本心
母もああだった。
初めは少し、無理して笑っているなって、それだけだったんだ。
だけど、日を追うごとに、どんどん、どんどん、壊れていった。
笑顔が、笑顔じゃなくなっていった。
そうだ、それで、何かの手紙を受け取って、それが崩壊の切っ掛けだった。
ズキリと、頭の芯が痛む。
母の記憶は、針と一緒だ。思い出すことに、痛みを伴う。苦しさや悲しみが針になって突き刺さる。
それでも、三歳までは、ただ優しく、時に厳しい母だった。けれどその崩壊から、変わってしまった。
手紙が来た日、母は一日を、その手紙を見て過ごした。
思えば、その時からもう、何かがおかしかったのだと思う。
翌朝、まだ随分と早い時間に起こされて、着替えさせられて、そのまま朝食も取らずに、俺の手を引き、家を出て、そして……あの、記憶に、繋がっていく……。
「レイシール様、少し休まれては如何ですか」
ハインに声を掛けられ、はっと顔を上げると、心配そうに俺を見る、クリスタ様の視線とかち合った。
しまった。つい思考に没頭してしまっていたか。
「大丈夫だ。……申し訳ありません、集中します」
「本当に、休んだらどうだ?
眠れていないのではないか? 顔色が、随分と悪い……」
「あぁ、この時期はいつものことなのですよ。お気になさらず。
今年で、この不眠の日々ともお別れになるかもしれないのです。少しくらい無茶もしますよ」
顔を笑みの形に整えて、そんな風に言うと、クリスタ様もしようのない奴だなと苦笑を返す。
あれから三日……サヤはやはり、作り物の笑顔をちらつかせる。
ハインや、ルーシーと接している時は、まだ普段のサヤであるように見えるのに、俺には表情を偽ることが増えた。自ずと、サヤと接する機会が減り、クリスタ様との時間が増える。
サヤは、ルオード様との約束を守り、クリスタ様には極力、近寄らない様にしている様子だったから、なおのこと、サヤとの時間は削られていった。
気を取り直し、話し合いを再開する。
交易路計画は、クリスタ様の名も副責任者として連ねると決まった。アギーが先頭に立つのではなく、あくまで俺が主体で行う事業となる。俺の実績作りだと、クリスタ様は言った。
「この計画に僕は名を貸すだけだ。
動かすのはマルなのだろう? なら、セイバーンが君のやることに口出し出来ぬ様、せいぜい権力をチラつかせてやる。そうだな……この土嚢、軍事面でも有用なのだから、他領から研修ということで、軍部の者を募るのはどうだ。なに、数人の派遣で構わん。数日滞在させ、資料を渡して帰す程度で良いのだ。他領との繋がりをつくる意思があると示しておけば、君のその技術を欲しがる者は自ら足を運ぶだろう」
「それは良いですねぇ。正直、あまり口出しもされたくないので、それくらいの接点が望ましいです。
まあ、大半の方々は齧っておきたい程度の興味でしょうし、もっと切実に土嚢の利用を考える方々なら、資料を見た後連絡をよこすでしょうからねぇ」
マルも賛成か。なら、その様に進めよう。そんな風に、話がまとまっていくわけだが……。
こういった話をする時、クリスタ様ってこんなに生き生きとされるんだな……。
たまに毒舌を挟みつつ、マルと頭をつき合わせて計画を研磨するクリスタ様は、凄く格好良い。元々、人を使うことに長けた方だ。この方の下にいると、言われたことを為さねばならない気持ちになる。
学舎に居た頃は、体調を崩すことが多く、講義に参加することすら、ままならなかった。だから、こんな風に采配を振るう姿に、あまりお目にかかる機会が無かったわけだが、ここに来てからのクリスタ様は、あの頃に比べて、随分と健やかに見えた。
お身体のことがなかったら、この方はきっと、もっと、活躍される方だったのだろう……。
「……なんだ? 何か顔についているのか?」
「っ、も、申し訳ありませんっ。ついその……見とれていたといいますか……」
学舎に居た頃のクリスタ様は、いつも何か、心の中に苛立ちを抱えておられた様に思う。
今もそれは、少なからず彼の中に見え隠れするのだけれど、それでも今のクリスタ様は、とても、いきいきして見える。それについ、見とれてしまっていたのだ。
俺の言葉に面食らってしまった様に、クリスタ様が瞠目した。そして、カッと顔に朱が指して、そのまま睨みつけられる。この人は照れると怒るのだ。
「君はギルバートに、とんだ悪影響を受けているのではないか? まるで女誑しの様な発言だな!」
「ええっ⁉︎ クリスタ様に言ったのに、女たらしの発言になるのですか⁉︎」
「では言い換える。人たらしだ。そういえばそうだった。君は前から人たらしだな。いつも通りか」
仕返しをされてしまった。少しまだ頬を赤らめたまま、意地悪そうな瞳が俺を見て笑う。
今度は俺が紅潮する番だ。しかもそれに、油を注ぐものがいるのだからたちが悪い。
「あはは、そうですよねぇ。土嚢壁を作る時も、人足たちから絶大な人気を誇ってましたよぅ。レイ様が見回りに来ると、それはもう、みんな張り切ってましたから」
「……まさか、現場にも赴いていたのか?」
「そりゃ、赴きますよ。責任者なんですから。
けど、人気だったとかじゃなく、皆が良い者たちだっただけです。……後半、顔を出せなくて、正直申し訳なかったんですよね……。それでも皆、頑張ってくれました。有難いことです」
見回りすら出来ない不甲斐ない俺のかわりに、皆が頑張ってくれた。だから、今こうして、安心して川の様子を見ていられる。
先日雨が強い時に、川の水が一度、本来の護岸を越えた。いつもなら、村人を避難させる様な事態だったのだが、土嚢壁はビクともせず、今はまた、川は水位を戻していた。
あの事態を乗り越えたときの、気持ちの高揚は忘れられない。これはいける。そう、確信出来た瞬間だった。この時ばかりはサヤも、本当の笑顔で笑い、おめでとうございますと、言ってくれたのだ。
「まあ、見とれていたというのは、クリスタ様が、思いの外お元気そうで、ホッとしたということです。
こんな片田舎にお身体の不調をおしてお越しになるだなんて、正直、大丈夫なのかと、本気で心配していたんですよ」
サヤのことを頭から追い払う為に、あえて明るく、そう口にした。
するとクリスタ様が、ふと、真面目な顔に戻る。
「そういえば、そうだ。
私も、もう少し……大変なものだと思っていた。だが、ここは何か、居心地が良い」
「そうですわね。いつもならば、遠征の時は幾日か、寝込むのが常なのですが……随分と、体調が宜しい様に思えます」
クリスタ様のお茶を入れ替えていたリーカ様が、そう言って、ふんわりと微笑んだ。
そうか……。ならばこれは、きっとサヤの、采配のお陰なんだな……。
「……それは、良かった。
サヤが、とても気を配ってくれたのです……。クリスタ様の体調に沿う様、一生懸命動いてくれたのですよ……」
つい、声が沈んでしまった。
サヤに触れたい。唐突に、そんな気持ちが込み上げて来たのだ。
仮面の笑顔で、心を閉ざす様になっても、サヤは今まで通り、優しい、慈悲深いサヤのままだ。
悪夢から俺を助け出してくれるし、日常業務も手伝ってくれる。サヤの態度は何も変わらない。
けれど……辛かった。サヤの気持ちが、見えないことが。
サヤの心が見えないから、自然とサヤに触れることも躊躇われてしまい、俺はサヤから、距離を置かれたままだ……。
傍に居るのに、遠い……。これからずっと、このままなのだろうか……。
「サヤとは、あの黒い従者だな。僕とはとんと接点が無いので分からぬが、気を配ったとは、どういうことだ?」
眉間に小さくしわを寄せて、クリスタ様が訝しげに俺を見た。
あれ? ルオード様から、伺ってないのだろうか……。
「? ルオード様から報告はございませんでしたか?
クリスタ様の病の知識が、サヤにはあったのです。それで……クリスタ様が健やかに過ごせる様に、内装に気を配ってくれたのですよ」
戦慄が走る。
「……病……だと? 病とは……この呪いのことか⁉︎」
「の、呪い……まあ、呪い、ですよね。うん……ええ、クリスタ様の、日の光が毒となる体質のことです。これは、サヤの国では病と知られていた様なのです……本当に、報告を受けて、いらっしゃらないのですか?」
驚いた。ルオード様のことだから、事細かに、クリスタ様に報告が入っているものと思っていたのだ。
とくに、クリスタ様の病については、かなり厳しい対応だっただけに。
それまでと打って変わって、クリスタ様から鋭い命が飛ぶ。急ぎルオードを呼べと、言われ、従者の一人が外に走った。
俺は、マルと顔を見合わせて、何が何だかわからず、状況を見守るしかない。
「なんでだ? てっきり知らせが入っているものと……」
「……うーん、なんでしょうねぇ……まあ、思惑があってのことでしょうけど」
そう言ったマルが、俺をちらりと見て、何か考える風な素振りを見せてから。
「レイ様、サヤくんも呼んだ方が良いと思います」
「え……」
「何があったか知りませんけれど、気不味くっても呼んでください」
念を押されてしまった……仕方がないので、ハインにサヤを呼んで来るように伝えると、一礼して席を外した。
サヤはすぐにやって来た。ハインとともに部屋に入り、一礼して俺の背後に立つ。
俺の方を、サヤは見なかった。そのことに、少なからず傷付いてしまう。
「その方、僕のこの体質について、よく知っておるそうだな。
先程、レイシールより報告を受けた。その方が知る、僕の病……それについて教えてくれるか」
クリスタ様がそう言うと、サヤが少し、動くのが気配で分かった。きっと、小首を傾げたのだと思う。サヤはよく、その様にするから。
「……直接、口を開くことを、お許しいただけるのでしょうか……」
「良い。話せ。知ること全てを」
「……はい。クリスタ様の病は、私の国で『先天性白皮症』と呼ばれるものだと推測しております。
生まれつき、肌が白く、場合によって、瞳が赤、薄紫、薄青、灰色など、色に差が出るものの、総じて陽の光を毒とし、浴びすぎることが害になる……と、認識しております。
また、瞳も光に弱く、私たちが一般的に生活している光量だと、眩しく感じてしまう方が多いです」
スラスラと、サヤが静かに答えていく。まるで、何度も繰り返し練習したかの様に、柔らかく続くサヤの言葉は流れを止めなかった。
「この部屋を、其方が心地よく過ごせる様に手配してくれたと聞いた。
確かに、心地良いように思う。どういったことを、配慮したのだ?」
「はい。まず、帳を二重にし、光量を調節できる様に致しました。材質を絹とし、クリスタ様にとって毒となるものが、部屋に入る量をある程度、遮断しております。
それから、家具を窓辺に配置するのを控えました。部屋の明るさも、本来より暗めにしてあります。
快適だと感じてらっしゃるのは……たぶん、その光量の調整だと思います。
眩しすぎると、目が疲れますし、目が疲れますと、体力を削られますから、クリスタ様は日常的に、目を酷使しすぎていらっしゃるのではないでしょうか」
「…………驚いた。其方、本当に、この病を知っておるのだな……。そうか……これは、病……病なのか……」
使用人の方々も、何か浮き足立っている。
長年、クリスタ様を煩わせていたものの正体が知れたのだ。平常心でいろという方が難しいだろう。
だが、サヤはそんな方々を前に、硬い表情を崩さない。
「……はい。あと、一つ……申し上げにくいことも、お伝えしなければなりません」
ピシリと、空気が張り詰めた様に感じた。クリスタ様は、サヤに視線を戻し、鋭く見つめながら「申せ」と、命ずる。
「この病は、治せません」
空気が、凍り付いた。
「この病は、身体の構造に、問題が生じるものです。ですから、取り除くことが出来ません」
「……ふ……なんと……病ならばと希望を持ちかけたのに、叩き落とされた心地だ」
「申し訳ありません。ですが、知らないままでおくことは、クリスタ様の行動を、縛ってしまうと思いました」
クリスタ様が、サヤを鋭く睨む。俺は、とっさに立ち上がって、サヤを背に庇った。
「も、申し訳ありません! で、ですが……サヤの言うことも、一理、あると思うのです。
病のことを知れば、気を付けるべきことが分かれば、クリスタ様はもっと、足を踏み出せる様になる。手探りで進まずとも、良くなるのです。
サヤは、クリスタ様にとって毒となるものは、陽の光全てではなく、その一部だと俺に言いました。それは、絹である程度、遮ることが出来るそうです。だから、帳を絹にした。
色を黒くしたのも、光を吸収し、クリスタ様に届く光量を調整出来る様にと配慮したからです。
この者は、クリスタ様に仇をなすつもりで、ああ言ったのではありません、サヤは、ただ優しいのです。その方が貴方の為になると思ったからこそ、口にしたのです!」
「……治らぬ病と聞いて、どう前向きになれば良いのだ? そのどこに、希望を持てば良い。
僕の願いは絶たれた。どれだけ努力しても、僕は健康になれない……呪いに抗えない……。……僕は……あとどれくらい、生きられるんだ?」
沈んで、掠れた声。俺越しに、サヤを睨みつけるクリスタ様の瞳が、憎悪にも似た炎を宿している。リーカ様や、他の使用人の方々も、サヤに鋭い視線を送っていた。
陽の光の毒を拒む術を持たず、治るわけでもない病を抱えて、一生を生きることになると、知らされたのだ。サヤを睨みつけたくなる気持ちも、分かる。けれど、サヤは……きっと、意味があって、そう口にした。ただ傷付ける為に、真実を告げたわけじゃない筈だ!
「……寿命については、分かりません。クリスタ様の場合、症状を聞いた限りは、ただ色を作れないだけのようです。
人より光の毒を、体に溜め込む体質ですから、光を浴び過ぎない様に注意して頂きさえすれば、それ以外は、他の人と変わらぬと聞いています」
クリスタ様が、呆気に取られた様に、口を開いて固まった。
「……他の者と、変わらぬだと?」
「はい。私の国では、病と寿命は関係しない。と、されています。
もし、短命となるのだとしたら、それは陽の光を考慮せず、瞳や身体を酷使するからです。
ですから、お伝えしました。
陽の光を我慢して、普通に見える様に無理をされることが、お身体への毒なのです。
ご自愛下さい。無理をせず、ちゃんと身体を労って下さい。そうすれば、疲れは取れます。
……お身内の方にも、似た症状の方がいらっしゃるのなら……ここで私が用意したもの、注意したことを、取り入れてみて頂ければ……多少は、違うかもしれません」
サヤの言葉に違和感を覚えた。
最後に付け足された一言が、引っかかったのだ。
アギー家で、クリスタ様以外に、クリスタ様の様な病の方がいらっしゃると、聞いたことはない。
とっさに振り返って、サヤを見る。
騎士の様に、凛々しいサヤは、拳を握って、手を震わせていた。
怖いのだ…………。
淡々と話していたけれど、サヤは、怖いのをこらえて、知識を晒していたのだ。
何を怖がっている?前、俺たちに教えてくれたことが、全てじゃないってことなのか?
そう思い、サヤの震える手に、俺の手を伸ばしかけたその時に、扉が叩かれた。
「ルオード。今、そこなサヤから、僕の病について聞いた。
その方、知っておったというのに、何故僕への報告が無かった」
やってきたルオード様に、クリスタ様が鋭くそう問う。
それに対しルオード様は、息を吐いて視線を上げた。
「サヤを見極めるのを優先したからです。その者の素性や思惑が、計りかねましたゆえ」
「それは其方が決めずとも良い。僕が僕の目で判断できる」
「……そうでしょうか……。クリスタ様は、近頃、気持ちが先走ってらっしゃる。
焦りのあまり、見るべきものを見ておらぬことが増えた様に思えますが」
冷めた視線で、長椅子に座るクリスタ様を、ルオード様が見下ろして、そう言った。
何か、お二人の間に隔たりの様なものを感じて、驚いてしまう。
ルオード様が、そんな風に、距離を開けた態度を取るだなんてことが、信じられなかった。
いや、違う……少し前から、違和感は感じていた。
学舎に居た頃のルオード様は、何があっても、ただ優しく、微笑んでいらっしゃる様な方だった。クリスタ様の言い分が間違っていたのだとしても、突き放してしまわれたりしなかった。
いつも寄り添って、優しく諭して、そっと身を引く様な……そんな方だったのだ。
勿論、ルオード様だって怒るときは怒る。喧嘩した仲間を、冷めた目で睥睨して黙らせていたことだってあったけれど、それをクリスタ様にされているのを、見たことはない。
なのに、先日クリスタ様を叱責された時、ルオード様は、違った……。
俺に近衛となれと強要したクリスタ様を、あの行動は論外だと、傷つけるのを厭わず口にされたのだ。
だけど…………サヤの知識に疑念を抱いた時のルオード様は、本気だったよな……?
過剰な程だった。あれは、クリスタ様を心配したから、あんな風に警戒したのだよな?
なんだろう……この違和感は。
「僕が、正しく判断できないと言いたいのか」
「……結果ありきで、見ていらっしゃる様に見受けられます。
普段の貴方ならば、優先順位を間違えたりなさいません。
……いえ、申し訳ありません。もう従者でもありませんのに、出過ぎたことを申しました」
キリキリと張り詰めた雰囲気で言い合いをしていたというのに、ルオード様は、クリスタ様のと会話を打ち切るかの様に、さっさと引き下がる。
今はもう、そんな関係じゃないと、距離を空けた。そのルオード様の態度に、クリスタ様が傷付いた様な顔をされる。
居た堪れなかった。
今の俺と、クリスタ様が、重なって見える。
サヤに距離を置かれた俺。ルオード様に距離を置かれたクリスタ様。
苦しい……それが、手に取るように分かるのだ。
「あ、あの……ルオード様。サヤと俺の見極めは、もう、お済みなのですか?」
場の雰囲気を断ち切りたくて、そう口にする。
するとルオード様が、視線を俺に向けてきた。
背に庇うサヤを、俺越しに見る。
「……そうだね。あらかたは。
其の者は……確かに、悪意や、何かしらの目的があって、行動している風ではない。
あの強さを身につけた理由も、ディートから、報告を受けたよ。
だが、知識の出所が、私にはどうにも、見出せない」
ルオード様の視線が鋭くなった。
咄嗟に手を背後に回し、サヤの腕を掴む。
怖がらなくて良い、絶対に守る。そう、伝えたくて。
だがサヤは、その俺の手を、やんわりと振り解いた。
「……私の知識は…………。
学業で得たものと、家族から得たものが、あります。
クリスタ様の病については、母から。母は……現役を退いてはいましたが、医療に携わる者でしたから」
腕を振り解かれたことと、サヤが家族について口にしたことに、二重の衝撃を受ける。
今まで全くと言って良い程、口にしてこなかったのに、俺にすら、言わなかったことを、今、ここで口にするのか?
「私の父は、大学の教授をしています。
大学は……私の国での、勉学の最終過程……その、指導者です。
両親ともに忙しく、不在であることが多かったので、久しぶりに会えた時は、面白い話、興味を引く様な話を、沢山してくれました。
クリスタ様の病についても、そんな話の一つとして、母から教わりました。
私の国では、二万人に一人くらいの割合で生まれるとされていましたから、一生に一度くらい、出会うかもしれないのよと。
とはいえ、私の知識は、専門的に学んだものではありませんから……あまり、深くはないのですが」
ぽつぽつと、小さな声で、家族について語る。
振り返り、サヤの顔を見ることは、もう出来なかった。
拒絶された……また、拒絶されてしまった……。サヤはもう、俺に、触れてすら、欲しくないのだ……。俺の助けなど、求めていない……俺はもう、サヤには、必要ない……。
そう思うと、俯いてしまった顔を、上げられなかった。
俺は多分、今、酷い顔をしている……。
「……そんな両親が居る国を離れて、其方はなぜ一人、ここに居るのだ?」
クリスタ様が、静かにサヤに問うた。
「逸れてしまいました」
「どうして逸れた」
「………」
サヤは口を閉ざすしかない。異世界から、泉を通ってここに来たなど、口に出来ないから。
「マルクス。其方は、食いついたのだろうな。
見たこともない黒髪。どこにどれほど存在するのか、追求しなかったとは思わん」
「ええ。そうですね。調べましたよ。
けれどまぁ、サヤくん以外にはどれだけ探しても、現れませんでしたね。いまだにずっと、探しているのですけど、ね。
そうなると、今段階ではこの結論しかありません。この大陸に、サヤくん以外に、黒髪は居ないのだと。
居たのだとしても、もう、この世にはいらっしゃらない……と、いうことでしょうね」
あ、因みに。サヤくんのご家族も黒髪だという情報は、サヤくんから頂きましたよ。と、付け足す。
「学問の最高峰で指導者をする父と、医療に携わる母を持つか……其方自身も、学業に携わっていたと。……ふぅん…………ならば、其方がここにいる理由は、妥当なところで亡命か?可能性としては、間者であるとも……」
サヤを値踏みする様なクリスタ様の視線に、つい、カッとなった。
「サヤは、その様な者ではありません!
我々より、余程知識を蓄えた国が、我々の何を探るのですか。国力が違いすぎます!」
「国土を広げたいと思うものだぞ。王という生き物は」
どくんと、心臓が大きく跳ねた。
話が飛躍し過ぎだ! サヤは、そういった者じゃない。ただの、異世界の、少女だ!
そして、サヤを値踏みするクリスタ様を、初めて怖いと思った。
この人は……サヤを、使おうとしている……何か良い使い方はないものかと、利用できないものかと。
「……ふぅん、サヤ。其方、僕の元に来ないか? 其方の様に有能な者を欲する場を、僕は知っている」
ルオード様の視線が鋭くなり、クリスタ様を睨め付けた。そして鋭く、言い放つ。
「サヤは、レイシールの従者、そして印持ちです!」
「印? あれは、従者自らが主人にそれを返却するなら、無効となるではないか」
その言葉に、肌が泡立った。
サヤはもう、俺を必要としていない。なら、俺のもとにいる理由など、無い。
だけどそれよりも、クリスタ様が、俺からサヤを奪おうとする素振りを見せたことに、驚いていた。
印のあるものを引き抜くことは出来ない。身分による強制的な引き抜きを拒絶する手段としての、印であった筈なのに、この方は、それを、障害としない。俺に印を返還する様にと、暗に示唆したのだから。
クリスタ様……こんな、方……だったか?
が。
「お断りします。レイシール様の従者を辞す気持ちはありません。
私はここに居る限り、レイシール様の従者。そしてそれが終わるのは、ここを去る時だけです」
サヤがすっぱりと、何の躊躇もなくそう口を挟んだお陰で、その場の何とも言えない空気が、一瞬で霧散した。
ぽかんと、あっけにとられた顔をするクリスタ様と、ルオード様。
「……こ、断る?」
「な、何故だ⁉︎ 其方は、自分の能力を、遺憾無く発揮する場を欲しはしないのか⁉︎」
呆然とするルオード様。
そして、クリスタ様はカッとなって、そんな風に口走ったのだが。
「私は、私の能力を使おうと思う方に、使われたくありません」
身分など意に介さぬといった態度で、サヤはクリスタ様に、使われたくないと言い切った。
背中越しだから、サヤの様子を見ることは出来ないが、少し、怒りのようなものを感じた。
「レイシール様は、私を、ただ私だと言って下さるのです。私が強かろうが、特別な知識を持とうが、それを得ようとはしていらっしゃいません。鵜呑みにも、頼りにもなさいません。
だから私は……私らしくあれました」
ルオード様の視線が、サヤから離れ、俺を見る。
だが俺は、その視線より、サヤの言葉に集中していた。
「……クリスタ様。私は、沢山の秘密を抱えております。レイシール様は、そんな私を、そのまま傍に、置いて下さっているのです。
私が何も言わなくても、怪しくても、不可解でも、全部受け止めて下さったのです。
何一つ、聞き出そうとしたりしなかった。いつも私が口を開くのを、待って下さった。今この瞬間だって、そうなのです。
だから、私が仕えるのは、レイシール様だけ。この方だけです」
頭が真っ白だ。
もうサヤに見限られたのだと思っていた。
俺はもう、サヤに必要ないのだと……だから、手を拒んだのだと……。
だけど、違う? サヤは俺を選ぶ、俺だけに仕えるのだと、そう言ってくれるのか……。
サヤの告白に、クリスタ様は、信じられないものを見る様に、瞳を見開いた。
ルオード様も、ただ黙って、サヤを見ていた。
その時、フッと、視界の隅で、ハインが笑う。
サヤの言葉に、満足そうに。そうでしょうとも。と、その表情が、言っていた。
「あはは。一本取られちゃいましたねぇ。
ですって、クリスタ様。サヤくんは、レイ様にぞっこんなんですよ。
分かる気がしますよ、僕もね。レイ様の為にって思っちゃう感じは。どんな風にすれば、この人は笑ってくれるのかって、考えちゃうんですよ。勝手にね。
貴方とは違う形で、レイ様も、結構な器なんだと、僕は思いますよ」
今までの重たい空気などなかったかの様に、それまで黙って見守っていたマルもそんな風に口を開く。
そんな俺たちの様子に、ルオード様も、肩の力を抜いた。
「……サヤ、貴方は権力を、欲しないのだね……。
それで充分だ。貴方の疑いは晴れました。私の気は済んだ。今日まで疑いを持ったことを、謝罪します」
「いえ……自分がどれくらい怪しいかは、自分でよく分かってます。ルオード様の御立場なら、そうならざるを得ないということも……」
まただ。
サヤが何か、含んだような物言いをする。
ルオード様にも、その違和感は伝わった様子だ。 訝しげに、片眉が動く。
そんな和んだ雰囲気の中、何故かクリスタ様だけは、表情を険しくしていた。
いつも心の奥底にしまい込んである苛立ちが、湧き上がっているかの様に、クリスタ様を支配していた。
「器……器だと……? レイシールを選ぶ? 私は、レイシールに劣ると? そう言うのか……」
憤怒に顔を歪めて、クリスタ様が、まるでクリスタ様ではないかの様だ。
何故そんな風に苛立つのか、お怒りになるのかが、分からない。
お怒りのクリスタ様に、唖然としていると、サヤが動いた。俺の横をするりとすり抜けて、クリスタ様に顔を寄せ、何かを告げる。
「……っ⁉︎」
「……」
近い距離で、見つめ合う。
ああ、似ているな。と、思った。
なんとなくそう思ったのだ。並んで立つ、クリスタ様とサヤを見て。
何もかも似ている部分など無いと思う二人なのに、何故か。
「近寄るな」
クリスタ様が、サヤの胸を押し、サヤを拒絶した。
その手の動きに逆らわず、サヤはクリスタ様から身体を遠去ける。
「クリスタ様⁉︎」
慌ててルオード様が、クリスタ様とサヤの間に、身体を割り込ませた。
クリスタ様を背に庇い、サヤに鋭い視線をやる。
その様子は、先程の、クリスタ様から距離を取っていたルオード様ではなく、学舎で見慣れた、ルオード様だった。
「大丈夫ですよ。
レイシール様は、お優しいですから……」
そんなクリスタ様に、サヤは最後、そう言って、眉の下がった、寂しげな笑顔を見せたのだ。
何を告げたのか、分からない……でも、それは、サヤにとって、苦しみを伴う何かなのだ。
抱きしめたいと思った。
そんな顔を、させたくない。
俺をただ一人の主人だと、そう言ってくれたサヤを、そんな風に一人で立たせたくない。苦しそうに、無理やり微笑むところを、見たくない。
だけどサヤは……俺の方を、見なかった……。
俺の視線に気付いていないはずがない。なのに、こちらには一切、視線をよこさなかった……。
分からない……サヤが何を思っているのかが……。何を考えているのかが。
分からないことが、苦しくて堪らない……。
その日から、クリスタ様の様子が変わった。
それまでの為政者然とした雰囲気は鳴りを潜めてしまい、余裕のない、荒んだ様子をチラつかせる様になった。
何かに急き立てられるかの様に、河川敷の交易路化計画に没頭し、かと思えば、部屋に閉じこもって面会すら拒否する。
たまに酷くイラついて、なんでもない言葉に、食ってかかったり、小さな粗相をした従者を、荒い口調で罵ったり、おおよそ、クリスタ様らしくない態度。
そして俺はと言うと、やはり、サヤに距離を置かれ、日々に消耗していた。
夢にうなされ、起きるとそこにあるのは、サヤの、心を閉ざした、仮面の顔。どうすれば良いのか、分からない……。
俺だけに仕えるのだと、そう言ってくれたのに……サヤの態度がそれを裏切るのだ。
居心地の悪さから、どことなくサヤを避ける様になり、俺の身の回りのことは、ハインか、ルーシーが行うことが増えた。
ルオード様の、サヤへ向けた疑いも晴れた為、もうサヤは、一人で動き回っても問題が無い。
だから、どんどん、サヤとの接点が、無くなっていく……。
俺とサヤの距離は、日に日に、開いていくばかりだった……。




