第三話
3
くすんだ太陽の下で、鳥達がざわめいている。深く繁茂していた木々は切り開かれ、あるいは道に、あるいは塹壕となり、人の手によって破壊されている。
一度壊れた森というものは、そう簡単に作り直せるものではない。仮に別の草樹を植えこんだとしても、それは最早原生林ではなくなっている。自然とは正に自ずと創りだされた奇跡なのだ。けれども、それを侵してでも得なければならぬものが、人にはあったのだろう。今も遠間から乾いた破裂音が聞こえてくる。火薬の爆発する音、耳を劈く怒号、喚き声、粉塵と血煙が遠くに立ち昇るのが分かる。
人は争う。悲しいほどに同族を殺したがる。石竜は震える大気を肌で感じながら情報を読み取る。嘗ての国と国の戦いではない。それらを合わせて巨大な国家同士が、やはり同じように争っている。剣と弓の時代は終わり、銃と油の時間になっているのだ。
人は人を殺す術に長けている。いつだって守ることよりも殺すことの方が簡単で、そして唾棄すべき方法であるが故に。
深く掘られた溝の中に身を伏せ、銃口だけを覗かせて己と同じかたちの生き物を屠殺する。泥沼の闘争、血塗れの狂騒。
竜は争いに悲しみを覚えつつも、ほんの少しだけ懐かしさを感じてしまう自分の事を自嘲した。
ふと、茂みを掻き分けて此方へと押し入る音が聞こえる。住処を追われた獣か何かだろうか、訝しむうちにも音は近付き、現れたそれは果たして、負傷した仲間を負っている一人の兵士であった。
男は負傷した仲間を引き摺るようにして竜の傍らへ身を寄せると、時折小さく声をかけながら服を剥ぎ、傷口を改めて顔を顰めた。
「なあ……俺は……死ぬのか……」
「莫迦を言うな、こんな所で死んではいけない。必ず陣地まで連れて帰ってやる」
弱った声で問い掛ける負傷兵を叱咤しつつ、男は手持ちの布を押し当てて傷口を塞ぐ。
「そうだな……そうだ……死にたくないなぁ……誰だって痛いのは嫌だからなあ……俺が撃ったヤツも痛かったのかなぁ……ああ、視界が白く濁ってきた。すまない、ああ、すまない……」
負傷者はうわ言のように言葉を吐き続けながら、そうして静かに意識を失った。
「……」
治療に当たっている男は口元を噛み締めつつ懸命に治療に当たる。強引に締め付けたせいかかなり不恰好になっているが、それでもひとまず落ち着いたようで、兵士はふう、と溜息をついて脱力すると、ぺたりと座り込んで竜の腹に背を預けた。
「ひとまずは命を取り留めたようじゃのう……」
「! 誰だッ!」
不意に響いた声に兵士は身を起こす。及び腰ながら半ば投げ出していた銃を再度手に取り、流れるような素早さで腰溜めに構える。声の先を怯え混じりに探る様に、石竜は申し訳なさそうに悲しげな声色になる。
「ああ、ああ、怯えないでくれ……儂は敵ではないよ。君らを傷つけるものではない」
「これは……石か? はは、ついに幻聴まで現れたか。俺も大概戦場に惑わされているらしい」
やれやれ、信じて貰うのも一苦労じゃのう、と石竜は溜息を吐く。
「すまんな、脅かすつもりではなかったのじゃがの……。そこの怪我をしておるもの、先ほどの処置で概ね大丈夫じゃろうが、余裕のある内にきちんとした治療を受けた方が良かろう、と、それだけ伝えたかったのじゃがの……」
兵士は未知の出来事に警戒を露わにしたままだが、相手に害意があるわけではないと分かると身体の緊張を少しだけ緩めた。
「……竜というやつは、医術にまで精通しているのか。いや……なるほど、叡智の固まりというやつだったな、竜とは」
「何もかも知っておるというわけでもないがのう……ついつい口が出てしまう程度には理解があるつもりじゃよ」
とんだおせっかいだったようじゃがのう……と独白する竜の様子に、油断ない様子で兵士は武器を構える。
「人は、また人同士で争っているようじゃの……悲しいことだ」
トーンの落ちた石竜の声は、酷く寂しそうにあたりに響いた。大岩のごとき巨体の竜ではなく、ちっぽけな小鳥の泣き声のように弱々しい、己の無力さとそれに対する諦観に満ちた声だ。
「……仕方がないだろう、戦争だ。我々はどうにも愚かしい生き物のようだから……おまえのように超然として世界を眺めるなんてことはできない」
どうにも気まずいと言った風に兵士が吐き捨てる。
「何処にでもある理由だ、あっちが気に食わない、こっちは被害者だ、国と国が争う理由なんてありふれている。そしてくだらないと捨て置くには、互いに被害が出すぎてしまった。死者の重みが生きている人間にのしかかるなんて皮肉だよ。生きるものの未来の為に死んだ者が、その生者の未来を縛ってしまっているんだから」
死人の軛、竜も己の中にある死者の記憶を回想する。己の為すべき事を成し、死んでいった同胞達。良き竜もいれば、悪事を働く竜もいた。だが、そのどの竜も等しく人を救うために戦い、己の為すべきことのためにその身を捧げた。……石竜には出来なかったことだ。彼らが成し遂げたからこそ、石竜の翼は余計に重くなってしまっている。鼠の群れなのだ。誰もが崖から落ちていって、そうしてついて行けなかった最期の一匹はどうすればいい? 少なくとも石竜には、静かに滅びを待つ以上の答えは出せそうになかった。
「同族同士の争いなど、お前に取っては理解できないかもしれないな……けれども、残念ながら人間はそれほど賢い生き物ではないのだ」
「……昔から見てきたとも、人と人が争う姿を……。悲しいことだが、それが人間の持つ業というやつなのかもしれんのう……時に同種すら競争相手とするような強烈な向上心が、お前さん等の今を支えてきたのじゃろうな……」
嘆息するような竜の息遣いに、自然、兵士の手は銃を下ろしてしまっていた。竜という形から想像される攻撃性などなく、彼から感じるのは年老いた老人の、揺り椅子に身を預けて回想する静かな情景だけだ。
「お前も大概、日々に膿んでいるらしいな……」
「誰だって争いのない、静かな時間を求めるものじゃろう……それが何よりも貴重なものであると知っているからこそ」
ガフゥ、と石竜の口から溜息が溢れる。淀んだ大気がどうにも腹に溜まってしまうようだ。
「争いがなければきっと彼が怪我をすることもなかった……けれども、結果として儂はお前さん達に出会うことができたのじゃから、なんとも奇縁じゃのう……」
「なに、捨てたものでもないようだな。おまえが我等にもたらすものは畏怖と憧憬だけではあるまい……竜の血とは生命の源だと、おとぎ話では相場が決まっているものだがな……」
じり、と小銃を抱え直し、男が脚を踏ん張る。ギラついた眼が己を見つめることも気にした風でもなく、竜はまた悲しげな声で彼を諭す。
「……やめておくのがよかろう。なに、老骨の命なんぞ今更惜しみはせんが、儂の身体に流れておる命はお前さん達には毒じゃろうから……ほれ」
竜は僅かに力を込めて、身体に巡る体液をひび割れた腹の隙間から滲み出させる、白銀に輝く粘性の液体を見て、兵士はうっと顔を顰める。
「これは……水銀か」
「ご覧の通りじゃよ。どうやってもお前さん達の命を救う事なんぞできやせんよ」
流石にそううまくはいかないか、と自嘲気味に兵士は呟く。
「他に手がない事もないがのう……」
「……」
無言で、兵士が竜の方を見る。喉から手が出そうなその様子で、けれども竜は彼を焦らすようにとっくり時間を掛けて、それからゆっくりと勿体ぶって口を開く。
「儂を乗りこなすかね、若いの。老いたりと言えど、竜という幻は人に取って随分と強力な力であることに違いはあるまい……ともすればお前さんの力で、この戦が終わるやもしれんぞ……」
それに、そこな怪我人を陣地まで運ぶことも容易じゃろうて、と。竜の言葉に兵士は動揺し、立て直し、導き出して毅然と直立のまま言葉を返した。
「その提案……却下だ! 竜が出てきてしまえば、それこそ収集がつかなくなってしまう。際限なく強い暴力装置を望んでしまえば、その果てにあるのはより効率的な虐殺に他ならない。人は争う、殺しあう、権謀術数の限りを尽くし、欺瞞虚飾で物事を飾り立てる。けれども最後の最後、命を奪うことすら無自覚になってしまえば人である価値がなくなってしまう。人とは矛盾した物を持ちつつ、それらを昇華させることのできる生き物だと私は信じている。悪が居れば善も居る、それら善悪を飲み込んでその先の高次へと導いてこそ人間の素晴らしさだ。……人間とは矜持を持つ生き物だ。高々数千年しか歴史を持たない我々だが、それくらいの意地は張らせて貰う」
毅然として男は言い放つ男を見やりつつ、石竜は思案する。内心では、弁の立つようになった人の様子に優しく微笑みながら。
「……お前だって分かって言ったのだろう? その案に乗った所で、その通りにお前が動く道理もない。なにより、そんな力があれば戦は余計に大きくなってしまうだろうさ」
「ふむ、少々意地悪じゃったかの……その通り。儂がしゃしゃり出ていった所で、人の怨み辛みは収まらんよ。あくまでも、人間自身が解決しなくてはならん……儂自身、争いなんぞ嫌じゃからのう……」
カラカラカラと、老体が骨を鳴らして笑う。乾いたその音を聞きながら、兵士は呆れたように肩をすくめる。
「何百何千を殺すことのできる暴力が良く言う……だが、確かに人の手で解決しなくてはいけないのだろうな……」
癖なのだろうか、兵士は親指の爪を噛みながら沈黙する。石竜は再度、優しく微笑む。
「ああ……これはあくまで人の所業だ。人の争いにあれこれと他の生き物を巻き込みたくはない。今更遅いかもしれないが……、ああ、そうだな、こう言おうか。人はもうまぼろしに縋るほど弱くはないさ」
話し込みながら兵士は傷を負った仲間を見やる。簡単に傷口を塞いで布を巻いただけだが、それでも乱れていた息は幾分落ち着いている。溢れ出す血の、むっとする命の匂いも些か和らいだ。
「俺は行くよ。さようなら、子供の頃のあこがれ。生きることは辛いことばかりだけれども、その先にそうでないことがあると俺達は知っている。だからこそ戦える、だからこそ生きていたいと思う。自分自身の脚で、怖がりながら、夢を見ながら歩いていくのさ……竜の翼は、憧れのままでいい」
たっぷりと石竜は頷く。
「ああ……この身は夢幻、ただ見つめることしか出来ない愚かな竜の気まぐれじゃよ……短くとも、鮮烈に生きなさい。命は、それそのものが尊いのだから」
「……手を貸そうとしてくれたことには感謝する。たとえ幻覚でも、嬉しかったよ。おとぎ話の竜に会えたのだから……」
「幻ではないよ……感謝なら君のご先祖様にすると良い。優しくて、ちょっとだけとぼけた、愛しい人達に」
「? そうか、お前がそう言うなら、そうなのだろうな……」
石竜の眼は閉じられている。けれども大気の震えと共に、彼の身体に刻まれたある種の文様こそが、彼をこの場所に導いたのかもしれない。石は静かに笑う。
兵士は肩に仲間を背負い、くたびれた軍靴で大地を踏みしめて立ち去る。
竜はその背中を見やりながら小さく唸る。人は竜に頼らずとも生きていける、少しだけその事実が誇らしかった。ああ、子供達は強く、強く生きているのだ。
兵士のその後に関する記述はない。おそらく平凡に生きて、あるいは死んだのだろう。けれど、それのどれほど尊いことか。