その用途が分かる者がいるとでも?」と、平気な顔をして言った。