第二話
2
小柄な獣が草原を疾駆する。生きるために、己の命を守るために。一定の危険を犯して、安全地帯へと己を運ぶために。
リスクを負わねば生きることは出来ない。
茶けた毛皮のその獣に、不意に影が刺したかと思うと、黄土色の大きな獣が彼を上から押さえ付けた。獣はギュゥイと苦悶の悲鳴を上げるが、押さえ付けた黄土色は一顧だにせず、そのままぐいと抑えつけて、ぼぐりと獣の首をへし折った。
自然の摂理だ。切なくも理に満ちた、そしてありふれた世界の一幕。獣が獲物を咥えて引きずりながら樹木の裏へと退場する。その向こうに有る土の盛り上がり、いやさ天然の洞窟だろうか。
蔦を絡ませ小鳥を遊ばせ、光を浴びるその一帯は、それこそ一体、老いたる石竜そのものであった。
彼が力を与えた女性が生き、信念を継いだ者達が生き、そして絶えて後幾星霜。人の歴史にして何百年を経たのか、それとも何千年と過ぎ去ったのか。なんにせよ、人は強くなった。
嘗ての村を十倍する、いやさ百倍してなお余りある集落を作り、土壁で城を築いて身を守る。激しき炎の炉にふいごで風を送り、頑強な鋼鉄を精錬して己の武具に仕立てる。人間は己の貧弱さを、道具を鍛えるという手段で克服しようとしている。最早人に必要なのは不確かな神話ではなく、確固たる技術なのだろう。
老竜は鈍く空転しがちな頭脳を抱えながら思考する。彼が助力するような事態は、もうないのかもしれないと。世界は神話を求めていない。今はまだ届かなくとも、いずれ彼のような竜でさえ、人は討ち取ってしまうのだろう。それはとても嬉しいことだ。ああ、今日も太陽が明るく光っている……
がっき、と妙な衝撃を感じて竜は眼を開ける。何やら硬いものが自身の身体にぶつかったような感触だが、石が降ってきたわけでもあるまいに。どちらにせよ彼の身体には大した怪我はない、老いたりと言えども竜の、その鱗には万象尽く道を阻まれるのだから。ひたすら重くなった瞼を彼が持ち上げると、少々古臭い鎧を身に纏った若者が、刃先のかけた剣を懸命に振り上げている所だった。
「えいやぁ」
再びがっきんと老竜に衝撃が走る。しかしやはりそれだけで彼に損傷はなく、対する男の剣は先の方がぽろりと崩れてしまった。
「くそ、なんという硬さだ……」
男は崩れて半端な長さになった剣を見やりながら吐き捨てる。ふむ、人が儂らを超えるにはもう暫くかかりそうじゃの、と老竜は思案する。それにしても損害がないとはいえ、そう何度も叩かれるのは辛いのう、と彼は男に話しかける。
「……済まないがそれはやめてくれんかの。身体が揺さぶられるのはどうにも妙な感じがするからのう……。なにより、おちおち眠ってられんわい……」
「! 喋った、竜が喋ったのか。なんてこった、言い伝え通りか……こいつは言葉を解するのか、ええい、それでも手心など加えるものか、俺はこいつを打ち倒さなければならんのだッ」
男は再び剣を振り上げて、大上段から剣を斬り掛かる。がっきと派手な音を立てて、剣は今度こそ中頃からぴぃんとへし折れてしまった。
「ぬう、剣では倒せないというのか……」
「若いの、なあ、儂の声に応えてくれんかのう……、何も斬り掛かるだけが会話の作法でもあるまいに」
「お前が私に下るというのなら、話を聞くのもやぶさかではない……どのみち剣も折れたのだ、次なる方策を探るまでの小休止には丁度良い」
男は繊細そうな容姿に反して豪胆に言い放ち、その場所にどっかとあぐらをかいて竜と向かい合う。なんだかアンバランスな男だのう、と老竜は静かに微笑む。
「して、お前を討ち取るにはどうすればよいのか」
言うなりこれである。どうすればお前は死ぬのかと、直截すぎる物言いに流石の老竜も苦笑いを浮かべた。
「お前さん、そんなにして儂を討ち取りたいのかい……知らず、人間に迷惑でも掛けてしもうたのかのう……」
「いや、そんなものはないぞ」
きょとんとした顔で男は事もなげに答える。ふむ、では儂は如何なる理由で討ち取られねばならないのか……。
「名でも上げたいのかね、若いの」
「端的に言えばそうだな……、私は名を上げて、愛する人を迎えに行かねばならない」
男は背嚢を開けて何やら探ると、乾燥した板のような物を探り当ててぱきん、と齧りついた。
「お前も食べるか? 味の保証はせんがな」
「ああ、気持ちだけで結構だよ、儂らは呑み喰いをせずとも生きていけるからねぇ……」
丁重に断る竜に、男はふむ、と思案しながら差し出した手を戻す。
「……私は所謂一代貴族というやつでな、戦働きで名を上げて叙勲されたが、それでも所詮は有象無象の一つだ。彼女にはまだ、吊り合わない」
竜は速やかに現代の知識を取り込み、理解する。なるほど、貴族制度というやつだろう。血筋で物事を決めるというのはある種の省力化ではあろうが、それは未だ人々が争いを忘れていないという事だ。ちっぽけな人と人の間で、それでも専横的に振舞わねば回らない世界。それでも、自然を恐れていた頃よりも、きっと前に進んでいるのだろう。だからといって、やるせない歪みがないわけでもないが。
「貴族の娘さんかね、そのお相手というのは」
そのようなものだ、と男は苦笑する。彼は愛おしそうに己の左手を握り締める。
「平民では彼女と契るなど夢物語だった。だが、私は爵位を得てしまった。領地などない名誉としてのものだが、それでも、もう少しで彼女に届くであろうところまで来てしまった。……人間とは欲深だ、近くにあると思ってしまえば、手を伸ばしたくなるものなのだろう……神に笑われるかもしれんな」
おっと、お前に神の話をしても仕方がないか、と男は微笑する。
成る程、竜に神など居るとは彼も考えておらんのだろう。……それに、事実として石竜の神は、恐らく男には思いもよらないものだろうから。
「だからここへ来た。竜を討ったとなればもう少し上、領地付きの爵位を頂けるだろう。私は彼女を迎える為に、お前を討たなければならない」
「おやおや、血気盛んだねえ……」
「なに、意地のようなものだ。……それに、最早騎士という形が失せるのもそう遠くない話だろう。その前にどうしても、という私の我儘だ」
ほう、と竜は男を見やる。しなやかな体つきや先程の斬撃から、彼が中々に鍛え込んでいるのは理解できる。恐らくは幼き頃から修練を続けてきたのだろう。その剣が遠からず消えると彼は言う。
「現在研究の進んでいる銃が、もし量産できるならば……、もし剣を降るのと同じ速さで鉛玉が繰り出せるようになれば……。一対一の騎士道など何処にもなくなる。人はどんどん効率的に、人を殺すようになってしまう……」
男は折れた剣を取り上げ、折れた断面を指でなぞりながら思案していたが、やがて溜息をついて鞘に戻した。
「先の戦場では本格的に戦に使われたと聞いた。……そのうち女子供でも、指の動き一つで騎士を殺す時代になるのだろう。人間は発展を続ける、技術は進歩する、けれども人の覚悟は、少しずつ後退を続けている……」
「栄えるものがあれば滅びるものもまた然り。それは自然の摂理と思うがのう……」
「はっはっは、お前が言うと皮肉が効いているなあ」
と男はまた笑う。出会い頭に切りかかってきたとは言え、石竜はどうにもこの男に好感を抱き始めていた。彼の持つ独特の価値観と、ある種の諦観。それは衰退してゆくものの悲哀なのだろうか。
「……私は自分を最後の騎士と位置づけている。いずれ寝物語の一つとなる、おはなしの中の最後の騎士と。私は騎士として、愛する人を迎えにゆく男として、竜を討伐したという結果を以て最後の神話としたいのだ。己の血と肉と骨で抗う、野蛮で愚かな、けれども誰もが憧れる原始の神話だ」
背嚢から取り出したナイフの刃先を確かめ、研ぎ石で軽く調整をしながら彼はひとり言のように続ける。
「……なあ、どうすればお前を討ち取れるのだ? 人の力では、まだお前に勝つ
ことは叶わないのか?」
「そんなこと、有りはせんよ」
溜息のように深く息を吐いて、石竜は彼に答える。男に斬り掛かられた外皮が疼く。じぃんと響いた痛みはまだ収まらない。命を危ぶませるものではないとは言え、何百何千と斬り掛かられれば流石の石竜も耐えられはしないだろう。なにより彼は最早朽ちるに任せるだけの老骨だ。応戦するなど、それどころか身体を動かすことすら叶うか怪しい。
「人間の力は凄いからのう……儂らには出来んことをする……そして人間にしか見えない物を見ている。そんな人々を見つめながら、静かに土に還るのが儂の願いよ。しかし、人が求めるのなら、いつか儂もそこらの獣のように討ち果たされるのかもしれんの……」
「……滅びは、寂しくはないのか?」
不意に手を止めて、男が老竜を見やる。かつては煌々と燦いていた碧緑の眼球も最早白く濁ってはいるが、石竜は気配で大まかに相手の動きを知った。
「それがさだめならば受け入れるまでよ。儂はお前さんのように抗うには、少々歳を取り過ぎたからのう……」
老いた竜は回想する。さだめに抗い、命を燃やし、己が未来を勝ち取るために戦い、散っていった同胞達を。背中に張り付く木立が彼の腹に重くのしかかる。それは戦うことのできなかった、最後の一となってしまった彼への罰なのだろうか。
「ふむ……竜というのも中々不自由なものなのだな」
「そりゃあそうじゃろう、畢竟生き物は皆、答えを出すために苦しむものじゃからの……儂もまた竜というかたちに縛られた一つの生き物に過ぎんよ」
お前さんが騎士というかたちになろうとしておるようにのう、と石竜は続ける。
世界ではもう個人の武勇などは小さくなってしまって、物語の英雄のような役割は望めなくなってしまうのだろう。一騎当千などは既に無く、集団が個人を押しつぶすのだろう。最早幻想の時間は終わり、個人の英雄譚は物語から消え去るのだろう。
それでも、と石竜は男を見やる。
彼はこの場所に立っている。時代遅れの剣士と呼ばれるのだろうか。それでもその難題を越えなければ、英雄とならなければ彼の求める女を娶る事はできないのだから。
「時代、なのかもしれんのう……」
せめてもう少し時代が下れば、あるいは昔であれば、身分制度などに煩わされることはなかったのかもしれない。何時の世にもそんなやるせない、思うようにならない出来事に溢れている。
「だが、そんなことはどうでもいい、私が愛した彼女はこの時代にいたのだ、だからこそ私は産まれてきた。彼女を愛する為に、彼女と寄り添い生きる為に私は生きている。決して死んでなるものか、諦めてなるものか」
毅然として断固として男は宣言する。成る程男には騎士としての武器が備わっている。それは形を持たない、道に殉ずるものの心意気。
「諦めるなどと言う行為が許されるわけもない。人間は何だってできる、人は今までどんな事だって成し遂げてきた。私がそれを諦めて、人の成してきた偉業の数々を無下にしてしまうわけにはいかないのだ」
やはりこの男は、心意気を持っているのだろうと、石竜は眼を細めながら感じ入る。道をゆく者の信念。竜はこの男を無下に扱いたくはなかった。
「もう一度確認するが……お前さんは竜に打ち勝ったという証拠があればよいのじゃな?」
「? ああ、そうだが、一体なんだ」
石竜が返答もせずにカラカラカラと笑い声を上げると、先程彼に打たれた鱗の一つがポロリと地に落ちた。
「騎士は竜に打ち勝ち、その鱗を手に凱旋する……これでは不足かのう……」
「お前……」
石竜はほっこりと微笑み、カラカラカラと笑う。
「なぁに、どの道放っておいても朽ちるだけよ。……それに、お前さんがこの鱗を落とした事に変わりはなかろう……。人の力は竜に届く、ああ、届くのだとも」
「だが、検分役がここに来たならばどうなる。お前という竜は討ち滅ぼされていないではないか……」
「もとより動けやせん身じゃよ、声を出さねば死んでおるも同然じゃろう……そも、儂を見てお竜だと感づけるものがどれだけおるのやら。お前さんのように特別なものでなければ気付きはしないとも。少々大きな喋る石くれじゃよ、儂」
「ふはは、石くれか、随分と弁の立つ石くれだなあ……ああ、そうだな、それがいい。この場は石くれに従っておくとしよう」
男は背嚢に脱落した竜の鱗を詰め込むと、勢いそのままに立ち上がる。
「……だが、この借りは必ず返す。我が子々孫々に渡ってもだ、約束だぞ、老いた竜よ。次こそは必ず、必ずお前を真に打ち倒して見せる。我々人間の力で征服してみせる」
「やれやれ、そんなに拗ねた顔をしなくてもよいだろうに。けれでも、そうだねぇ……それなら、ぼんやり眠りながら待つとしようかねぇ……ふああ、最近はどうにも、眠たくって仕方がないのう……」
「よいか、絶対だぞ。今度こそ絶対にお前を倒して従えてやる。人間が竜などに負けない事を証明してやるのだ」
「心配しなくとも、竜なんかに負けやしないさ、人間はのう……」
出会い頭には討ち取るとばかり言っていた男の僅かな変化に、老いた竜はカラカラと微笑む。歩み去る男の首筋には小さな、そして不可思議な文様が刻まれている。縁は続いているのだ。
老竜は男の姿が見えなくなるまで気配を追いかけた後、また深い眠りに落ちる。草樹が、動物達が、虫が、小鳥が彼を取り囲み、上に下にと取り囲む。彼は息も立てぬまま、森の一角で静かに眠る。丸まった尻尾の先に、青い卵をたたえた小鳥の巣が見える。命が産まれるのだ。
立身出世物の典型として有名な一つの騎士物語、それは史実を元にした創作であると考えられている。彼のモデルと目される人物は物在野から出世し、竜を征服した功績として、臣籍降下した第六王女を娶っている。戦場が銃に支配された後も彼の一族は剣と呼ばれ続けた。