また?
リサは、スケッチブックとペンケースをもって図書館に赴いた。童話や民間伝承、幻想文学のコーナーにはりつく。誰かがリサを指さして笑ったかもしれないけれど、リサはとても集中していたから、気に留めなかった。
ふと気が付くと、町が朱銀に染まっており、リサは慌てて席を立った。急いで帰らなければ。リサの家の周りにはアーク灯がない。日が沈むと、ぽつりぽつりとある家屋の窓から漏れる灯りと月の他に、頼るものがなくなってしまう。
リサは人通りの多い往来を進むのではなく、薄暗い路地に折れた。家と家の隙間の隘路。若い娘の間では猫の近道と呼ばれている。
リサは薄暗い路地裏を、スカートの裾をさばいて走った。塀さえよじ登って超えた。ここをつっきるのが、一番の近道だ。
そこで、リサは傍と気がついた。強烈な既視感。
(待って。前にも、同じようなことがあったわ)
リサは異変に気がついた。しかし、その時にはもう、遅かった。
なにかしら、不吉なものが空の低い雲の下でその翼を大きく広げている。このあたり一帯が、その影にすっぽり入りこんでしまったかのようだった。
生れ育った町とよく似たゴーストタウンに、リサは迷い込んでしまっていた。
(うそ)
リサはほとんど挙動不審と言って良い程に落ちつきなく、白眼の上で瞳をきょときょと泳がせる。いま、彼女は胸騒ぎがしていて、瞳に火花のように、僅かな光を反射していた。両の手を胸の前で握り合わせ、時々擦り合わせる。摩擦で生じる熱は、しかし、心許ないひとりぼっちの寒さを慰めるには足りない。
(うそ、うそ、うそ! まさか私、また……!? また妖精に浚われてしまったの!? そんな、どうして私が……)
あり得ない、なんて言いきれない。そもそも、どうしてこちらの世界に戻されたのかも、わからないのだから。
どうして二度目がないと思い込んでいたのだと、リサは自分自身を呪いたくなった。
ふと、誰かに見られているような気がして、リサは立ち止り、あたりを見回す。電線が撓んでいるだけだ。五線譜に置かれた音符のように、カラスがとまっているということもない。
「誰かいるの? ……あなたなの? また、私を浚って……今度は、どうするつもりなの?」
返事はない。
もしかしたら、ここは元の世界かもしれない。そうでなくても、同じように迷い込んだ人間がいるかもしれない。
祈るように固く閉ざされた戸を叩き続けて、もう、何件目になるだろうか。今度こそという淡い期待は何度でも裏切られる。
溜息といっしょに視線を足元に落とす。仄かな藤色の燐光を帯びる雪のようなものが、風も無いのに舞い上がり、見上げれば、空の低いところを旋回している。
リサは素早く浅い呼吸を繰り返す。藤色の靄がかかった、肌を棘のようにさす大気を胸いっぱいに吸い込むことに躊躇いがあるのだ。息苦しいのはそのせいか、それとも、この妖しい大気のせいなのか。
リサは恐る恐る、震える喉から声を絞り出した。
「誰か……誰かいませんか……」
森閑な町は木霊すら返してくれない。不安で胸が押しつぶされるように痛み、リサは胸を押さえて前屈みになった。
(なんでこんなことになっちゃったの……)
涙ぐむリサ。その視界の端に、猫の近道から飛び出す小さな影を捉えた。
リサは跳ねる心臓につられるかのように飛び上がる。影は真っすぐに此方にかけてくる。灰色の毛衣に包まれた身体がしなやかに躍動し、リサの足元でぴたりと止まる。先がぎざぎざした三角の耳をぴんとたて、琥珀色の目で少女を見上げた。
リサは胸を撫で下ろした。利発なドラ猫、タイガーだ。リサはしゃがみこんで、猫の頭を優しく撫でた。
「まぁ、タイガー! 心配して探しに来てくれたのね。お前はなんて優しい子なの」
小さな頭を撫でてやろうとした手を、タイガーは敏捷にすり抜けた。当惑して行き場をなくした手を宙に彷徨わせてているリサにタイガーは尻を向けて、かろやかに元来た猫の近道を引き返す。塀の向こうから顔を覗かせ、じっとリサを見つめた。
誘われている。そう察知したリサは、タイガーについて行くことにした。タイガーは少し進んでは振り返り、リサがしっかりついてきているか確認しながら、足早に先を急いでいる。
身体を斜めにして塀と塀の間の狭い隙間をすり抜けつつ、リサはどうして来た道を引き返すことを今まで思いつかなかったのだろうかと、今更、不思議に思った。
なんとか塀の峡谷を抜けると、タイガーはぴょんと塀に登った。この塀を乗り越えなければならない。ひとに見つかれば、悪い噂にさらなる尾ひれがつくだろうと、こそこそとよじのぼった塀だ。
よじのぼって来た塀だった。しかしリサは、城壁のようにそりたつ石壁を見上げて、立ちつくしてしまう。
「……こんなに高かったかしら?」
リサが行きで乗り越えたのは、せいぜい胸程の高さだった筈だ。しかし、行く手を阻んでいる壁は、優に倍の高さがある。向こう側が見えない。
どんな魔法を使ったのか、ひとっ飛びで塀に飛び乗ったタイガーが、しきりに鳴いている。急かされている。リサは、ごつごつした壁肌に手をかけ、困りはてた。
「どうしましょう……。ああ、タイガー! ちょっと、待って。こんな高い壁、どうやってのぼれば良いものか、わからないわ!」
タイガーは覗きこむようにリサを見下ろす。大きくなる鳴き声が、リサを叱咤激励している。しばし躊躇い、リサは臍を固めて石壁の凹凸に五指を嵌めこんだ。右足を石壁の凹凸にひっかけ、五指に力を込めて左足を引き上げようとする。そのとき、左足の足首に、ひんやりと冷たいものが絡みついた。氷水を流し込まれたかのように悪寒が前進を駆け巡る。足首に目を落としたリサの悲鳴すら凍りついた。
地獄から抜け出したかのような異形のもの。それは、餓鬼道の亡者だった。骨のような手でリサの足に縋りついている。落ちくぼんだ眼窩の奥で、鬼火がめらめらと燃えている。
「ニンゲンかな? これ、本物のニンゲンかな?」
「ニンゲンなら、皮の下に甘い血が流れてて、蕩けるような極上の肉がついている筈だ。どぉれどぉれ、ちょっと味見してみよう」
亡者の不潔に伸びた爪がリサの足首をまさぐる。罅割れた爪に肌を引っ掻かれる痛みは、亡者が鉱物のように黄色い歯を剥いたことで、恐怖にけしとんだ。
「いやぁぁぁ!」
リサは溺れたように、闇雲に足をばたつかせた。亡者が怯みのけ反る。そのむき出しの頭蓋に、タイガーが猛然と躍りかかった。
頭蓋の割れ目から覗く中身に爪と牙を立てられ、亡者は悶絶して後退する。タイガーは闇雲に振り抜かれる腕の文目をかいくぐり、亡者の頭を蹴って飛びずさり着地した。リサを背に庇い、擬勢を張っている。七転八倒する亡者の背後に、沼の底から湧きだす泡のように、無数の亡者が湧き出る。
「ニンゲンだ……この女ァ、ニンゲンだ! 骨抜き野郎め、ニンゲンを連れて戻ってきた!」
「ニンゲンの女ァ、最高だよ! 食って良し、犯って良し、殺って良し! 最高だよ! 最高の献上品だァ!」
「そぉだ、そぉだ、そぉしよぉ! 骨抜き野郎、女を寄越せ! ここはモック=フランの領地だぞ。ここに迷い混んだらそれはもう、モック=フランのモノだ!」
「ニンゲンの女なら、あの気難しいモック=フランも、狂喜乱舞で臓物ぶちまけるに違いない! そうなりゃ、オイラたちゃ大出世だァい!」
「みんなァ、モック=フランを称える歌を歌おう!」
亡者たちが金切り声を上げる。リサは堪らず耳を塞いだが、それでも聞こえて来る。
『モック=フラン! モック=フラン! うわべは立派な我らが王! 中身はどろどろぐっちゃぐちゃ! だけどそれは、絶対秘密! でなけりゃ頭をかち割るぞ! でなけりゃ舌を引っこ抜くぞ! モック=フラン! モック=フラン! 冷酷無慈悲な我らが王! 紳士のふりして本当はチンピラ! だけどそれは、絶対秘密! でなけりゃ目玉を穿るぞ! でなけりゃ手足をちょんぎるぞ! モック=フラン! モック=フラン! 皆で称えよう我らが王を! 最高の反対、我らが王を!』
亡者たちは劈くように哄笑している。そのあまりの恐ろしさに、リサはよろめくように後ずさった。石壁に背を押しつけたまま、兎のように竦んでしまった。
そんなリサにげきを飛ばすように、タイガーが鋭く鳴く。毛衣を膨らませ、踏み込んできたものに飛びつき後退させながら、タイガーが一瞬、リサを振り返る。リサには、タイガーの言葉がわかった。
『急いで登れ!』
そう言っている。
タイガーを置いていくことは出来ないと頭を振ると、タイガーは苛立ったように目を眇めた。それでリサは、自分が留まっていても、足手まといになるだけだと気がついた。タイガーの為にも、一刻も早く壁を越えなければならない。
リサは弾かれたように壁に飛びついた。邪魔な履物を足から振るい落し、なりふり構わず蜘蛛のように壁をよじ登る。非力な両手の筋が悲鳴を上げる。足が滑り、何度もごつごつした岩肌に頬を擦り傷つけられたが、頓着せずに必死に登った。
リサの手がとうとう、塀の頂きにかかる。あとは身体を押し上げるだけというところまできた。リサははやる気持ちを押さえつけ、慎重に両手をかけ、足を一段高く上げる。背虫のように身体を丸め、上体を頂上に押し上げた。胸を壁の上に載せる。
壁の向こうでは、野良猫たちが追いかけっこをしている、暮れなずむ町の変わらぬ風景がある。懐かしさと安堵のあまり、リサは涙ぐんだ。しかしすぐに、タイガーがまだ恐ろしい世界に取り残されていることを思い出し、肩越しに振り返る。
タイガーを中心に亡者の群れが扇を描いていて、じりじりと迫っている。タイガーを呼んだが、タイガーはちらりとリサを見上げると、すぐに亡者の群れに向き直ってしまう。
リサがまだ、安全圏に身を置いていないから、引き上げることが出来ないのだ。リサは慌てて壁を跨ごうとした。
ふいに、肩をぐっと押される。驚いて見上げると、影のように男がぬっと立っていた。三日月のように光る目がリサを眼下に見ている。
リサはまるで、夜走獣に狙いをつけられた獲物だった。本能的な恐怖にかられ、焦げ付くような烈しい目つきの男から目が離せない。
そのとき、背後でタイガーが悲鳴を上げた。リサは反射的に振り返る。亡者の群れが、とうとうタイガーにとびかかり、すり減った歯をタイガーの柔らかな毛衣につきたてている。
リサが叫びかけたとき、肩に重い衝撃がはしった。