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Session.3 Leper Messiah Part.2



 しゃがみこんだ男が右手を伸ばし、あやめの髪を掴んで顔を近づけてきた。


 近くで見るとよく分かった。

 こいつは人間のように見えるが、明らかに人間とは違う。

 こいつが何者で、これからどうやって自分を殺そうとするのか。何も分からない。

 今すぐにでも心臓が止まりそうな程の恐怖が全身を駆け巡っていた。手足はもう、全ての神経が壊死したかのように動かず、声すら出せない喉からは、ただ荒い息が吐き出されるばかりだった。

 ただ涙だけが、自分という生命の最後の自己主張のように、いつまでも流れ出ていた。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 自分は何も悪いことをしていない。ただ、他の人達と同じように慎ましく生きて、慎ましく死んでいくことを望んだだけだ。

 こんなところで死ぬことなんて、認められない。

 だが、認めようと認めまいと、これから自分は死ぬ。これから迎える多くの出会いや、恋、社会への一歩、大人の世界の中で体感する試練や親との別れ、そうして、今度は自分が親になり、穏やかな気持ちで子供と別れる瞬間……そんな当たり前の幸福の一切を飛び越えて、直接“死”という生命のエンドロールを迎えることになる。

 痛みと恐怖と絶望を、最後のイベントにして。


 どうして自分がこんな眼に会わなければならない。


 あやめはただひとつ、それだけが知りたかった。どうしてもそれだけが。


 今まさに、人ならざる何かの手によって苦痛の饗宴が始まろうという瞬間、あやめは、断末魔のごとく絶叫した。

「な……なんで私なのさぁーーっ!!」




 その時だった。

 突然、男が立ち上がった。

 あやめには、何故立ち上がったのか分からなかった。

 それだけではない。男もまた、自分自身の行動が理解できず、眼を点にしていた。


 一瞬の静寂を置いて、あやめは気づいた。

 立ち上がったのではない。

 “立ち上がらされた”のだ。

 男の後ろに誰かがいる。


 男の身体を間に挟んで、飄々とした声が聞こえてきた。

 その声は、あやめには聞き覚えがあった。

 心臓がまた、大きく脈打つのを感じた。

「なんでか……ねぇ。残念ながらそれは俺にも分からない。世の中の事柄のほとんどには理由はないもんだ。仕方ないことなんだよ……哀しいけどねぇ」


「な、なんだぁ……!?」

 男が、背後に視線を向けようとする。だが、首筋を掴まれているらしく頭が動かない。眼だけが動くばかりで、後ろに振り向けない。

 その聞き覚えのある声が、続ける。

「しかしまぁ、理由なんて分からなくても別にいいだろ……なんたって……」

「おい! お前なんだコラァ! 誰だッ!」


「やかましい。黙ってろボケ」

 男の身体が、盛大に投げ飛ばされた。そのまま、先程の夏目と同じように暗闇へと吸い込まれ、鈍い音を立てて壁と激突する。

「ぶッぐえ……!」という呻きが聞こえた。


 次いであやめの視界には、その声の主の姿が、暗がりの中で確かに見えた。


「そもそも死にゃしないんだからな……イェ~イ、決まったぜぇ~」

「あ、あなた! 御剣くん!?」

「ん? あっ……あんた、入須川じゃないか!」

 あやめも驚愕したが、御剣の方も驚いている様子だ。もっとも、その驚きの“度合い”が違うが。

 彼女の傍にしゃがみこんだ御剣は、いつも通りのにやけた顔を見せながら、言った。

「まさかあんただとは思わなかった……ん。何もされてないみたいでよかった。ホントはもうちょっと早くくるべきだったんだが、野郎がやたら手際がいいもんで、追いつくのに苦労した。怖かったろう」


 ますます頭がこんがらがってきた。あやめは、自分が夢でも見ているのだろうかと考えたくなってきた。おかしくなった夏目に、人間じゃない何か、そしてこの御剣だ。不可解さが怒涛の勢いで押し寄せていた。


 しかし、ひとつ実感できたこともある。

 どうやら、自分は助かったみたいだ。


「ちょっ……ちょ、ちょっと、これなにっ? どういうことなの? どうして御剣くんが……」

「今すぐ説明してやりたいところだが、そういうわけにもいかない。とりあえず今は、そこでじっとしててくれ。いいか? いいな?」


「あっ!」

 その大きな声は、返事ではない。

 御剣の背後から、例のあの男が迫っているのが見えた。その顔からは先程までの笑みは消え、怒りの形相に変わっている。

 今まさに御剣に掴みかかろうと、両腕が伸びていた。


 しかし……


「ん。大きくて良いぃ~返事だ。よし、じっとしてろよ」

 何事もないように続けながら、御剣は男の方に見向きもせず、その顔面に裏拳を撃ち込んだ。


「ブェゴッ」

 大きくよろめき、尻餅をつく男。

 そのまま御剣はゆっくりと立ち上がると、振り向きざまに、男の顔にさらに回し蹴りを叩き込んだ。

 またしても、男の身体が闇の中へと吸い込まれていく。


 回し蹴りの勢いのままくるりとあやめの方へ向き直した御剣は、相変わらずだらしなさそうな笑みを浮かべながら、言った。

「なあに、怖がるこたァない。入須川、あんたは俺が守ってやるよ……」

 それだけ言い残して、彼は吹き飛んだ男を追うように、暗闇の中へと数歩足を踏み出した。


 そろそろ暗闇にも眼が慣れてきたのだろうか。あやめの眼にも、この空間の全容が把握でき始めていた。

 殺風景な廃墟の中で対峙する、二人の男の姿も……




    ※




 廃ビルの一室か何かか……とにかく、人目につかないような屋内だ。窓はあるにはあるし、そこから月明かりが入ってはきている。外には同じようなビルやら、遠くの方に道路やらが見える。しかし、夜中のこの時間帯では、人の姿は確認できない。

 部屋の広さも結構あって、小さめの一戸建てぐらいだった。塗装は剥がれ、壁や床にはコンクリートがむき出しになっている。

 多分葦原学園からそう遠くもない場所だろう。都会の最中であっても、こういう場所は存在する。


 硬質な壁に囲まれた空間では、御剣のその声はよく通った。

「こんなんでくたばるわけがねぇだろォーがよ! いつまでもへばってんじゃあねぇぞ!」


 その声に応えるように、壁にもたれかかって座り込んでいた男が、むくりと立ち上がった。口角を釣り上げて、喉を鳴らす。それは、到底人間ができるような表情ではなかった。

 だが、あやめにとって尚更恐ろしいのは、その笑顔が、いつぞや御剣が見せたものとどことなく似ていたことだ。


「ヒッヒヒ……手始めに二、三人殺って憂さ晴らしするつもりが、お目当ての野郎が自ずと近づいてきやがった。あぁ~あ、これじゃあどうしようもねぇじゃあねぇかよぉ~~……予定変更しなきゃあなぁ。まずはお前から殺さなきゃいけなく……なっちまったじゃねぇかよボケェェーーッ!!」

 生きたまま人の肺を引き裂いたような叫び声を浴びても、御剣の顔は実に涼しいものだった。


「ウダウダ抜かしてねぇで……さっさとかかってこい」

 男の前に手をかざして、クイクイ、と手招きをする。さながら昔の拳法映画のような動きだった。混乱しているあやめの眼にも、“カッコつけてる”と分かる所作だった。

 が、こんなあからさまな挑発も、口角と一緒に眼輪筋もピクピク震わせているあの男に対しては、実に効果的であるようだ。

「さっきはちょいと油断して二発もらっちまったが……もう、油断はしねぇぇ……!」


 いよいよ、本格的に始まった。

 喧嘩……いや、戦闘だ。


「ジィェアアァァッ!!」

 男が、蛇の――人間を丸呑みできるぐらい大きな蛇の鳴き声のような叫びをあげ、あやめには到底視認できない素早さで御剣の背後へと回り込んだ。《保有者(ホルダー)》の速度だ。

 《保有者》による戦闘の相手となった日には、常人では、痛みすら感じる間もなく殺されることだろう。


 だが、これほどの速さであっても、同じ《保有者》なら見切ることはできる。

 殊更御剣にとっては、敵の動きに対応することなど造作もないようだった。


 男が繰り出した手刀による突きをすり抜け、その懐に飛び込む。その時すでに、彼は上体をひねり、敵に背中を向けていた。だが、逃げるのではない、むしろ迫っていた。

 この動きは……


「どゥらッ!!」

 御剣の背中が、ノーブレーキで迫り来る特急列車にも勝る勢いで、男の胴にぶち当てられた。

 中国拳法八極拳の当て身、鉄山靠てつざんこうである。

 衝撃により散った埃が、ゲームのエフェクトのように眼に見える。それほどの打撃を受けた男の身体が、またしても吹き飛ばされ、壁と激突した。これで三度目だ。


 姿勢を正し男の方を向き直した御剣は、なおも相手を挑発する。

「油断するのをやめてもまだ喰らったってことは、どういうことなのかねぇ? よぉあんた。どういうことだと思う? ……おぉ~と、ウダウダ抜かしてんのはどうやら俺の方みたいだァ~。ま、あんたがそうやってゆっくりゆったり仕掛けてくるのが悪いんだぜ? 退屈だからついつい喋っちゃうんだよ。 老後に奥さんと幸せに暮らしてるおじいちゃんじゃあねぇんだからよぉ、もっとキビキビ動けや」


「死ねェーーッ!!」

 怒りに駆られた男が、立ち上がる動作も飛ばして、飛び上がるように床を蹴り、御剣に突進する。

 相変わらず、あやめの眼では、いつのまにか御剣の目の前に迫っていたと錯覚するほどの速さである。だが、そんな彼女ですらも、先程よりも単純な動きだと把握できた。

 たった数分のことで何が分かるものでもないが、こんなことで、御剣を倒せるわけがないと分かる。はっきりと。


「ハッハハ! バァーカッ!」

 哄笑と共に彼の放った右ハイキックが男の顎を打ち据え、その突進を食い止めた。


「ングォア!……ハゥ……ッ」

 脳みそを揺さぶられ、フラフラとよろめく男を追撃する。


 右回し蹴りで男の左こめかみを蹴り、そのまま蹴り抜いた足を戻すように右後ろ回し蹴りを放ち、踵を右こめかみに叩きこむ。

 さらにその右足を蹴りあげて顎を浮かせ、かかと落としを上に向いた額にクリーンヒットさせる。

 そしてトドメに、左足を軸にして大きく右に一回転しながらの右後ろ回し蹴りをぶち込んだ。

 男が、いつぞやの“バタフライナイフくん”とまったく同じ動きで、床の上に倒れる。コンクリートにめり込む頭まで、同じだ。


 あまりに早い連続蹴りで、あやめには何をやったのか分からなかったが、ただ“圧倒的”だということだけは分かった。

 あの御剣が……入学早々居眠りして、中庭でハトと戯れていたようなあのへんちくりんな男が今、他人をサンドバックみたいにボコボコにしている。今目の前にいるアレが、自分の記憶の中にいる彼と同一人物とは思えなかった。

 しかし不思議と、“こっち”の御剣の方が、それらしいような気もしてきた。


 彼の足元に倒れた男が、気がついた時には御剣から離れた場所に立っていた。

 瞬時に起き上がり、距離を取ったのだろう。またしてもその動きが見えなかった。まるで映画のフィルムを数十枚飛ばしたような感じだ。

 ついさっきまで不気味に笑っていた顔には血がこべりつき、すでに笑みも消え失せていた。


 いや、違う。

 数秒ほど、また目元をピクピクと震わせてから、男の顔に笑みが戻った。それと共に、落ち着きも取り戻したと見える。


「ク……クッフフフフ、ヘッへへ……」

 肩を震わせ静かに含み笑いを漏らした後、男は粘り気を帯びた視線を御剣に飛ばしながら、言った。

「いやいやいやいやいやいや、いやいやいやいやいやぁ~~、やるじゃないのよお前ぇ。俺だって、夏目とかいうゴミの身体から抜け出りゃ、お前らが《Aランク》とか分類してるぐらいの実力はあるんだが、それでも追いつけないとはなあ……いやいやいや、いやいやいやいやいやいやいやぁぁ~~、強いよ、お前は」

「ようやく分かったかよ。お前だって聞いてたんだろ? “喧嘩する相手を選べ”ってさ。これで言うのは三回目だぜ。あんたが酔っ払った犬みてぇに壁にぶつかった回数とおんなじだ」


 突然敵の態度が変わったというのに、まったく動じない御剣の言葉に、男はもっともらしく頷いた。

「いやはや、その通り! 喧嘩する相手は選ばんとダメだね。しかしだなぁ、俺はどうしてもお前をぶっ殺して、この煮えたぎるような怒りを解消し、清々しい気持ちでこの夜を過ごし、スカッとした夜明けを迎えたいんだ。分かるだろ? 誰だって、その日の疲れやイライラはみんなきれいになくしてから、次の日を健康的に迎えたい。そうだろぉぉ~? 俺がこれからこの世界で輝かしく生きていくためにも、それは絶対に必要なことなんだよぉ~」

「ふむ、まぁそうだな。そこら辺は同意するよ……じゃあどうすんだ?」


「……いやな。お前を殺すことを目標とするならだ。わざわざ律儀に一対一で殺り合う必要なんてないわけだ。そうだろ?」

「……」

 御剣の顔色が僅かに変わった。口元がきつく引き締まる。

 それを見た男は、これまでに無いほどの喜色を顔に浮かび上がらせた。自分の思惑に気付き、怯懦きょうだしたと感じたのだろうか。

 しかし、あやめにはそうは感じられなかった。彼女は御剣の顔すら見えていないのに、彼の眼に、怪しい光が揺らめいているのが分かった。

 彼が、笑っているのだということを理解した。



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