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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第五章
102/515

クリスタ様

「レイ殿、日に日に、やつれている様に見受けられるんだが……」

「ああ、申し訳ない。雨季はだいたいこうなんです。でも、今年は相当マシですよ」


 ちゃんと記憶も意思もはっきりしているからな。今年の俺はまともだ。

 日常業務をこなしながら、いつものことだと軽く返事をすると、ディート殿は片眉を上げ、本当か? とでも言う様に、ハインを見た。


「ええ。今年は随分と、体調が宜しい様です。

 昨年は、マルと見紛うばかりにやつれて、寝ているのか死んでるのか分からない有様でしたから」


 酷い言われ様だな……。どっちも起きてないし……。


「……医者は? なんの病を患ってる」

「病ではないですよ。雨音が煩わしくて寝つきが悪いだけですから」

「耳に詰め物でもすればよかろう」

「そういう違和感があると余計寝付けないんですよ」


 何度も繰り返した会話だから、言い訳にも慣れている。嘘でも、本当のことの様に馴染んでしまった。


「それに、川のこともありますからね。

 気になって寝付けないのは、職業病でしょう。雨季が終われば自ずと寝られる様になります」

「む。川か……毎年氾濫を気にしていたら、そんなものか……」

「そんなものですよ」


 笑ってそう言うと、ふむ……と、呟いて納得した様子。

 やれやれ。しつこく問い質されなくて良かった。

 川は、刻一刻と水嵩を増している。雨は強くなり、弱くなりしながら、降り続いている。

 現在近衛の方々は、土嚢壁の経過観察と、雨量、川の水位測定を毎時行ってくれていた。

 雨の弱まった時を見計らって、非番の近衛ら数人ずつと練習を兼ね、いざという時に積む為の、予備の土嚢を作ったりもしている。その傍ら、その作った土嚢を使い、陣地を作る訓練というのも行っていた。

 土嚢は凄い。形が変わるのだから。

 土嚢壁を作る際は、川の曲線に沿って土嚢を積み上げることができた。この曲線が重要であるらしい。

 川の水を防ぐことを考えた場合、急激な角度変化はその角度の変わった場所の負荷を増やすのだそうだ。だから、なだらかな曲線が重要となってくる。

 陣地作りには、そこまでは要求されない。積み上げただけで充分用を成すからだ。だが木材を使うのと違い、煉瓦を積む感覚で、丈夫な壁を作ることができる。雨の中での、大変な訓練だが、評価は高かった。


 と、その時、こんこんと訪を告げる音が、誰かが来たことを告げた。「どうぞ」と声を掛けると、書類を一式持ったルーシーが、一礼して入って来た。


「レイ様、昨日の記録、図に出来ました!」

「うん、ありがとう。見せて」


 三日前から女中見習いとなったルーシーだが、現在はサヤのやっていた書類仕事を二人で分担してもらっている。

 サヤから、雨の量を測りませんかという提案があった為だ。

 雨の量の測り方というのも教えてくれた為、測ること自体は近衛の方々にお願いしてあるが、記録した雨の量を、分かりやすく図面化する作業を、サヤが担当していた。サヤの補佐を、ルーシーがする形で分担作業している。

 現在サヤは、料理指南の為に食事処に出向いている為、今までの記録を、ルーシーに図にしてもらっていたのだ。

 書類を受け取り、出来ているその図を見る。

 書類の一枚目は、毎日の雨量を一時間ごとに測ったもの。

 二枚目は、川の水量を一時間ごとに測ったもの。

 三枚目は、日の合計を、雨季の間を掛けて表にしていくものだ。


「面白い……。驚く程に、分かりやすいな。どんな意味があるのかは、いまいち理解しかねるが……」

「毎年測り続けてやっと意味が出てくるらしいから。

 二十年後とか、三十年後とか……百年後とかじゃないですか?結果が出るのは」

「悠長だな……今分からないのにやる意味があるものなのか?」

「ありますあります。雨量と、川の水位の上昇が比例しているか否かとか。どのくらいの雨量で川の氾濫が起こるかとか。そういったことは、多くの情報を積み重ねてから分かることなので」


 隣の小部屋で会計処理をしていたマルが、そう言ってウーヴェと共に戻って来た。

 肩の傷はふさがり、熱も下がった。数日食事を疎かにした所為で、また食が細くなってしまったが、一応は元気だ。


「んっふふ。楽しみです。毎年同じ方法で、同じ場所から雨量を測り続けたら、何が見えてくるんでしょうねぇ……。今までのデタラメな、数値ですらない主観だらけの文章から計算じゃなくて、ちゃんとした基準に基づいた計算ができるなんて……考えただけでもワクワクします」

「……まあ、マルが生きてたらね」


 百年後は無理じゃないかな。百二十八歳まで生きることのできる人間なんて、もう人間とは思えないよ……。いや、サヤの世界にはいるのかもしれないな……長寿って言ってたし。

 なんにしても、マル、完全復活した様で良かった。


「まあとにかくですね、取り続けるべきなんですよ。後になって前の記録は用意出来やしないんですから、取れるときに正確に、取っておくべきなんですよ」

「む。それはそうか。なら身を引き締めて測量に当たらせてもらおう」

「ええ、正確な数値をよろしくお願いしますね」

「因みにこの表は、我々も貰って良いものか」

「報告書の資料として写しを用意しておきますわっ」

「おお、ルーシーは気がきくな。では宜しく頼む」


 そんな風にやり取りしながら今日の仕事を終える頃、昼となった。今日の昼食は、サヤが持ち帰ってくれることになっていたのだが、まだ戻らない。

 少し遅いなと思いつつ、皆で談笑していると、やっと玄関の方で、扉の閉まる音がした。玄関を覗くと、ずぶ濡れのサヤが、何故か外套を丸める様にして持ち、玄関に立っている。まるで川に浸かって来たかの様にずぶ濡れで、服が肌に張り付いてしまっていた。


「サヤ!何故そんな……っ、ハイン、手拭いを……」

「すぐお持ちします。ルーシーは、サヤの外套の中身を調理場に運んで下さい」

「は、はいっ!」

「玄関を水浸しにしてしまって、申し訳ないです。途中で、降りが強くなって……昼食が濡れてしまいそうで……」


 それで外套をわざわざ脱いで食べ物を包み、優先的に守ったらしい。


「サヤ、衣服を脱げ。ずぶ濡れの布を纏っているより、その方がまだ良い。すぐ手拭いも届くし、緊急時だ、誰も不敬を咎めはせんさ」


 遅れて出てきたディート殿がそう言ったことに、ウーヴェがギクリと反応する。

 その様子に、マルがウーヴェの膝をポンと叩き、注意を促した。

 サヤが男であるなら、気にせず裸にだってさせる。濡れた布を纏うより、体温を奪われないだろうから。だが、サヤにそれは出来ない。


「ありがとうございます、ディート様。

 ですが、ハインさんがすぐに手拭いを持てきて下さいますから……」

「手拭いで拭こうが、焼け石に水だろうに。部屋までの通路が水浸しになるぞ」

「いいえ、部屋まで行きませんから。

 ルーシー、サヤの部屋から、着替え一式を持ってきて下さい。サヤはそのまま調理場です」


 戻ったハインが、同じく戻ったルーシーにそう言い、手にした毛布を広げる。失礼しますよ。と、声を掛けてから、それでサヤを包み込んだかと思うと、そのまま抱き上げてしまった。


「おい、何故調理場だ。仕事は後回しだろう」

「仕事ではありません。身体を冷やしているのですから、温めるだけです」

「は、ハインさんっ、自分で歩きますっ」

「歩いたら床がずぶ濡れです」


 ギロリと睨まれ、ズバッと言い切られたサヤがカチコチに固まった。

 毛布で包んで担ぎ上げたのは、仕事を増やさないためか……それと、サヤの体の曲線を隠す目的もあると思うが、そんな素振りは微塵も見せない。


「調理場で身体を拭けということか?」

「ああ、……いえ、調理場にその……自作の風呂がありまして、温まるようにということでしょう」

「……今何と言った」

「調理場に、自作の風呂があります」

「……聞き間違いではないのだな」


 まぁ、誰に言ってもその反応が帰ってくる自信はある。

 三人が食堂の扉の向こう側に消えたので、我々はサヤの身支度が整うまで、執務室で待機することにした。

 各々適当な場所でくつろごうと思ったのだが、ディート殿が、口を開いた。


「先程、サヤに衣服を脱がせる選択をしなかったのは、何か理由があるのか」


 ……有耶無耶にはしてくれないのか……。

 まあ、少々不自然ではあるよな。男なら、気にせずその場で服を脱いで、絞るくらいのことはするか。

 それに、ウーヴェの反応も、きっと気付かれてしまっている。何かあると勘ぐられてしまったら、良くないな。


「そうです。

 サヤは、幼い頃、無体を働かれたと、前に話したでしょう?

 当然、無傷では済まなかったのです……。ですから……」

「ああ、あの美々しい顔立ちだものな。醜い傷は、晒したくないか……」


 適当に濁しておくと、無難に解釈してくれた。

 よし、その路線でいくか。


「差し支え無ければ聞きたいのだが……無体とは?」

「誘拐されたのだそうです。思い出すのも、辛いことの様で、俺も詳しくは、知りません。

 この話をしたり、思い出したりする時、サヤは、震えるのですよ……あんなに強くなるまで身を鍛えたのに、未だ恐怖を拭い去ることが出来ないのです」

「…………あれだけの知識を有する者だ、それなりの家の出なのだろうとは思っていたが……よく無事で戻ったものだな。命を拾えただけ運が良かったと思うべきなのか……幼いうちにか。酷い仕打ちを受けたものだ」


 貴族社会には、そう珍しくもない事件ではあるが、酷い仕打ちであることは確かだ。

 時には身内で、時には国の問題に絡んで、子供が被害を被ることは、多々発生する。慎重にディート殿を観察するが、どうやらこの話をそれなりに信憑性があるものと捉えてくれた様子だ。

 ……嘘は殆ど言っていない。

 実際サヤは無体を働かれ、心に傷を負った。未だにそのことで恐怖を感じ、体調を崩すのだから。

 見た目に分かる傷だけが、傷ではない。


「ディート殿……この話には、触れないでやってほしい。

 俺は何度も、サヤが苦しむところを目にしている。あの子には、極力、辛い思いをさせたくない」

「心得た。俺もそういった話を混ぜかえすのは性分に合わん。

 納得も出来た。あの強さは……それだけ自身を追い込んだ結果なのだな」


 実際、女性の身であそこまでというのは、身体能力の上昇があるのだとしても、凄まじい努力をしたことは確かだろう。

 強さが伴わなければ、あの気迫は生まれない。

 自身の強さに無自覚なのは、あくまで実戦経験の不足によるものだと思う。経験を積めば、サヤはきっと、更に強くなる。身につけた技術を、自身の血肉として昇華させることが出来たなら、今以上にだ。

 とはいえ、サヤの世界でそれが必要かと問われると、正直分からない。

 強さを身に付けるなら、あくまでサヤ自身の為であるべきだ。彼女が求めていないことを強いるつもりは毛頭無かった。ましてや、俺の為だなんて……絶対に、嫌だ。


 暫く、そんな風に時間を潰していると、サヤの身支度が整ったと、ルーシーが俺たちに知らせて来たので、皆揃って食堂に向かう。

 ルーシーをサヤの支度に残していたので、きちんとに整えられている筈だと思っていたけれど、その通り、サヤは微塵も乱れていなかった。完璧な男装を取り戻している。

 従者服は別のものに着替え、風呂も利用したとあって、さっぱりしていた。急いで湯を沸かしたのだと思うが、もう何度も繰り返した作業なので手馴れたものだ。


「昼食が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」

「良い。美味である様守ってくれた者に文句は言わん。

 さあ、早く食そう。今日も楽しみにしていたのでな」


 護衛ついでにここで昼食を取るディート殿は、いそいそと席に着く。

 実際、食事処での賄いも、美味だと評判は上々の様だ。

 料理も氾濫対策の一環だとルオード様に伝えてあるので、料理人を引き抜こうとする様子も、今のところ無いらしい。


「それにしても、雨季にはほんと参ってしまいますね。小雨が続くだけなら良いのですけれど……急に土砂降りになったりしますもの」

「洗濯物を乾かすのが大変ですよねぇ。ここ、空き部屋多いから良いんですけど」

「ええ本当に。近衛の方々は大丈夫なのでしょうか?」

「まあ、こうなるのを見越して来ているのでな。

 雨季用の荷物量だぞ。一日二日、乾くのにかかったとしても、なんとかなる。

 が、時間が掛かってかなわんな。生乾きの匂いも好かん」


 近衛部隊の方々は、遠征の時は各自で自己管理を行うそうだ。

 元々は従者を連れて遠征していたそうなのだが、どうしても移動速度は落ちるし荷物も増える。その為、姫様直属の近衛部隊は、自身で一通りが出来ることを特訓させられるらしい。姫様は合理的な考えの方の様だ……。ディート殿にそう聞いた時は少々びっくりしてしまった。

 まあ、学舎出身者は、大抵一人でその辺のことが出来る様になっている筈だから、大丈夫であるらしいが。

 そんな脱線したことを考えていたら、サヤが妙なことを言い出した。


「煮込めば綺麗になりますし、匂いも気にならなくなるので、煮洗いがお勧めですよ」

「こちらの洗濯はその様になっておりますね」


 ハインもしらっと同意する。

 ……ええっ? 服を、煮るのか?


「あら、メバックの一般家庭ではよくやりますよ? 雨季の間は特に、洗濯って大変なんです。

 普段の洗濯だと、生乾きの臭いが酷いのですもの。

 私、王都からこちらに来たのですけど、この方法を聞いて眼から鱗が落ちたのですよ!

 雨季以外でも、油や汗の汚れには、この方法をよく使うそうなのです。

 バート商会では、今は本店も洗濯を煮洗いで行なっておりますわ。

 まあ、糠を使うというのはここで初めて見たのですけど……」


 ルーシーまで当たり前の様に口にした。

 糠はともかく、洗い物は、煮るものらしい。雨季の間って、そんな風にしていたのか。知らなかったな。


「簡単ですよ。湯を沸かし、服を入れて、暫く弱火で攪拌しつつ煮込むだけです。半時間ほどでしょうか?それで大体の汚れは湯に流れ出ますから。

 もっと綺麗にしようと思ったら、麦糠を袋に入れて、水の中でもんだ、白濁した水を使います。白濁しているのは細かい糠の粒なのですけれど、それに汚れがくっつくので、より綺麗になります。煮終わったら、ぬるま湯でしっかり濯いで、絞って干す。以上です」

「成る程、雨季に長雨が続く、この地方特有の方法なのだな。

 隊長に進言してみよう。良い話を聞いた」


 上機嫌となったディート殿。洗濯って、そんなに大変なのか……と、思った。

 まあ、雨の最中、連日の業務だ。雨除けの外套を纏っているにせよ、どうしたって雨はある程度染み込むし濡れる。

 訓練の一環だということで、皆不平を言わず耐えてらっしゃるのだろうが、それは少し、申し訳ないな。そう考えていたら、サヤが口を開く。


「他にお困りのことは、ございませんか?」

「む。まぁ、毎日濡れて身体を冷やすのでな。温まる方法が欲しいといえば欲しい。

 先程自作の風呂があると言っていたが、作れるのならば欲しいくらいだ」

「風呂ですか……」

「うちの風呂、形状というか、状況が洗濯同様、鍋で煮られる感じなので、貴族の方々は嫌でしょうねぇ。あはは」


 マルがそんな風に笑う。

 風呂か。

 確かに、あの形状の風呂を、貴族の方々に使ってもらうのはちょっとあれだよな……。

 一度に一人しか入れないから、二十五人もの近衛の方々に、順番に入ってもらうというのも、ちょっと現実味が乏しい。

 サヤの国の、湯屋の様なものがあれば良いのだけれど……ん?

 湯屋……。

 いつか作ることが出来ればと思っていたが……近衛の方々が必要と言うのならば、簡易的なものを作って、実験してみる価値があるのでは?

 ハインをちらりと見る。……なんとなく目がギラついてませんか……。

 マルに視線をやると、何か企んでいるのか、ムフムフと目が笑っている。きっと似た様なことを考えているな、この顔は。


「レイシール様、後でちょっと、ご相談があります」

「分かった。午後からならだいたい大丈夫だよ」

「では、昼食後、一時間ほどサヤくん借りますね。

 レイ様の所へ報告に行くのは二時頃で。ふふふふ、近日中に風呂の構想を固めます。いくつか検討はしてあるので、実現可能だと思いますよぅ」


 急に風呂を作ります宣言を始めてしまったので、慌てて止めた。


「こ、こら。滅多なことは言わないでくれ。実現出来なかったらどうするんだ」

「出来無さげだったら口にしませんからご安心下さい。久々にしょうもないことに頭使えますねぇ! 楽しそうです」


 しょうもないって言うな!

 だけどまぁ……策略とか、陰謀とか、そういったものを得意とするマルではあるけれど、得意だからって好きではないことを俺は知っている。ここのところ、ずっとそういったことに頭を使わせていた上、怪我までさせてしまったのだ。ちょっと息抜きがてら、その手のこと以外に頭を使いたいと考えるのは、仕方がないことだなと思った。


「な、なんかこう言ってますので……あまり期待しない方向で、待っていてもらえますか……」

「心得た。期待しないで待っておく」


 そう言いつつ、ルオード様の表情は期待で輝き、満面の笑顔だった。

 ううぅぅ……だ、大丈夫なのか……?



 ◆



 昼食を終えて、ハインとディート殿を伴って執務室に戻ろうとしていると、玄関扉を押し開けて来た来客に遭遇した。

 交代の近衛の方か?

 雨除けの外套で顔が見えない為、そう思い足を止めたのだが、近衛の方ではあったものの、伝令だと仰った。

 伝令?俺に?


「アギー家の家紋の馬車が、こちらに向かっておられましたので、早めに知らせよとルオード様より仰せつかりました。

 時間にして約四半時程でご到着の様子です。

 馬車は二台で四人乗り。御者と護衛が計十名とのこと」

「十名⁉︎」

「いや、護衛の方は、数人残して戻られると思う。あの方は、過剰に護衛を側には置かぬ方だから。馬車の一台も、半分は荷物だろう。

 知らせに感謝します。直ぐ準備に取り掛かってくれ。

 あと、ルオード様に、後でお越しいただける様、伝えてもらえるでしょうか」

「畏まりました。では」


 伝令を見送り、直ぐに食堂へ引き返す。

 サヤは聞こえていた様子で、マルにはもう、事情が伝わっているみたいだ。

 風呂の計画は一旦保留ですねと言われた。


「申し訳ないが、急いで準備だ。とはいえ、大半は終わっているよな。

 ルーシーとハインは、俺と共にクリスタ様をお迎えする。サヤは、部屋の方を再確認。

 御者と護衛の方が十名とのことだから、手拭いが大量に必要だ」

「それは整えてあります。雨季の中を来られることは、想定済みでしたから。

 マルも面識がありますから、一緒に並ばせましょう。ウーヴェは帰した方が無難でしょうね。大貴族と縁を繋ぎたいなら、残っても構いませんが……」

「め、滅相もございません、では私は、お暇させて頂きます。

 木材と石の購入は、進めておけば良いのですね?」

「うん。石の大きさは人の頭くらい。一人で持てる重さのものでお願いしますよぅ」


 何かよく分からない指示を受けたウーヴェは、急いで外套を纏い、土建組合員の数人残る借家に戻って行く。それを見送って、マルがひょこひょこと俺の元にやって来た。


「レイ様、風呂については、夜、時間の空いた際に報告に伺います。

 クリスタ様の件、夜の賄いを増やす連絡は、ウーヴェに知らせる様、頼んでおきました。護衛の方は、到着と同時に、大半は帰路につかれるのでしょうが、昼食抜きでは流石に可哀想ですからねぇ。何か食して行ってもらう方が、心象も良いと思うのですけれど」


 そうは言っても、俺たちは昼食を終えてしまったし、余った料理もそんなに無いだろう。

 用意できるものなんて、何も……。

 そう思ったのだが、マルの言葉を受けたサヤが、サッと手を挙げる。


「でしたら、ケチャップが残ってますから、牛肉のケチャップ炒めを麵麭に挟みます。材料も有りますし、直ぐ作れますから。あと、牛乳茶を用意します。蜂蜜を入れて甘めに。まずはそれで、体を温めて頂きましょう」

「ならば、私が部屋の確認に向かいます。サヤが調理を担当した方が良い。ルーシーはレイシール様と待機です」


 サヤなら音が拾えますからと、ハインが小声で言う。ディート殿に聞こえぬよう配慮したのだろう。

 そうだな。サヤなら、音を聞き分けて、出迎えに出て来れるだろう。

 牛乳茶はサヤの教えてくれた茶の入れ方だ。牛乳で茶を煮出すのだが、茶の独特の苦味が抑えられ、意外に美味なのだ。あれは確かに温まる。蜂蜜の甘味も、疲れた身体に良いだろう。

 ハインが大量の手拭いを玄関広間に用意し、客間の確認に走った。

 少々申し訳なかったが、俺とルーシーは動く二人を見送り、玄関広間に待機だ。


「ここは本当に、この少人数でよく動くものだと感心する。

 過労死しそうだが……」


 ポツリと呟くディート殿に苦笑が溢れた。


「ハインとサヤでないと無理ですよ。サヤは元々、効率化民族ですし、ハインも効率化には強いので」

「効率化民族とはなんだ?」

「サヤの民族を、俺たちで勝手にそう呼んでいます。

 何かにつけて、そつがない民族なのですよ。食券の話などもそうだったでしょう?」

「おぉ、あれは感心した。あの話は、サヤが優れているのだと思っていたが……」

「それもあるのでしょうが、あの子の民族は何かにつけてそうである様ですよ。それが身に染み付いているみたいです」

「成る程、国風か」


 そんな会話を交わしている間に、到着された様子だ。玄関外から、物音、人の声。ルーシーが伺って来たので、扉を開ける様に指示した。

 扉を全開に開いてもらうと、軒先に横付けされた馬車から、荷物や人が下されている。中へどうぞと声を掛けると、一人の女中が進み出て来た。

 若い女性。亜麻色の髪を背に垂らし、橙色の瞳をされた女性だ。年は三十路前後と思われる。


「アギー家、クリスタ・セル・アギー様の女中頭をしております、フレデリーカ・アグネス・ダーシーと申します。

 セイバーン家、レイシール・ハツェン・セイバーン様に、御目通りを願いたいのですが」

「……あの、私です」


 丁寧に名乗って、本人が目の前にいるのに目通りをと言われるとは思っていなかった為、ついそう、気の抜けた声で言ってしまった。

 しかし、相手もその返事を想定していなかった様子で、目を見開く。


「あの……レイシール様は……クリスタ様と背丈のあまり変わらぬ、妖精の様に美しいお方と……伺っております……」

「ああはい、背丈、二年前まではそうでしたね。ここに戻り、随分と伸びましたから。

 あとその……妖精とかはやめて下さいと、お伝え下さいませんか。それ、言わないで欲しいと、何度もお願いしているのですけど……」


 正直、貴方が言うんですかと言いたい。

 俺から言わせると、白磁の肌に紅玉の瞳であるクリスタ様の方が、よほど妖精だ。

 なのに来訪直後、女中頭にまで言われるとは想定していない……地味に傷付いた。

 だが女中頭の方は、まだ俺をレイシール本人だとは思えないらしい。眉間にしわを寄せ、俺を怪しいものを見る様な目で見ている。


「……レイシール様は、灰髪だと、伺っております」

「あー……。どうやら、こちらが本来の色である様で、洗い方を改めましたら、こうなりました」

「嘘を申すな!レイシールはその様にひょろ長くないし、均整のとれた愛らしい美少年であるのだぞ!」


 馬車の中から、聞きなれた、懐かしい声。

 男性にしては高めの、年の割りに可愛らしい声色。懐かしい……。

 自然と、口元が緩み、笑みが浮かぶ。馬車に駆け寄って、中を覗き込みたい衝動に駆られるが、そこはぐっと堪えた。

 馬車の内装が黒く、中を伺うことが出来ないが、サヤの言っていた病であるならば、それはクリスタ様が落ち着く色である筈だ。

 やはり、サヤの言う、病なのか……。


「……クリスタ様……俺、もう十八です。少年という年齢は、終わりましたよ。

 それから、護衛の皆様が、お身体を冷やされてます。まずはお休み頂きたいので、中へ入って頂けませんか。貴方が馬車の中では、いつまでも雨の中、外で待つ羽目になってしまう」

「っ……。レイシールの様な物言いを……」

「ですから、本人ですよ。

 あーもぅ……どう言えば納得して下さいます? 俺と貴方の思い出話でもした方が良いですか?

 例えば……夜祭で、貴方が一番初めに手を伸ばした屋台の品であるとか? あの時同行していた面々の名前であるとか? 帰り道、体力の尽きた貴方をユーズ様が……」

「ま、待て。……其方、本当に、レイシールか……」


 慌てて静止する声に、あの方にとって、負ぶわれたことが未だ恥ずかしいのだと分かって、笑みが深くなった。

 そこにハインが戻り「レイシール様、準備が整いました」と声を掛けてくれたのだが、その声音に「ハインか⁉︎」と、馬車の中より声が返る。


「で、では本当に、レイシールなのか……」

「先程からそう言っております」

「変わりすぎではないか! 誰が見分けがつくと言うのだ。あの愛らしいレイシールはどこにいってしまった⁉︎ 僕は、あのレイシールに会いたくて、ここまで……っ」

「期待に応えられず、申し訳ありません。

 ですがクリスタ様、俺は、早く貴方にお会いしたいですよ。

 ……二年前、不義理を致しまして、申し訳ありませんでした。なのに、ギルの手助けや、アギー公爵様の来訪や……今回の、支援や……沢山助けて頂いた……。

 感謝の言葉を、きちんとお伝えしたいのですが、育ってしまった俺はお好みに添いませんか」


 懐かしさと、甘えと、気持ちの高揚と……何か胸の奥で育つ感情に、つい振り回されてしまった。

 そんな風に甘えた言葉を吐くつもりはなかったのに、あの方の前だと思うと、つい幼い頃に戻ってしまいそうになる。


「れ、レイシールは、その様な物言いはしなかった……」

「あの頃は、出来ませんでしたね。人目のあるところでは特に。

 粗相があってはならないと、そればかり気にしてましたし……俺は、持ってはならないのだと、望んではならないのだと、自分にそう課しておりましたから。

 ただまぁ、ここに戻りまして……俺にも色々あったのです。

 新しい従者も、一人増えたのですよ。紹介しますから、出てきて下さいませんか」


 そう促すと、逡巡する気配。

 ルーシーに目配せして、護衛の方々に配る手拭いを持って来させ、扉が開くのを待つ。


「……リーカ」

「はい」


 女中頭が呼ばれ、微笑んだその女性が、馬車の扉を開く。

 暗く、重い内装の中に、紺地の細袴が見えた。

 それと同時に、背後で扉の開く音がする。サヤが、準備を整えたのだろう。


「レイシール、手を貸せ」

「はい、仰せのままに」


 馬車に歩み寄り、手を差し出すと、馬車の中より、細く白い手が伸び、俺の掌の上に収まった。

 サヤの手の様にお小さい。

 そして、現れた人物に、息を飲む。


 全くと言って良い程、変わらぬ姿のクリスタ様が、馬車の中より姿を現したのだ。

 当時の俺より少し濃い灰髪は、首元までの長さで、整えられている。

 人とは思えない様な、見事に白い肌。そして、紅玉をはめ込んだように紅い瞳。

 整った顔立ち故に、まるで人形か、はたまた妖精かといった風情だ。

 馬車より降り立つと、頭一つ分近く、身長差が開いてしまっていた。

 細い肩、薄い胴体。俺より年下に見えてしまう、華奢な肢体。


 こんなに、お小さい、方だったか……。

 これでは、まるで………。


 だが、そう思うのとは別に、あの当時のままの、懐かしいお姿に、ホッとする自分がいた。


「お懐かしい。時間が戻ったかの様です」

「進みすぎてるわ! その様に伸びおって、見下ろすな馬鹿者、腹立たしい!」

「っふ、ははっ、相変わらずの悪態ぶりですね」

「煩いわ! ほら、降りてやったのだから、中に案内せよ! 早馬を出しておいてやったのだから、準備はしておろうな⁉︎」

「あんなに唐突では困ってしまいますよ。正直結構な混乱ぶりだったんですよ」

「僕がわざわざ連絡を寄越してやったのだぞ。ありがたく思え!」

「はいはい、有難いですから」


 何を言われても顔がにやけてしまう。

 嬉しかった。今まで通りの態度で、今まで通りの口をきいて下さることが。

 不義理をしたというのに、そんなことなど無かったかの様に接して下さることが、嬉しくてたまらなかった。

 逆にクリスタ様は、怒りの為か、久しぶりの再会に羞恥が勝るのか、少し頬が紅潮している。

 手を取ったまま、館の中に促すと、ディート殿とハイン、マル。そしてサヤが頭を下げている。

 良い、と、声がかかり、顔を上げた。


「マルクス、其方……丸くなったか?」

「最近、食が細ったのですが……まだ前より丸いですか。お久しぶりです、クリスタ様」

「うむ。ハインもな。其方は様変わりしておらぬ様で安心した。

 気色悪い程に育ちおったな、其方の主人は」

「縦にしっかり伸びましたので。お久しぶりです、クリスタ様」

「……その方はこの前も会うたな」

「近衛のディートフリートでございます。……クリスタ様」


 そして、サヤに視線が止まった。


「…………黒……?」


 サヤの元に、足を運ぶ。


「紹介します。新しく従者となったサヤ、異国の者なのです」

「鶴来野小夜と申します」


 顔を上げたサヤが、クリスタ様を見つめ、そう名乗る。

 視線の高さは、サヤの方が少し上か。そう考えると、クリスタ様がどれほど小柄かがよく分かった。

 暫く、何故かクリスタ様は、サヤを見つめた。サヤも同じ様に見つめ返していたが、途中でふと、視線を落とす。あまりジロジロ見るのは不敬だと思ったのかもしれない。

 雨の当たらない軒先に避難した護衛の方々に、手拭いを配り終えたルーシーも戻ったので、ギルの姪だと紹介する。

 ルーシーよりは、ほんの少しだけ、背の高いクリスタ様は、気後れした様に、半歩身を引いた。

 女中の姿をしているが、ルーシーもギルの一族、結構な美女だからな。


「護衛の方々に、お飲物をご用意致しました。温まりますからどうぞ。すぐに軽食もお持ち致します。

 クリスタ様は、まずお部屋へご案内致します。お見受けした所、随分と、お疲れの様子ですから」


 淡々とした口調のハイン。その言葉に、少し身を強張らせていたクリスタ様が、ハッとなり居住まいを正す。


「つ、疲れてなどおらぬわ! 相変わらず分を弁えぬ従者よな!」

「そうですか。ではお疲れではないクリスタ様、従者の方々が荷ほどきを早く済ませてしまいたがってらっしゃるご様子ですので、先にお部屋へご案内致します」

「……ハイン。

 申し訳ありません、クリスタ様。ハインは相変わらずです。

 でも、お部屋へは先に、ご案内させて下さい。

 なに、時間はたっぷりございます。

 後程、ルオード様もお越し下さいますから、それまでの間休憩されて、後でお茶でもご一緒しませんか? マルも加えて、懐かしい、学舎の面々で」


 そう促すと、肩を怒らせていたクリスタ様が、少し怒りを沈静化させた。

 ばつが悪そうに視線を逸らし、俺をちらりと見上げて、頬を染め、唇を尖らせる。

 ああこの顔。懐かしい。俺の背が伸びてしまったから、お前だけずるい。そう思ってる顔だ。

 ついその表情につられて微笑むと、一層顔を赤くして、プイとそっぽを向いてしまった。


「早く、案内せよ」

「はいはい、では参りましょう」

「はいは一度で良いわ!」


 クリスタ様と、女中二人、従者二人。そして俺は、ハインとディート殿を伴って、クリスタ様の為に用意した客間へご案内する。

 その間、サヤがクリスタ様を、視線で追っていたことには気付いていたが、流しておいた。

 病の件かもしれない……。後で確認しようと、心の中で考えながら。

クリスタ様本格始動にならなかった……。出てきただけで終わるとか……。

話も折り返しかなぁ。この人出てきたってことは。まともに進めばの話だけど。


次週も更新は、金曜日を予定しています。

今日で記念すべき百話となりました。これもひとえに、見て下さってる皆さんのおかげです。

もっと読める、楽しめる、話が書けるように精進いたします。

では、また良ければ次週もよろしくお願いします。

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