莉沙と白馬の王子様
莉沙は、この不思議な物語に魅了されていた。絵が生き生きと物語を伝えてくれる。ボンレス=ミャオが端正な顔を歪めて切ない想いに身を焦がす姿は、淡々とした文章では伝えきれない彼の熱情を表現していたし、仇のモック=フランの感情が高ぶったとき、美しい「ガワ」から腐り爛れたおどろおどろしい本性が漏れ出すシーンのインパクトは強烈だった。ニック=ショックは精悍なハンサムだけれど、その表情や仕草はコミカルで、くすりと笑ってしまう。
莉沙は小さな頃から、クラリッサの物語に楽しませて貰ってきた。クラリッサは素晴らしい才能をもっている。だから、莉沙は思ったのだ。この才能を知るのが自分だけなんて、もったいない、と。
莉沙は空に浮きあがるような足取りで、駅へと慣れた道を行く。道行く人々に不審に思われるとわかっていても、表情がほころぶのはとめられない。
(そう、そうなの! クラリッサの絵本はすごいの! クラリッサの物語に、きっとみんなが夢中になるって、私、信じてた!)
『クラリッサの物語』はいま、莉沙だけが知る物語ではない。インターネットを使えるひとなら、誰だって、クラリッサの不思議な世界にとびこむことができる。
莉沙がクラリッサに、インターネット上に作品を掲載してみないかと持ちかけたとき、クラリッサは少し考えていた。あまり乗り気ではないような気がしたけれど、莉沙はねばり強く交渉した。
「ねぇ、クラリッサ。絵本の中で、青い目の女のひとが、言ってたよね? たくさんのこどもたちに、不思議な世界があることを教えてあげたいって。クラリッサもそうじゃないの? インターネットに掲載すれば、たくさんのひとに見て貰えるんだよ。不思議な世界を信じるきっかけを、私だけじゃなくって、他のひとたちにも与えてあげたいんだ。駄目かな?」
クラリッサは莉沙の熱意におされるかたちで、掲載を承諾した。
『クラリッサの物語』は、ネット上でちょっとした人気者だ。精緻に描きこまれ透き通るような色彩を纏うクラリッサの絵は、たくさんのファンを獲得した。莉沙が思った通りだ。好意的な感想がおおく寄せられ、莉沙は嬉しい悲鳴を上げている。
(すごいなぁ、やっぱり、クラリッサはすごい! こんなに人気なんだもん。そのうち、絵本が出版されちゃうかも!)
そうなったら、クラリッサの夢が叶う。クラリッサはきっと喜んでくれるだろう。貰った感想をプリントアウトして、読み聞かせたときみたいな笑顔をまた、見せてくれる。
莉沙はかすかにハミングして、スキップもしていた。浮かれて気が漫ろになっていた莉沙は、通行人の胸にぼすんと飛び込んでしまう。
莉沙の目線の高さには、ネイビーのネクタイの固い結び目があった。ぶつかった相手は、跳ね返り尻持ちをつきそうになった莉沙の背に手を回して支えてくれている。懐に抱かれると、フレグランスの匂いがぷぅんと鼻をつく。痛みを感じるほどに強烈だ。
莉沙は冷汗をかきながら恐縮して親切な通行人を見上げる。
「すっ、すみません! 私、ぼうっとしてて……!」
勢いよく頭を下げたので、彼の襟ぐりに頭突きしてしまった。莉沙はあわあわと泡を食ったけれど、青年は寛容な姿勢を崩さずに、通行の妨げにならないよう、莉沙の背に手をあて、道の端に誘導した。紳士的なエスコートをした青年は、鷹揚に含み笑う。
「私こそ、失礼しました。お怪我はありませんか?」
「いえ、とんでもない! 私、普段からぼうっとしてるんです。父にいつも注意されてて……ええっと、体は平気です。どこもちっとも痛くありません。ご親切に、どうもありがとうございま……」
感謝の言葉の途中で、莉沙は続きを紡げなくなった。ぽかんと呆ける莉沙の目の前には、金髪碧眼の王子様が立っていたのである。
「……白馬の王子様……!」
と咄嗟に口走ってしまった程、彼には「白馬の王子様」という形容がぴったり当てはまる。
(なんて素敵なひと……! こんなひと、映画でも見たことない! ……あれ? でも、なんか、何処かで見おぼえがあるような……?)
うっとりと、ぼんやりとしていた莉沙は、やがてはっとして我に返った。失言にも気が付いた。頬がかっと燃える。莉沙はまた勢いよく頭を下げた。
「すすす、すみません! 私ったら、また変なこと言って……! 母にいつも叱られてるのに、ちっとも悪い癖が抜けなくて、本当にすみません!」
へどもどする莉沙に、青年は優しい声調で言葉をかけた。
「いえ、そんなことは……。いささか驚きはしましたがね。あなたのような可憐なお嬢さんに、白馬の王子様と言われて、悪い気がする男はいないでしょう」
「かっ、可憐だなんて……! お気づかいありがとうございます。本当に、気持ち悪くて、すみません……もう、夢見る女の子でいられる年齢じゃないのに、恥ずかしい……!」
語尾が凍える吐息とともに消え入り、それと一緒に莉沙はしゅるしゅると小さくなっていく。
莉沙はロマンティストだ。クラリッサの影響もあるが、生れもった性質がそうなのだろう。いつか必ず白馬の王子様が私を迎えに来る、と実は本気で信じている。
それを、バカにしたり、呆れたりしないで聞いてくれるのは、クラリッサだけだ。気を使って、好意的にとらえる「ふり」をしてくれる優しい人もいるが、どんなに取り繕っても、取り繕いきれない間がどうしても生じる。
己の趣味嗜好を恥などとは思っていないが、初対面の素敵な紳士の前で、ドン引き必至のカミングアウトするのは、行き過ぎた羞恥プレイだ。
穴があったら入りたい莉沙に、青年は腰を落として顔を近づける。瞠目する莉沙の頬に手をあてて瞳を覗き込み、青年は甘く囁いた。
「私はね、リサさん。マイノリティーに対する迫害は、現代社会の悪しき風潮だと思うのです。少女趣味を嗜好しようが、グロテスクを嗜好しようが、嗜好は個人の自由であり、何者にも侵せぬ聖域として尊重されるべきだ。気持ち悪くなんて、ありませんよ」
驚異的に整ったアルカリックスマイルを目睫の距離にみて、莉沙は感激して涙ぐんだ。茨の道を行く覚悟を決めておよそ十年間。覚悟をしていても、マイノリティーに対する心ない差別と中傷に心を痛めつけられることは珍しくなかった。いつも優しく励ましてくれるクラリッサがいなければ、心が折れていたかもしれない。
青年の意見を聞いて、莉沙は嬉しかった。なんと懐の深い人なのだろう。じぃんと感動が胸にしみわたる。
青年は莉沙の頬を押さえ、ふと顔を傾けた。青年がまたたきすると、長い睫毛が莉沙の瞼をたたく。莉沙は吃驚仰天して、ハムスターのようにひっくり返って失神しそうになった。しかし青年はそれを許さず、背に回した腕で莉沙を引き戻す。異性の顔がこんなに近くにあるのは生まれて初めてだ。いや、赤ん坊の頃、父親が頻繁に頬ずりしていたらしいので、経験はあるのはあるのだろうが、記憶にはない。
(なっ……なになになに? どうしたの、これ、なに? なんて少女マンガ? なんて少女小説? それとも、本当に現実……このひと、私の王子様?)
莉沙の瞳が白眼の上で臆病な小魚のように逃げ惑う。大きな手で頬を挟まれて、びくりとして青年の双眸を見返した。青年の瞳は、冷たい炎のように赤々と燃えている。
「ただし……人様を不愉快にさせたら、しっぺ返しを食らうのは当然だろうな」
青年が粘度の高い声を楓子の耳元に吹きこんだ。彼の呼気が、おどろおどろしい赤と紫の斑に染まった煙となって、莉沙の顔を包み込む。形容し難い臭いを嗅いで、莉沙の意識が混濁していく。力が抜けて、体がふわりと浮くようだ。青年は、莉沙が布切れで出来た人形であるかのように抱きとめる。にやりと剥いた歯は、鮫のようにぎざぎざに尖っていた。
「黒髪、青い瞳、リサという名……あのふざけた物語を有象無象に見せびらかした愚かな女! とうとう見つけたぞ。ボンレス=ミャオ、よくも、このモック=フランを散々こけにしてくれた。この礼は、たっぷりとさせて貰おうぞ!」
(そうだ……このひと、ガワを被ったモック=フランにそっくり……)
青年の高笑いが遠のいていく。莉沙は意識を手放した。