莉沙とクラリッサの絵本(6月29日修正)
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「お先に失礼します、お疲れ様でしたー」
佐伯莉沙は、売上清算と報告を済ませ、その日の業務を終えた。戸締りをしっかり確認して、アルバイト先の書店を後にする。
アルバイトを始めて半年にもなると、古めかしい引き戸の鍵穴に曲がった鍵を差し込み、施錠するのも慣れたものだ。最初の頃など随分てこずってしまって、十分近く、格闘していたこともあった。
外に出ると、冬の空気の焦げたようなにおいが冷たく鼻をつく。微細な氷の刺を突き刺すような寒さに首を竦め、莉沙はマフラーに顎を埋めた。暖かい。親友のクラリッサが心をこめて編んでくれた手編みのマフラーは、莉沙のお気に入りだ。
猫背気味に歩き出し雑踏にまぎれる。せわしない都会の人々はいつも足早に通りすぎていくが、この時期は輪をかけてそうだ。誰もが、今年を恙無く終え、滞りなく新年を迎える為の準備に忙しい。
月日は百代の過客にして、とは奥の細道の一節にある言葉だが、その通りだと莉沙は思う。瞬きをする間に一年が過ぎてしまったと言っても過言ではなかった。一日が24時間で、一年が365日しかないなんて、とても足りない。寝ている時間すら惜しい。
莉沙の日々は満ち足りていた。過酷な受験戦争を、なんとかかんとか乗り越えて、今年の四月から始まった夢のキャンパス・ライフを満喫している。
勉強はそこそこに、気の合う友人と夜通し語り合う。女性向けの、ラブストーリーを主軸としたマンガや小説について。
そして、大学の掲示板に貼りだされていた求人票に応募して、アルバイトを始めた。アルバイトのことは、両親には内緒だ。父は「仕送りの額が不十分なんじゃないか」と気を揉むだろうし、母は「アルバイトなんかしていたら、学業がおろそかになる」と反対するだろうことが目に見えている。お金の為にアルバイトを始めたわけではなくて、ただ、本屋さんという仕事に、漠然とした憧れを抱いていたのだ。
もうずっと前から、大好きなクラリッサが、故郷の書店で働いていたと聞いた時から。
莉沙の毎日が輝き満ち足りている一番の理由は、クラリッサだ。クラリッサの絵本「クラリッサの物語」を、一人でも多くのひとに読んで貰う為だ。
十五年前の夏の日。莉沙はパッチワークの丘の魔女、クラリッサと出会った。それから毎年、夏休みには必ず祖父母の住む田舎を訪ね、クラリッサと交流を続けてきた。
莉沙はクラリッサが大好きだ。すらりとした長身の美人で、優しくて、なんでも自分で出来る。なんでも知っている。なんでも教えてくれる。莉沙はクラリッサに憧れていて、クラリッサみたいになりたいとずっと思ってきた。一人暮らしを始めて、両親の目が届かない生活を始めて、最初にしたことは、カラーコンタクトを購入することだった。クラリッサと同じ、とまではいかなくても、青い瞳を鏡に映すと、地味で垢ぬけない自分が少しだけ、理想の女性に近づいたような気がして嬉しい。
クラリッサは不思議な女性だ。椰子の木が生えた孤島のように、ぽつねんと佇む小さな家で、まるで世捨て人のようにひっそりと暮らしている。けれど、世捨て人ではない。莉沙が都会での暮らしぶりを話すと、興味深そうに聞き入る。買ったばかりのスマートフォンをかしてあげると、小一時間、夢中になっていた。
クラリッサは好奇心旺盛だ。彼女は色々なことに関心をもつ。
ところが、クラリッサは情報を得る術はごく限られている。クラリッサの家には、テレビがない。ラジオもない。電話もない。もちろん、パソコンも携帯電話もない。いわゆる文明の利器が、クラリッサの慎ましい暮らしには取り入れられない。
「不便じゃないの?」と聞いたことがある。クラリッサは「そうね。でも、彼はそういうものと馴染まないから」と、微笑んで頭をふった。
クラリッサが言う「彼」が何者なのか、莉沙は知らない。クラリッサに訊ねても、要領を得ない。ある時は「妖精のようなものね」と答え、またある時は揺れる茂みを指さし「そこにいたわ」と答え、またまたある時は「私の大切なパートナーよ」と答える。
クラリッサに、莉沙をからかっているつもりはないだろう。クラリッサは、そんな意地悪はしない。
クラリッサには不思議なものが見えているのだ。きらきらと輝く、不思議なブルーの瞳には、常識や固定概念に隠された、手つかずの世界が見えるのだ。羨ましいことに。
クラリッサが描く不思議な物語は、件の「妖精のようなもの」が語るものかもしれない。なぜならば、クラリッサは彼女自身の描く物語の全貌を把握していないと言うのだから。
「私は聞いた通りに描いただけ」
何度尋ねても、クラリッサはそう答えるのだ。
クラリッサは絵本作家である。
「アマチュアだけれどね」
とはにかむクラリッサが、優しいタッチで紡ぎだす、夢のように不思議で素敵な物語は、莉沙を魅了している。
クラリッサは長い長い物語を描いている。青い目の女性と妖精たちの物語だ。
物語は不死王ボンレス=ミャオが「終わりを招く者」モック=フランと「平らげる者」ニック=ショックの奇襲を受け、王座を追われるところから始まる。
ボンレス=ミャオは不死者であったので、モック=フランは「未来永劫の牢獄」にボンレス=ミャオを幽閉したが、ボンレス=ミャオは辛くも脱出に成功する。
ところが、簒奪を謀った狡猾なモック=フランは、抜け目がない知恵者だった。共謀者であるニック=ショックを出しぬき、生き馬の目を抜く速さで王位についていた。そうして、ボンレス=ミャオはお尋ね者になっていた。
ボンレス=ミャオに逃げ場はない。憎きモック=フランから王位を奪還したい気持ちは山々だが、老獪なモック=フランが快く、正々堂々の一騎打ちに応じるとは思えない。それに、こてんぱんにやられた上に、モック=フランの瘴気に蝕まれた体では、とても敵わない。
傷つき消耗したボンレス=ミャオには休息が必要だった。清浄な空気のなかで瘴気を絞り出さなければならない。
ボンレス=ミャオは追手をかえり討ちにしつつ、やっとのことで「世界の裂け目」を見つけ出し、飛び込んだ。表側の世界に逃げ込んだのだ。清浄な空気のなかで、人間が住まう世界へ。
そこで、ボンレス=ミャオはひとりの女性と出会う。ボンレス=ミャオを迫害していた人間たちとは違う、心やさしい女性。猜疑心を研ぎ澄まし、攻撃的になるボンレス=ミャオを責めずに、ボンレス=ミャオの為に心を砕いてくれた。
ボンレス=ミャオは徐々に献身的な女性に心を許すようになった。そうして、女性がその希有な優しさゆえに、周囲の人間から不当な扱いを受けていることを知る。
ボンレス=ミャオは、優しくひたむきな女性を、いつしか愛するようになった。彼女を傷つけるものが許せなかった。彼女には、いつも笑顔でいて欲しかった。
思いあまったボンレス=ミャオは、女性を裏側の世界に誘い、連れ去ってしまう。
ボンレス=ミャオは本来の姿をあらわし、彼女に求婚した。最初こそ戸惑い泣いていた女性だったけれど、献身的に尽くすボンレス=ミャオの愛をついには受け入れた。晴れて夫婦になった二人だったけれど、幸せな暮らしは長くは続かなかった。
モック=フランの追手は、王すら干渉できない裏側の世界の果ての「忘却の雪原」にまで及んだ。ボンレス=ミャオが目を放した一瞬の隙に、女性はモック=フランの追手に連れ去られてしまう。
ボンレス=ミャオは慌てて後を追い、モック=フランの追手を倒した。ところが、あと一歩、遅かった。女性はモック=フランの追手から逃れようと抵抗し、腐乱の一撃を受けていたのだ。このままでは、か弱い女性の命が危ない。
ボンレス=ミャオは女性の命を繋ぎとめる為に、忘却の雪原を領地とする女王を頼った。女王はどんな傷もたちどころに癒す力をもっている。しかし、無償でその恵みを与えはしない。
女王の大好物は幸福な記憶だ。女王は女性の傷を癒すことと引き換えに、女性の心のなかの、ボンレス=ミャオを愛した記憶を要求した。
背に腹はかえられず、ボンレス=ミャオはその条件を涙と一緒にのんだ。女性はボンレス=ミャオを愛した記憶を失い、ボンレス=ミャオは女性を表側の世界にかえした。
女性の笑顔を守るために彼女を連れ去った。それなのに、女性は笑顔ばかりではなく、命まで失うところだったのだ。ボンレス=ミャオと愛し合ったばかりに。
女性は元居た世界に戻ったが、一年間の失踪中の記憶を失った女性は、大変な苦労をしてしまった。一番辛いのは女性なのに、周囲の人間たちは冷たく、誰も彼女の支えになってやらなかった。それどころか、心ない差別と嘲笑で彼女を追い詰めた。彼女の親さえ。
ボンレス=ミャオは憤った。心ない周囲の人間に対しても、傍にいることしか出来ない無力な自分自身にも。そればかりか、ボンレス=ミャオの存在は、女性にさらなる災厄を招いてしまう。
女性は偶然「世界の裂け目」を潜り、狭間の回廊に迷い込んでしまった。そこで女性はモック=フランの配下に襲われた。手遅れになる前にボンレス=ミャオは彼女の元へ駆けつけ、彼女を逃がす為に奮闘した。本来の力ならば、赤子の手を捻るより容易く一掃出来るのだが、ボンレス=ミャオはまだ、そこまで回復していない。
それでも、うまく逃がせると思った矢先に、最悪な厄介者が乱入してきた。
ニック=ショックだった。ニック=ショックとモック=フランの協力関係は決裂した様子で、ニック=ショックはモック=フランの手下をあっと言う間に平らげる。そこまでは良かったのだが、ニック=ショックは表側の世界に擬態したボンレス=ミャオの正体にも気が付いた。ボンレス=ミャオの息の根を止めようとした。
そこに女性が待ったをかけた。身を呈してボンレス=ミャオを救おうとした女性の勇気は皮肉にもニック=ショックの関心を買ってしまい、危うく連れ去られてしまうところだった。
ボンレス=ミャオはニック=ショックの隙をついて、女性を連れて逃げだした。もう、女性を故郷へ戻すわけにはいかなくなった。
……と言うのが、これまでのあらすじだ。続きは、まだない。
「彼が続きを教えてくれるのを待っているの。私も知りたいのよ、この先を」と、クラリッサは少し寂しそうに微笑んでいた。