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第四話


 竜が目覚めたのは、ひどい悪臭を感じたからだ。老いた彼に与えられた時間は、短い覚醒と長い眠りの繰り返し。末期の老人に許されるのは、世を憂い、膿みながら短くなる現し世を味わうことだけなのだろうか……。


 彼が辺りを伺うといつぞやの美しい自然は既になく、見渡す限り汚泥と暗黒の空。彼は理解する、人の技術が星を汚してしまったのだろうと。竜の保有する鋼の頭脳が解析する。そうして人もまた星と共に消えるなり、逃げ出すなりしたのだろう。ああ、ああ、何処かに人は、あのなつっこくも暖かな生き物はいないのだろうか。


「……終わるのか、世界が」


 彼の回りには最早草樹はなく、小さな命たちもなく、泥濘と刺激臭に満ちた汚水溜まり、人工物の残骸があるのみだ。心地良くもくすぐったい背の感触はもうない。重たげに薄く開けた瞼を再び閉じる。


 幾度となく繰り返した人の歴史、その何度目かの終わり。或いは多くの仲間が翼を折り、或いは星が彼らに耐えかねる。いずれにせよ滅びに違いはない。見つめ続ける、星も、竜も。何もかも失った果てに、それでも人間が諦めない生き物であると知っているからこそ、彼等は悲しみを押し殺し、赤子の立ち上がろうとするのを歯噛みして見つめるようにして、じっと待ち続ける。寄せては返す波のように、満ち欠ける月のように、次こそはと再起する彼等を見守ってきた。その体躯は石の様に固く閉じられ、鋭い爪牙は徐々になまくらになってゆく。


 石竜はふと、自分があと何度彼らの興亡を見つめることができるのか漠然と思案する。竜の時間とヒトの時間は悲しいほどに遠い。確かに交わった筈の時間でさえ、今や翼の届かない遠くへ行ってしまった。竜にできる手助けはほんの小さな関わりと、本当にどうしようもなくなった時だけだ。だが、今の石竜に、人に手を貸すことができるのだろうか。老いが生き物に抱かせる感情は多くのもどかしさと、少しの悲しみ。いつかまた、青い抜けるような晴天に出会えることを願い、石竜は眼を閉じ、センサーをオフに……



 不意に遠くから轟音が鳴り響いた。二人の子供が走っている。ああ、人はまだ生きているのだと石竜は安堵し、そうして焦燥感に満ちた二人分の気配の意味を識る。追われているのだ、何者かに。彼らを追っているものは……これは何であろうか。


 見知らぬ奇形、それは人の手によるものだろうか。人造外皮の半ば剥がれた下には無数の鋼線と歯車が見える。狂ったように回転する動力部ががちがちと音を立て、まるで怒りを示すかのように排熱された蒸気が立ち昇る。爛々と眼を光らせて、けれども映るのは狂いに満ちた汚泥の世界。産まれながらにして狂っているのだ、この世界で生きるための構造をしているが故に、この世界に適応してしまっているが故に。


 あれこそは機械。人の零落した世界に生きる、人の産み出した何かなのだろう。鋼鉄のフライホイールが狂ったように回転し、重力をねじ伏せるようにして出鱈目な軌道を描いて飛び回っている。異形の一言に尽きる、機械仕掛けの怪物。鋼鉄を身にまとい、両翼をはためかせ、その上真っ赤な眼光を覗かせるあの顔は、まさしく竜であった。石竜の知らない竜、彼は情報を検索する必要もなく思い至る。あれこそは、この文明の作り出した竜なのだろう。そしてそれはかつての我々のように、何かを殺すために作られたのだ。


 ガアアアァァン、と鉄の固まりが羽ばたきながら吠える。ああ、ああ、彼もまた鳴いている、泣いている!


 ――石竜には果たすべき誓いがある――


 居てもたってもいられず、石竜は力を振り絞って大地に張り付いた己の肢体を持ち上げる。カラカラと降り注ぐ大地の欠片、腐ることも出来ず汚れ切った汚泥の羊膜を破り、そして彼自身を形作っていた命の歯車がぼろぼろと崩れ始める。

 最早動いてはならぬ身体であったのだ。静かに、唯静かに、消えてゆくべき蝋燭の最後の灯であったのだ。だが、彼は己の使命を果たさねばならない。彼の中にある命が回転する、軋んで悲鳴を上げるシリンダーを無視して強引に立ち上がる。


「ぬぅぅ……」


 石竜の雄叫びと共に大地が明滅する。石竜から一直線に並んだ橙の灯は、彼が空へと登るための滑走路だ。汚染された土を持ち上げ、沼地となった酸性化学薬品の溜池を押し流し、大地を押し上げる。


 石と呼ばれるほどに身動きをとらなかった竜の、この場所から動かなかった理由。それは、その場所こそが彼の命を最も永らえさせる場所であったからに他ならない。時が経てばいずれ朽ちるとはいえ、彼の肉体を防護する装置、徐々に劣化する体液を緩やかに浄化する装置、そしてなにより、彼が空へ向かうための力となるのだ。失われた技術を湛える、朽ちた保全装置たち。それは、太古の昔に彼らが何者かによって運用されていた名残りだ。かつて、竜と人が最も寄り添っていた時代。


 土くれが零れ落ち、立ち上がった滑走路が鈍い鳴き声を上げる。星が泣いている、それは石竜が再び空を舞うことの歓喜か、二度とは戻れぬ飛竜への憐憫か。


 傷んだ安全弁を破壊して、強制回転する竜の心臓がドクドクと波打つ。竜は顔を持ち上げ、翼はばさりと大きく開かれる。大地に鞭打つように彼の尾がぴしゃりと土から跳ね上げられ、補助装置の炸薬が破裂して急加速をその身に与える。ぐぉんと激しく風を切る。並の生き物であればその衝撃だけで五体が弾け飛ぶだろう。


「ぐぅ……」


 緩衝装備は沈黙して久しい、臓腑を直撃する衝撃に石竜は唸り声を上げる。幾つもの内部器官がはじけ飛ぶのを感じる……それでも竜は飛ばなければならない。彼を迎える同胞はいない、彼を待つ空はもうない……それでも、だから、なればこそ――


「上、が、れええええぇぇッ」


 皮膚を賦活させ、一時的に外皮を強化する。瞬いた白銀の光がその身を覆い、そうして輝きが収まった頃にはもはや老竜の姿は、若き精悍なかたちを取り戻す。赤熱する鱗は煌めきを取り戻し、肢体は力強い重圧を感じさせる。しかし、それもまたおとぎ話の魔法に過ぎない、魔法とはいつか覚めるのだ。


「シイイィィィィエエァァァァァ!」


 老いたる竜の皮を破ると共に、大きな音を立てて雲を引く石竜。脱皮をするようにして入れ替わったその頭を空へ向け、大きく眼を見開いて睨みつける。


 ぐわん、と世界が下に落ちた。いや、世界が落ちたのではない、竜が昇ったのだ。滑走路を疾駆した竜の頬に離陸の衝撃波が触れる。そして少しだけ下を向くと、発射の衝撃で彼の座していた保全装置はがらがらと崩れ去ってしまっていた。最早彼を守ることも、空へと招くことも叶わないだろう。石竜は失われた誰かに心の中で感謝する。


――よくぞ、よくぞここまで守ってくれたッ。お陰で儂は……いや、私はまだ空を飛ぶことができる。つとめを果たすことができる。


 石竜は慣らし運転をするかのようにばさりと翼を羽ばたかせて勢いを緩めると、今度は助走もなしに一直線に異形の竜を目指して疾駆する。


「子供達は、下がっていなさい!」


 声と共感能力と、両方で持って人の子らに退避を促しつつも、必死に空を駆ける。鋼鉄竜も石竜を察知したのか、子供らを追うのをやめて上昇し、戦闘態勢に入る。


 容易く高度優勢を取った鋼鉄竜に対し、石竜の翼は鈍い。身体各所の可動部も今や二割近くが沈黙し、方向転換すら一苦労だ。全身のコンディションを管理するサブシステムがエラーを吐き出し続けている。だが、それは諦める理由にはならない。


 鋼鉄竜は上昇に難儀する石竜の正面にぐるりと回りこむと、ぎらりとその関節部を煌めかせた。石竜の検索、解析、理解。あれは、銃。鉄の塊を連続で打ち出してくる。連射式の銃のようなものだ。ならば――石竜は自身を動かすギアを強引に回転させて下降する。押し潰されそうな空圧を受けながらも、重力を味方につけた軌道で打ち出される弾幕を潜り抜ける。


「これでッ――」


 鋼鉄竜の下を潜り抜ける、すれ違いざまに身体を回転させて両の爪で殴りかかる。ガギギィィと火花を飛ばしながら派手な衝突を見せるが、鋼鉄竜は少々体勢を崩した程度で目立った傷もない。対する石竜の爪は、焦げ付いた匂いを香らせると共に、末端からぽろぽろと崩れ始めている。割れた爪の根本からぽたり、と水銀の血が溢れた。


――この文明の産み出した金属か……。なるほど、傷んでいる分こちらが不利か……


 竜は羽根を傾けて旋回し、再度の突撃を図る。鋼鉄竜はその場でホバリングしつつぐるりと向きを変え、意味を成さない声を撒き散らしている。


「これならどうだッ」


 ぼんやりと石竜の爪が光る。高速で振動する彼の爪が猛烈な騒音を伴いながら再度鋼鉄竜に襲いかかる。分子の結合を引き離す高周波を纏いつつ下降の加速度を乗せた爪は、しかし鋼鉄に届く前に不可視の障壁に阻まれる。詳細は分からないが、物理活動を阻害する何らかの防御機構を備えているらしい。


――通らぬ、か……


 老竜は劣勢を理解しつつも、冷静に彼我の戦力を分析する。明らかに不利なのは石竜の方だ。最早動くだけで歯車の零れゆく彼の身体では、鋼鉄の狂竜を打ち倒すことなど無謀の一言に尽きるである。なにより、今もこうして石竜が空に座していることすら奇跡に近い。その上戦闘など、見るものが見れば狂気の沙汰だと叫ぶであろう。単なる自死行為であると嘆くであろう。


「だが、それでも……」

 そう、それでも――


「私は竜だからなあ、諦める訳にはいかんだろう、なあ!」


 背中が疼く。いつかの男に預けた背中の鱗から身体に罅が入っていくのが分かる。急激な気圧変化に耐え切れず、細かな裂傷と共に表皮が剥がれてゆく。今はいない友の熱が、忘れられない彼の幻覚が、確かにそこに存在している。ああ、そうだとも。彼は、あの人は、人間は絶対に諦めはしなかった!


 GURURUAAAAAAAAA!


 弾丸を乱射する鋼鉄竜。それが石竜の背を掠めて皮膚が剥がれ落ちる。ごっそりと脱落したその奥には赤黒く光る血肉と、それを支える失伝した金属でできた部品の数々。生体部分を支える赤い血と、機械部分を支える水銀の血。


「ぬうううぅぅ」


――竜は神などではなく、ましてある種の生き物の呼称ですらない。それは便宜的に付けられたものに過ぎない。


 竜とは人智の及ばぬもの、人に理解出来ぬもの。それは今を生きる人類を、未来の人々を見守る為に作られた人造の命だ。これまで幾度も興亡を繰り返してきた人間の歴史、それに寄り添い、そしてどうにも成らない滅びに直面した時に残される最後の救済装置。


 石竜とは遥か昔の人類によって作られた人類守護の人造生命だ。彼の同胞もまた己の欲するままに生き、奪い、時に人を苦しめたが、最後には人々の苦難を救うために立ち向い、そして死んでいった。竜は生物として振る舞うが、それでも彼は約定に縛られる。気が遠くなるような昔、彼等と誓いを交わしたことを、最早人は覚えていない。


 竜とは人の超えるべき壁なのだ。なぜならそれはかつて存在した旧き人間の力に過ぎないのだから。繁栄と衰退を繰り返した人類の技術。我々を超えてみせろと、はるか未来の子供達に叩きつけられた挑戦状。人々を見守り、高みへと導く誘導設備。


 垂直に飛び上がる石竜。遅れて追い縋る鋼鉄竜。上昇は空気抵抗と推力の差が物を言う。痛んだ石竜の力では遠からず鋼鉄竜に追い付かれることは明白で、それでも石竜は太陽を目指して高く高く空へ舞い上がる。翼を焼かれる英雄のような結末へ向けて、それこそが己の逝く未来であるとでも言うように。


 上り詰める、雲間を抜けて遥かなる高みへ、もっと空へ、次第に石竜の推力に限界が近づく。少しずつ速度を落とし、鋼鉄の竜が獲物を捉えた雄叫びを上げながら石竜に銃口を向ける。


 高みへと登るのだ、人の寄れぬ遥かなる高みへ、空へ……、


 石竜の推力が止まる。鋼鉄竜がにやりと笑ったような気がした。雄叫びを上げながら弾丸発射機構がガラガラと回転を始めて――


「これでっ……」


 瞬間、石竜が反転した。重力と推力の釣り合いを利用して身を捻り、上昇と真逆に直下へと下る。落下速度と自身の速力を乗算させて空を落とす。軋む身体を回転させ、排熱不良で仄かに赤らんだ自身の外皮を風に叩きつける。


 性能によるものではない、完全なる技術による攻勢。彼我の能力差が明確ならば、技術で勝るよりほかにはないと石竜は分析していた。それこそ人間の持ちうる最大の武器であり、そして狂竜に対して石竜が持ち得る唯一の対抗手段。それは人間の産み出した技術の一つ。彼を産み出した人間の、今はいない友の作り上げた技だ。


 暴竜は動揺しつつも、今更止まれぬとばかりに銃弾を乱射する。対する石竜は翼で全身を小さく屈め、勢いそのままに落下する。石竜には遠間での攻撃手段はなく、既に稼働するのは己の肉体のみ。だからこその肉弾、だからこその特攻。


 されど、彼の渾身の肉弾は鋼鉄竜の翼を幾筋か傷つけた程度。推力に任せて石竜の突撃を横向きに交わした鋼鉄竜は、肩越しに石竜を捉えている。微笑み。おそらくそれ自体に意味はないのだろう。ただ、相手が己の術中に嵌った、必滅圏内に入り込んだことへの快哉、してやったり、ということだ。どうあがいても、奴はこれを避けることができない、逃げ道はない、これこそが終わりを齎す一撃なのだという確信。


 己の勝ちだ。そう、にやりと笑った。緩やかに身を翻し、銃口を向けようとしている鋼鉄竜の薄ら笑い、真っ直ぐに抜けた馬鹿みたいに高い空、眼下に広がる薄黒い雲、二柱の竜以外になにも存在しない静謐の存在で、暴れ竜が下品に笑っている。だが、それを上塗りするように石竜が笑った――


「かかったな、ここだァ!」


 ぞるりと石竜が空を舐める。風の上を歩み、大気を背に置き去り、落ちてくるよりももっと早く鋼鉄竜へと肢体を上昇させる。石竜の身体が雲を纏う。


 明らかに異質な物理現象、いや、そもそも重力に逆らうように空へ向かい急上昇するような現象は科学では有り得ない。それはつまり、鋼鉄竜に用いられているであろう科学的技術と概ね喰い合いをする、魔術的技術によるものだ。


 機械的意匠が全面に出ている鋼鉄竜の意表を突くのならば、彼の知らない技術体系、即ち滅んだ人々の御業も用いる他にない。物理現象を人の業により捻じ伏せる、そんな無理を行えば当然石竜の身も無事ではないが、何をおいても彼は鋼鉄の竜に打ち勝たねばならないのだ。


 緩やかに旋回している最中では咄嗟に身を守ることもままならず、鋼鉄竜は横ざまに、下から落下してきた石竜の放つ渾身の肉弾を受けることになった。


 GUUUAAAAAAAAA!


 鋼鉄竜の悲痛な雄叫びもそのままに、石竜はその身体を弾丸と化して鋼鉄竜にぶち当たる。


 絡み合い、しこたまに打ち付ける石竜の翼。鋼鉄竜もなんとか身を躱そうと、やたらめったらに弾丸を吐き出して石竜を引き剥がさんとしている。鋼鉄の礫がバリバリと食いちぎってゆく。飛び散る血肉、崩れ落ちる歯車、煌めく水銀と滴る赤の体液が飛沫となって降り注ぐ。けれども石竜は止まらない、止まることを知らない。石竜は全身が食い破られていくのを感じながら、それでも意に介さず鋼鉄竜の物理防御機構を噛み千切り、首元へと鋭く牙を立てた。そのまま毒を送りこむように無理矢理に回路を繋ぎ、狂った竜の奥底へと語りかける。


「……我は竜、老いたる竜。人類によって造られた果てなき幻想、人類を守護する最後の夢、そして希望!」

「GURURURUU」


「お前の本当の使命とは殺戮ではない筈だ……お前のその姿もまた、竜なのだから。我等を信じた人間の、その御業に託された未来を、その先を……」

「GUUUUUU!」


 揉み合いになった二匹の竜が墜落してゆく。石竜は鋼鉄の竜に牙を立て水銀の命を散らしながら、鋼鉄の竜は狂ったままで、出鱈目に弾丸を嘔吐しながら。


「命を……命を……命をッ!」

 人類の命を、星の魂を、心を、失ってはならないッ!


 石竜は臆病者だ。人を見極めるとの題目で永きに渡り静観を続け、友が命を賭して人を守護する様をもまた見守り、看取ってきた。彼の同胞達はその多くが守るために、与える為に命を散らした。それが竜たるものの使命だ。


 最後の竜として、彼は責務を果たさねばならない。あるいは彼のように永い時を生きることがなければ、己の望むままに死んだ同胞たちのように、もっと自由に生きられたのかもしれない。だが、彼を産んだ人間は言ったのだ、彼に寄り添い生きた人間は彼に、言葉を与えたのだ。


「……いつかまた、人の行く末に苦難が立ちはだかる時、どうかお前の翼を貸しておやりなさい」


 誓いとはそれを結んだものに価値を与える。そうあれと誰かが望むように、そうであって欲しいと誰かが願うように。単なる技術の結晶体に過ぎなかった竜というかたちに打ち込まれた、人類守護のコード。それ自体に何ら強制力の持たない、まるで祈りのようなそれは、しかし確かに竜というかたちに届いている。人の祈りを受けて、なればこそ竜は荒ぶる厄災ではなくなるのだ。理を持ち、世を見守る、理性的な生き物でいられたのだ。


 さあ、契約を果たすのだ。星は死んだのかもしれない。人は死に絶えるのかもしれない。人間は繰り返す、何度でも繰り返す。自分達の歴史をまた己で滅ぼしてしまうのかもしれない。彼を産んだ者の願いは届かないのかもしれない。石竜の献身もまた、蝶の羽ばたきのように小さな事象に過ぎないのかもしれない。


 ああ、それでも、それでもッ!


「人間は美しいのだッ、どれほど悪しき者が産まれたとしても、邪悪な行いがあったとしても、それでも美しきものを美しきと思うことのできる生き物なのだからッ! 諦めない、決して諦めてはならなぁいッ!」


「GURUUァアアァアアア」


 苦悶する鋼鉄の竜に、石竜は己の持つ全ての歴史を送り込む。彼の歯車が営々と食んできた己の記憶領域にある全ての知識、経験、技術、歴史の興亡、人の思い、願い、信念、醜さ、悲しさ、そして愛。


 限界を超えた石竜の身体がオーバーヒートして爆発を起こす、血と肉と骨、それに鉄と技術を合わせた合成獣。人の求める愛すべき世界の象徴、そして未来への希望。竜の本質は与えること。彼らは人々を見守り、時に手を貸し、そうして人が己を超える時をじっと待ち続ける。


「……滅びの唄を聴け……己が悲哀に満ちた……されど新たなる希望に満ちたそれが、創世の唄となる時を信じるのだ……」


 ああ、かの竜はこの場所で滅びるのだろう。最後の竜が、石竜が、かの者の想いが、総てがこの場所で泡となり弾けるのだろう。


 ガラガラと石竜の身体が音を立てて崩れる。露出してゆくワイヤーと歯車、そして未知の金属で出来たシリンダーが爆ぜる。彼を作り上げていた命の形が崩壊してゆく。


「己を取り戻せ、若いの。我々は人を滅ぼすために作られたのではない、星を汚す為に産まれたのではない。思い出せ、我々は彼らの、貧弱で矮小で、それでも命の煌きに満ちた彼らの、傍らに佇むものであった筈だッ!」


 竜とは人にかけられた呪いだ。進歩した人間が、己の進歩に取り残されて滅び逝く前に必ず作り出される最後の安全装置。自身と世界とを守るための守護者。人間という形の中に常にあるあこがれの形。強大な力を持ち、自然を愛し、自由に大空を疾駆する。ああ、それは人が夢見てやまない憧憬の形なのだ。人は竜に憧れ、竜を愛し、竜を恐れ、竜を疎む。人は竜を見ている、竜もまた人を見ている。


 暗雲の切れ間が迫る。全ての情報を託し終えた石竜は、もう空をとぶことすらままならない。石竜は静かに鋼鉄竜に語りかける。


「次はお前さんだ……ああ……人を、あのか弱い生き物を……皆を……見守って……やって……くれ……」


「……任務受諾、コレヨリ人類種ノ観察ニ移行シマス」


 ――ああ、それでいい。


 最期の言葉は、もう音にすらならない。石竜は微笑みながら鋼鉄竜から身を離して小高い丘の上に、どう、と滑落した。カラカラと彼を構成する部品が音を立てて脱落してゆく。重金属と汚染水、屑鉄と腐ったオイルの蔓延る固いベッドの上で、身を起こす力はもうないのだろう。鈍く広がる水銀の体液が彼の命を少しずつ遠くへ運んでゆく。けれども……


 竜とは、意志を持つ自然だ。彼の眠る場所で草樹が芽吹いたように、動物達が傍らで遊ぶように。彼こそは地上に遺された最後の自然だ。そして、その身を礎にして世界を浄化するようにと、彼らを産んだ者はそう作り上げたのだから。ああ、竜とは、竜とは、竜とは。


 逃げ出した一組の子供らが地に伏した竜に近付き、その瞳から溢れる体液をそっと拭った。鋼鉄竜が遠くで悲しく雄叫びを上げている。


 いつか、きっと――

 彼の亡骸の上に、花が芽吹くだろう。






 ――物語はここまでだ、さあ、次なる世界はお前さんの見つめる世界だ――


 記憶の中の先任者が語りかけてくる。幻聴のようなそれは、きっと彼ならばそう言ってくれるだろうという願いだ。


 この悲しい世界を、汚泥に塗れ命の悉くを蔑ろにした世界を睥睨する。石竜の献身で、この世界も少しずつ浄化されているのだろう。だが、人はその事実を覚えていない。彼を覚えているものはもう居なくなってしまった。誰もが彼の屍の上に立っているというのに、無自覚に踏み固めてしまっている。それは何よりも悲しいことのように思えた。


 鋼鉄竜は、石竜より受け継いだ記憶データの再生を中断する。大きく翼を広げながら中空で静止する。彼は機械だ、けれども受け継いだ、彼が何を見て、何を感じたのか。人類守護のシークエンスは未だ完了してはいない。濁った空、暗い雲間の先に、何があるのかはまだ分からない。けれども鋼鉄竜は空に向かい、静かに語りかける。


「老いたる石竜の話はここまで。これよりは私の、奇妙なる鋼鉄竜の話と相成る」


 世界は回る、歴史は巡る。人類の紡ぐ歴史を、竜が静かに見つめている。

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