Session.15 Tribute to the Past Part.6
自分達の背後で何が起こっているのか、確かめる余裕もなかったのだろう。被験と研究者達はそのまま逃走し続け、実験室の外へと続く狭くもないが広くもない扉の前でひしめき合っていた。我先にと外に出ようとして、押し合いへし合いの様相であったが、元々そこまで人数が多いわけでもなかった。時には打撲し、酷い時には骨にヒビが入りながらも、すでに半数以上の人間は外に出ることができているようだった。
その様子を、ハンマーの少女がじっと眺めていた。大きい眼を細めて。
彼女は待った。あえて待った。連中が全員実験室から出て、今度は研究所からも出ようと逃げ惑うのを。その方が、面白そうだからだ。
三十秒待たずして、最後の一人が――あるいは二、三人がいっぺんに扉から這い出ていった。これで実験室の中には十数人程度の人間と、今なお膨張を続ける、桜井 華織であった何かだけが残った。
扉の向こうで響いていた悲鳴が、徐々に遠ざかっていく。
そろそろだろう。少女はハンマーを肩に担いで、ゆっくりと歩き始めた。
「自分でも、よく分かってないわけだし? この力の使い方とかいろいろさ。やっぱり試してみないと駄目よね。そう思うでしょおじさん」
おじさんと呼ばれたなんちゃってオールバックが、息をするのもめんどくさいという調子で応える。
「いぃ~や俺はもう大体分かったぜ。鬼ごっこなんてする必要ないってこともな。この場に立ったままでも、あんな人間どもは全滅させられる」
「へぇ? なにそれ」
「しかしまぁなんだ、ここもここでなんか辛気くさくてかなわんし。外の空気でも吸いに行くついでに、遥か古、人々がもっと動物的だった狩りと繁殖の時代に思いを馳せるのも悪くないかもしれん」
「……よく分からない」
なんだかんだ言ってノリ気らしいオールバックに続いて、死体をいたぶるのにも飽きたのか、膝から下を残した状態で、栗頭が立ち上がった。
「俺も行くぜェ~。どいつもこいつもミキサーして塩だけかけてそこらの野犬に喰わせてやるぅ~ゥヒ。ハハッ、フハッハハ!」
それから、《因子》に目覚めた者達による“お試し”は始まった。数人の男女達は、逃げる“ただの人間”のペースに合わせて、ゆっくりと走りながら実験室を後にしていった。
どこまでやるつもりかは分からない。もしかしたら、この研究所にいる全ての人間が死ぬことになるかもしれない。
なんであれ、《因子》との邂逅により興奮した者達の昂ぶりを鎮める必要はあった。不運にも《因子》による祝福を得られなかった被験者達は、そのための生贄だった。
一部の者達が扉をくぐって外に出て行く中で、また別の一部は、軽やかな足取りで歩きながら、実験室の上部に張られているガラスの向こうで、震えながら棒立ちになっていた白衣の群れを眺めていた。
突然の事態に混乱しながらも、ここでなら安心だと思って、呑気に突っ立っているのだろう。
だが、それは甘かった。
幅十数m、高さ3m程度のガラスを周囲の鋼鉄板ごと横薙ぎに引き裂く一条の白い閃光が、その向こうで立ち尽くしていた者達を一人残らず焼き消した。溶解したガラスと金属が、ハロウィンのカボチャのように赤い唇をぽっかりと開けた。
やはり、何もかも行動が遅かった。せめて、実験室内の全ての兵器を使っていれば、一部の者達――肉体を容易に破壊する超人的な肉体でもなく、全てを焼きつくす熱線を放つものでもない、もう一つの《因子》だけでも排除することができたかもしれなかったというのに、思考を止めてその機会すらも放棄してしまった。
「助かった……みたいだな。自分の協力者ながらマヌケな研究者共に、ありがとうだ」
草薙が肩を竦め、皮肉っぽく笑った。彼としては、自分が無数の銃弾に蜂の巣にされ、火炎放射で焼かれることは想定していた。それでも大いに構わなかった。だが、連中があまりに馬鹿なものだから、むざむざ生き残れてしまったのだ。笑いもする。
そんな草薙を背後から見開いた眼で見つめる伊集院は、自分の生命が首の皮一枚のところで繋がったことに気づくこともなかった。絶望とも驚愕とも幻滅とも言えない色を湛えた瞳は、握りしめた両の拳と同じく小さく震えていた。
だが、その震えは徐々に小さくなり、眼球が飛び出るほどに開いた瞼もゆっくりと閉じ、顔つきは、いっそ凛とした程に険しくなった。瞳の奥の雑多な色は、別の色によって上塗りされ、まったく別の、ギラついた色彩へと変貌していた。
感動だ。彼は脳裏で吠えた。
――素晴らしい! 私の中で今、ビックバンと氷河期と産業革命と第二次世界大戦が一度に起こっている! なんて時代が到来したんだっ!!――
彼の中で、思考が、未来が、希望が、次々と、この宇宙を往く全ての彗星と同じ量あるのではないかと思えるほど生まれてきた。そして、それらの全てを現実へと昇華できるほどの、理論が。
御剣には、やはり何がなんだかよく分からなかった。ただ、なんだか身体が熱くなって、心が膨れ上がり、二つに分裂するような気分なのは確かだった。だが、それをどうやって発散すればいいのかが分からなかった。
あてもなく、血管を通って細胞の隅々まで行き渡っていく異様な気分に身を委ね、立ち竦むばかりだった。
ふと、前ヶ崎の方を見た。いつの間にか彼女は、数歩こちらから離れていた。先ほどのあれやこれやの騒動で、少しだけ立ち位置が変わっていたのだろう。
彼女の横顔には深い影が落ち、その顔色を伺うことはできなかった。
突然のことだった。なおも生長し続ける白い木のような物体は、とうとう実験室の半分以上を飲み込んで、さらに生長していた。御剣達が立っているところにまで、その幹のようなものが迫ってきた。
無数の幹の内の一本が、勢い良く前ヶ崎の方へ突進――としか形容できない――してきた。その先端は鋭く尖っていた。針ほどではないにせよ、少しトバし気味の乗用車ほどの勢いで突っ込めば、人の身体など容易に貫通しそうだ。
そこでようやく、起きているのか寝ているのかも分からない曖昧な状態だった御剣は、我に帰ることができた。目の前にいるのが、唯一と言ってもいい友達であることも、思い出すことができた。その友達が、危ないのだ。
「姉ちゃん!」
彼は叫び、地面を蹴った。その身体は、彼自身信じられないほどの速さで、地面を滑り、友達の前へと躍り出ようとした。
だが、前ヶ崎の身体に触れそうなほどに近づいた時、彼女の方へと伸びた右手の指先に、鋭い“熱さ”を感じた。錯覚ではない。確かに、焼いた鉄板に触れるような熱さが、指先から神経を伝って脳にまで届いている。ほんの一瞬――否、瞬きしようとする瞼が閉じきらないほどの一瞬ですらない時間の感覚であるが、彼は、この熱さは“マズいもの”であると判断できた。このまま手を伸ばせば、腕が蒸発し消えてなくなるほどの……
「うわ!」
彼は咄嗟にその場で踏ん張り急ブレーキをかけて、前ヶ崎から一歩身を引いた。同時に、木のような物体の幹が、彼女へと衝突した。
だが、肉が突き破られるわけでもなく、その鈍い音が鼓膜を揺らすこともなかった。彼女は静かに佇むままで、聞こえてくる音と言えば、ジリジリと、何かが炙られるような音だけだ。
実際、炙られていた。彼女に向かって伸びる幹は、前ヶ崎の胸に突き刺さる寸前、ほんの数mmのところで、何かに焼かれて消え去っていた。なおも伸長し続けているが、その端から焼却されていく。
御剣にはすぐに分かった。これは、先ほどガラスと鋼鉄板を溶かしたあの光と、同じものだ。前ヶ崎も、《因子》をその身に宿していた。
“彼ら”と、友達になれたのだ。
だが、御剣にはそれが喜ばしいことだとは思えなかった。というか、喜ばしいか否か考える暇はなかった。前ヶ崎に向かって伸びるものは彼女の力によって焼却されているからまだいいとして、まだまだ大量の幹が伸び、実験室を埋め尽くそうとしている。
どこからともなく、草薙の声が聞こえてくる。
「おっと、我々だけのんびりしているというわけにもいかないか。退避するぞ、急ぎ給え! 伊集院君も来なさい」
ここから逃げるつもりだろう。当然だ。このままここにいたら木のような物体に押しつぶされて死んでしまう。もちろんそれは、御剣や前ヶ崎も同じだった。二人ならばこれしきのものに圧し潰されることもないし死にはしないだろうが、それでも、こんな場所にいつまでも残っているわけにはいかなかった。自分達も逃げなければ。
御剣は大声で、彼女に呼びかけた。
「姉ちゃん! 一緒に逃げよう……姉ちゃん!!」
だが、反応がない。前ヶ崎はただ、死人のような眼で目の前を虚ろに眺めているばかりだ。
これでは駄目だ。手を引っ張ってでも連れていかなければならない。だが、あの高熱――どういう素材でできているかも知らないが、質量を持っているであろう件の白い物体を一瞬で焼き尽くすほどの高熱のバリアがある。それに触れれば、こちらの手は一体どうなる。
一抹の逡巡が頭を過ぎった
……いや、なんとかなる。もう一度、前ヶ崎の顔をよく見てみる。
その横顔は、とても不安そうにしていた。なんとかしてやりたかった。そのために自分がしてやれることは?
今この瞬間には、ひとつだけだ。
――……テツダッテ……アゲル、ヨ――
何か、声が聞こえた気がする。だが、そう思った瞬間にはもう右手が彼女の左腕へと伸びていて、指先に、手のひらに、全ての意識が集中していた。誰の声なのかは、考えようともしなかった。
手のひらから、やがて手の内側、手根骨に直接煮えた鉄棒を押し当てられるような熱さに見舞われた。だが、御剣の手は決して焼きつくされ、消失するようなこともなかった。赤く火傷するようなことはあっても、形もはっきりと残っている。
なにより、前ヶ崎の手首を掴んだその手にこもった力は、彼がこれしきの熱さなどはものともしていないことの証明に他ならない。
「姉ちゃん!」
彼の叫びと、右手に生じた感触により、彼女もまた我に帰ることができた。
「御剣くん!?」
彼の方へと振り向き、その名を呼ぶ。それと同時に、無意識に自らの周囲に展開していた熱量のバリアも解除してしまった。しかし、白い植物のような物体は、諦めたかのように御剣達の方を避けてその幹を逸らし、別の方向へと伸びていた。とてつもなく運のいいタイミングだ。もしこのまま前ヶ崎の方へと生長し続けていたら、巨大な幹に叩きつけられ、複雑骨折してもおかしくなかった。
が、今そうならなくても、このままここに居残っていては、いずれそうなってしまうだろう。今がチャンスだ、早く逃げなければ。
「姉ちゃん! 逃げよう、ほら、行くんだよ!」
未だに状況がよく飲み込めていないのか、ぼーっとしている彼女の腕を引きながら、呼びかける御剣。前ヶ崎もそれに、「あ……うん」と、促されるままに返事し、連れられるがままに付いていった。
前ヶ崎のペースに極力合わせつつ、実験室の外へと走る。幸い、まだ植物のような物体の生長は、走れば振り払える程度のものだ。幹が伸びるスピードは早いが、壁面や天井をまんべんなく埋め尽くすように動いており、まだ地面の侵食は緩やかなようだ。これなら間に合うだろう。すでに逃げはじめ、少し前方を走っていた草薙達も、その足取りには余裕が見える。
しかし、後ろの方で聞こえる。節くれた、ごつごつとした皮がこすれ合うような音は、どこまでも不気味だった。それが遠くから、あるいは比較的近くから、右から左から、上から、どこからともかく無数に響き、不格好な合奏となっていた。木の箱に入れられて、それごとプレス機にかけられる虫みたいな気分になった。はやく、この場から離れたかった。
不意に、後ろ手に引っ張っている前ヶ崎の方を一瞥する。その顔はわずかに俯き、生気のない眼で、先導する御剣の足元を、あるいは自分自身の足元を眺めているばかりだった。心ここにあらずなどというものではない。まるで抜け殻だった。このまま実験室の外に出たら、死んでしまいそうな様子だった。
大丈夫なんだろうか、と御剣は思った。なんとかしてあげたい、とも。
その瞬間だった。虚ろな表情の前ヶ崎。その背後に、何かが見えた気がした。桜井が白い植物に変質し始めた時に見た、薄い靄のようなものにそれは似ていた。だが、それよりはほんの少しだけ、シルエットがはっきりしていた。
とはいえ、本当にほんの少しだけだ。人の上半身のように見えるような見えないような、そんな曖昧な表現から抜け出ない程度の不定形なものだった。もし人の形であるなら、男であるのか、女なのか、体格がいいのか細いのか。それはまったく分からない。
ただそれは、笑っている、ような気がした。そういう風に見えるというわけではない、ただ御剣には、そうとしか思えなかった。
彼は、その正体不明の何かに呼びかけるように、脳裏で独りごちた。
――なんなんだ? どうして笑ってるんだよ、君は……――
結局、桜井 華織だった何かは、実験室を埋め尽くし、それどころか周囲の鋼鉄板を砕き崩壊させ、その先にまで成長し、いくつかの部屋を侵食したところでようやく大人しくなった。
研究所内の全ての職員は、《因子》を宿した者達の手によって抹殺。一人の例外もなく、皆殺しだった。
研究所に残ったのは、草薙 魁と、彼に賛同し、《因子》に適応した者達だけになった。
それでも、この実験からほんの数日後には、新しく得体のしれない連中が研究所の中に出入りするようになっていた。
彼の――草薙の計画は、まだ終わりではない。ということだ。




