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Session.13 Monster of Monsters Part.6



 《保有者ホルダー》専門の治療を行う、芦原病院。その中のある個室のベッドの上に、林原はいた。

 西条に骨を折られた右膝と胸に包帯が巻かれてある。胸の包帯は、病院から支給された衣服の奥に垣間見ることができる。

 骨折したというわりには、身体が厳重に固定されているというわけでもなく、ベッドの横には松葉杖が置いてあった。その気になれば、許可をもらうこともなくそれをついて、病棟の中をうろつくこともできる。


 彼の身体に、何か異変が起き始めていた。《Bランク保有者》である彼ならば、多少なら骨折の治癒も早い。が、今回はそれがあまりにも早すぎた。公園の近くを通った芦原学園中等部の生徒からの連絡で救急車が到着し、緊急治療室に搬送されたその時にはすでに、右膝の骨は癒着を開始し、肋骨も、後はこのままくっつくだけという状態になっていた。ほとんど治療など不要だったのだ。

 これは、《Bランク》としても異常な事態だった。

 幸か不幸か、林原は驚くべきことに、もう三日もすれば退院でき、一週間もすれば両箇所の骨折は完治するという。だが同時に、彼に対する“カテコライズ”を改める必要も出てきた。


 もしかしたら彼は、《Aランク》なのかもしれない。それを確かめるための検査をすることになった。


 《因子ファクト》は、一度人体に宿るとその性質を変えることはない、はずだ。なら、今起こっているこれはなんだ。

 林原には、一抹の不安があった。あの日、アインのあの姿――脳が無意識に記憶を放逐しようとしているのか、今となっては鮮明には思い出せないあの姿を見てから、自分の周囲が少しずつ変質し、異界と化そうとしているような気分だった。

 自分自身、この事態がどこかおかしいことに気づいていながらも、何故か病院の職員達はそういう態度を露とも見せない。それも不気味だった。

 骨折が完治する一週間後を目安に、検査は行われるという話だ。


 落ち着かないまま、二日が過ぎた。明日もう退院だ。実感がわかないが、足と胸の痛みはほとんどなくなっているのも事実だった。これではただの検査入院みたいなものではないか、骨折のそれではない。

 今は夕方だった。窓の外に見えるビルの群れの向こうで太陽が沈み始め、空に赤と青のグラデーションを描き始めていた。

 後何時間かすれば、病院の面会時間も過ぎる。もっとも、林原は親元から離れて寮暮らし、クラスはあの“《保有者》組”だ。面会に来てくれるものなど、せいぜい学校の職員ぐらいのものだろう。面会時間など気にする必要もない。


 いや。

 不意に頭の中で、ある者の顔が浮かんだ。それは、無意識的に、あるいは意識的に心の隅に追いやって、そのままじわじわと消滅させようとしていた顔だった。だが、それは叶わないのだと、彼は今察した。そして、そもそもそのようなことを考えることは、彼女に対してあまりに申し訳ないことだとも。


 ドアが開き、そこから入ってきたのは、アインだった。

 あの日の夜から一度も見ていない彼女の顔だったが、何故か林原には、今しがたまで見ていたような気分だった。実際、視覚としてではなく、意識の中ではそうだった。

 心臓の鼓動が、一回だけ強くなったのを感じた。その次は、速度が僅かに増す。腕と、折れていない方の足が小さく強張るのも感じた。ゆっくりとベッドに近づいてくるアインの顔、その濁った眼を見ていると、ある像が脳裏に映し出される。脳裏のスクリーンにピントのずれた像として映っていたものが、そのシルエットを鮮明にしていく。人間を解体する怪物だ。

 明らかに、彼女に対して恐怖していることを林原自身感じていた。アインがベッドのすぐ傍にまで近づくと、手足どころか頬まで引きつり、ピクピクと震えだした。

 彼女はただその様子を、無表情で見ているだけだった。

 その眼――もう感情も読み取れなくなったその眼を、動かせなくなった視界の中で見返し続けている中で、林原は段々と自分が情けなくなってきた。


 本能的な恐怖を抑えるだけの理性を、彼は持っていた。それは、《因子》という未知の力と七年間付き合い続けた者が持つ、天性と言っていい精神力だった。


 考えなおしてみろ。確かに、あれは。あの怪物はアインだったとする。

 だが、彼女はあの夜何をした。西条という人を一人、残虐に殺した。だが、ああしなければ、殺されていたのはアインの方だ。しかもおそらくアインがしたよりも、もっと残虐な殺され方をしていただろう。現に、頭が原型がなくなるほどの踏み潰されていたのだ。

 しかも、殺されるのは彼女だけではない。自分だってそうだ。もし彼女があんな怪物になってあいつを返り討ちにしなければ、こっちだって頭を潰れたトマトみたいにされて死んでいた。

 彼女は死なない。それも確かだ。だったら、わざわざああまで徹底的に西条を殺さなくてもよかった。適当にやり過ごす方法だってあった。

 だが、こちらがいた。彼女は、自分を守るために戦ってくれたのだ。本当は、こちらが彼女を守るつもりだったのに。


 恐れる前に、まずそのことに対して、やるべきことがあるのではないか。それもせずにこうやってガタガタ震えていて、情けないとは思わないのか。

 いくら不本意と言えど、《因子》という力を手に入れた。そうである以上、いつかこの力を使う時はくる。自らがそうすべきと思った時だ。その時が来たというのに、何もできなかった。

 その恥も忘れ、代わりに生命を救ってくれたものを、ただ頭ごなしにバケモノ扱いするというのか。


「ぅ……ッ」

 彼は顔を俯け眼をきつく閉じ、歯を食いしばった。それからまた顔を上げると、アインの眼を見据え、静かに語り出した。

「……済まないことを、した。君は多分、僕があの時君のことを恐ろしいと思っていたことを、感じ取っていたんだ。だから僕に失望して、あのまま去っていった。そりゃそうだ。君は一人でも西条に勝てた。僕の役に立たない助太刀なんて要らなかったんだ。だから来るなと言った。それが君の本心からの望みだったんだ。もし僕が来れば、君の正体が分かっていしまう。あの時のような恐ろしい姿が見られてしまうからって……だけど僕は、くだらないお節介で君を助けに行ってしまった。それがそもそも間違っていたんだ。君を傷つけてしまった」


 アインの表情が変わった。その眼には、驚きと戸惑いと申し訳なさがはっきりと見えた。

 彼女の気持ちが分かる。断ち切られた縄のようなものが、徐々に修復され始めた。その繊維の一本一本をゆっくりと、丁寧につなぎ合わせ、元の形に回帰していく。失われつつあったものが、戻ってくるような気分だ。

「いえ、そうじゃ……」

 言いかけたアインの言葉を遮り、林原は続ける。

「恐れるんじゃなく、その前に君に言うべきことがあった」

「……なんです」

「ありがとう。君は僕の生命の恩人だ。女の子に助けられることになるなんて、男として情けない……」

 そう言いながら、林原は眼を伏せた。

「……そんなことは」

「だけど」

 再び林原は視線を上げ、もう一度アインの眼をはっきりと見つめながら、静かに、しかしはっきりと、力を込めて言った。まず言うべきことは言った。次に、もっと大切なことを言うのだ。

「次はああはならない。なんていうか……この世界には、とてもおぞましいものが隠れているんだと、僕はあの時感じた。あの西条だって、そのひとつだったのかもしれない。そのおぞましいものは、日常の陰から僕達を狙っている。いつかまた、君が危険に晒される時はやってくる。必ずだ……その時、今度こそ君のことを守れるように、僕は自分の《因子》をもっと使いこなしてみせる。そして、もう君のことはこれっぽっちも怖くはないんだ……だから、こんな情けない僕だけど、友達のままでいて欲しい」


 アインは、静かにその言葉を聞いていた。その顔から表情はまたなくなってしまったが、両の眼には深い安堵の色が見えた。千切れた縄の繊維はその多くがすでに繋がり、後は自然と修復されるのを待つだけだった。

 だが、ただ元に戻るだけではいけない。もっと強固な、鉄の繊維でできた、何があろうと千切れない縄を繋げなければならない。そう彼女は思った。

 そのための方法は一つだった。

 何もかも知ってもらうのだ。自分のことを。

 アインは、林原の言葉に応えるように、口を開いた。

「私も、貴方に言わないといけないことができました」

「なんだ?」

「私のことを……これから話すことはどうか。どうか、私と貴方だけの秘密にして欲しい」




 それから彼女は、自らの中に秘められていたいくつかの事実を、林原に対し語った。

 全てを語るのに、それほど時間はかからなかった。せいぜい十分程度だ。面会時間の終了まではまだまだ時間がある。

 だが、その残りの時間の全てを、沈黙によって過ごしてしまいそうだった。

 話を聞き終わった林原は、先ほどと同じように俯き、しかし瞼をひん剥き眼を見開いて、黙りこんでいた。

 だが、本当に数時間黙り続けているというわけではない。やがて彼は、またゆっくりと顔を上げ、アインに言った。

「怒らないんで聞いて欲しいんだけど。正直僕は君のことをただの人間でも、それどころか《保有者》でもない、異質な存在だと思ってる。今もだ。もちろん、恐怖はもうないけど……それで、今の話を聞いて益々その実感がわいた。君は、すごい」

 《先導会》の一員である研究者、大国 八千穂により、人工的な《保有者》として生み出された。この姿で――高校生程度の肉体で大気に触れたのは、まだ一年前のことですらないという。それ以前は、人工受精卵の時から培養液の中で過ごし、脳に電気刺激を送られることで知識を得てきた。ある意味では、最高の勉強法だ。嫌でも直接脳内のノートに内容が書き込まれていく。

 彼女は言葉も、自然の摂理における常識も、人類の歴史も、全てそうやって覚えてきた。

 ということは……


 林原は、あることを聞きたかったのだが、それを口に出すことができなかった。はばかられるような内容の問いだったのだ。

 だが、それを聞きたいということはアインにも分かっていたし、その至極当然の疑問に対する応えも、すでに彼女の中にはあった。

「それなら、今ここにいる私の心だって人工のものだと、そう考えているんでしょう」

「そ、それは……いや、そうだな。正直に言うと、そうだよ」

「人の性格――心と記憶には、繋がりがある。だけど、知識にはない。知識は記憶が形成する心の動作を潤滑する“スタビライザー”としての役割しかない。私が与えられたのはそれだけです。心までは与えられていない……私には記憶なんてものはロクに存在していないから、確かな心だって存在していない。今、この時には」

「記憶が、ない」

 それは、記憶喪失とかそういう類のものではない。本当に、言葉通りに記憶がないのだ。しまい込んだ棚の鍵を忘れたのではなく、そもそも棚には何も入っていない。

 だが、彼女はこう続ける。

「でも、生まれたその時から存在する記憶が一つある。それが、大国博士。あの人は私に、ここに来るまでに残っていたただひとつの記憶だった」

 そして、自分の精神を形成する土台だった、ということか。そういう意味ではやはり、大国博士がアインの心を、間接的に作ったといえなくもないが、そういう話ではないのだろう。

「それから私は、多くの人と関わり、記憶と共に心を育むために、芦原高に来た。そこで、貴方と出会ったのよ」

 不意に、林原はドキリとした。身体の芯の方から、じわじわと熱が広がっていくような感覚があった。

 それはつまり自分は、アインにとって――すでに人間としては完成しつつ肉体を有していながらも、その実赤子と同じだった彼女にとっての、二番目の記憶、二つ目の出会いであるということなのだ。

 母と言っていい女性の顔から、父親をすっ飛ばした、二人目の。

 それは、今自分で感じている以上の意味があるのかもしれない。

 しばらく眼を泳がせていた林原は、自分でも分からないが、なぜだかこのタイミングこう問うてしまった。

「ど、どうして僕にそこまで詳しいことを話したんだ? 世界的な大発明と、不死身なんていう人間の永遠の夢が、目の前にいるって教えてるんだぞ?」

 それにアインは、淀みなく応えた。

「貴方は多分、私にとってすごく大事な人になるような気がしたらから、隠し事はしちゃいけないって。秘密を守る誠実さも持ってるって、信じていますから」

「そ……そ、そうか」


 それから二人共、しばらく何も言えず、黙りこんでしまった。重苦しいような、あるいは逆に居心地がいいような。なんとも言えない不思議な空気が漂っていた。あまり悪い気分はしない。どちらかと言えば、ずっとこのままでいるのもいいかもしれないと思えるほどだ。

 が、このまま外が暗くなれば、アインは出ていかなければならなくなる。その前に、話をするべきことは話しておくべきだった。

 林原は続けて質問した。

「どうしてわざわざ大国博士は、君を生み出したんだろう」

 何故わざわざ人工の《保有者》を? すでに日本全土での保有者の数は百万を超え、はっきり言って飽和状態と言ってもよかった。しかも、今でも増加率は減少する傾向を見せていない。今はまだ《保有者》と非保有者アン・ホルダーのバランスはなんとか保つことができているが、このまま数が増え続ければ、いずれは《保有者》という新人類が、既存の人類を淘汰することになるのではないか。多くの者が、すでにそのことに気づいていた。

 もう、意図的に新たな《保有者》を誕生させる必要などない。《保有者》による人類の淘汰が目的でない限りは。

 だとして、何故わざわざ人工的に……


 アインの応えは単純明快だった。

「知的好奇心を満たすためですよ。自然現象とされていた《因子》の発現を、人為的な“業”にできないか、っていう。それが叶ったんです。その成果が私なの」

「好奇心って……」

「でも、その好奇心がなければ、私は今この世にいなかった。博士には――母には、本当に感謝している。それに、脳にまで細工ができるのなら、わざわざ手間をかけて知識を与えず、実験のためのモルモットにだってできた。でも、母はそれをしなかった。自らの研究の結果生まれたものであろうと、一人の人間として生きていく機会だけは、与えてくれたんです」

「よく……分からない話だなぁ」

 大国 八千穂のことはよく知っているし、おそらく、学者の中の学者といった人間なのだろうとも思っていた。アインの話を聞いて、マッド・サイエンティストの世界に片足どころか、すでに頭頂部までずっぽりと浸かっているということも分かった。

 だが、実際に会ったことはないし、会おうにも住む世界が根本的に違っていた。彼女が何を考え、アインをどうしたいのか、分からなかった。だが、アインが母と呼ぶような人間なのだ。悪魔の股から無性生殖で生まれてきたようなやつ、というわけでもないのだろう。少なくとも、人間ではあるのだ。


 疑問はまだ尽きない。

「しかし、ただ好奇心を満たすためだけに、そんなとてつもない研究ができるんだろうかなぁ。予算だって必要だろうし、もしかして、《先導会》の方で援助をしてくれてたんじゃないか? 何か目的があって」

「さぁ、それは分かりません」

「仮に博士の独断だとしても、《先導会》は研究の内容を把握してたはずだ。それで、正直あまり褒められた内容じゃない研究だ。それでも、会の人達によって中止させられてないってことは、研究を承認されてたってことだ。それはなんでだろう……そもそも《先導会》自体、あんまりよく分からない組織なんだよな。彼らって一体、何者なんだろう。亜音は何かしらないのか?」

「分かりません。母も、そこまでは教えてくれませんでした。そもそも、母も知らないのかもしれません」

 《先導会》が、表向きに行っている保有者の保護。その裏に、まだ秘匿されてあるものがあるのかもしれない。アインの脳には、それらの情報はインプットされていなかった。それは大国の意図したものなのか、あるいはもっと別の大きな力が働いているのか……

「……」

 林原としてはどうにも、こういう話をしていると気持ちが落ち着かなくなる。あれこれと余計な詮索をするのはやめよう。そもそも、こんな話をするためにここに来たわけではないのだ。

 またしても俯き、こう考えこんだ彼は、しばらくして三度その顔を上げた。


 突然、視界の中で巨大な手のひらが大写しになった。が、実際に巨大な手があるのではない。目の前、鼻に触れそうでその熱を肌で感じることができるほど近くに、アインの手のひらが迫っていたのだ。

 ベッドの前に立つ彼女の距離から考えて、あり得ない位置だった。その手のひらは不意に眼前から離れると、今度は林原の周囲を大きく三度ほど旋回してから背後に回りこみ、微かに首筋へと触れた。

 手のひらが旋回する度に、その軌跡に沿って肌色の絹のようなものが彼を取り囲んだ。

 腕だ。異様に伸びた腕がとぐろを巻く肌色の蛇と化していた。

 背後へと回った手が、人差し指で爪を立て、林原の後ろ首を微かに掻く。

 同時に、アインが言った。

「優二君。私のことやっぱり怖い?」


 そう聞いてくる彼女の眼には、ある種の殺意に似たおぞましさがあった。以前の林原なら、震え上がるような眼光だった。だが、今は違う。あの夜の奇怪なひと時が彼の中で恐怖に対する耐性が出来上がったのか。あるいは目の前の彼女に対する思いのためか。

 彼はアインの問いに対し、静かに応えた。

「そうやって、自分で自分を傷つけるようなことはよくない。怖がっているのは僕じゃなくて君の方だ。君は不安なんだ。君をそういう気分にしたのには僕に非がある……ごめん。本当に済まなかった」

「……」

「そりゃ、僕は《因子》は嫌いだ。《保有者》は怖い。でも、そうやって生理的な嫌悪感とか先入観だけで何もかも決めつけちゃいけないってことも分かってる。そもそも僕自身その嫌いな《保有者》になってるわけだけど、自己嫌悪に陥ってるわけじゃないからね。袈裟は憎いけど坊主は憎くないのさ」

「どういうこと?」

「いやぁ、自分でも何言ってるのかよく分からない……とにかく、僕が言いたいのは、もっと、その……人の本質――内面を見たいってことなんだ。アイン、君の《因子》は確かにとんでもない代物だ。でも、それを扱う君が悪い人だとはこれっぽっちも思わないし、怖いとなんて思うわけがない」

 林原は、俄に上体を起き上がらせ、そのままベッドから立ち上がると、アインの両肩に手を置いた。どうせもう骨折などほとんど治っている。立ち上がってもせいぜい膝に違和感がある程度だ。なんならこのまま病院から抜けだして、フルマラソンだってできる。

 アインの眼をはっきりと見据え、その心の奥底にまで、眼光を通して己の意志を伝えようと、林原は言葉を続けた。

「僕は……俺は、何もかもひっくるめて君のことが好きだ。それだけは絶対に確かなことだ。この言葉が嘘になった時、俺は、自分の魂を裏切ったことになる、というかなんというか……あぁ~もうこういう台詞はやめよう。とにかく、だから君も不安になんかならないで、もっと自分のことを好きになってほしい」


 アインはその言葉に対し、笑っているのか悲しんでいるのか、よく分からない表情になった。ただ口を半開きにして、パチパチと瞬きしていることしかできなかった。

 だが、そんな中でも、心が少しずつ彼の言葉を咀嚼し、飲み込んで、栄養のごとく吸収していく中で、今まで感じたことのない暖かさのようなものがじわじわとわき起こってきた。

 大国博士は、きっとこういう気持ちを感じて欲しくて、自分を葦原学園に送り、この林原に巡りあわせてくれたのかもしれない。

 それは、己の知的欲求を満たすために歪な生命体を生み出してしまったことに対する贖罪なのか。あるいはもっと純粋な、淀みのない愛情のためだったのか。その両方か。

 それを考える必要はない。

 今はただ、感謝するばかりだった。

 母に対し、そして林原に対し。

 このような形であろうと、この世に生まれたことに対し、感謝を……


 ……何故なのかは分からなかった。

 ただアインは、何かに瞳孔を引き寄せられ、気が付いた時には病室の窓の外へと視線を向けていた。

 次の瞬間、彼女の眼は大きく見開かれた。

「……ッ」


 甲斐だ。

 あの甲斐 雛世が窓の外にいた。この病室は地上八階にある。だが彼女はその高さで、さながら浅い珊瑚の海中に漂うダイバーのように、手足を宙に投げ出したリラックスした姿で当たり前のように浮遊していた。あの夜と同じだ。足に装着されている――のか?――推進器を使って飛んでいる。

 彼女の視線とこちらの視線が重なりあった時、甲斐はうっすらと笑った。

 『これからよろしく』

 窓外そうがいで動いた口は、そう語ったように見えた。


 驚愕した顔のまま固まってしまったアインを訝しみ、林原も窓の方へと眼を向けた。その瞬間、甲斐の姿は窓枠から消え失せていた。

「……どうしたんだ?」

 と聞く林原に、彼女は窓へ向けた視線を外すこともできないまま、うわ言のように応えた。

「いえ……何か虫が張り付いてたみたいで。もういなくなったわ」

「虫? 部屋の灯りに引き寄せられたのかな」

「そうかもしれませんね。あの虫……鬱陶しい、邪魔臭いあの虫……」


 もしかしたら。アインは思った。

 もしかしたら、やはり林原とはここで縁を切っておくべきなのかもしれなかった。それが彼のためだったのだと。

 今、自分の知らないところで、彼女らが――《先導会》が動き出している。その動きはすでに大きな竜巻となって大海原を北上し、いずれこちらを呑み込んでいくだろう。

 このままでは、林原も巻き込まれてしまうかもしれない。

 もう彼を、あの夜のような目にあわせたくはない。いくら彼が、今度は守ってやるなんて言っても、もし《先導会》に関わってしまえば、ただで済むわけがないのだ。

 折角巡ってきたこの天啓のような出会いが、失われることになる。それは嫌だ。


 アインは、母である大国のことは好きだ。だが、彼女が所属するあの組織。何を目的としているのかも分からないあの組織に関しては、即刻ぶっ潰れてもいいと思った。



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