表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/78

Session.10 Mama said

解説回を入れると言っていましたが、あと一話分だけ先に進めさせていただきます。

次回こそ、多分誰も楽しみにしていないであろう解説回となります



 そこがどこにあるのかは、その研究所の内部職員と、彼らを統括する《先導会》の幹部。そして、彼女にしか分からない。そして、病院でもないそこが、彼女の生まれた場所だった。

 母はいない。父もいない。誰のものとも分からない精子を、人間のものかどうかさえ実際のところ分からない卵子に人工授精させ、彼女は生まれた。母胎はシリンダーで、羊水は妙な色をした得体のしれない培養液だった。

 それらの事実を、彼女は生まれて間もなく全て理解した。それでも、彼女が心を閉ざすことがなかったのは、生まれた理由すら“普通”ではない自分に親身に接してくれる、“博士”がいたからだ。

 少女の白い髪は、彼女が誕生してからまだ一週間ほどしか経っていないというのに、流れるような長髪へと変わっていた。そのような髪型に対する興味が、毛髪を短期間で急速に成長させたのだろう。彼女の《因子ファクト》にはそれができる。


 その一室は、山中に隠れるように存在する研究所の物々しさと、そこで行われている研究の凄惨さに反して、落ち着いた趣だった。

 フローリングの床に、明るいベージュの色の壁。柔らかそうなベッドと、木製のしっかりした作りの机。レースのカーテンの奥にある、外に繋がっていないはずの窓の向こうには、鮮明なホログラム映像により雄大な草原と、地平線を隔てた青空の光景が映し出されていた。精神を安定させるための意匠であろうか。

 やや質素であるが、年頃の少女の個室といった雰囲気である。

 そんな部屋の中、机の前で椅子に腰掛け本を読んでいた少女の耳に、ドアをノックする音が聞こえた。鉄製がほとんどである中で、わざわざ新しく木製の物を取り付けたドアの音ひとつでも、心が落ち着くようだ。

 彼女は、ドアの向こうにいるのが“博士”であるとすぐに分かった。

「どうぞ。入ってください」

 彼女がそう言うと、ドアがゆっくりと開き、“博士”――大国 八千穂が入ってきた。

 部屋に入るなり彼女は徐に、座ったままの少女の後ろへと歩み寄り、読まれていた本のページを覗き見た。

「『ドグラ・マグラ』……脳は全ての思考を司る部位ではなく、あくまで電話交換局でしかない。思考そのものは、人を構成する細胞の、全てが行なっている……貴方らしいわね。貴方は脳が吹き飛んでも死なないものね」

 普通の人間はそうではない。それを暗に示す台詞であったが、少女は特に不快感は抱かなかった。これはただの冗談なのだ。こういう冗談を言ってしまうのが、大国なのだということが分かっていた。

 問題があるとすれば、大国のこの言葉と、今読んでいる本の関係性が分からないということだった。少女はきょとんとした表情を浮かべた。

「……あ。よく見たらまだ最初の方……いやぁ、ごめん。思いっきり先の展開言っちゃった。まぁこの先展開と呼べるものがあるのかどうかも曖昧だけどね、それは」

「いえ、謝らなくてもいいんですよ」

「ん、ありがとう……それでね、アイン」

 アイン。それは少女の名前だった。

 大国 綾音アイン。ドイツ語の“1”という意味だ。

 大国が名付け親だ。彼女自身、自分の感性が客観的に見てどれほどのものかは分からない。だが、いくつもの失敗――成功の段階――の上で生まれた“最初”の成功例であるからこの名をつけたという酷なまでの淡白さを打ち消すことができなかったというのは、科学者としてのさがであるのだろうか。

 それでも、アインは自分のこの名が好きだった。自分を養子に迎え入れた上で、この名をつけた大国 八千穂のことが。


 その、大国が続ける。

「貴方には、高校に入学してもらうわ」

「学校に?」

「そう。すでに必要な分の知識と常識はその頭の中に入っている。子供というのはね、教育を受ける義務というのがあるのよ。高校は別だけど……それは何故だか分かる? 生きていく上で必要な数学ぐらい、自分で勉強して身につく。言葉の使い方だって、本を一杯読んでれば自ずと分かってくる。今みたいにね……まぁ、そんな本ばっかり読んでたら、物の言い方が変人じみてくるかもしれないけど……歴史然り科学しかり。すでに高校の三年間で学ぶ知識の全ては、貴方の中にある。それなのに、何故か?」

「……」

 アインは首を横に振った。

「人との関係。人間という生物――いえ、ほぼ全ての動物は、複数の同類とコミュニティを形成し、その中で生きていく。特に人間は、そのコミュニティが複雑さを極めている。人間の数だけ、付き合い方のパターンはある。喜怒哀楽を制御するキーがどこにあるのか、今何を求められているのか、こちらの行動によって、目の前の人にどのような変化が起こるのか。それを常に想定しながら行動しなければならない。その想定の方法を、一人で学習することはできない。本を何百、何千冊と読んでも、それだけは身につかない。二人いれば身につく、でもまだ足りない。三人でも足りない。人が生活していく上でどれだけの人間と関わることになるのかなんて、誰にも分からない。そうである以上、なるべく多くの人と良好な関係を維持していくために、“神経の訓練”をしておかなくてはならない。分かる?」

「とてもよく」

「子供はまだ、コミュニティで生きる術を身に着けていない。素裸の神経を、社会の中で秩序を維持しながらも、文明に生き個人の自由に生きる神が育みし奇跡のような人間の一人として生きていくために、訓練をする。そのための最も簡便で効果的な方法というのが、訓練のためのコミュニティに入り、そこで生きること。そこが、学校であるのよ。貴方は、今持ち合わせている知識と能力を使うに足る、心を身につけなさい」

「分かりました」

 アインは、はっきりと返事した。

 彼女は、健全な少女へと育ってくれたようだ。

 ……いや、たった一週間で人間が育つわけがない。いくら肉体的な成長が加速すると言っても、心に関しては。

 彼女のこの性格は、まだシリンダーの中にいるころから、少しずつ形成されていたものなのだろう。《ピリグリム》と《ミッショナリー》が複製した遺伝子が、彼女の性分を創った。

「すでに必要な手続きは済ませてあるわ。入学する学校も決まっている。葦原学園高校よ。“うち”の会長さんが理事長を務めている学校ね。貴方のお友達がたくさんいるわ。近い内に、寮で一人暮らしすることになるでしょうけど、それでも平気?」

「……大丈夫です」

 僅かな間を置いてから、アインは応えた。その僅かな間に、大国と離れることに対する未練があったのだろう。とても愛おしいことだ。

 大国は微笑を浮かべ、アインの肩に手を置いた。

「そう、それならいいのよ」

 数秒して、その顔は元の鉄面皮に戻った。

 別に、先ほどの笑みがただの愛想であったというわけでもない。ただ、彼女にとっての自然体の顔というのが、これだというだけだ。無表情の方が、笑顔よりもずっと楽だからだ。

「この研究所からも離れることになるけど、その前に、貴方に見てほしいものがあるの」

「なんですか?」

「とても大事なものよ……ついてきなさい」


 そのまま大国は、アインを連れて部屋を出た。安寧とした雰囲気の空間が、ドアの向こうへと出た瞬間に、無機質な殺風景へと変わる。だが、この光景もアインとしては見慣れたものだった。先程までいた部屋は、気持ちを落ち着かせるための“揺り籠”でしかない。彼女の生きる世界、その真実の姿はこちらなのだ。自分は、根本的なところで“普通”の人間とは違う。“人間”という生物であるとも限らない。

 アインの判断能力はすでに、同じ背格好の少年少女と同程度か、それ以上のものがある。自分の身にまとわりつく現実というものも、すでに分かっている。

 だが、大国は間違いなく、彼女を人間――否、大国 綾音という無二の存在として見てくれていた。それで充分だった。


 彼女達は長々とした通路を、数度曲がりながら延々と歩き、やがてとある部屋へとたどり着いた。

 その部屋もまた、アインの自室と同じように、研究所内の寒々しい様相とは趣が異なっていた。彼女の部屋とも違う。

 まず眼を見張るのが、部屋中至る所に張り巡らされた、白い木の蔦、あるいは根のようなものだった。元来あった壁や床をくまなく覆い隠さんとしている。が、アインはすぐに、それが蔦でも根でもないということに気づいた。似て非なる――というか、そもそも似てもいない。

 その“何か”は淡く発光しており、表面もとても滑らかなようだ。ところどころ皺が酔っているようではあるが、湿った絹のような印象だった。

 次に、その“何か”の間に、大きな瓦礫が点在しているのが見えた。“何か”は部屋の奥からここまで伸びているようだが、よく見ると、天井近くに群生する“何か”の間に、欠けたコンクリートがせり出しているのが見えた。それはおそらく、元々は壁を形成していたものだ。

 部屋はかなり広大だった。アインの部屋は勿論、彼女が生まれた実験観察室よりも何倍も広い。しかしそれは、初めからここまで広いというわけではなかった。この“何か”が、壁を破壊し、いくつもの部屋の境界を取り払い、ひとつの部屋へと結合させたのだ。

 これは一体何なのだろう。

 アインの思考はそこに帰結した。

 それに応えるように、大国が言う。

「この奥よ」

 奥に行けば、この蔦のような物体の正体が分かるのだろう。

 徐に歩きはじめた彼女の後へと、アインはついていく。

 部屋の中に張り巡らされていた“何か”は、ある一点へと続いているようだった。多少うねりながらも、一様に同じ方向へと伸び、さながら洞窟を塞ぐ岩盤のようだった。床の方は比較的“何か”の密度が薄く、森林の地面に血管のごとく奔る木の根のようだ。それを避けて歩く。

 その間、アインはとても不思議な気分がしていた。この場にいるのはおそらく、大国と自分の二人だけだ。だというのに、無数の――十人や二十人ではない。百人でも足らないほどの無数の何かの存在を感じた。それは実体を帯びず、音もなく、ただそこに“いる”という認識だけを、宙に漂わせているかのようだった。

 やがて彼女の眼に、この白い洞窟の果てが見えてきた。彼女が求めた“何か”の正体が。


 女性だった。アインよりもいくつか年上に見える女性が、眠るように眼を閉じ、こちらより4mほどの高さに浮いていた。白いドレスのようなものを身にまとっている。

 実際は浮いているのではなく、そう見えるだけだった。蔦のような“何か”は、彼女の背中かどこかは知らないが、身体から生えていた。それが、彼女を宙に固定していたのだ。

 彼女の肌も、髪も、着ているドレスさえもが、“何か”と同じように淡く光っていた。どうやらあのドレスは、“何か”が薄い膜のように伸びて、それを身にまとっているようだ。

 とても奇妙で、神秘的な女性だった。人間の女性なのかも、そもそも生物なのかも分からない。ただ、常人の理解が及ぼない超常的な作用によって生まれた物質が、人の形を成しているだけなのかもしれない。

 しばらく彼女の姿を眺めていたアインは、それが何者であるのかを察した。

「《保有者ホルダー》?」

「そう、貴方と同じね」大国が応える。

「博士、あの女の人は一体……」

「……因子が発見されたのは七年前。とされている。しかし、正しくは発見されたのではない。“生み出された”のよ。七年前の“あの日”以前、世間が知る《因子》というものは、まだ存在していなかった。その前身となる存在だけが、この地球上にあったの。それは、存在の有無を判断することができないほどに、曖昧模糊なるものとして漂い続けていた。“会長”は、“それ”に気づき、“それ”こそが、人類に革命を起こしうる《因子》となると考えた。そうして、どうにかして“それ”を、実際に認識できる存在として、物質世界に昇華させようとした。そのアプローチの方法として唯一可能性を持っていたのが、人の肉体を触媒とし、引き寄せることだった。後々《因子》と呼ばれるようになる“それ”を、人体とひとつにすることで、実在する“事象”として確率させようとしたの」

「……」

 大国の言葉は、アインが期待していた解答からは遠く離れたものに聞こえたが、それでも彼女はじっとそれに耳をすませていた。大国の話がやがて、望む答えへと繋がると分かったからだ。

「しかし、これは危険を孕むアプローチだった。“それ”が人体に宿ることで、どのような影響が出るのかが分からない。細胞が破壊されることだって想定できるし、散々実験体を苦しませた挙句、結局“それ”が具象化しないかもしれない。すでに、人間以外の生物や、無生物を触媒とする実験は繰り返されてきたが、まったく効果がなかった。『人間ならば』という仮定ですら、単なる筋違いな妄想の類なのかもしれなかった……そんな中で、一人の女性が、実験体になることを申し出た」

「それが……」

 最後まで言わないアインの声に、大国はただ頷くだけだった。

 一呼吸置いてから、続きを語る。

桜井サクライ 華織カオリ……当時“会長”の助手を務めていた。彼女は、《因子》による人間社会の繁栄と、人々の幸福を信じていた。一秒でも早く、それをこの世に具現させようと願っていた。研究の当事者である“会長”よりも強くね。世界を豊かにする《因子》の原材料とも言うべきものが、一人の人間を苦しめるわけがない。そう言って、自ら望んで触媒となった。自分の言葉が真実であるという確証があるわけがない。それが分かっていながらも、未来の為に、犠牲となることも厭わなかったのね。その結果が……これよ」

「……」

 アインは、片時も眼を離さなかった彼女――桜井 華織の姿を、より強く見つめた。

「人間としては最悪の結果が訪れた。彼女の身体に宿った《因子》が瞬時に全身の細胞を変質させ、彼女は苦しみながら“人間とは別の物質”へと変わり果てた。その代償として、彼女の願いは実を結んだ。実験を見守っていた他の研究員にも、《因子》が宿ったのよ。そこには私も、伊集院博士もいた。彼女に宿った《因子》が、不可視不定形だった“それ”らを、《因子》として具象化させるトリガーとなったのよ。この実験を境に、《保有者》が爆発的にその数を増やしていった……言い方を変える……彼女こそが、《因子》を生み出す“母”となったのよ。この無数の白い触肢が、《因子》足りうるものを引き寄せているのか、あるいは自ら生み出しているのか……そこまでは分からないけど」

 “母”。

 その響きが、アインの胸に、見えないしこりのようなものとなって残った。本当の母というものがいない自分の心の琴線を、その言葉が震わせたのだろうか。

 あるいは、無数の触肢を、自らを尊敬する者達が差し伸べる手のように集める彼女の姿に、いるはずのない母を重ねたのか……

 大国はさらに続ける。

「彼女がいなければ今の私はいないし、貴方だっていない。今思考している貴方が、もしかしたら別の誰かになっているかもしれなかった」

「私がいるのは、あの人のおかげ……ってことですか?」

「その答えは、貴方がこれから育む感性に任せる……私が貴方をここに呼んだのは、彼女のことを知って欲しかったから。そして、これは命令でもなければ、希望でもない。私の言うとおりにしてもしなくても、それは貴方の自由……その上で言うわ。貴方はこれから、どうか彼女のことを想いながら生きて欲しい。彼女の魂が、これからの人類の営みを、見守ってくれているということを」

「私達を……」


 アインは無意識の内に、両手の平を胸の前で合わせていた。それは、“合掌”というものに似ていた。

 生命と引き換えに《因子》という革命を世界に起こした者の、冥福を祈っているのか。

 だがその眼に宿る感情は、そのようま単純なものではなかった。普通の人間と変わらない暗褐色の瞳の奥に蠢く、得体の知れない何か。それに宿るものが、アインを見つめる大国には分からなかった。彼女が、祈るような仕草の裏にある無意識に、何を抱いているのか……



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ