夢 ~神座奇譚~
私が神納静香に出会ったのはただの偶然だった。
たまたま同じクラスで、たまたま家が彼女の入院していた神座病院の近くであったからというだけのことだ。
神納静香は生まれた時から体が弱く、入退院を繰り返していて、小学校にもほとんど行っていないという。彼女は六年生の二学期の授業中に倒れて以来学校には来ておらず、私が中学三年に上がった今に至るまで一度も学校に来ていない。
一年と二年の時はそれぞれ別の生徒が行っていたようだけど、クラス替えで二人とも別のクラスに割り振られ、今年は私が行くことになった。
正直、気が進まなかった。幼稚園も小学校も彼女とは違うし、それに今年は受験がある。
兄も姉も県内で有名な進学校に進んでいて、私も親に過度な期待をかけられていて時間を無駄にできない。
本当は難しい高校の受験なんてせず、入学さえすれば大学の進学もほとんど保障されていて、周りの友達も多くが進学する近所の神座学園に行きたいのだけれど、両親がそれを許してくれない。
だから私はとても憂鬱だった。
これがもし私の友達が入院していて、そのお見舞いに行くことになったのだとしたら受験勉強をサボるいい口実になったかもしれないけれど、見ず知らずのクラスメイトのお見舞いに行かなければいけないというのは時間の無駄以外に何も考えられなかった。
行きたくない。帰りたい。そんなことを考えながら鬱々と歩いていたら病院についてしまった。
病院は嫌いだ。
薬品の臭いや、漂う空気が全て死の臭いに感じられてしまう。
この場所にいると、私の魂も何かに持っていかれてしまうような、そんな気がしてしまう。
さっさと渡して帰ろう。
先生に渡されたメモに書かれた病室へ足早に進む。
彼女は最上階の隅っこにある個室にいるらしい。
神納静香と書かれたネームプレートを確認して扉をノックする。
はい、と返事がした。
「失礼します。あの、私、新しく神納係になった――あ」
やってしまった。
憂鬱。早く帰りたい。そんな気持ちがつい、学校で生徒たちの間でついていた係の名前を言ってしまった。
後悔と馬鹿すぎる自分に俯いてしまう。冗談のように誤魔化せばいいのに、それができなかった。頭の中でぐるぐると思考が回って顔が熱くなってくる。ごめんと謝ればいいのにそれができずにただ黙って下を向いてしまう。
彼女は怒っているだろうか。それとも悲しそうな顔をしているのだろうか。見ず知らずの初対面の人間からこんなバカにしたようなことを言われて、なんとも思わない人なんていない。彼女だって行きたくなくて学校に行っていないわけじゃない。病気のせいでいけないだけなのに、こんなことを言われて悲しくならない人なんていないはずだ。
けれど、聞こえてきたのは、笑い声だった。
びっくりして顔を上げると、彼女はくすくすと笑っていた。
わけもわからず呆けていると、彼女から話しかけてきた。
「こんにちは。えっと、あなたは……」
「あ、その、えっと、観月美穂です。あの……ごめんなさい」
「ふふ、気にしないでください。他の方もそうでしたから」
「ごめんなさい……」
本当に気にしていないような彼女の様子にとりあえずほっとして、改めて彼女をよく見てみた。
とても綺麗な顔をしていた。長い黒髪と白くて綺麗な肌。男の子なら一目惚れしてしまいそうな美少女だった。
「学校のプリントを持ってきてくれたんですよね?」
「うん。あと、三年の教科書も」
「あ、ごめんなさい……重かったですよね」
「全部は持ってこなかったから大丈夫だよ。明日残りも持ってくる」
「そうですか、ありがとうございます」
神納さんはとても嬉しそうに笑う。さっき他の方もそうだったって言ったし、春休みの間は家族くらいしか来なかったのだろう。同年代の子が来てきっと嬉しいんだ。だからさっきの失敗やここに来るまでの間に私が思っていたことが全て恥ずかしい。自分のことしか考えていなかったことがとても愚かしい。
「観月さんはどこに住んでいるんですか?」
「そこの神座神社のすぐ裏だよ」
「わぁ、お祭りの時とか良さそうですね」
「そうでもないよ、もううるさくてうるさくて……」
「ああ、近すぎると逆にそうなっちゃうんですね」
「うん。お正月の三が日とか一晩中初詣の人たちの声とか酔っぱらいの声とか聞こえるし」
それから私たちは色々と話をした。学校のこと、勉強のこと、友達のこと。
神納さんがどこの病気なのかはわからない。昔見たドラマのヒロインに似ているから心臓の病気とかそういうのかもしれない。でも彼女は病気であることを感じさせないくらいに元気で、ちょっとしたことでも楽しそうに笑っていた。だからなのか、私も初対面で、ここに来るまであれほど面倒に感じていて嫌々だったのに、気が付けば時間も忘れて話し込んでしまった。
窓から差し込んでくる夕焼けの日差しで私はようやく話を打ち切り、明日も来ることを約束してその日は帰ることにした。
病院から出た私は、これからの勉強よりも、明日彼女とどんな話をしようか、とそればかりを考えていた。
*
あの日から私は毎日病院に通っている。彼女に会うことがとても楽しみになっていた。帰りが遅くなることを母親に咎められることもあるけれど、成績は落としていないし、むしろ彼女との会話が良い息抜きになって、最近はテストの成績も良くなっている。
六月になる頃には私たちは名前で呼び合うようになっていた。
そして、一つ気づいたことがある。静香は時々どこか遠くを見るような目で私や外を見ることがある。最初は外の世界のことを話す私や、窓の外に映る世界がまぶしくて、羨ましくてそんな目をしているのだと思って、聞くことを遠慮していた。でも、それは違うようだった。
六月が終わる頃、七月の半ばに行われる祭りの時に開かれる神社の縁日に彼女を誘おうとした時だった。
「ごめんね、私目が見えなくなっちゃったんだ」
唐突に告げられた言葉。
それまでも時々静香が目をこすったり、細めたりすることはあったけれど、こんなに突然失明するとは思わなかった。
「え……何も見えないの?」
「うん」
「そ、そうなんだ……」
ショックだった。こんなことがあるのか。彼女がいったい何をしたというのだろう。どうして彼女ばかりこんなことになるのだろう。
けれど、言葉が出ずに立ち尽くしていると、静香はいつもと変わらない笑顔を見せてきた。
「でも、いいの」
「え?」
いい? 静香は何を言っているのか。いいわけないじゃないか。失明するということがどういうことか私にはよくはわからないけれど、それがいいわけがないことくらいはわかる。
でも彼女は笑っていた。
「私ね、昔からよく夢を見るの」
「夢?」
夢なら私もよく見る。それと失明がいいというのと何が関係あるのだろう。
「普通の夢とはちょっと違うの。普通は夢って目が覚めると忘れているでしょ? でも私が見る夢はとってもリアルで、目が覚めてもずっと覚えているんだ」
「どういうこと?」
「私にもよくわからない」
「何それ」
楽観的な静香に私はいつの間にか怒っていた。無意識の内に言葉が強くなってしまう。
「あはは。えっとね」
静香は困ったように笑って、その夢の説明をする。
「私が見るその夢はファンタジーのような世界なの。すごく高い木が並んだ森や、石で造られた家やお城のある街。空にはこの世界にはいないような見たことも無い鳥が飛んでいて、森の中には言葉を話すネズミが住んでいるの。その世界にはここと違って、機械が無くて、その代わりに魔法があるの。私は眠ると、気が付くとその世界に立っている。魔法使いのおじいさんと一緒に森の中を歩いたり、キャラバンの人たちと色んな町を旅したりするの」
静香の話は聞けば聞くほどファンタジー小説の読みすぎと思いたくなる内容だったけれど、話している彼女はとても楽しそうだった。それに、彼女は読書が好きだったけれど、ファンタジー小説を読んでいるところは見たことが無かったし、病室に置いてある本棚を見てもそういった本は無かった。
「それでね、最近目が見えなくなってくるようになって、段々と夢がこれまで以上に鮮明になってきて、夢を見ている時間が長くなってきたの」
「それで、目が見えなくなってもいいの?」
「うん。美穂ちゃんの顔が見れなくなっちゃったのがすごく残念なんだけどね……」
本当に残念そうな声で言う彼女を見ていると、先ほどまで怒っていたのにそんな気持ちはどこかへ消えてしまった。だから、私は精一杯冗談めかして言う。
「じゃあ、今度から静香が私の夢しか見れなくなるように毎晩寝ている静香の耳元で囁きかけてやろう」
「ええ、ダメだよ、病院の人に怒られちゃうよ!」
「あはは、冗談だよ冗談」
「もう……」
「でも残念だなぁ。そんなすごい夢が見れるんだったらそれを小説にして売ってみたらすごく良さそうなのに」
「えっ、小説?」
「うん。静香って小説読むのも好きだし、きっとすごいのが書けたんじゃないかなぁって」
「む、無理だよ」
「よし、そうだ。私が静香の話を聞いてそれを小説にしてみよう」
「え?」
「うん、すごくいい案だ。そうしよう」
「だ、だめだよ!」
「なんで?」
「だって、恥ずかしいよ……」
「神納静香の冒険! 夢の世界を舞台に剣と魔法のファンタジー!」
「もう、美穂ちゃん!」
「あはは! 冗談、冗談だってば!」
「もう……」
そうやって、私たちは一緒に笑いあってその日は別れた。
明日からはこっそりお父さんのボイスレコーダーを持って来て録音しよう。そして、いつか完成した小説を読み聞かせてあげよう。きっと恥ずかしがって顔を真っ赤にするんだろうな。あ、でも自分で書いた文章を音読するのもなんだか恥ずかしいかな。そんなことを考えながら帰る帰り道はとても楽しかった。
次の日。私は起きてすぐに見た夢を思い出そうとした。やっぱり思い出せない。夢は見た。けれどそれはよく見る大した意味の無い夢だった気がする。起きればすぐに忘れてしまう。静香の夢の話に対抗して見た夢をノートに書いて聞かせてあげようと思ったけれど、ダメだった。
そのことを静香に言うと、彼女はくすくすと笑った。
「笑うなんて酷くない?」
「ごめんごめん。私はちゃんと覚えてるよ」
「うむむ、なんだかずるいなぁ」
「この夢は普通の夢とは違うんだよ」
「どう違うの?」
「うーんとね、なんだかとても現実的な夢なの」
「現実的? ファンタジーな世界なのに?」
「確かにその世界にある物はみんなファンタジーで、そういう意味では現実的ではないんだけど、私が言っているのはそういうことじゃなくてね。この夢を見ている間、私は確かに起きているの」
「明晰夢ってこと?」
昔、テレビか本で見たことがある。夢の中でそれが夢だと気づき、自由に行動ができたり、夢を思い通りに変えることできるそうだ。確か夢を見ている間に脳が目覚めることでなったはずだ。でも脳が目覚めているから明晰夢は長く続かなくてすぐに目が覚めてしまう。私もそれなら何回か経験したことがある。
「それに近いかな。でもちょっとだけ違う。明晰夢だとなんでも夢を思い通りにできたりもするけど、この世界ではそういうことができない。夢の中の世界だけど、現実と同じ世界なの」
「うーん、難しい」
「難しいね。私もうまく伝えられないや」
「よくわからないけど、どこでもドアをくぐって別の場所に行くみたいな感じで、寝ることで別の世界に行けちゃうみたいな?」
「あ、そうかも! そんな感じかも!」
「マジで? すごいじゃん!」
「ふふふ、すごいでしょ」
静香は自慢げな顔で胸を張る。
「いいなぁ、私も行ってみたい。どうやったら行けるのかな?」
「うーん、私にもよくわからないや。でも……」
言葉を切った静香はとても悲しそうな顔をしていた。
「もしかしたら、この世界からいなくなりたいって思ったからかも」
「え?」
「小さい頃から体が弱くてずっと病院にいたから、私は外の世界にずっと憧れていたの。たまに退院してもすぐに病院に逆戻りだったから、お母さんたちにも迷惑をかけちゃってて……。だからたまに、この世界からいなくなっちゃえば、私は生まれ変わって病院の外でみんなと遊べるようになるだろうし、お母さんたちも楽になれるのになって思っていたの」
私は何も言えなかった。言葉は思い付いたけど、私が言ってもそれは今まで不自由なく生きていた人の軽い言葉にしかならない。そういうことは言ってはいけないんだと思う。
「六年生の時に倒れてから少しして、もう学校には行けないんだって知ったんだ。その時、もう学校でみんなと遊べないのだったら、こんな病院の中だけの世界に生きてても意味が無いって思って毎日泣いていたんだけど、そんな時に初めて夢の世界に行くことができたの。その世界では私は自由に動くことができたし、あるもの全てが珍しくて、新しくて、とても楽しかった……」
「静香はその世界に行きたい? ずっといたい?」
「うん」
即答だった。私は少し残念だった。
「でも……」
「え?」
「今はちょっと違うかな……」
そう言った静香の顔はとても赤くなっていた。
「今は……もっと美穂ちゃんとお話がしたいな」
消え入りそうなくらいに小さく、恥ずかしそうに言った静香を、私は思わず抱きしめてしまった。驚き慌てる静香を気にせず私は彼女をぎゅっと抱きしめる。
前言撤回。全然残念なんかじゃない。
こんな最高の友達ができてとても幸せだった。
――その日の夜、静香が発作を起こして意識不明になったことを彼女の母親から伝えられた。
*
面会謝絶の札はもう一週間かけ続けられていた。
それでも私は毎日病院に行って扉の前で立っていた。ここでずっと願っていて何かが変わるというわけでは無い。それでも、私はここに来るのをやめられなかった。
静香は今どうしているのだろう。夢の世界にいるのかな。それならまだ安心できるかな。
今日も何もなく、私は家に帰ることにした。期末試験がもうすぐだ。この一週間全く勉強に集中ができなかった。このままでは結果は散々なものになるだろう。
病室に背を向けて帰ろうとすると、後ろで扉が開く音がした。
振り向くと、泣きそうな顔をした静香のお母さんが立っていた。
「待って、観月ちゃん!」
私も泣きそうになった。
静香が目を覚ました。
病室に入ると静香はとても弱々しげな笑顔を私に向けていた。
「お、おはよう」
どう声をかけていいかわからなくて、こんな変な言葉しか出てこなかった。
「おはよう」
静香も笑って返してくれる。ああ、一週間ずっとこの声が聞きたかった。涙が出そうになるのを堪えてベッドの脇にある椅子に座って彼女の手を握る。
「ごめんね」
「……なんで静香が謝るのさ」
「えへへ、心配かけちゃったから……」
「早く元気になってよね。来週の縁日でたこ焼きとかわたあめとか買ってくるからさ」
無理して元気な声を出して、話しかける。そうでもしないとすぐ震えた声になってしまいそうだった。
「うん。楽しみだなぁ」
扉の向こうから医者と静香のお母さんが話す声が聞こえてくる。短かったけれど、今は面会謝絶なんだから少しだけでも話ができてよかった。
「もう出ないと」
「あ、待って」
握っていた手を放そうとしたら静香が握り返してくる。
「今夜、迎えに行くから」
「え?」
「夜更かししないでね」
その言葉の意味はよくわからなかったけれど、それを聞くこともできず、医者や看護師が病室に入ってきて、私は外に出るしかなかった。
今夜、迎えに行くから。夜更かししないでね。
静香は何をしようとしているのだろう。
*
神社の縁日に私はいた。
浴衣を着て、手に巾着を持っている。
屋台や提灯の明かりが煌めいてとても幻想的だ。
太鼓や笛の祭囃子、子供や大人の声。その喧騒はどこか遠くに感じられた。
境内の真ん中にある御神輿。これを大人たちが隣町の浜辺まで担いでいく。昔からあるこの町の伝統的なお祭り。町中の御神輿が集まって浜辺は何十もの神輿でいっぱいになる。
お賽銭をして神様にお願いをする。
静香が元気になりますように。
この願いは届くだろうか。届いてくれるのなら毎年初詣の時にお年玉を全てお賽銭に入れてもいい。大人になったら給料を入れに来よう。
――美穂ちゃん。
声がした。
遠くに聞こえる喧騒とは違って、はっきりと。
振り返るとそこに静香がいた。
真っ白なワンピースを着て、笑顔で立っている。
ああ、そうか。
これは夢だ。
きっと静香と縁日に行きたかった私の願望がこんな夢を見せたのだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
「お祭り、すごいね」
「静香は初めてだよね」
「うん」
「そっか。じゃあ夢が覚めちゃう前に見てまわろっか」
「うん」
静香の手を握る。こうやって握っていれば夢が覚めないような気がした。
最初に親戚のおじさんがやっているたこ焼きを食べに行った。いつも一つ多く入れてくれるのだ。
次にヨーヨー釣り。私も静香も取ることができなかった。それでも一つずつサービスしてもらえた。水風船を弾ませながら二人で笑い、わたあめを頬張りながらまた神社のお賽銭箱の前までやってきた。
「縁日って楽しいね」
「うん。これを静香に見せたかったんだ。まあ夢じゃ私の自己満足で終わっちゃうんだけどね……」
「そんなことないよ」
「え?」
「言ったよね、迎えに行くって」
遠くに聞こえていた喧騒が一瞬にして全て消えた。
人もいない。神社の境内に私と静香の二人だけ。
「ほら、あれを見て」
静香が本殿の中を指差す。さっきまでは無かったのに、そこには地下へ続く長い階段があった。
「あれは何?」
「ドリームランドへ続く階段だよ」
「ドリームランド?」
「そう、夢の世界。そこに連れて行ってあげる」
「私も行けるの?」
「うん。今まではできなかったけど、今なら大丈夫」
静香が手を握ってくる。私も握り返す。松明に照らされた底の見えない長い階段は少し怖かったけれど、静香と一緒なら平気だ。
一歩、足を踏み出す。
景色ががらりと変わり、周りはさっきまでいた神社ではなく、石で囲まれた階段だけになった。
一歩ずつゆっくりと降りていく。どれだけ降りただろうか。いつの間にか私たちの服は中世風の衣装に変わっていた。
次第に壁が木材に変わってきた。長い階段がついに終わるとそこには壁と同じ木材のアーチがあった。静香の後に続いて、アーチをくぐる。その瞬間、私の鼻孔を満たした草の匂い。そこには背の高い木々が立ち並ぶ森があった。巨大な木が生い茂り、日光がほとんど届いていない。けれど、森の中は決して暗くはなくて、周囲に生えた菌類のようなものが光を放っていて不思議な明るさがあった。
「シズカ、遅かったじゃないか」
「ごめんなさい。ちょっとあっちで遊んでたの」
そう声をかけてきたのは馬車に乗った大男だった。ローブを纏った彼は馬車から降りて手を伸ばしてくる。
「君がシズカの友達だね。私はオーラン。こっちでの彼女の友達さ」
「あ、えっと、観月美穂です。初めまして――きゃぁっ」
大きな手を握り返すと、強い力で引っ張られ、馬車に乗せられる。訳も分からずぼけっとしていると静香もくすくすと笑いながら乗り込んでくる。
「ふふ、ごめんね。でもここから町までちょっと距離があるから馬車で行こうと思って」
「町?」
「ウルタールって町。とても綺麗な所なんだよ」
「へえ、そうなんだ」
病室では見たことの無い元気な静香に少し戸惑う。きっとこれが本当の静香なんだ。
馬車から森を眺めてみる。木々はねじれて重なりあってどこまで行っても空は見えない。時折聞こえる笛のような音や、早口でぺちゃくちゃと喋るような音は何なんだろう。
「この森には誰か住んでいるの? なんか、ずっと見られているような気がするんだけど……」
「ああ、そりゃズーグだな」
少し後ろを振り向いてオーランが言ってくる。
「ズーグ?」
「ずる賢いネズミたちでなぁ。この森に縄張りを張っているんだ。ここに来る時は奴らにさらわれないよう気をつけな」
「ネズミにさらわれるの?」
「ああ。まあ気をつけてさえいれば大丈夫さ。多分な」
「多分って……」
「ま、だから私がこうやって町まで送ってあげてるわけさ」
「……静香、大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。話してみると意外と面白かったりするし」
「そ、そうなの……?」
そんなことを話していると馬車が森を抜けて開けた場所へ出た。馬車は川沿いに進んでいく。薄暗い森の中とは変わって、爽やかで気持ちのいい風が吹いていた。のどかな風景の中に小さな家が点在し、どこか心が落ち着くような気がする。
「ねえ、静香、ドリームランドについて教えて」
前に聞いた時はよくわからないと言われたけれど、今ならもっと詳しいことを知っているんじゃないかと思って聞いてみた。この一週間の間にきっと彼女はこっちの世界で色んなことを学んだのではないだろうか。だからこそ私は今ここに連れてきてもらっているのだと思う。
「何度も言ったと思うけど、この世界は夢、幻の世界なの。私たちが見る夢。私たちとは違う存在が見る夢。色んな存在が無意識の中で作り上げた共通のもう一つの世界。それがこのドリームランドなの」
静香は私にもわかるようによく考えながら話す。
「今私たちが生きている時代よりもずっと昔から人間は生きているでしょ? 江戸時代とか平安時代とか。でもそのさらに昔、私たちの先祖が原始人だった時よりもさらに昔。この地球が誕生して最初の生き物が地球にやってきて、その生き物たちが夢見た、夢想した空想がこのドリームランドを形造っているの」
静香の言ったことは私の想像を遥かに超えたスケールだった。地球が誕生した時。何十億年も昔。しかも最初に『誕生した』生き物ではなく、『やってきた』生き物。
「宇宙人がやってきてこの世界を創ったの?」
「そうなるのかな? 私もまだそういうのは詳しくは知らないんだけど……でもその生物や神様がこのドリームランドを創って、その後に生まれた生き物たちも夢を見ることでこの世界は少しずつ創られていったの。私たち人間が原始人の時から少しずつ現在の文化、国、歴史を作っていったように」
「うーん、まだよく理解できてないけど、とりあえずいいや。じゃあ、私たちは今ここにいるけど、でも夢を見ているわけだから本当の体はベッドで寝ていると思うんだけど、オーランさんとかさっき言ってたズーグとか、そこに見えてる家に住んでいる人たちもみんな現実の世界で寝ていて夢を見ているときだけこっちに来ているの?」
「そいつは違うぞ」
ハッハッハと絵に描いたような豪快な笑い声を上げてオーランが言う。
「私たちは生まれも育ちもこのドリームランドだ。君たち夢見る人が特別なんだ」
「夢見る人?」
「君たちと違って私たちは夢の世界に生まれたからこそ夢を見ることはできないんだ。だから君たちが覚醒の世界からこちらに来れても、私たちはここから覚醒の世界に行くことはできない。あちらの世界での体が無いからな」
「夢見る人っていうのはこの世界での私たちのことなの。夢を見てここに来るから夢見る人。あと、これ」
静香が右手のひらをこちらに突き出してくる。そこに左手を合わせる。
「いくよ? いち、に、さん――」
掛け声にあわせて左手を上げる。すると、右手にコインが載せられていた。
「え、すごい! 手品できたの?」
「手品じゃないよ。これが夢見る人がドリームランドで使うことができる特別な力なの」
「そんなことができるんだ」
試しに私もやってみるけれど、コインが出てくることは無く、奇妙な脱力感が残るだけだった。
「最初はできないよ。私も何度も来てやっとできるようになったし。初めてきていきなりできたら嫉妬しちゃうな」
「むう、ずるいぞ」
「美穂ちゃんもこうやってこっちに来れたんだしきっといつかできるようになるよ」
「そうだといいなぁ。魔法使いみたいだもん」
三人で笑っていると前方に町が見えてきた。
「あれがウルタール?」
「うん、そうだよ。猫がいっぱいいるんだ」
「猫もいるんだ。でもその猫もズーグみたいに違っていたりするの?」
「ううん、猫は私たちのとこの猫と一緒だよ」
ウルタールに入っていくと、本当に猫が多かった。多いと言うよりはむしろ、猫の町に人間が住み着いたような印象すら覚えるくらいだ。色んな種類の大量の猫たちが町中を駆け回っていた。
建物も日本では見かけない形をしている。ヨーロッパの古い町にありそうな建築ではあるけれど、奇妙なのは全ての建物の上階が張り出して造られていた。いったいどういう経緯でこのような家を建てるようになったのだろう。
「なんかすごいね」
「すごいでしょ。美穂ちゃんをここに連れてきたかったんだ。あ、でも猫大丈夫だった? アレルギーとか……」
「大丈夫。むしろ大好きだよ猫。夢みたい……って夢か」
「ふふ、それじゃあ降りようか」
私たちは馬車から降りてオーランさんと別れて町の観光を始めた。
馬車から降りた途端、猫たちが足元に集まってきてすり寄ってくる。可愛い。どれかお持ち帰りしたいくらいだ。
「寝るだけでまるでヨーロッパの観光に来ているみたいだね。すごいや、ドリームランド」
「美穂ちゃん、すごく顔がとろけてるよ」
「だって、こんなに猫いっぱいでみんな可愛いし」
小さい頃から猫が好きでずっと飼いたかったのだけれど、一言目には勉強をしろが口癖の両親は猫はおろか縁日の金魚ですら飼うことを許してくれなかった。だからこの町は天国のような場所だ。
「予想以上に喜んでもらえて嬉しいよ」
静香は少し苦笑いしながらにこにこと私を見ている。とりあえず猫とじゃれあうのをやめて、立ち上がる。
「ちょっと、お腹すいちゃった」
「ぷっ」
何がそんなに面白かったのか静香が吹き出して笑う。ちょっと恥ずかしいけれど、つられて私も笑う。
ああ、楽しい。
この夢がずっと覚めなければいいのに。
すり減った丸石の敷かれた古くて狭い通りを猫たちと一緒に通る。静香に案内されているのか猫に案内されているのかよくわからなくなる。どこからかいい匂いが漂ってくる。ふと上を見れば猫の描かれた木の看板が掲げられたお店があった。
「ここのお店が美味しいんだよ。それに中に入ればきっと驚くよ」
ずっとにこにことしている静香が開けてくれた扉をくぐる。猫たちも一緒になって入ってくる。
「いらっしゃい」
低い老人の声。でもカウンターには猫が一匹いるだけで誰もいない。誰がどこから声をかけてくれたのかきょろきょろとしていると、
「おや、シズカじゃないか。今日はお友達も一緒かい」
また声が聞こえた。カウンターから。でもやっぱり誰もいない。いるのは猫だけ。年老いた猫。じっと私の方を見ている。
「え、いや、まさか……」
「そのまさかだよ、美穂ちゃん」
「え、うそ。ほんとに?」
「ほんとじゃよ」
年老いた猫がにっと笑ったような気がした。
「ほんとじゃよ」
静香が真似をして言う。すごく楽しそうだ。
「人の言葉がしゃべれるの?」
「そうだよ。そして、今私はこの方から猫の言葉を習ってるの」
「猫の言葉?」
「うん。見てて」
静香がしゃがんで近くにいた一匹の猫と向き合う。その直後、聞こえてきたのは本物そっくりな猫の鳴き声。それに対して猫も鳴き声を上げて答えているように見える。そのまま静香と猫は二言三言言葉を交わす。まるで本当に会話をしているみたいだ。
「何を話しているの?」
「美穂ちゃんが可愛いって」
「ちょっと、なんてこと話してるのさ!」
「みんな可愛いって言ってるよ」
「や、やめてよ」
なんかものすごく恥ずかしい。顔が熱い。
「それで、何を食べるのじゃ?」
「あ、じゃあ今日のオススメで」
「あいわかった。今日は良い魚が入っておるぞ」
老猫がカウンターから降りて厨房の中に入っていく。
「まさか料理もあの猫が?」
「そうだったら面白そうだねぇ」
さすがにそういうことは無いらしい。二人で隅の席に座る。猫がさも当然のように膝に乗ってくる。
「これ美穂ちゃんが猫アレルギーだったら大変だったね」
「もしそうだったら今頃死んじゃってるかもしれないね」
「出発する前に聞いておけばよかった」
「静香はドリームランドには何度も来ているんでしょ? ここ以外にどこか行った?」
「んーと、キャラバンの人たちと一緒にこの先にあるオオナイっていう町に行ったことがあるよ」
「どんなところ?」
「みんな面白い人たちばかりだったよ。芸人さんばかり。踊り子だとか詩人だとか。昼間は寂しい町だと思ったんだけど、夜になると町中から音楽が聞こえて明かりがきらきらしてて面白いところだった」
「いいねぇ、そういうところ」
「あとはね――」
その時、静香の声がとても遠くに聞こえた。
それだけじゃない。膝の上に乗っていた猫の重さが無くなり、見えていたものが全て遠く感じられた。
「あれ」
「ああ、美穂ちゃんはもう覚めるんだね」
遠くから静香の声が聞こえる。
「やだ、もっといたい……」
自分の声すら遠く感じる。
「大丈夫だよ。私はいつでも待ってるよ」
「静香……?」
視界がかすむ。
遠くから音が聞こえる。
機械的な音。
それが目覚ましの音だと気づいてしまった瞬間、一気に店の中から色と音が失われた。
「大丈夫。また、いつか、会えるから」
静香、それはどういうこと?
その言葉を発することができたのかわからない。
急に体の自由が利くようになり、跳ね起きるとそこはもう私の部屋であった。
*
私は学校にも行かず、すぐに病院へと向かった。ドリームランド。静香と同じ夢。静香と一緒に歩いた街。彼女も見ていたはずだ。学校になんて行っている場合じゃなかった。ようやく私も見れたのだ。
あの最後の言葉。あれはどういう意味だったのか。いても立ってもいられず、すぐ近くだというのに自転車に乗って信号も無視して全速力で病院まで走った。
しかし、病院に着いてすぐ病室に行ってもそこに静香はいなかった。慌ただしく動いていた看護師を捕まえて彼女の行方を聞くと、彼女が深夜のうちに死亡したのだということだった。心臓が止まっており、蘇生を試みてもすでに手遅れだったという。
何度も何度も頭を下げて、特別に見せてもらった静香の顔は、ちょこっと昼寝をしているだけのような、今すぐにでも目覚めて、あの可愛らしい笑顔を見せてきそうな寝顔であった。
ああ。
そういうことだったのか。
私はいつでも待ってるよ。
また、いつか、会えるから。
あの言葉の意味。
理解した。
涙は流れなかった。
むしろ笑えていたと思う。
看護師が変な顔をしている。不謹慎だとでも思っているのだろう。
でも、違う。
彼女は死んだのではない。
ついに彼女はあの夢の世界へ旅立つことができたのだ。
病室という小さすぎる世界からあの広大な夢の世界へ旅立ったのだ。