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第一話

大阪文フリで配布した小説の中身です。全四話。

1 


 常に人の傍らにあり、何よりも人から遠きもの。その鱗は鋼にも勝り、鋭い爪牙は剣をも切り裂く。獣であって獣でないもの、神話の世界にその身を置くもの、太古より叡智を受けしもの。大いなるもの、竜として生を受け人界に交わり幾星霜。今や億劫な体を地に横たえ、静かに微睡みを食むのみ。


 彼は吐息を立てることもせず、脈動を止めた石のように身を横たえている。彼が生物であるのかどうか、少なくとも今の彼には理解の及ぶものではない。苔生して岩を抱き、萌ゆる草木の上で遊ぶ鳥や子リスの遊ぶままに、彼は緩やかに世界を感じている。


 彼らに性別などはないのだろうが、少なくとも彼が自身を"彼"と定義しているからには、彼は男性に近いのだろう。


 ざわ、と、緑の草木が揺れる。昼であるのに赤々と燃える松明を幾つも掲げ、粗末な衣に身を包んだ人々が列を組んでいる。


 隊列を組む男達は一様にして顔を伏せ、厳しい面持ちで辺りを警戒している。


「……――、―――」


 老いた竜の前に並べられる種々様々な料理の数々、きらきらと光る宝石などの装飾具は、彼らの技術が未熟なのか幾分か輝きが鈍い。豪奢な絹の織物に、翡翠を嵌めた髪飾り、飛び切りの若羊を絞めた丸焼きに、小麦を練った麦芽のパン。


 おそらくはそれが彼らなりの、精一杯の供物なのであろう。


 果たしてこの老いた竜に何を求めるのやら、と彼は他人事のように小さな者達の動く様を眺める。


 つと、隊列の内から神輿が前に出る。木枠の簡素な、けれど精一杯の鮮やかな織物が敷かれた座面に女が座っていた。小奇麗なローブをはおり、前が見えぬように濃紺の布で眼元が覆われている。彼らは神輿ごと彼女を供物の中心に置くと、そのまま何やら騒いだ後にしずしずと退散して、その場には彼と女だけになる。



 しばしの沈黙…………



 どうしたものやらと老竜が思案していると、女は不意に両手を天へと高く伸ばして、ウウ、ウウと唸り声を上げた。


 はて、何をするつもりなのやらと彼が興味深げに見入ると、彼女はぐいと力を込めて背を逸らし、ウウ、ウウウ――――くはあ、と大きな欠伸をした。


「随分と寝入ってしまったわ……、ああ、もう着いてしまったようね……」


 女は体をぐるぐると回すと、くしゅんとくしゃみをして鼻を啜る。


「あら、なんだかいい匂い。御供え物ってこんなに凄いのねぇ。これで石竜様が喜んでくれればいいのだけど」


「……石竜とはなんのことか、この老骨に教えてくれやしないかな、お嬢さん」


 大地を震わせる竜の声、彼はできる限り小さく絞ったつもりだったが、それでも竜特有の音というのは抑えきれないらしい。木立に遊ぶ鼠は吃驚して足を滑らし、鳥たちは口々に鳴きながら飛び立った。


 女もまた例外でないらしく、反射的に体を縮めて身構えている。


「……今のは、あなた?」


 先程とはうって変わって声に緊張感がある。女は両手を身の前に出して、己が体を守るように頭を下げている。


 老竜は申し訳なさそうにうううぅうぅ、と唸り、眼を細めた。


「驚かせてすまないねぇ……」


 悲しげな老竜の方へ向き直ると、女は懐に手を入れて警戒しつつも口を開く。


「こんなにお年の方だったのね、石竜さまは」


「ああ、それは儂の事だったのかい、なるほど、確かにこうじっとしているばかりじゃあ、石と変わりやしないねぇ……。何せ、莫迦みたいに眠いものだから」


 ふああ、と石竜は口の端から欠伸をする。くぐもった声からは、彼が相当な高齢で有る事が分かる。


「あら、そんなお寝坊さんが目を覚まして、一体何をするつもりなのかしらね」


「なにもせんよ、なにも」


 巨竜はふるり、と体を震わせて答える。


「儂はただ静かにここで眠り、そして死に逝くのみよ。この年で荒事なんぞはできやせんぞい、カラカラカラ」


「……思っていたよりも変な方なのね、石竜さまって。村に祀られているんだから、余程怖い方なのかと思っていたのに」


 ふむ、と石竜はひとつ思案する。成る程、わけも分からぬ生き物がどっかと眠っておるのでは、確かに何事か不安になるものだろう。その点は儂の落ち度じゃったのう、と老いた竜は密かに省みる。けれども祀られるとは、随分と過大な扱いだ。


「儂は単なる臆病者じゃよ。最後に残った一匹というのは特別狡猾か、それか怖がりの愚か者しかおらん」


 ほすぅ、と久方ぶりに鼻から息を吸い、身体の内へ空気を取り込む。呼吸など彼には必要ないが、声を出すには少々不便なのだ。


「あらまあ、それじゃあ私のような生贄なんて要らなかったかもしれないわね。……まあ、それでも私は村を出るしかないのだけれど」


 生贄、という言葉に老竜は眉を顰める。当然ながら彼からそんなものを求めたことはない。恐らくは過度に神格化された彼のかたちを、彼らが勝手に解釈したのだろう。


「儂は命を奪わんでも生きてゆけるからのう……、そこの供物はお前さんが食べるのがよかろう」


「あら、それじゃあ遠慮なく」


 女は手を伸ばして捧げ物をたぐり寄せると、パンの一つを手にとって齧る。どうにも腹が空いているらしく、小さな口でむぐむぐと懸命に飲み込もうとしている。


「ああ、慌てなくていいんじゃよ……ゆっくりお食べ……、お前さんを虐めるものはここにはないのだから」


 石竜の声に我に帰ったのか、女は少しバツが悪いといった風に頬を赤らめ、遠慮がちにパンから口を離した。


 それから何か口にしようとして、押しとどめ、そのまま視線が地に落ちる。石竜はそんな女の言葉を辛抱強く待った。そのうち、ポツリと女が口を開く。


「……本当はね、神様への生贄っていうよりは、体の良い追放なんだ……。村じゃあ私なんかは生きていけないのよ」


 彼女の言葉を受けて、そんなことはあるまいと老竜は反駁する。

 少なくともこの短い対話の中で、彼女に嫌な予感はなかった。それはきっと人との間であっても問題ない筈だ。表立った問題などは見えない。


「そうもいかないのよ、おじい様」


 はらりと目隠しが落ちる。


「ふむ……」


 老竜は彼女の閉ざされた瞳を見つめる。明後日の方向を剥いて放埒に転がる眼球。輝きは失せ、死人のそれのようにうすら白く濁っている。先の振る舞いに少々違和感があったのはそういうことなのだろう。ああ、彼女は光を失っているのだ。


「足手まといにしかならないもの、わたくし」


 毅然と、けれども諦観に満ちた彼女の本質とはそれなのだろう。劣るものは群れから落とされる。人間にそれを留めるほどの力はない。少なくとも、今はまだ。


「何かの病気だったらしくてね、もう白く濁って何も見えないの。きっとばちが当たったんだわ、私は人の事を妬んでばかりだったから」


 足を投げ出して座り込む女。捨て鉢のようでいて、その所作にはどことはなしに、そうでないものを手に入れようとしているように思える。


「私は決して良い人間ではなかったのだもの、自分にないものを持つ人達を憎んで、妬んで、手に入れた人をどうにかして追い落としてやろうと……そんな事ばかり考えていたの。言葉を弄して人を貶めて、でっち上げの罪状で何人も村から追い出したの。……悪い子ね、私。だからバチが当たったんだ」


 ひらひらと布の多い、動きづらそうな衣装をゆらゆら揺らしながら、彼女は自嘲する。生贄として着飾らされているのだろう。


「例え彼らが村を内部から掌握しようとしていたとしても、ね。力の強いものが権力を振るって人々を治める。……それが正しいとわかっていても、私は認める事ができなかった。村の分裂を企む悪党だなんて言い訳だわ、私は村の代表の、父の娘であるという地位から転落するのが怖かっただけ……。人を導く事なんて考えずに、ただ自分自身の飾りに固執していただけなのだもの」


 竜は石のようにじっくりと、彼女の言葉に頷くでもなく静かに聞き入っている。少女は解いた目隠しを静かに結び直す。


「そうまでしても病なんてもので全て失うのだから、結局私はなにもできやしないのよ。光が消えてから漸く自分の事が見えるようになるなんて、とっても皮肉が効いていると思うわ……。おじさまはどうか分からないけれど、人間にとって、生きることってとっても不自由で難しいことなの。そうして私は役立たず、誰かの手を借りなければ、歩くこともままならない」


 神輿に乗せられた彼女の傍らには簡素な杖が置かれている。なるほど、確かに彼女のようなものであれな、生贄としてもそう簡単に逃げ去られる心配もないのだろう。


「……それでもね、そんな私でも、生贄として捧げられる位はできると思ったのよ……例え体の良い口減らしだったとしてもね」


 所詮は自由にならぬ身だもの、と女は小さく笑う。彼女は彼女なりに、役割を果たそうとしているのだろう。人というものは一人で生きるには余りにも脆く、か弱い。吹けば飛ぶような藁の家なのだ、落ちた実を拾う余裕など有るわけもない。


 聖人など世界にはいない。人は欲を持つ、如何なるものでも欲を持たずに生きる事はできない。何故なら、生きる事もまた欲であるからだ。だが、その後に己を省みることができるのもまた人間だ。


 諦観する女の様子を横目に、老いた竜は己の知識を振り返る。洞穴から顔を出した人の子が狩りを行い、毛皮を身につけ、田畑を耕す。そして闘争の果てに互いに憎み合い、殺し合う。それはある種、竜というかたちにも近い。己の欲のまま大地を蹂躙し、肉を喰らいて版図を広げ、我が物顔で空を疾駆する。けれどそんな竜もまた滅びたのだ……彼を残して。


 石竜は幾重にも折り重なり沈殿する記憶の回廊の奥、己の最奥を拾い上げる。彼ら竜を産んだものとの唯一の契約を。ああ、彼は言ったのだ。石竜に、そうあるべきと望んだのだ。魂の契約を。自らの生命すらその契約を妨げるものではない。大地に眠る石竜は、色褪せたかつての記憶を静かに反芻する。人の助けとなる、それが彼を生き永らえさせる最後の行動原理。ああ、その石竜が彼女を前に眼を開いたのは、きっとそういうことなのだろう。


「お嬢さん」

「なぁに、石竜のおじさま」


 やけっぱちなのか、女は捧げられた精緻な敷物の上でくるくると回っている。力なくまわるその動きの、命を諦めている生き物のなんと悲しいことか。けれど、それを救う力が石竜にはある。


「儂はお前さんが愛しい、ああ、生きて欲しいと願う、だから」


「いいえ、私はここで逝くのよ。貴方の長い命に比べれば風がひとつ吹いた程度の些細なこと。気にしてはいけないわ」


「いいや、駄目だ。死ぬなんて簡単にいっちゃあいかん……儂がお前さんに、生きる役割を与えよう」


 ウウウゥウゥ、と竜が低く唸り声を上げたかと思うと、女の額に独特な文様が浮かび上がった。鱗のような曲線に、鉤爪のようなひっかき模様、そして片角の折れたその顔は、そう、竜の形を模している。


――これで儂の声もよう聞こえるじゃろうて、

――なんなのこれ! 貴方の声が内側から聞こえてくるわ……


――なぉに、ちょっとしたおまじないといったものじゃよ、これでお前さんは儂の声を聞き、そして儂に声を届かせるものとなった。

――ふぅん、それで、石竜さまは私に何をさせたいの? 


「何もありゃあせんよ……何もな。強いてお願い出来るのではあれば、儂の鱗を偶に綺麗にしてくれると嬉しいのう……こう歳を取ると身体が固くなって、身繕いをするのも一苦労じゃから」


 わざとらしくしょぼくれた声を出しておどける石竜に、女はクスリと笑い声を上げる。


「身の回りのお世話をすればいいの?」


「ああ、片手間で構わんがのう……なによりお前さんは儂の声を聞く、言葉を預かるものとでも呼ぼうかのう……、お前さんの村でなにか困ったことがあったなら、儂を呼ぶとよい。年寄りな分あれこれと経験があるからの、何かしら解決する方法を教えてやれるじゃろう……そしてお前さんの仕事は、村と儂の橋渡しじゃ」


 女は驚いた様子で口元を覆う。その拍子に衣装に付けられた金物細工が、しゃらん、と音を立てた。


「私が石竜様と、村の?」


「そうじゃ、額に記された文様と……ちょうどよいな、その細工を証にしようかの」


 老いた竜は音を立てた細工に眼を付け、彼女にそう伝えた。


「ほら、これで眼が見えなくともお前さんのやる事はできた。おまけに役に立つぞい。儂はもう身動きが取れんからのう……儂の知識を、お前さんが皆に伝えておくれ」


 呆気に取られたという風に女は身体を硬直させていたが、暫くすると堰を切ったように大笑いを始めた。ははははは、ふふふふふ。石竜も釣られて笑う、カラカラカラ。


「貴方って本当にへんなひと……それに、とても優しいのね」

「なぁに、これも老いぼれの知恵といった所じゃ、カラカラカラ」


 女は笑い過ぎたのか腹を抱えている。相当にほっそりとした指先が彼女の腹を撫でている。腕に巻かれた装身具がしゃらん、と揺れた。


「貴方は優しいけれど、人間は皆が皆、貴方のようにはなれないわ」

「知っておるよ、ああ良く知っておるとも」


 人は奪い、呪い、貶めて蹂躙する。潰滅の限りを尽くし、騒乱を沸き立たせ、怨嗟に満ちる。けれども、それでも……


「……ねえ、おじさま。私は、私を愛してくれる人に出会うことができるかしら?」

「あなたが人を愛することを忘れなければ、必ず」


「そうね、ふふ、そうだわ。自分の求めることは、まず誰かに与えなくっちゃあ……、うん、そうだわ」


 石竜と女は互いに笑い合う。嬉しい時に笑うことができる、それはとても優しく、穏やかな時間になるのだから。


「さぁ、帰りなさい。道は儂が照らしてあげよう、また私の話し相手になっておくれ。そして誰かと番いになって子を為し、生きておくれ。苦しくとも、辛くとも、命を愛しておくれ」


 ひとり言の様に竜が呟くと、急激に大地が蠢動した。長く続く地鳴りが木々を揺らし、鳥たちが慌てて飛び立つ。大地からはミミズが這い出して、子リスははっしと大樹にしがみ付く。暫くして揺れが収まると、ぼんやりと光る橙の灯火が一直線に、次々と光を点灯する。


「温かい、光。これはなんなの? もう見えなくなった筈なのに、感じ取ることができるなんて……」


「その文様がある限り、この道のことは分かるじゃろう。獣に襲われる心配もない。さあ、安心していきなさい」

「ふふ、そうね……」


 女はまた最初のように身体を大きく逸らし、伸びをする。ぐるぐると身体を回す度に、しゃらん、しゃらんと細工が可憐な音を辺りに振りまく。


「それじゃあ、行ってくるわ、ねえ、またお話をしに来ていいかしら」


「構わんよ、どうにも眠りがちの老骨が相手でよければの、カラカラカラ」

 にこり、と彼女は見えない眼で石竜に微笑みかけると身を翻し、それきり振り返ることもせずに光の道を歩みゆく。


――おじさま、私の背中が見える?

――ああ、見えておるとも

――ええ、見ていて、ずっと、ずっとよ。貴方が見ていてくれるなら、私も少しだけ頑張れそうな気がするの。不思議ね……ふふっ、貴方に会うまでは、何もかも投げ捨てようとしていたのに……行ってきます。


 石竜は彼女のゆく背中を見つめながら微笑んで、そっと眼を閉じる。暫く休んでいると、背に生えた草樹の上に野ウサギや小鳥が戻ってきている。少しだけくすぐったさを感じながら、老いたる石竜は眠りに落ちる。


 後年の資料に、石の巫女と呼ばれる土着のシャーマンの存在が散見される。巫女たるものには身体の不自由な者、特に眼を患った者が選ばれ、集落において指導者的な役割を果たした。

 その真実を知るものは、ほんの僅か。


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