Session.13 Monster of Monsters Part.1
あの日から、もう一週間ほどが経っていた。夜の公園で、大国 亜音が異形の怪物を殺したあの日から。
彼女は特に何の問題もなく、クラスの《保有者》から親しまれ、慕われていた。勿論、《保有者》として比較的健全な者達からだ。その中には、あの夜林原を袋叩きにし、アインにこっぴどく返り討ちにされた連中もいた。なんともはや、呆れるような手のひら返しだ。彼女には逆らえないと悟ったのか、あるいはその強さと可憐さに惹かれたのか、それは知ったことではないが。
彼女は元々、裏表のないさっぱりした性格であるし、誰にでも別け隔てなく接する人間だった。性格も落ち着いているし、何よりその容姿だ。日本人離れした白髪と、不思議な雰囲気をたたえる瞳の色。それに惹きつけられる者も多いのだろう。男子にも女子にも、等しく人気者になりつつあった。特に男子の中には、いずれ彼女を自分のものにしようという考えもあるだろう。
アインの学生生活は、順風満帆といって違いなかった。
それに反して、林原の中の恋心には、何らかの陰りがあった。
彼女のことは好きだ。それは依然変わらない。
だが、あの夜、あの戦闘――戦闘どころか、一方的なただの殺戮と言っていい――を見た時から、好意とは違う何かがずっと胸中で渦巻いていた。
彼女には、何かある。彼女が持つ《特殊型因子》の正体にしてもそうだが、それ以上の何かが。それが何であるのかは当然分かるわけがないし、そもそも本当に何かを秘めているのかすら、確信しているわけではない。
それでも林原には今、ホームルームを前にして机に座っているアインの、あの姿の奥に、別の彼女の姿があるように思えて仕方がなかった。
それを見ること。それが、彼女を己のものとするという第一目標と並行する、第二の目的だった。
が、それを達成する目処は立っていないし、それ以上にやらなければならないことがあった。第二目標の達成に気を取られ、第一目標に失敗しては話にならない。
今、彼女を狙っている男は少なくない。そのような連中に先を越されるわけにはいかないのだ。いち早く、“証”をたてなければならない。自分とアインが、ただのクラスメイト同士ではないという証を。
すでにそれを得る権利は自分にはあるはずだ。この一週間で、彼女のことはある程度分かったし、こちらのことだって向こうは知ってくれたはずだ。むしろ遅いくらいだ。
彼は、勇気の次なる段階を踏み、奮って立ち上がった。
そして、隣の机の前へと足早に移動し、座っているアインをじっと見下ろした。こちらの眼を、彼女も何事かと見つめ返している。その瞳に吸い込まれ、ここではないどこかへと放り込まれて、見えない胃酸に溶かされ彼女の魂に吸収されそうな気分になりながらも、その先へと――魂に吸い尽くされたその先へと踏み入ろうとして、林原は口を開いた。
「……なぁ大国。大事な、話が……」
だが、沸き起こった勇気というものは、タイミングを誤ればただ空回りするだけで終わる。雷神トールであっても、タイミングが悪ければヨルムンガルドに勝利することはできない。
林原は突然、何かを身体に押しのけられ、アインの机の前から引き剥がされた。相当な力で押されたらしく、為す術もなく尻餅をついて床に座り込んでしまった。
咄嗟に視線を上げ、先ほどまで自分が立っていた場所を見る。そうして彼は、眼を見開いた。
西条だ。《保有者》三人を唆し、自らは動かず、こちらを半殺しにしようとしたあの西条 研二が、こちらと取って代わるようにアインの前に立っていた。机の上に右手を置き、アインの顔に向かって自分の顔を、鼻先がくっつきそうになるほどに近づけている。
空気の粘性が上がるのが分かった。林原の身体にまとわりつく空気が、じっとりと冷たい湿気を帯びた。息を詰める彼の目の前で、西条は静かに言った。アインに向かって。
「大事な話がある。今日の夜……そうだな、三時ぐらいに、葦原公園に来い。場所は分かるな?」
その問いに応える前に、アインはこう聞き返した。
「どうしてです」
「理由なら来たら分かる。が、来なきゃ死んでも分からない……いや、生命に関わるような大事な話なんだ。もったいぶったことは言わない。頼む、来てくれ」
「……分かりました」
今日の西条は、いつもとは何かが違った。それを察したアインは、あえてこの誘いに乗ることにした。
が、彼女があっさり受け入れたとしても、受け入れない者が別にいた。
林原だ。
彼は座り込んだまま、西条に食ってかかった。
「待てよ西条」
その声に、彼の顔と、眼窩に埋まる双眸が林原の方へと向いた。林原は、続く言葉が喉につまり、息苦しさと共に何も言えなくなった。
「……」
西条は何も言わない。ただ見るだけ。
だが、その“見るだけ”の行為に、地獄の悪鬼羅刹を生き写したような恐ろしさがあった。褐色であるはずの瞳がこの時だけは、血の色に染まっているように見えた。
――何か言ったか?――
そう、その真紅の瞳が言ったような気がした。こちらを有無を言わさず黙らせようとする威圧感があった。
だが、林原は食い下がらなかった。彼はゆっくりと起き上がると、そのまま西条の方へと詰め寄り、その襟首を掴んだ。もしここで向こうがこちらを殺そうとすれば、ただちょいと腕を胸の辺りに突き出すだけで済んだ。そうすれば、拳は胸骨を砕きながら、心臓を破裂させるだろう。
それでも、林原は衝動を抑えることができなかった。そして今回は、そんな最悪の結果にはならなかった。以外にも西条は、抵抗しなかったのだ。
「今言え。理由を……いや、目的を!」
鬼気迫るその問いに応えず、西条はしばらく黙り込んでいた。やがて、林原の両手を軽々と振り払うと、事も無げに言った。
「来るかどうかは大国、お前の勝手だ。俺は待ってる。ただ、もう一つだけ頼んでおこう。来るときはお前一人でだ。いいな? これはお前のためでもあり、別の第三者のためでもあるんだ。この約束を守る、ってことはな……」
それだけ言い残して、彼は去っていった。いつぞやと同じだ。
残された林原は、神妙な面持ちでその場に立ち尽くしていた。
再び、西条に対する憤りが。それと、不安と焦燥が胸中で満たされた。
奴が、アインを誘ったことに対してだ。
だがそれは、“先を越された”という意味ではない。いっそのこと、その方がマシ――ではないが、危険は少なかったかもしれない。
大事な話があると言った時の西条の顔。あれはまともではなかった。明らかに、正常な思考判断をしている顔ではなかった。正常ではないが冷静ではあった。冷静に、イカれたことを考えている眼光だった。
では、何を考えているのか?
間違いない。証拠があるわけではないが、林原にはこれが100%だと思えた。
アインを殺すつもりだ。
とんでもない事態になった。あの夜のことを思い出せば、アインに異様な戦闘力があることは分かるが、相手は《Bランク》以下が何人集まろうと太刀打ちできない、そういう存在なのだ。勝てるとは言い切れない。むしろ、負ける可能性の方が大きい。
アインは、このことに気づいているのか?
握りしめた拳の震えを止め、林原はアインの方へ振り向いた。
「大国。あんな訳の分からない誘いは受けなくていい。せいぜい一晩中待たせてやればいいんだ……いいや、どうせ行くなら、生徒会の人達と一緒に言ったほうがいい。そうしてアイツをどうにかしてもらうんだ。そうだ、それがいい! アイン、あいつが考えているのはな……」
全て言い終わる前に、アインは応えた。
「知っています。その上で、この誘いに乗る」
「……嘘だ、ホントに分かってるのかッ? あいつは君を……殺そうと、しているんだ」
僅かな沈黙がこの場を過ぎた。こちらを見返すアインの眼が、“だからそれも分かっている”と言っていた。その上で、彼女は何一つ動じる様子を見せなかった。むしろ、いつも以上に落ち着いているようだ。両の濁った瞳は、普段以上に澄んでいる。濁っているのに澄んでいるというのは珍妙な表現だろうが、要するに、濁り方が洗練としているのだ。
彼女は言った。
「仮に、私が密室であなたと二人きりでいるとする。私は手足を鋼鉄の手錠で拘束され、目隠しされ、猿轡もされている。あなたは高周波電流の流れる巨大な電気メスを持っている。象でもクジラでも焼き殺すことができるような。で、あなたは私を殺さなければ、一生――いえ、それどころか、死んだ後も自分の一族に連綿と遺恨が残ることになる……だとしても、私は死なない」
「……なんだって?」
「私は今夜、芦原公園にいく。ちょうど、数日前によく分かんない化け物と戦った場所ね。いい思い出になったもの、よく覚えてるわ。優二くんは、来ないでちょうだい。西条くんも言っていたけど、これはあなたのためでもあるし、何より私の願いでもある……お願いね」
「……」
林原が何かを言う前に、教室に担任が入ってきて、ホームルームが始まった。
その後も、休み時間になる度に彼女は早々に席を立ち、どこかへと消えてしまった。結局、今日はロクに話もできなかった。
これ以上の追求を避けていたのだろうか? 林原に、余計な心配をかけたくないと。
が、それは逆効果だった。
林原の中での衝動――アインを我がものにしようという願望とは別のベクトルでの衝動は、むしろ時が経つごとに大きくなっていた。
※
深夜。
形骸化しつつある寮の門限ですら律儀に守るような男だった林原は、そのポリシーを曲げた。こっそりと抜け出し、ある場所へと向かったのだ。
他でもない、芦原公園だ。
アインは来るなと言っていたが、どうしても行動を起こさずにはいられなかった。
ホームルーム前のあの言葉。当時は何を言っているのかよく分からなかったが、思い返せば、自分は西条には負けないという自信の顕れだったのかもしれない。
だが、《Aランク》との戦いはそう生易しいものではないはずだ。口ではどれだけ死なないと言っても、人間は死ぬものだ。死なない人間など、そんなものは存在しない。もし存在すれば、それは世の中の摂理に対する反逆であるし、森羅万象に対する革命――人が神の域に踏み入るのと同義だ。いくら《因子》という、知恵の実に続く新たな罪を手にしたところで、楽園から追放した者達に復讐することはできない。“もしかしたら”、ということはあるのだ。
だからこそ、林原はいざという時にアインを助けるために、彼女と西条の戦闘を見守ることにした。《Bランク》である自分に、いったい何ができるというのか。そんなものは知るか。だが、自分一人が足掻くことで、あのアインを西条の魔手から逃すことができるのなら、溶鉱炉の中だろうが絶対零度の宇宙空間だろうがいきり立って突っ込んでやる。
そういう意気込みだった。
西条が提示した三時という時刻よりも前、午前一時に公園に到着した彼は、林立する植樹の影に隠れ、公園中央の様子を観察していた。出入り口がない方向の木に隠れたが、正直、《Aランク》の視力をやりすごせる確証はない。場合によっては、そこら辺の電気店から小型の電子望遠鏡でも買って、もっと遠くから様子を見ている方がよかったかもしれないが、大事なのは安全に視ることではない。重要な場面を見逃すことなく、素早く行動できるということだった。そのためには、なるべくアイン達の近くにいなければならなかった。
二時間ほどが経った。
約束の時間も近い。
集中力と緊張が途切れることなく、むしろ益々鋭敏にしながら公園の監視を続けていた林原の眼に、あるものが見えた。
西条だ。奴が、公園へと入ってきた。誘ってきた本人が来ないというわけがないので、当然のことではあるが。
林原の全身を包む緊張が、一段と大きくなる。四肢は強張り、心臓の鼓動が僅かに早まるのが分かった。
公園は深夜であっても、照明によって一定の明るさは保っている。だからこそ、植樹に囲まれた広場の中央へと移動した西条が、首を左右に振り、周囲を見回す様子もよく分かった。
不意に、林原が隠れている方へと視線が向いた。咄嗟に林原は木の陰に身を引いた。やがて西条は何事もなかったかのように、また別の方へと移した。見つかったかと思ったが、幸いというべきか、どうやら向こうにはこちらの姿は見えないらしい。ひとまず安心してもよさそうだ。再び木陰から身を乗り出す。
その矢先だった。
しばらく辺りを見回していた西条が、再びこちらを向いた。
そうして、笑った。口元を引き攣らせ、眼を糸のように細めて。それはさながら、能面のような形相だった。能面は人を模したものであっても、厳密には人の顔のそれではない。能面そのままの表情を人はできない。
だが、奴はした。
「……ッ!?」
林原は、今度こそ本当に心臓が止まったような気がした。錯覚であろうがなかろうが、全身の血管を巡る血の動きが一瞬停滞し、己の生命がそれに伴い静止した、と感じた。ほんの一瞬だったが。
楽観視していた。ニーチェの言葉ではないが、こちらが向こうを見ている以上、向こうにこちらが見えないわけがないのだ。《Aランク》の視力を甘く見てはいけなかった。
どうする。いや、これからどうなる?
そう身構える林原だったが。それに対する西条の行動は、予想に反するものだった。
彼は、何かに気づいたらしく、不意に今しがた自分が通った公園へに出入り口へ向いた。それに釣られ、林原もそこに眼を向ける。
アインだ。西条の誘いに乗り、ここにやってきたのだ。
結果として、この絶妙なタイミングで彼女がやってきたことで、林原のことは西条の頭の中から吹きとんだらしい。少なくとも、意識の範疇からは消え失せた。そういう意味では、この幸運に感謝するべきだったのかもしれない。だが、当の林原は落胆した。
やはり来てしまったのか……
だが、こうなってしまったら仕方がない。ひとまず、事の成り行きを見ていることにする。
ゆっくりと歩を進め、アインは西条の前へと出た。
そして、開口一番に言う。
「大事な話――いえ、用事というのは分かっています。どうします? すぐにそれを済ませるか、その前にちょっとぐらい世間話でもするか」
それに、西条が応えた。
「そうか。そりゃいい、手間が省ける……そうだな、俺としてはどっちでも構わんけど、折角だから、少しの間お話でもするかァ」
そうして、彼は落ち着きない足取りで一定の、輪のような軌跡を描くよう歩きながら、こう問うた。
「《因子人》ってのを知ってるか?」
「……知ってます」
その応えに、西条は僅かに驚いた。が、ブラブラすることはやめず、そのまま質問を続ける。
「まさかだな……するとお前も、我らの“同胞”ってわけか?」
「いえ」
「……じゃあ何故我らのことを知っている。あれか? ハッタリで知ってるって応えただけとか言うのか?」
「いいでしょう。あなたは自分の身の上を話してくれるようだし、私の方も話して……いえ、やっぱりやめておきましょう」
アインが言いかけたところでこう訂正した時、彼女の視線がこちらに向いているのに林原は気づいた。
彼女もだ。彼女もこちらに気づいている。その一瞬の表情からは、こちらに対する失望にも似た念を感じた。それが、林原の胸中に罪悪感を呼んだ。
だが、それと共に、ある確信もあった。
やはり彼女は、こちらに何かを隠している。それを聞かせまいとしているから、彼女は言葉を詰まらせたのだ。
西条が、残念そうに肩を竦めた。
「なんだよ、釣れねえな。どうすれば教えてくれるんだ? 腕の一本や二本へし折れば教えてくれるか?」
「そうですね……例えば、心臓を直接根性焼きでもすれば、痛みでつい口が滑ってしまうかもしれないわね」
西条の言葉に、アインが冗談交じりに応えた。あるいは、本当に冗談であるかどうか……
少なくとも、普通の人間が――おそらく《保有者》であっても、心臓を直接焼かれたら、口がすべるどころか死ぬ。どうにもアインは、“死”というものを軽々しく扱っているように林原には思えた。せいぜい、苦痛の延長程度に。
西条が俯き、肩を揺らして笑った。
「ク……クフ、クク……フ……あぁそうかい。それなら、そう難しいことじゃないかもしれないな……」
次の瞬間だった。
何かが折れるような乾いた音が、夜空に向かってこだました。何が折れたのかは、林原にはすぐに分かった。
瞬時にアインの身体に肉薄した西条が、彼女の左腕を右手でつかみ、骨を握りつぶすようにしてへし折ったのだ。折れるような音と形容したが、実際はどちらかと言えば“踏みしめる”ような音にも聞こえた。骨がひび割れ無数の破片へと砕けて散らばる音だ。複雑骨折。治癒する見込みのないレベルの重傷だった。
へし折られた左腕の前腕から向こう側が、風に吹かれる枝垂れ桜の枝のようにブラブラと揺れていた。林原は、戦慄した。
次いで西条は右手を素早く離し、人差し指をピンと伸ばした。それを、光明のごとき速さでアインの左眼窩に突き刺し、眼球をえぐりとった。大きくよろめく彼女の身体から飛び出し、やがて地面へとへばりついたその影は、今林原が視ている世界を形作る、偉大なる臓器の片割れと同じものだろう。
彼は、瞬時に察した。
これはマズい。
そんな思考が脳裏を過るのと、木の陰から飛び出し、西条の方へと全速力で駆け出すのは、ほぼ同時だった。これでもまだ、行動が遅い方だ。すでにアインの身体は傷つけられてしまったのだから。
後で頭が地面に埋まるぐらいの土下座をして謝らなければならない。
「西条お前ェ! ぶっ殺すぞォーーッ!!」
生まれて始めてだった。こんな言葉を口から吐いたのは。




