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Session.3 Leper Messiah Part.1



「……あっちゃあ~、なんでこれ忘れちゃったんだろ」


 夜。寮の部屋の中で今日の授業の復習でもしようかと机に座ったあやめは、ある根本的なことを忘れていることに気づいた。


 ノートが足りないのだ。

 一応引越しする際に故郷の家にあったものを何冊が持ってきたのだが、それでも全科目の授業のノートを取るには少なすぎた。学校に行くのにノートがないなどと、そんな馬鹿な話がない。故郷を離れて遠い場所へと越してくるにあたり、いろいろと準備が忙しく、つい事前に買い揃えておいたものだと勘違いするのも仕方がないことかもしれないが、彼女は、自分の注意力のなさに呆れた。

 とはいえ、ないものは仕方がない。なければ買いに行けばいいのだ。ついでに、消しゴムやらシャープペンの芯やらの予備も買っておこう。


 誰にでも小さなこだわりはある。あやめは、中学時代からずっと同じ消しゴムを使い続けていたし、シャーペンの芯も、uniの0.5mmと0.3mmをその日の気分で使い分けていた。

 葦原学園の敷地内にあるコンビニに売ってあればいいのだが、もしなかったら面倒なので、敷地の外にある文房具屋に買いに行くことにした。どうせ歩いて片道十五分ぐらいの距離なのだ。短くはないが、ちょっとした散歩のつもりでいこう。




 そのまま寮を出たあやめは、何事も無く、実に平素に文房具屋に着いて、目当ての物を大体買い揃えた。


――前準備は完璧にしてたと思ったんだけど……なんか調子狂うなぁ~、変なことが起こる前触れかしら――

 そんなことを考えながら、きた道をそのまま引き返し、寮への帰路につく。


 来る時にも見た、閑散とした公園の横を通りすぎて、大きな歩道橋の下を潜る。

 “広いこと”と“大きく高いこと”は、何故だか無条件に心に恐怖を植えつけてくる。全てを見渡し把握しきれない“不可視”と、見上げることで足元が見えなくなるその“不安定さ”が、恐れの源となるのだろうか。

 夜半の暗さの上、何故だか周りに人の姿が一切ないこの状況だと、さすがに不気味に思えてきた。

 それこそ、何か起こりそうな。


 ……いや。もし何か起こるとしても、今すぐ起こるわけでもない。たった十五分歩いている間に、一体何が起こるというのか。

 仮に何かが起こったとしても、大したことでもないだろう。次の日どころか、三時間もすれば忘れるようなことだ。たかだか物を買い忘れたぐらいで、考えすぎた。


 誰だってそう思う。それはあやめが目指す“当たり前”の思考であった。


 が、世の中の全てが“当たり前”のことで動いているわけでもない。条理のために傾きすぎた天秤を元に戻してバランスを保つためには、一定間隔で不条理を世に放つ必要がある。あるいは、増えすぎた条理を天秤からつまみ出して、“間引き”をするか……


 要するに、どんなことでも起こりうるのだ。いつ自分に、抜き差しならない事態が降りかかってくるのかなど、誰にも予想することはできない。




 突然何者かに羽交い絞めにされ口元を手で抑えられ、どこかへと連れ去られる中では、あやめにはそんな事実を再確認する暇もなかった。


「っ!?」

 訳が分からなかった。ただ、両腕ごと締め付けるように何かに身体を抱きかかえられ、口元に人肌の生ぬるさのあるものを当てられたという感覚だけは確かだった。その後、発泡スチロールの箱でも抱えるように軽々と持ち上げられ、見開かれた眼に、目まぐるしく流れていく町並みや街灯の光が、映っては消えていった。


 結局、自分が何者かに拘束され、連れ去られているのだということには、気づくことができなかった。

 理由がない。拉致される理由など何もないのだ。謂れの無いことを人は想定しない。


 頭の中が漂白剤にたっぷり八時間ぐらい浸けられたように真っ白になる中では、『何が起こった?』という疑問の言葉すら、頭の中には現れなかった。暗い影の落ちた建物のシルエットや、きらびやかな光が次々と流れていく中で、視界すらも段々とぼやけてきた。




 やがて、掴まれていた身体が投げ出され、何か壁のようなものに叩きつけられた。そこでようやく、あやめに対して現実が濁流のごとく襲い来るのだ。


「ぷは……!」

 息苦しさから解放された彼女は、咄嗟に周囲を見回した。

 光が僅かにしか届かず、ほとんど真っ暗闇も同然だった。どうやらどこかの屋内のようだが、人の気配はまったくない。背後には、自分が叩きつけられた殺風景なコンクリートの壁が存在するが、確認できるのはほとんどそれだけだった。この場所がどれぐらいの広さなのかは見当もつかない。

 どうやら、どこかの空きテナントか、閉店したパチンコ屋の店内かなにかみたいだ。


 それと、人の姿があった。

 暗闇の中であっても、すぐ目の前に立っていたものだから、顔もはっきりと見ることができた。見覚えのある顔だった。

 その顔を見た途端、あやめの身体は、この不可解な状況に対する当惑のために、小刻みに震えだした。


「あ……あな、あなたは……」

 震える声でその人影を呼ぶ。

 あの、御剣を殴ろうとしていた《保有者(ホルダー)》――夏目 貴靖を。


 彼は、葦原高指定のカッターシャツとズボンを着ていた。

 あやめに呼ばれた彼は、頭を微動だにせず、うつろな眼だけをギョロギョロと動かし周囲を見渡してからあやめに視線を合わせた。その動作のあまりの不気味さに、彼女は息を呑んだ。


「あぁぁ~~……なんだぁ~、お前ぇぇ……」

 口をついてでたその声は、まるでスロー再生したようにやけに間延びして、たどたどしかった。昨日の、あの饒舌に人をけなしていた男の声とは、とても結びつかない。

「あぁ~そぉうかァ……お前、葦原の生徒かぁぁ~~……お゛っ……お゛お゛ォ~……」

 ゲップのような――地獄の沼の底からヘドロでも湧き出してくるような声をあげながら、夏目は首をコキコキと鳴らした。骨のこすれ合う音が、無明の空間に小さく響いた。


 あやめの身体の震えは一層激しくなる。

 何かが……いや、何かではない、何もかもがおかしい。

 自分がこんな、どことも分からない場所にいることも、目の前のこの、見覚えがあるはずなのに得体のしれない“《保有者》らしき何か”も……


 あってはならないことが起こっている。

 そのことが分かった瞬間、あやめは固まりそうになっている肺から空気を絞り出して、精一杯声を張り上げ叫び声をあげた。

「誰かっ!!」


 だがその叫びに返事を寄越すのは、目の前の夏目――らしき何かだけだ。

「叫んだってぇぇ……聞こえや、しねえぇ~~よぉお゛おぉ……わざわざ聞こえないような場所……選んで、連れてきたんだからよぉぉ……」

「な、なに……なにこれ。なにしようとしてるの……っ」


 あやめの問いを聞いた夏目は、「うぷ……っ」と、喉の奥に這い出てきた何かを飲み込むような声を出し、首を大きく左右に振ってから、応えた。少しだけであるが、その声は本来の彼の調子を取り戻しているようにも聞こえた。

「いやな……個人的にさぁ、すごく……ムカツクことがあったからよぉ……仕返しにあの野郎のハラワタを撒き散らしやる前に、憂さ晴らしに二、三人ぐらい……ぶっ殺そうと思ったんだよ……」

「ぶっ、殺……っ!?」


 口調こそ平然としてきたが、その語る言葉はますます狂気じみていた。あやめは戦慄し、心臓を金槌で叩かれ、血液が全開にした蛇口から溢れ出る水のごとく全身を駆け巡るような、強烈な衝撃を感じた。

 夏目の言葉の多くは、十中八九自分が対象となっている。つまり、『ぶっ殺す』という行為の対象は誰か……考えずとも分かった。


 逃げなくては。助けを呼べないのなら、なんとかして自力でこの場から離れなければならない。あやめは、全速力で床を蹴って駆け出そうと、震える足に喝を入れた。

 だが、萎縮しかけていた筋肉が張り詰めようとしたその瞬間、鉄面皮を浮かべた夏目の小さな声が鼓膜を震わせ、脳に響いた。

「試しに逃げてみるかぁ? お前、多分《保有者》じゃねぇだろ。《Bランク》の俺と追いかけっこして、勝てる自信があるなら……だけどな……」


 その一言で、躍動しかけていた肉体から、破れた風船から空気が抜けるように力が失せた。

 そうだ。目の前の男は《保有者》なのだ。隙をみつけて逃げたとしても、その隙も埋め合わせるような身体能力の前では、無事に逃げ切れる望みなどゼロを通り越してマイナスだ。


 視界を埋め尽くす暗闇よりも深い絶望が、あやめの心を包んだ。今から自分は、ただ『ぶっ殺される』のを待つしか無いという現実を、受け入れる他になかった。

 何故こんなことになってしまったのか。

 そんな呪詛の言葉を脳内で唱える余裕すらなく、ただ、眼から涙がこぼれ落ちるばかりだった。


 それでも、震える声でこう聞いたのは、襲い来る不条理さに対する囁かな抵抗だったのだろうか。

「な……なんで、なんでこんなこと……どうして私なの……」


 それに夏目は、面倒くさそうに応えた。これから殺される相手に対する慈悲というものはないらしい。当然だ。慈悲があればそもそも殺すような真似をしないのだから。

「うるっせぇなぁ~……別に誰でもよかったんだよ。ただムカついたからやる、それだけだ。あのクソひとり殺るだけじゃあ足りねぇ。もう何人かいたぶり尽くさねぇとこの苛立ちは晴れねぇんだよ、スカッとしねぇんだ……こんな気持ちを残しておいたんじゃあ、精神衛生上よくないんだよ……分かるだろう? 余計なストレスを貯めこむのは駄目なんだよ、そうだろぉ? そう、だよな……」

 最後まで言いかけた、その時だった。


「そうだよ……な゛ッ!……う゛お゛!」

 夏目の身体が突然びくりと痙攣し、棒のようにまっすぐになって固まった。

「お゛……うぅぅ、ぶ……」

 またしても地獄の沼から湧き出てきたような呻きを上げながら、グネグネと身をよじらせる。さながら、めちゃくちゃに動かされる操り人形のようだった。わずかな灯りに照らされながら、別の生物のように蠢くそのシルエットは、あやめの眼には、この世の光景であるとは思えなかった。

 『ぶっ殺される』ことよりも奇怪で恐ろしい事態が、目の前で発生していた。


「お゛っ! お゛お゛おぉぉ、っぶおッ! お゛お゛えぇ……ッ!」

 うめき声は、さらに大きくなっていった。明らかに人間の発するものとは異なる重低音の叫びが漆黒の中でこだましたと思った瞬間、夏目の身体は糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。


 確かに倒れた。

 だが、何故だか彼女の目の前に、まだ人が立っていた。夏目が倒れて誰もいなくなったはずなのに、そこに人影があるのがはっきりと見えた。


 いつからそこにいたのだろう。

 夏目とは別の人間らしい。暗闇の中でも分かるほど肌が青白く、目元や頬の辺りに、血管が浮き出てきたような模様が浮かんでいる以外には、ただの男に見える。髪の毛も黒い。服装は、夏目のものとほとんど同じだった。まったく同じ店で全く同じものを仕入れたように、些細な違いもない。

 だが、この状況だ。あやめには、その男がまともな人間ではないということが、直感的に分かった。


 はっきりとは見えなかったが、この男が、夏目の身体から這いずり出てきたように見えた……気がする。

 鮮明に目撃したわけでもないし、人間が人間からどうやって這いずり出るのか想像もできないが、とにかく這い出てきたのだ。

 そしてあやめには、この男こそが、自分を『ぶっ殺そう』としているのだと思えた。


 唇も震え、最早声もまともに発せられなくなった彼女の前で、男が口を開いた。

「よぉ~やく出られたぜ……特別に、着てるものだけは同じにしてやったが、こんなタンパク質とアミノ酸でできた生ゴミみたいな野郎と一緒にいるのも、今日までだ……ハッ!!」

 言い終えてから、男は足元に倒れていた夏目の身体を足蹴にした。暗闇の中へと吹っ飛んでどこかの壁にぶつかる音が、さほど遠くもないところで響いた。

 一緒に、何かが砕ける乾いた音もかすかに聞こえた。


 次いで男は眼を見開き、微かに開いた口をガタガタと震わせているあやめの方を向いて、満面の笑みを浮かべた。

 本当に、心の底から笑っているような顔だった。一体何が嬉しいというのか……

「はじめましてェ~、お嬢さん♪ まぁこれからすぐさよならになるわけだが……どうした? 怖いのか。いいんだよぉ、そのまま怖がって。これからもっと怖い思いして、自分の身体が少しずつ解体されるのを眺めながら、誰も助けにこないこの暗闇で、たっぷり悲鳴をあげてから死んでもらうんだからねぇぇ~、ヒェッヘッヘッヘ! ……さぁ~てと。どんな風に嬲ってやる、か……」


 この男が何者なのかは分からない。ただ、あやめの中の予想は全て当たっているようだった。

 こいつはまともではない。そして、こいつがこれから、自分を殺すのだという予想は。



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