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Session.15 Tribute to the Past Part.10

「姉ちゃん!」

 マグマ溜まりを飛び越え、仰向けに倒れている前ヶ崎の傍らへとしゃがみ込む。

 すぐにその上半身を抱きかかえ、揺さぶりながら呼びかけようとしたが、そんなことをすればそれだけで死んでしまいそうな気がして、できなかった。ただ、彼女に触れようとして触れられない両の手を、わなわなと震わせることしかできない。

「姉ちゃん……ね、え、ちゃ……っ」

 うわ言のように繰り返す言葉すらたどたどしい。目の前の現実を、とても受け入れたくはなかった。

 だが、実際に事実はそこにあり、どうあろうとも覆すことはできない。あの《保有者ホルダー》の女は最後の力で前ヶ崎を狙撃し、その心臓を吹き飛ばした。それが事実。


 彼女はしばらく虚ろな、焦点の定まらない眼を上空に向けていたが、やがて、自分を見下ろす御剣の存在に気づき、その眼を見返した。

 生命のない人形のように生気のなかった顔が、険しくなる。頬と眉間に力が入り、腹の底に力を入れようと歯を食いしばる。

 すでに意識は朦朧とし、すぐにでも途切れてしまいそうだ。そうなる前に、残る力を振り絞り、御剣に伝えなければならなかった。逃げろと。

 山火事で焼け果てた山肌に吹き抜ける風のように乾いた声を、喉から絞り出す。

「御剣……くん。逃げて……“因子”は、危険よ」

「ね、姉ちゃん!」

 すがりつくようにその名を呼び返した御剣。もしかしたら、まだ助かる見込みはあるかもしれないという、妄想じみたありえない希望を眼にたたえた彼に対し、首を左右に振る。

 いや、助からない。後はこのまま死ぬだけ。

「ふ、ふ……神経を遮断すれば、痛くなんて、ない。苦しまずに死ねるから、貴方は、心配しないで、行けば、いい」

「……そんな」

 御剣は、生まれて初めて絶望と後悔というものを味わっていた。見開いた眼からは涙を流していた。

 視界がぼやけて、彼の顔さえまともに見えなくなってきた前ヶ崎にも、それは分かった。だが、彼女にはもう、このような形でやってきた彼との別れを、彼と同じく哀しむ時間もなかった。

「……“因子”の力は、本当は……こうやって人を殺すために、あるんじゃ、ない。私は、そう、信じてる。もし、本当に殺すためにある……っていうなら……“因子”なんて……こんものなんて、なくてもよかった……!」

 その前ヶ崎の声が聞こえているのかいないのか。御剣はただ、自責の言葉を叫ぶだけだ。

「ぼ、僕があいつをもっと早く止めていれば、こんなことならなかったのに! 僕のせいだ! 姉ちゃんは僕が殺したんだ! 姉ちゃんが死ぬことなんてない、死ぬべきなのは僕の方だ!」

 だが、とうとう鼓膜の震えを脳に伝える神経すらも麻痺し、その悲痛な声は、ついに前ヶ崎には聞こえなかった。だから、彼女は御剣を慰めてやることもできない。

 それでも彼女は、最後の最後、本当の生命のきわに、なんとしても御剣に伝えるべきこと。それだけは、伝えることができた。

「……声も、でなく……なって、きた……御剣くん……貴方と一緒にいて、楽しかった、けど……もう、私の、ことは、忘れて……貴方の、やりたいように……生きたい……ように……」


 それが、彼女の最後の言葉だった。

 瞳孔の開ききった眼を開けたまま、彼女の口元からはもう、かすかな息すらも流れなかった。脈は、心臓を撃ち抜かれた時にすでに止まっていて、その身体もすでに冷えきってしまった後だった。

 生命の消失。これもまた生まれて初めて目にするものであるはずなのに、御剣には不気味なほどにはっきりと、彼女が死んだということを認識することができた。


「……」

 最早声もでない。泣き叫ぶような顔になったまま、見開いた眼で瞬きすることさえせず、唇を震わせて、ただ、人でなくなってしまった彼女の姿を見つめることしかできなかった。

 数秒の間を置いて、やっと、喉の奥から途切れ途切れの呻きがわき起こってきた。

「う……う……う……」

 ゆっくりと、倒れるように彼女の腹へと顔を埋め、静かな嗚咽を漏らし続ける。


 御剣と前ヶ崎。そのふたりの関係を完全に理解できるのは、彼ら本人しかいない。だから、彼の無念も、彼が涙を流す気持ちも理解できない者はいるだろう。

 殊、マグマ溜まりの向こう、水蒸気によって揺らめく彼らの姿を眺める《保有者》の追っ手達は、彼らが友人同士であることさえ分かってはいない。


「……」

 突然、女の方の《保有者》が倒れて動かなくなったのも奇妙だったが、それから数秒と待たずにこの場に駆けつけ、今号泣しているあの少年も奇妙だった。

 だが彼らは、彼が涙を流す理由を考えるのではなく、“隙”ができたと考えた。そういう人種なのだ。

 今なら、至近距離から拳銃を撃ちこむなり、ナイフで頭を一刺しするなりで殺すことができるかもしれない。


「よし……続け」

 隊長格の男が、数人の兵士を連れ、音も立てずにマグマだまりを飛び越え、少年に接近する。

 片や拳銃を抜き、片やナイフを構え、死んだ女の身体に突っ伏している少年へとにじり寄る。


 しかし、当人達は音を立てていないつもりだろうが、《保有者》の聴覚は、砂がこすれる僅かな音さえも聞き逃すことがなかった。

 自分の嗚咽の声に混じり、誰かが近づいてくる音が聞こえる。間違いなく、追っ手が迫っている音だろう。


 そのことに気がついた時、御剣の中で、前ヶ崎が死んだ哀しみさえも上塗りするような、“何か”が生じた。

 その何かは、絶望と自己嫌悪に冷め切っていた全身の血液を一気に熱し、このまま前ヶ崎の後を追って止まってしまいそうだった心臓の鼓動を、再び早めた。

 身体の芯の芯――細胞の一粒を構成する原子。それよりもさらに小さい、人間を形作る根本的な部分から“それ”は拡大し、やがて頭にまで昇り、脳内に充満した。

 前ヶ崎の腹に顔を埋めたまま、目玉が飛び出るほどに瞼を剥き。眼を見開く。




 その瞬間、なぜだか彼は、何もない、足元も頭上も、視界の全てが真っ白な空間に、ひとりぽつねんと立っていた。

「……」

 真夏の熱帯雨林を彷徨い歩いたかのように汗に塗れた身体のまま、訳もわからず周囲を見渡す。

 ここはどこだ。まさか、本当に前ヶ崎の後を追い、天国にまで辿り着いてしまったのか。あるいは、哀しみのあまり脳細胞が壊死して、頭がおかしくなったのか。


 呆然とする彼は、不意に、背後から語りかけるその声を聞いた。

「ネェ」

「……っ!!」

 咄嗟に背後に振り返る。そこには、得体のしれない、靄の塊ようなものが浮いていた。だがその靄には明確なシルエットがある。長く伸びた四つの枝のようなもの、それは四肢だ。

 そう、人だ。それは、人の姿をしていた。頭に当たる部分からは、立ち昇る炎のように靄が揺らめいていた。他の部分は白い色をしているのに、その部分だけがまさしく炎そのものとなって赤く染まっていた。赤い髪だ。


 驚く前に、御剣は理解した。

 こいつが“あの日”――“因子”がこの世に現れた“あの日”、自分に語りかけてきた者の正体。

 御剣の身に宿る、“因子”の姿だ。

「……」

 何も言えずその場に立ち竦む御剣に、“それ”は語りかける。

「ネェ、ソレナニ?」

「それって……な、何って……」

「アナタノナカニアルモノ。ソノ……キモチ?」

「気持ち? 僕の気持ち……」

 その言葉を聞いて、混乱のために忘れそうになっていたものを、思い出す。また、胸の奥からその正体不明の何かが沸き起こってくる。

 御剣は顔を俯け、握りしめた拳をわずかに震わせながら、声音だけは静かに、語り始めた。


「なんでこんなこと、君に話そうと思ったのか分からないけど……僕ね、姉ちゃんのことはよく知らなかった。それでも、僕の初めての友達だったんだ。好きなものとか、優しいところとか、そういうことは知ってたけど、姉ちゃんの本当の心だけは、ずっとよく分からないままだった。だけど、好きだったんだ……そんな姉ちゃんが、死んだ」

「シンダ……」

「そうだよ、死んだんだ。“因子”の……――君と同じ、“因子”のせいでね! どうして姉ちゃんが死ななきゃいけなかったんだ? 何も悪いことしてない。死ぬことなんてないのに……こんな、こんなひどい死に方ないよ。あんまりだ、ひどすぎる……」

 なぜだか、この“何か”の前では、自分の中にある怒りがスラスラと、不思議なほどに淀みなく言葉となって出てきた。まるで、“それ”がこちらの心の内容物を抽出して、言語にコンバートしているみたいだ。

 そして、言葉として発する度に、自分の中にあった感情が、明確な認識を帯びてくる。

 怒り――怒りだ。


 怒りを吐露する度に、このもやもやとして不定形の“何か”は、その実体をはっきりとしたものに変えていった。蜃気楼が、現実へと変わっていくように。

「これが、“因子”なのか? “因子”なんてものに手をつけるから、こんなことになったのか? そんな……そ、そんな馬鹿な話ないよ! ふざけるな!! 姉ちゃんが何したんだ! 姉ちゃんを返せよ、あの女! 最後まで僕を狙えばよかったのに、どうして姉ちゃんを!!」

 今まで御剣の慟哭を聞いていた“それ”が、再び声を発した。

「ネェ、ソノ感情ハ何?」

「え?」

「怒リ……ソウ、怒リッテ言ウンダネ」

「……」

「ネェ、モット教エテ……アナタガアイツラニ思ッテルソノ気持チハナニ?」

「あいつらを? あいつらを、どうしたいって?」

「ン」

「あいつらを……」

 御剣は、煮えたぎる怒りをそのままに考えた。

 どうするのか。今自分を殺そうとしている《保有者》。前ヶ崎を殺したあの女。“因子”なんてものをこの世に生み出した、白衣の連中。そして、草薙 魁。

 それら全てにおいて、自分がなさんとすることは、ただひとつだった。

「……」

 御剣が言葉に出さずとも、“それ”は、彼が出した応えを表現する単語を導き出した。

「殺ス? 殺ス……殺スナノネ?」

「殺す……そうだ、殺したい。ここにいる奴全員殺してやりたい。どうして姉ちゃんが死ななきゃいけなかったんだ? 代わりにこいつらが……こいつらが死ねばよかったんだ……そうだ、こいつら全員!!」

「ネェ……アナタノ名前ハ?」

 また、“それ”は聞いてくる。

 “それ”は最早、靄の塊などではなく、はっきりとした人の姿を持っていた。女の姿だ。服を着ていなかったが、胸元から下はまだ、ガラス細工のようなのっぺりとした皮膚でしかなく、生々しさは感じなかった。

 だが、“それ”がその身をこちらに寄せ、肩に手をおいてきた時、その手のひらを、とても温かく感じた。

「誠一……御剣 誠一」

「セーイチ、アイツラ殺ス? 殺スナノ? 殺スんだね?」

 その問いに、御剣は頷いた。最早泣き叫ぶことも、うろたえることもない。見開いていた眼は今や完全に据わっており、握った拳は微塵も震えていなかった。

 哀切と自責と憤怒が渦巻いていた胸中にも、最早ただひとつの感情しか存在していなかった。


 よく分かった。

 こいつは、この、自らに宿る“因子”は、己の望みを叶えてくれる。なら、せいぜい叶えてもらおうではないか。

 この感情――殺意が赴くままに。


 “皆殺し”という望みを……


 “それ”が、ニタリと笑った。

「分かった。ソレジャア、いっぱい怒っていっぱい殺そうね。わたしも手伝いするから、いっぱいね」




 それは、突然のことであったが、決して予測できないことではなかった。

 御剣を取り囲む兵士達の眼前で、少女の身体に突っ伏していた彼の震えが止まり、ゆっくりとその上体が持ち上がった。

 そりゃあ、いつまでも泣きわめいているわけもあるまい。こうなることは分かっていた。なんであれ、こいつも《保有者》であるなら、余計なことをされる前にさっさと殺さねばなるまい。

 動揺も焦燥もせず、隊長格の男が、手に持っていたナイフの刃を御剣の首筋に突き立てる。


 だが、今度は予想だにしていない事態が発生した。

「な……なにっ?」

 ナイフが刺さらない。首の皮膚の表面でぴたりと止まって。それ以上まったく食い込まなかった。馬鹿な、骨まで貫くほどの力で突いたのだ。いくら《保有者》が、先程のように弾丸を跳ね返す見えない壁だとか、まじないじみたことができるといっても、肉体に直接攻撃を加えれば傷つくはずなのだ。

 人間ならば。


「う……くっ」

 男は思わず、震える手でナイフを首筋から離し、たどたどしい足取りで御剣から数歩後ずさりした。

「隊長!」

 他の兵士が拳銃を構え、一斉に御剣に発砲する。数発放たれた弾丸は全て御剣に命中する。だが、一発として彼の身体には食い込まず、潰れて地面に散乱するだけだった。

 駄目だ。何も通用しない。これではお手上げだ、どうしようもないではないか。


 そして、予想外の事態はまだ起こっていた。

 十歳になるかならないかという外見だったはずの少年の身体が、明らかに大きくなっている。成長しているのだ、この短時間で。そして、その髪だ。日本人らしい黒い髪が、電熱線に高圧電流が流れるかのように、鮮やかな赤色に染まっていく。

 まるで、目の前の人間が別人へと変貌していくかのようだった。

 いや、“よう”ではない。実際にそうなのだ。子供だったはずのターゲットが、別の何かに変わっていく。

 明らかに異常だった。いくら人間離れした能力を手に入れたといっても、自分達には到底対応できない事態が発生したと、兵士達は察した。自分達にこの指令を下したあの草薙 魁は、この事態を予測していたのか?


 少年――否、最早少年ではなくなった何者かは、事切れたまま虚ろに虚空を見つめていた少女の瞼を手のひらでゆっくりと閉ざし、朝焼けと共に空に向く草花のように静かに立ち上がった。

 その端正な――男のそれではない顔に張り付く唇が動き、声が発せられた。

「いっぱい怒ってやろうねぇ。殺して……」


「撤退ー!」

 隊長格の男が叫んだ時には、すでに遅かった。


 それは、その場を暴れまわる鎌鼬の群れだった。

 女――としておく――の身体が突然陽炎のごとく揺らめいたかと思うと、無数の小さな光の煌きが彼女の周囲を舞った。その光は風もない雪原を舞う粉雪のように兵士達の身体に触れ、そしてその肌を、肉を通り過ぎていった。それがほんのコンマ数秒の出来事。

 その一瞬を過ぎた時、兵士達の身体に無数の赤い線が引かれ、その線を境に、彼らの身体は、まるでカッターで切り取った絵のごとく分断された。

「あ……――」

「っ!!――」

 悲鳴を上げる間もなく、風に吹かれる枯れ葉のごとく吹き上がった首が、腕が、あるいは腰から上、脚、下半身が、マグマのサークルの向こうへと飛んで行く。


 それは、人体と血しぶきの花吹雪だ。桜の花より、梅の花より赤い、鮮やかな花吹雪。

 その中で、女は笑った。生まれてきたことそのものを楽しく思うように。

「殺してやろうねぇぇ……へっ、へへっ! へはははははははははッ!!」


 マグマの円の外で待機していた兵士達には、一瞬何が起こったのかよく分からなかった。

 だが、水蒸気のゆらめきの向こうから飛んできたそれが足元に落ちてきた時、何が発生したのかを察する。

 ひとりの兵士の足元に投げ捨てられた空き缶のごとく転がったそれは、隊長の上半身だった。

「は……っ!!?」

 驚愕の表情のまま動けなくなる兵士の視界で、隊長は天を仰ぎながら、水面から顔を出した鯉のように口を開閉し、かすれる声で呟いた。

「化け……バケ……バ……」

 しかし、最後までその言葉を言い切ることもなく、白目を向いて物言わぬ、人の形だけを成したものへと成り果てた。


「な、何……何……だっ?」

 全身が震え、立つことすらままならない中で、兵士達は、足元に転がる同僚達の脚を、首を、腹の断面を映していた視界を、マグマのサークルへと向け直した。


 女が。

 女が、煮え立つ溶岩の中に膝まで浸けながら、ゆっくりと歩いていた。メトロノームのように身体を揺らし、マグマよりも赤い髪を、立ち込める水蒸気が起こす上昇気流によって巻き上げ、揺らめかせながら。

 光の屈折により、一歩を踏み出す度に、その身体が突然巨大になったり、逆に小さくなったり、粘土を踏みつぶしたように歪んだりする。

 ただ、その顔――深い影の落ちた顔の中で怪しく輝く眼光と、三日月のように引きつった口元の笑み。それだけは、同じ形状をいつまでも維持していた。

 その様は、地獄の業火の中からはい出てくる悪鬼羅刹のそれだった。

 “それ”が発する声も、人間のそれではなかった。金を切るように高くもあり、同時に大地が震えるように低くもある。肌を引き裂くようでもあり、腹の奥底にまで響き、胃袋を突き破るようでもあった。

「セーイチが怒ってるよ、その血を捧げてあの娘に償えって! はっはははは! お前らァァーーッ!!! 皆殺しにしてやるッ!!」


「「「ああァァーーーーッ!!」」」

 自分達が何をしているのかも、もう兵士達には分からなかった。ただ、死にたくないという本能を、突きつけた拳銃の銃口と、放たれる弾丸にこめるだけだ。

 しかし、その最後の抵抗は虚しくも、“それ”の表面にぶつかっては、ひしゃげて弾かれるだけだった。

 炸薬の爆ぜる破裂音よりも、それが響かせる高周波の反射音よりも巨大な狂喜の声が、夜空へと響き渡った。


「フハハハハハ! フハハハハハハハハハハハハハハ!!」



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