出戻り(12月27日に加筆修正しました)
ナツさま主催の「共通プロローグ企画」に参加させて頂きました。
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣をかけたようにうっすらと積もった。一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた、青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
しんしんと雪が降り積もる静かな音。装身具が擦れ合う、冷たく澄んだ音。体の芯まで凍える寒さと、力強い温もりの両方を、リサは知っている。
……何度も繰り返しみた、夢の中で。
妖精。幽霊。その他にもいろいろといる、不思議なもの。それらは確かに存在している。屋鳴りのする家のどこかに。猫がじっと見つめている先に。すぐ傍の闇の中に、それらはきっと潜んでいる。
「会ってみたい。ゴーストでも、フェアリーでも、小人でも、妖怪でも、宇宙人でも、サンタクロースでも、UMAでも、なんだっていいの。とにかく、この世界のどこかには、人智を超える不思議なことが、きっとあるはずなのよ」
リサが熱心に語りかける相手は、白と灰色のドラ猫。名前はタイガーだ。リサが勝手にそう呼んでいるだけで、本当の名前は別にあるのかもしれない。今、リサが一方的に話しかけているだけで、ぴくぴくと動く三角の耳が、別の声を拾っているかもしれないのと、同じように。
今日もタイガーは、彼の為に開け放った窓からするりと部屋に入って来た。この賢い野良猫は、窓を閉めきっていても、窓硝子を引っ掻いて、開けろと催促する。
「よく来てくれたわね。ふふ、私みたいなおかしな女の部屋に入りたがる男なんて、あなたの他には、処女の血が大好物の吸血鬼くらいかしら」
こんなこと、大きな声で言うべきではないが、構うものかとリサは思う。どうせ、誰も聞いていない。
リサは軽口を叩きながら、無愛想な友人の訪問を歓迎した。
待ちかねていた、約束のない友人が到着したので、リサはスケッチブックを小脇に抱えて、部屋を出た。しゃらりしゃらりと、かたいものが擦れ合う音が追いかけて来る。タイガーがついて来ているのだ。もこもこの毛に覆われていて、よくわからないけれど、タイガーは首輪かなにか、装飾品を身に付けているのかもしれない。
さだかではない。タイガーは触れられることを、ひどく嫌がるから、確かめることが出来ないのだ。
おかしな角度に曲がるタイガーの前肢をちらりと盗み見て、リサはタイガーとまだ友好的な関係を築く前のことを思い返した。
タイガーは大の人間嫌いで、彼の間合いに入ろうものなら、容赦なく五月雨ひっかきをお見舞いしてくる。リサの手は傷だらけで、時には顔にさえ傷をつけて帰り、両親に嘆かれた。
タイガーが人間嫌いになってしまったのには、理由がある。人間側が悪いと、リサは確信している。
狂暴な猫がいる。と近所でちょっとした騒ぎになっていた。小さな子供たちが、猫に襲われたと騒ぎ立てたのだ。
しかし、リサは知っていた。先に仕掛けたのは子供たちだといことを。
ぐねぐねと変な風に身を捩って、えっちらおっちらやっとのことで歩く、風変わりな野良猫を、子供たちはバカにして、しつこく追い回し、いじめていた。
ところが、大人たちは可愛い子供たちに味方した。ぐねぐねとねじまがった猫を、大人たちは気味悪がっていた。ちっとも公正ではなかった。
町内議会がひらかれ、非情にも、野良猫を保健所につきだすことが決まりかけた。リサはとても黙っていられずに、結論を急ぐ議長にまったをかけた。
「みなさん、あんまりです。あの子は身を守るために、狂暴にならざるを得なかっただけ。優しさをもって接していれば、あの子もきっと優しくなりますわ」
纏まりそうだった議論を散らかされて、みんなはむっとした。そんなに言うなら、君があの猫を引き取ってくれるんだろうね、と議長のトンプソンさんは怖い顔で言った。
リサは売り言葉に買い言葉で、野良猫を引き取ることになった。
帰り道、黙りこくっていたリサのママは、帰宅するやいなや、顔を真っ赤にして怒った。
「リサ。あなたって、本当に厄介な子ね。どうして周りの人の目を気にすることが出来ないの? まだ小さいからと、大目に見てもらえる時期は、もうとっくの昔に過ぎ去ってしまったのよ。ああ、リサ。お願いだから、その可愛い唇をつぐむことを覚えて頂戴。静かにするのが賢明よ。慎みさえもてば、貴女をお嫁さんに欲しいって方がいらっしゃるはずだもの」
酷い言い種に憮然としつつ、しかしママの希望通り口をつぐみ、長いお説教に耐えた。
(もしもママが魔女だったら、私は魔法で人形に変えられてしまうに違いないわ!)
リサは長い時間を耐えた。そして、それ以上の長い時間をかけて、タイガーとの友情を育んだ。
まだ、完全にリサのものにはなってくれないけれど、それでもタイガーは随分、リサに気を許してくれている。
それ以上にリサの中で、タイガーの存在は大きくなった。今となってはこの町で、唯一の心を許せる友人である。
跳ね上げ戸を通る梯子の下まで来たところで、リサは追想をたたむ。タイガーを連れて薄暗い屋根裏部屋へ上がった。
床に降り積もる埃を払い、腰をおろす。タイガーはリサの傍らに蹲り、斜めについた天井の隅をじっと見つめている。リサはその視線を辿る。胸がわくわくした。
スケッチブックを開くと、紙の上で流れるように鉛筆をはしらせる。
ただぼんやりとした影が落ちているだけの天井の隅に、リサは想像で小さなブラウニーを三人も描いた。重なり合うようにして天井の隅っこに張り付き、タイガーの鋭い視線に怯えている。
「タイガーはあなた達のことが、あまり好きじゃないみたい。悪戯をしたの? あなたたちって、とても勤勉な働き者なのに、どこかこどもっぽいところがあるのよね」
くすくすと忍び笑っていると、タイガーが突然、ひらりと身を翻す。リサは驚いて、鉛筆を取り落としそうになった。
「あっ……待って、タイガー!」
リサは窓の外に身を乗り出して、タイガーを呼びとめた。けれど自由気ままな元野良猫は、振り返りもせずに、ぐねぐねした尻尾で器用にバランスをとりながら、塀の上を悠々と歩いて行ってしまった。
「まだ途中なのに……本当、ピクシーみたいに気まぐれで、飽きっぽいんだから」
リサは崩れるようにぺたんと床に腰を下ろす。後ろいてをつき仰け反って、天井の隅っこを凝視する。うんと目を凝らすけれど、そこには何もいない。リサは溜息をついた。
「ねぇ、あなたたち。そこにいるんでしょう? 私にだけ、こっそり教えてくれない? 僕らはここにいるんだよって。私は君たちのこと、ちっとも疑っていないわ。ずっとずっと、信じているの」
それがリサの口癖。不思議なものに対する憧れが、とてもとても、強いのだ。不思議に恋をしていた。
でも、以前はあくまでただの恋だった。甘くこがれているけれど、信じているわけではない。
「こうだったら素敵なのに」と空想するだけで楽しかった。
リサは人より少し夢見がちなだけの、ごく普通の少女だった。他の少女と同じようにハイティーンの魔法にかかり、皆が騒いでいたアメフト部のキャプテンを一緒になって追いかけたり、バレンタインデーの贈り物の贈り主が誰か想像して胸をときめかせたりして、ありがちな少女時代を送った。ただちょっぴり、変わり者ではあったけれど。
お洒落よりも、土いじりが好きだった。流行の品よりも、温もりを感じられる歪なハンドメイドを好んだ。
自然と生き物が大好きな、湖水地方に住む祖母のもとで幼少期を過ごしたため、虫に触ることが出来た。祖母の羊の世話を手伝ったので、糞尿も平気だ。お産やと殺に立ち会った経験もあり、命の尊さを知っていた。
そのことをリサは誇りに思っている。
そういう意味では、リサは同じ年頃の、町に住む子のなかでは誰よりも、地に足がついていた。
そんなリサが不思議の虜になったのは、十八歳のとき。
高校を卒業したリサは、本屋で働きながら、絵本作家になる夢を叶えようとしていた。タイガーをいじめる子供たちを怖い話で脅して追い払い、町内議会でつるし上げられてから、数日後のクリスマス。リサの人生をかえる出来事が起こったのだった。
リサは忽然と姿を消した。それから一年もの間、失踪していた。
一年後、自宅のベッドの上で目が覚めたリサは、出社する為に居間に降りて、びっくり仰天する両親に驚愕させられた。
リサは自分が一年もの間、失踪していたことを知らなかったのだ。一晩の眠りから覚めたと思ったら、一年も経っていた。
リサは混乱した。周りと一緒になって、取り乱して、苦悩して、喚き散らして、大泣きした。
そうして、ひとくさり大騒ぎして、ほとぼりが冷めた頃。リサは同じ夢を繰り返し見ることに気がついた。
真っ白な雪の世界で行き倒れるリサ。寒さに震えるリサを抱き上げる、逞しい腕と暖かな胸。擦れ合う金属の涼やかな音。
そうして、失踪から一年後のクリスマス。窓の外で降り積もる雪を眺めていたリサは、唐突に思い出した。
「ママ、パパ、聞いて! 私、妖精の世界に迷いこんでいたの!」
リサは確信していた。
取り戻したのは断片的な記憶。クリスマス・ディナーに間に合わせなければと、気ぜわしく足を運んでいた。近道を通ろうとして、細い路地に入る。静まり返る町をおかしいと思いつつ、時間のことばかり気にしていた。
そうして、路地を抜けた先には広がっていたのは、白銀の雪原。灰色の男の影。その耳は三角で、頭の上にぴんとたっていた。
唖然とするリサを抱きすくめ、男は耳元でうっとりと囁いた。
『リサ、君を愛している。俺と結婚してくれ。その為に、君をここに誘った。どうかイエスと言ってくれ。あんな酷いところに、君を帰したくない』
この先の記憶は、殆どない。恐らくは、雪の中で倒れたリサを抱き上げて、どこかへ連れて行く男が、リサを異世界へ誘い求婚した男なのだろうとは思う。
「本当よ! あれは人間じゃなかったわ。信じて、ママ、パパ。私は妖精に浚われたの。……待って、やめて、パパ。私の頭は正常よ。どこもおかしくなんかない!」
リサは一生懸命、説明した。ところが、熱をこめて話せば話すほど、両親の目は冷ややかになっていく。仕舞いには、病院に連れて行かれそうになった。
リサは友人たちにもこの事実を打ち明けた。皆、同情的だった。でもそれは、リサの話を信じてくれたからではなくて、妄想にとりつかれたリサを哀れんでいるからだった。
リサは意地になった。妖精は絶対にいるのだ。リサは妖精に浚われたのだ。断じて、薬なんかきめていないし、心の病気にかかったわけでもない。
(接ぎ木リンゴの木の下でお昼寝していたわけでもなければ、妖精の目にとまるほどの美人でもないけれど、それでも絶対よ)
頑ななリサを優しく見守ってくれていた友人たちも、こんな状態が三年も続くともう呆れ顔で、うんざりしているのを隠しもしない。
「リサ、いい加減に大人になったら? いつまでも夢の世界で遊んでいないで、現実に目を向けるべきよ」
耳の痛いお説教をする友人には仲睦しい恋人がいる。友達の中には、もう結婚して子供を生み母親になった子もいる。
いかがわしい本を読み漁り、大きなスケッチブックを小脇に抱えて町をうろつき、金にならない画を描き続け、猫としかお喋りが出来ない。「私は妖精に浚われたの」と声高に触れまわる、怪しい女。それがリサだ。
(いいのよ、ひとのいうことなんて、気にしない)
町を歩いているだけで後ろ指をさされても。すれ違う人々が皆、くすくす笑いの発作を起こしても。心ない人々に、卒倒してしまいそうな中傷を受けても。両親に「恥ずかしい娘」と泣かれても。
(私は正直者よ。嘘はついていないわ。妖精も、幽霊も、小人も、絶対にいるんだから。おばあさまが言っていたもの。私の家にはブラウニーがいたのよって。不思議なものが、今の人の目に見えないのは、信じる力が足りないからだわ)
そうやって自分に言い聞かせながらも、目頭が熱くなってしまうことがある。
(私、絶対に絵本作家になってみせる。絵本作家になって、子供たちに教えてあげるのよ。この世界には、本当に不思議なことがあるんだってことを。みんなが、不思議なことを認めることが出来たら、私みたいに、惨めな思いをするひとがいなくなるもの)
どうしてもやりきれない夜は、気まぐれなタイガーがぴったりと寄り添ってくれる。リサは寛大なタイガーを抱きしめて、啜り泣いて、いつの間にか眠ってしまう。
そうすると、決まってあの夢を見た。