Session.15 Tribute to the Past Part.3
《因子》の発現。その実験が実行可能となる段階にまで辿り着いたのは、御剣が九歳になった時だった。研究が本格的に開始されてから、九年が経過していた。人類の革新足り得る研究の結果という意味では、九年でもあまりに早すぎるほどだ。
そして、性急なまでに早く計画されたその実験というのは、成功する確率よりも失敗する確率の方が高い、ある種お粗末と言ってもいいものだった。具体的にどのような実験を行うのかは草薙達一部の研究者しか知らぬことだが、その一部の研究者が、無茶なことをしていると自覚できるほどだ。
だが、お粗末であっても、実験が行えるというだけでも大きな進展であるのだ。そこまでたどり着いたという事実があれば、この先の研究を進める足がかりにもなるだろう。だからこそ為す、為して成らねども歩は進もう。
この実験にはそういう側面もある、と伊集院は考えているようだった。実験の立案者であり《因子》の提唱者である草薙の真意がどうであるかはともかくとして。
なんであれ確かなことは。今回の実験は、例え失敗したとしても深刻な被害を受けるのはただ一人の被験体で済む、と判断されている点だ。他の被験者には、確実ではないが、おそらく生命に関わるほどの被害は及ばないだろう。となれば、この先の研究に支障が出るということもない。その、死ぬかもしれないただ一人の被験者には気の毒だが……
その気の毒な被験者に選ばれたのは、桜井 華織という女性だった。歳は二十歳。いつから草薙の研究に参加したのかは分からないが、彼女は特に、その研究の成果がもたらす幸福というものを信じていた。
いくら自分が、革命の魁、その一人目になるといっても、生命を失うリスクを前にして萎縮しない者はいない。だが、彼女は違った。死すらも恐れないほどに、彼女が見出した希望というのは大きかった。
実験は、研究所内のとある一室で行われることとなった。
研究所の敷地の広さを暗に示唆するような広大な空間である。特に何もなく、ただ壁と床と天井があって、注意深く観察しなければ見えない程度に、カメラが設置されている。だが、おそらくこの殺風景な見た目よりかは、物々しい部屋なのだろう。
四面を囲う鈍色は、いかにも重厚そうだ。おそらくかなり分厚い鋼鉄板を、何重にも重ねているのだろう。ここは、試験室だ。しかも、兵器か何かも扱えるほどの。
多分、壁の中には機銃やら火炎放射器やらが内蔵されていて、不測の事態に際してせり出してきて、対象を蜂の巣にするなり燃やすなりするのだろう。今この部屋にいる三十人超の人間だって、三十秒と待たず皆殺しにできるのがこの部屋だ。壁となる鋼鉄板の強度も相当なものだろう。戦術核レベルの爆発が起こればやっと崩壊するかもしれない、という程度だ。
今ここに集まっている者は全て、《因子》の実験の被験者だった。御剣が選ばれた後も、草薙の提唱する《因子》の存在に引き寄せられた者は増えていた。
年齢も性別もバラバラ――人間の革命よりも穏やかな死の方が大切そうな高齢者はさすがにいないようだったが――中には外国人らしき姿も見える。
御剣の知らない顔がいくつもあった。
その内のひとつ、否、ふたつが、今回の事件のメインゲスト、桜井 華織と、その肩を抱いて心配そうな表情を浮かべる一人の青年だった。
青年が何か言う声が聞こえる。
「本当に、大丈夫なのか? 自分がこれからやろうとしていることに、どういう結果が伴うのか、ちゃんと分かっているんだな?」
桜井が応える。
「えぇ……大丈夫、心配いらないわ。教授の実験は必ず成功します。成功率なんてものは、ただの目安でしかないんだから。成功してしまえば、なんだこんなもの、ってどうでもよくなるものよ」
「そんな楽観的な……」
「恐れていては、“彼ら”だって私達のところへはきてくれないわ。私達が《因子》を怖がっていたんじゃ、何度実験したって、いつまで研究を続けたって意味がない。受け入れなくちゃ……それができるのが私だって、教授は考えた。期待してくれてるのよ、それに応えないと」
「……死ぬかもしれない」
「いえ、死なないわ。私だって、貴方とまだ離れたくないもの……須藤さん、《因子》を迎え入れた後も、ずっと一緒にいましょう。約束ね、これ」
桜井のその言葉に、須藤と呼ばれた青年の顔の強張りが、幾分か緩んだ。このやりとりを見ている人生経験も浅い御剣であっても、二人が親密な関係であることは分かった。自分と前ケ崎の間にあるそれよりも、さらに固い何かが見えたような気がしたからだ。
須藤が、桜井の両肩に置いていた手を離して、穏やかに言った。
「分かったよ。約束してくれるのなら、俺ももう何も言わない。実験の成功を、見守っているよ」
それに続いて、何者かが桜井の右隣に近づき、何事か呼びかけた。この男こそが、この実験と、《因子》に纏わる研究の責任者である草薙 魁であるということは、御剣はもう少し後に知ることになる。
「実験を開始します。所定の場所に」という声を聞き、桜井は草薙の方へと強い決意を何よりも清潔で美しい化粧のように貼り付けた顔で向き、
「分かりました」
そうして、実験室の中央の方へと静かに歩いていく。
須藤が無意識的にその後を追おうとしたが、それを御剣の大きな声が制止した。実験室内にいる者全てに呼びかける声だ。
「これより、実験を始めます。皆さんは、事前にお伝えした場所へと移動して下さい。彼女――桜井 華織さんから半径20m以上離れて下さい。それだけを守ってくだされば、後はお好きな様にお待ちくださって結構。床に座り込むなり寝転ぶなり、近くの者と話をするなり。必要な作業は全て我が方で行います。もし実験が上手くいけば、気がつかない内に終わっていることでしょう」
それを聞いて、実験室内にいつ者達がゾロゾロと移動し始めた。部屋の中央に佇む桜井から、20m以上離れる。そうした後は、全員好きなように振舞っていた。本当に床に座り込む者までいる。もちろん、草薙当人も例外なく下がって、直立不動の姿勢で桜井をじっと見つめていた。
御剣の方も、好きなようにと言われたなら、言われたとおりにこの時を過ごすことにする。
友達の――前ヶ崎の傍にいるのだ。そう考えたのは、向こうも同じだったようだ。御剣が動き始めようとしたその時には、すでに彼女の方からこちらにきていて、互いに面と向き合っていた。
「やっと実験が始まるんだねぇ」と、彼女が言う。
御剣は不意に、自分の中にある秘密を伝えたくなって、彼女に少ししゃがむように手で催促した。
「え?」
何事かと思いながらも促されるまま前かがみ気味にしゃがむ彼女の耳元へと顔を寄せ、静かに語りだす。
「姉ちゃん……実はね、僕。《因子》と友達になる素質を持って、生まれてきたみたいなんだ」
前ヶ崎がまた、「え?」と声を漏らし、呆気に取られたような顔でこちらに振り向いた。
御剣は続ける。
「実は僕は、人間の両親から生まれたんじゃないんだ。突然、どこからともなく湧いて出るように赤ん坊の姿で現れた。そうして、ここの研究所の人達に拾われた。いろいろ研究していく内に、《因子》と、親和性、っていうのかな? 適応性? そういうのが、すごく高いってことが分かったんだ。だから、《因子》と友達になれるって……ホントはね、これ。他の人には話しちゃ駄目って言われてたんだ。でも、《因子》と友達になった後は、もう関係ないよね、隠さなくたっていいはずなんだ。それで、この実験が終われば、《因子》も現れる。だから、今から姉ちゃんにこっそり話したって、大丈夫なはずだよね」
「……」
前ヶ崎はしばらく固まって、何も言わず。ただぼんやりと御剣の顔を見つめていた。その沈黙の意味が彼にはよく分からなかった。突然の告白に驚いているのだろうか。
『こんなの嘘に決まっている』。そう考えているという発想には、至らなかった。自分の出生を疑う余地を、彼は与えられていなかったから。
数秒の静止を経て、前ヶ崎はよく分からない笑顔を浮かべて返事した。
「そうかぁーっ、すごいんだねぇ。それなら安心だね……でも、一番最初に《因子》と友達になるのは、あのお姉さんみたいだね」
そう言って、彼女は桜井の方へと目線を映した。同時に、草薙が手元の無線機から実験室の外――モニタールームにいる研究者達へと呼びかける声が聞こえた。
「実験開始だ。因子誘引用力場、発生させろ」
その声に続いて、実験は始まった。数十秒の間、実験室内は変わらぬ静寂を保っていた。本当に実験が行われているのか、と疑いたくなるほどに、何も起こらなかった。実際は《因子》を呼びこむために、十重二十重の大仕掛が動いているようだが、眼にも見えなければ音も聞こえないのだから、実感などわかない。
が、それも束の間のことだ。疑念はすぐに打ち払われることになった。今、実験は滞り無く進行しているということが、目に見える形として被験者達の前に現れた。
突如、桜井を中心に空気が歪む。まるでその辺り一帯に、粘性の高い液体が球型に浮かび上がったようだった。向こうにある壁、その継ぎ目の線が蛇のごとく曲がりくねってのたうち回っている。だが、その空間の歪みの中心にいる桜井の姿だけは、何一つ歪むことも曲がることもなかった。じっと佇むその姿は不変である。
歪曲するだけではない、彼女の周囲の空気が、時折蛍光灯のスイッチが入り、点灯する前のあのチカッチカッというちらつきのように感覚を置いて淡く光っていた。
周囲でざわめきが起こるが、桜井は眉一つ動かさず、その凛々しい面持ちを維持し続けていた。すでにその心は決まっているのだ。何が起ころうと動揺しない。たとえ死ぬことになろうとも。
明らかに、何かが起こっている。明らかに、火を見るよりもどころか、陽を見るよりも明らかにだ。
間違いなくこれから、何かが起こる。御剣は、逆にそう感じない方が異常なほど当然の確信を抱いた。何が起こる? それも分かっている。ついに、“対面”の時は来たのだ。
あまりに唐突だった。一瞬、何が起こったのかよく分からなかったし、多分数十秒後も分かってはいないだろう。
「ア、ウッ!!」
桜井の身体がビクリと痙攣し、見開いた眼で短く、大きなうめき声を上げ、わずかに胸を反らした姿勢で動かなくなった。ただ、開かれた唇がかすかに震え、そこから声にならない嗚咽のような荒い息が絶え間なく吐き捨てられる以外は。
「ハッ……ハァ……」
被験者達のざわめきすら消え失せ、彼らを包む空気もまた、セメントを流し込まれたように固まった。ただひとつ、御剣には分かったことがある。
実験が次の段階に移行した。そして、それこそが事態の“佳境”。その後の結果を左右する分岐点だ。
今、《因子》がその尻尾を覗かせている。
「ア! グッ……!!」
次いで桜井は、苦悶の表情を浮かべ、その場にうずくまった。胸の辺りに相当な痛みを感じているようだ。みぞおちの辺りを両手で押さえている。
当事者ではない御剣には、どれほどの痛みか見当もつかない。だが。
「アァァッ! ァ、痛……ハァ、クゥゥゥ……ッ!」
彼女のその呻きから、その激痛を――心臓から得体の知れない何かが大動脈へと這い出してきて、血管の壁を引き裂き蠕動しながら末梢へと進んでいくようなその痛みを察することはできた。
それでも彼女は、うずくまって小刻みに震えながらも、痛みを必死に耐えているようだった。覚悟を決めている。例え死んだとしても構わない。
否、死にはしない。いかなる苦痛であろうと、最後まで耐え抜けば、その先には何かが待っている。今、実験の成功が目の前にまで近づいている。それを信じて、歯を食いしばって耐えた。
だが、いくら心を固めていようとも、苦痛に対する肉体の反応というのは、生命が正常であることの証明……生きているからこそのものだった。打ち消すことも、忘れることもできないものなのだ。
「キ……クゥゥゥ……ウアアァ~~~……ッ!!」
呻きは、最早叫びと言っていいものに変貌し、震えの中に、跳ねるような痙攣の動きが混じりだした。頭が腹にくっつきそうなほど背中を丸めているので、痛みに歪む彼女の顔は誰にも見えない。
だが、その苦しみは、よく伝わっていた。殊、今この場で誰よりも桜井のことを知り、誰よりも彼女の身を案じているであろう須藤には。
彼もまた、口を真一文字に噤み、苦しむ彼女から目線を逸らし、きつく瞼を閉じて苦悶していた。握りしめる拳も、彼女の背中と同じように震えていた。
しかし、やがて胸中に溜め込まれていた感情が爆発し、彼は、眼と口をカッと開いて、吠えた。
「草薙教授ッ! 何だこれは!」
草薙の方へと詰め寄り、白衣の襟首を掴んだ。
「華織を何をした!」
異様な眼光を湛えた若い教授はこの突然の――あるいは予想通りの憤慨に何のリアクシュンもせず、涼しい顔でただ質問にだけ応えた。
「《因子》の実験です。それだけだ。弁明するわけではないが、別に彼女を苦しめることが目的じゃない」
「ふざけるなァ! あれが、《因子》を身に宿すということなのか!? あいつは、あんなに苦しそうにしている。今にも死にそうじゃないか……この実験は失敗だ、今すぐやめさせろ! 華織を解放しろ!!」
「何をおっしゃる。実験は予定通りに進行中です」
「黙れえーー!! 俺の言ってることが聞こえないのか! このままじゃあいつが死ぬかもしれないんだ、今すぐ止めろ!!」
激昂する須藤。彼のこの怒りも分かるほどに、桜井の苦悶はより一層強くなっていた。
「ハガッ……アァ……ガ、ガハッ! ハァー……ハァー……ッ」
もう叫ぶこともできず、喉の奥から、痰がからむような、あるいは汚泥の底から新たなヘドロが湧いてくるような声をあげ、唾液混じりの咳を吐き出している。まるで死にかけの老人のようだ。この短時間で明らかに衰弱していた。須藤の言うとおり、このまま死んでもおかしくないという様相だ。
被験者の多くは、息を呑んで彼女と、怒り狂う須藤の姿を交互に眺めていた。
だがその中に、対岸の火事をテレビで観ているかのような冷め切った目線でこの事態を傍観する、数人の男女がいた。その内の一人が、気だるそうに、しかし気が動転している須藤にまで聞こえるほどにはっきりとした声で言った。
「ちょっと待てよォー教授さん。もしかしてこれがさぁ、《因子》を“モノ”にするための儀式だとか何とか言うんでしょうねェ。あんな馬鹿みたいに苦しい思いしなきゃ、“アレ”って手に入んないのかよォ~。マジで死にそうだぜあの人。あんなんだったらなんかもうヤだなぁ~……やめちゃおっかなぁ俺」
「……」
須藤の、爆裂する活火山のような憤怒さえも、一瞬消え失せるほどに唐突で、場違いな声だった。まるで別の次元から聞こえてきたかのような、現実味すら感じない声だった。この場の全ての音が止み、ただ桜井の呻きだけが数秒響いた後、どこからともなく「ぃひひ」という笑声が聞こえてきた。
それをスイッチに、須藤の怒りは蘇った。
先ほどの言葉を発した後この方へと振り向いて、噛み付くように怒鳴る。
「関係ない奴は口を挟むな!!」
それに、草薙が続いた。彼は、須藤の方へ向いていた意識の全てを、一瞬にしてあの男の方へと持って行かれてしまったようだ。軽く手を上げ、宥めるようにこう返す。
「あぁ、いや。誤解しないで頂きたい。これは例外――全ての“開始点”なのだ。君達が苦痛を感じることはない。《因子》をこの世に現出させることによる代償の全てを、彼女が一手に引き受けている」
「……ッ!!」
ロクに面識もなかった草薙を、一族代々の敵を見るような眼で睨みつける須藤。その視線を露とも思わず、若き教授は怒れる彼にこう促した。
「君は彼女を心底愛しているようだなぁ。それならば、私なんぞよりも、彼女のことを見守ってやるといい」
「何……っ?」
「見給え」
その声に釣られるように、須藤は今まで直視することができなかった桜井の方へと、その眼を向けた。
いつの間にか、うめき声は聞こえなくなっていた。それどころか、今までダンゴ虫みたいに丸まっていたのは何だったのだとばかりに、彼女は立ち上がっていた。眼は虚ろに宙空を眺めているばかり、かすかに開いた口元は喘いでいたが、先ほどと比べれば遥かに落ち着いた様子だった。どうやら、強烈な痛みは鳴りを潜めたようだ。
「……」
須藤は、ある種安堵するような、あるいは当惑し、新たな不安に駆られるような、言い様のない表情を浮かべた。
結果的に、不安を抱いたのは正しかった。
苦痛が去ったとしても、それで全ての事態が収束したなどと言えるわけがない。
「華織……」
当の彼女に聞こえるかどうかも分からない大きさの声で、彼女に呼びかける須藤。そんな彼の顔を見返す桜井の唇が動くのが見えた。須藤の言葉に応えているのか否か、それは分からない。
「そういう、こと……これが……《因子》、という……」
「華織、なんて言……」
瞬間だった。
薄い皮が引き裂けるようなブチブチという音と共に、桜井の背後から突如として何が膨張するように伸びた。真白い、樹の幹か、あるいはプラスチックの塊のような物体。それが、水を吸ってふやける高分子のポリマーのごとく、ズルズルと音をたてながらすさまじい勢いで伸展し、肥大していった。一瞬にして桜井の背後にまで伸び、鈍色の壁に根のごとく張り巡らされていく。
この得体の知れない物体は、桜井の体内から背中を通って発生しているようだった。だとして、彼女の身体のどこにこれほどの物体が入っていたのか、想像もできない。というか、質量保存の法則を完全に無視した事態だった。すでに彼女の身体の十倍を超える体積の、“植物的な物体”が発生している。
「華織ーーっ!!」
須藤が、何かに引っ張られたように飛び出して、桜井の方へと駆け寄ろうとした。だが、半径20mにまで近づいたところで、何かが弾けるような音と共に、全速で前身していたはずの彼の身体が、後方へと吹き飛ばされた。
「ぐぉあっ」
床に尻もちをつきながらも、前方を睨みつける。だが、目の前には何も見えない。それでも、何かがある。目に見えない壁のようなものがあって、それがこちらの前身を阻んだのだ。
「クソォ!」
それが分かっていながら、須藤は飛び起きると同時に足を踏み出しもう一度前に突き進んだ。両腕を前に突き出し、見えざる壁に突進する。手のひらに焼けるような熱を感じるのと、前身が再度停止するのもまた、同時だった。やはり、目に見えない壁がある。これ以上進めない。桜井の下へ行くことができない。
「ぬうぅぅぅ……っ!!」
須藤は足に渾身の力をこめ、壁を突き破ろうとした。だが、そもそも何でできているのかも分からないこの壁は、ビクともしない。焼いた鉄のような熱さばかりが、強さを増して手のひらから染み込んでくる。
「うぅ……うぅぅぅ……!!」
一瞬の安堵が再び困惑の奈落へ。須藤は俯き、きつく歯を食いしばり眼を閉じた。いっそ涙すらも滲み出てきそうだ。一体何が起こっているのか、想像もつかない。いつの間にか桜井の身体は絶え間なく成長する白い何かに支えられ、宙に浮き上がりはじめていた。不意に顔を上げてみると、彼女の身体が、その色を徐々に薄め、自らの身体から発生する何かと同化し始めているのが見えた。
「……ッ」
眼を見開き、戦慄する。彼女が、彼女でなくなりつつある。
背後から、感嘆するような声が聞こえてきた。草薙だ。
「素晴らしい、実験は成功だ。ここまで上手くいくとは、彼女にはいかなる感謝の意を表しても足りるものではない」
「何しやがったお前はァァーーッ!!」
須藤は、振り返りながら声を張り上げた。
絶叫する男の向こうで、人ではない何かへと変貌していく女。その光景はある種絵画的な様相さえあった。御剣には、これが確かに革命の始まりの一幕であるようにも見えた。
しかし、これまで人類が己の繁栄のために起こしてきた数々のムーブメントと、目の前で起こっているこれは違うものに感じた。見たこともないはずの歴史の分岐点の数々が、『これは間違っている』と、時空を超越して語りかけているようだった。
だが、そのことに御剣が気づくことができたのは、もっと後のことになる。今はただ彼は、この異様な光景と共に、“彼ら”がこちらに近づいていると、薄ぼんやりと感じるだけだった。




