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Session.1 Beginning Part.3



 その声は、炎の槍と比喩するには、いささか頼りないものだった。

 あやめがはっと視線を戻すと、あの御剣 誠一がいつの間にか《保有者(ホルダー)》の真後ろに立って、その肩をポンポンと叩いていた。


「先輩、ちょ~っといいですかねぇ? いっひひっ」

 ホームルームの時と変わらないへらへらした顔で、もう一度呼びかける。

 『先輩』と呼ばれた《保有者》は、ぎょっとした顔で後ろに振り返り、咄嗟に身構えた。


「なんだお前」

 と低い声で唸る男に、御剣は応える。

「あ~、いやっ。俺のことはいいじゃないですかぁ~、ははっ。それよりもそのぉ……そこの彼なんですがね?」

 言いながら、チラリと地面に座っている男子生徒を見る。

「別に悪気があったわけでもないし、さっきは突然のことで気が動転して、あんな口のきき方をしたんだと思うんですよ。今はあんなに怖がってるし、それにちゃんと謝ったんですから、上級生として、寛容な心で許してあげてはくれませんかねぇ~、へっへへ」


 《保有者》の顔が、みるみる険しくなってきた。御剣の方を睨みつける。

「何が言いたんだお前、もっと分かりやすく言えよオイ」


 その恫喝に困ったような顔になりながらも(口元はまだ緩みきっているが)、御剣は改めて言った。

「先輩は喧嘩がしたいんですね? 誰かを殴りたいわけだ。そんじゃあさ……そこの彼の代わりに俺を殴って、それで勘弁してくれませんかね? 殴るだけで飽き足らないなら……いやいや、これ以上は言わないでおこっ」




 その場が静まり返った。

 《保有者》は、一転して無表情になった。理解し難い事態に直面したあまり、一瞬だけ感情がなくなってしまったのだろうか。

 だとしても、それもほんの一瞬の話だ。すぐにその顔には表情が戻ってきた。

 眼輪筋がピクピクと痙攣し、口元が引きつり小刻みに震える。その表情は、いびつながらも笑っているように見えた。だが、明らかに本心では笑っていないことが、傍から見ているあやめには分かった。

 男は、意識しなければ聞こえないほど小さな声で呟いた。

「あぁ~、なるほどぉそういうことねェ……ふざけんじゃねぇ偽善かクソボケがぁ……!」


 そのままゆっくりと、右の拳を上げる。

 騒動を眺めていたギャラリー達が、わざわざ身代わりになった新入生の無謀に呆れながらも、各々顔を背けたり、面白半分で眼を凝らしたりした。


 《保有者》が、握りしめた拳を口元と同じように震わせながら、振り絞るような声を発した。

「だったらお望み通りに……し・て・や・る・よ、オラァッ!!」


 鋭い右フックが突き出された。

 後はそれが御剣の頬にめり込み鈍い音を響かせて、彼の身体を地面に叩きつけるだけだ。


 しかし、そうなるはずだった拳は、ただ何もない空を通り抜けて、かすかに風を切る音を鳴らすだけだった。何に命中することもなかった

 それは何故か。


 簡単な話だ。

 御剣が“コケた”のだ。


 何につまずいたのかはしらないが、彼は「あろぉっ!?」という素っ頓狂な声をあげて、大きく後ろへと仰け反っていた。

 そのことで、幸運にも《保有者》の右フックが命中せずに済んだ、ということだろう。


 そのまま御剣は受け身を取る暇もなく地面に倒れ、強かに後頭部を打った。


「痛っ! いってぇーっ! あぁ~、なんかちっちゃい石当たった! おぉぉ~~……!」

 うめき声をあげ頭を抱え、足をジタバタしながら転がりまわる。


 場の空気が再び固まった。

 数秒ほど間を置いて、《保有者》が引き連れていた三人が、揃って腹を抱えて大笑いした。


「ハッハハハハハハハハ!」

「なんで何もない場所でコケんだよ!」

「夏目さんに殴られる前にぶっ倒れてどうすんだバァーカ!」


 あまりにも大きな笑い声だったものだから、ギャラリーの視線がそちらに集まった。


 だが、あやめだけは違った。彼女だけは、“夏目”という姓で呼ばれた《保有者》から、眼が離せなかった。


 取り巻きの三人があれだけ大笑いしているのに、彼だけが、先ほど以上に険しい表情を浮かべながら、呻く御剣を見下ろしていたからだ。

眉間にシワが寄り、歯を砕けんばかりに食いしばっていた。瞳孔は収縮し、その顔つきは一瞬人間に見えないほどだった。人が空想を頼りに――あるいは記憶を頼りに?――作り上げた、鬼の絵画や彫刻のようだった。


 一体何故こんな顔をしているのか、あやめには想像することもできなかった。

 が、一秒間を置いてその表情は消え去った。夏目がきつく眼を閉じると、顔の筋肉の緊張はすぐに引いた。

 やがて閉じた眼を薄く開いた彼は、取り巻き共の笑い声に応えるように、腹の奥底の泥土からガスのように滲み出てきた笑声を、口元から数回漏らした。

「フ、フ、フへッ……フフ、フフフ」


 次に彼は、取り巻き共の方へ向いて、大声で呼びかけた。

「おいお前ら、もういい。戻るぞ」

「え、いいんスか」

「このクソ間抜けな格好見たら満足した、もういいんだよ」

 そのまま彼らは、何事もなかったようにこの場を去り、自分達の校舎である特別棟の方へと歩いていった。




 好き放題不条理を振りまいていった彼らの姿が消えると、この場に集まっていたギャラリー達も少しずつ散り散りになっていった。年に数度あるかないかの災厄に巻き込まれなかった自分の身に安堵しつつ、全てを忘れて日常へと戻ろうというのだろう。

 もっとも、下手に“眼をつけられた者”にとっては、年に数度では済まないことだが……


 御剣が身代わりになったあの男子生徒でさえ、気がついたらどこかへと消えていた。感謝の言葉も述べずにだ。

 そんな中で、あやめは、一歩も動けずにその場に立ち尽くしていた。


 多少は後頭部を強打した痛みも引いてきたようだが、それでもまだ完全になくなっていないらしい。御剣は地面に座り込みながら、頭を抱え込んでいた。


 気がついた時には、あやめはそんな彼の傍にしゃがみ込んでいた。

 何故そんなことをしたのか自分でも分からない。他の者達と同じようにこの場を去ればいいはずなのに。どうしてこんな男に関わろうとしてしまったのか。

 ただ、《保有者》よりかは害がなさそうだと思ったのかもしれない。それに、痛がっている彼を放っておくのも、少し可哀想な気がしたのだ。そういう余計な気遣いが自然とできてしまうのが、彼女が当たり前の人間とは少しだけ違うところだった。


「ね、ねぇ。大丈夫? あなた、同じクラスの御剣くんでしょ」


 そう呼びかける声を聞いた御剣は、呆気に取られたように顔をあげ、あやめの顔をぽかーんと見つめた。

 そうして、あっと声をあげる。

「お前、入須川か!」


 それからまた、先程のように身体をくねくねと悶絶させた。今度は、痛みとは別のもので悶えているのだろう。

「あぁ~! また恥ずかしいとこ見せちまった! 穴があったら掘りたい♂」

「掘りたい!?」

「間違えた。穴があったら挿れたい♂」

「挿れたい!? 入りたいの間違いでしょ」

「その通り。なかなか突っ込みがキレてるじゃねぇの」

「……」


 こちらが心配して声をかけたというのに、相変わらずふざけた態度を取る御剣の姿に、やっぱりこのままどこかに行こうかと考えてしまうあやめだが、そこをぐっとこらえる。

「大丈夫、って聞いてるの。頭打ったんでしょ?」

「え? あぁ、あれ嘘だよ。う・そぉ~」

「へ?」

「ああやって大げさに痛がっとけば、勘弁して見逃してくれるかなぁ~、なんて……ぃっひひ」

「……ってことは実際のところは……」

「ぜぇんぜん痛くないよ。あ、いや、そりゃちょっとは痛いけどね。んひひ」

「……」


 あやめは、拍子抜けしたような気分になった。あまりに激しくもんどりうっていたものだから、打ちどころが悪かったのかと心配してしまったが、実はただの演技だったという。

 こういうところだけは、無駄に抜け目ない性格ということか……いや、そうでもない。

 《保有者》達が見逃してくれたからいいものの、普通ならあのままボコボコにされてもおかしくなかったと考えると、やはり、ただとびきりに間抜けなだけか。


 それはそれでよしとしよう。心配して損した、と脱力しつつ、あやめにはもうひとつ、御剣に聞きたいことがあった。

「ねぇ、どうしてわざわざ他の生徒の身代わりになろうとしたの?」

「ん?」

「あんなことしたって、自分が不幸になるだけよ。もしあのまま傷めつけられて、目ぇつけられてたら、どうなってたか分かんないんだよ? さっきの人達って、ただの生徒じゃないの、《保有者》なのよ。《保有者》が本気になったらどうなるか、分からないわけじゃないでしょ?」

「そりゃ、分かるよ。分かるけどねぇ……そん時はそん時さ」

「そん時って……ねぇ、あの男子を助けたかったの? そんなの、さっき《保有者》の人が呟いてたのが聞こえたけど、ただの偽善よ。意味ないって……他人の不幸には、関わらなくていいじゃない。それで当たり前なのよ。私だってそうする、みんなそうするよ……」


 あやめは綺麗事などかなぐり捨てて、正直に言った。しかしながら、彼女の言葉を非難することは誰にもできないだろう。皆、彼女と同じ事を考えていたのだから。余計なことをして自分を不幸に追い詰めたくない。

 自分のためなら多少の努力はできる、痛い目にも会える。あるいは親しい友人や家族のためなら。

 だが、わざわざ名前すら知らないような赤の他人のために苦痛を被ることなど、できない。


 だが、御剣はこう応えた。彼の考えは、あやめ達普通の人間とはどこか違っていた。

「別にぃ、見ず知らずの少年Aくんなんて助けたくなかったさ。勘違いしてもらっちゃ困るね。ただね、俺はムカついたんだよ。あの《保有者》に」

「む……むかついた?」

「そうだよ。ああいう傲慢な奴に当然みたいにデカイ顔されて、黙ってられなかったんだ。気がついたら身体が動いてた。けど、あれだけの人数と喧嘩して勝てるわけないから、大人しく殴られとくことにしたんだ。四対一、その上相手は《保有者》だぜ? ジャン=クロード・ヴァンダムだって勝てねぇよ……あぁ~あ。こんなことになんなら、あんたの言うとおり大人しくしといた方がよかったなァ~ン。いひひ」

「馬、鹿……じゃないの?」

 あやめは、吐き捨てるような声で率直な感想を口にした。

 もう笑えばいいのか呆れればいいのか怒ればいいのか、黙って立ち上がりどこかにいけばいいのか分からなかった。目の前にいる人間の考えていることが、まったく、なにひとつ、すっかりさっぱり想像できなかった。


 気がついた時には彼女は御剣に対して、自分自身にとっても不可解な台詞を口走っていた。

 掴みどころのない彼の態度に、不思議を通り越して苛々してきたのだろうか。

「なによそれ。どうかしてるんじゃないの? あっ。もしかしてあなた、さっきわざと転んだんじゃない? あの《保有者》のパンチかわすために。いや、そんなもんじゃないわ、ホントはあいつらと喧嘩になったって、返り討ちにできたんじゃないの?」


 言い終えてからあやめは、自分は何を言ってるんだろう、と思った。だが、そんな疑問は次の瞬間には頭の中から忘却された。

 彼女は、背筋が凍りつく感覚というものを、生まれてきてから始めて体感することとなった。




「……へぇぇぇ~~」


 突然御剣が、薄ら笑いを浮かべた。その笑みは、あまりに不気味だった。

 細められた眼には深い影が落ち、口元は三日月のように鋭く引きつって、三白眼になった眼はまるで“気がふれた”かのような雰囲気を醸し出していた。

 またしても、彼は先ほどまでと別の人間に変貌していた。《保有者》が騒動を起こす直前に現れた、あの人間――なのかどうかも分からない何かと、同じ顔をしていた。


「……っ!」

 息を呑むあやめに、御剣……と思われる何かが、その顔と同じく不気味な声で言った。


「なるほどねぇ……それじゃあさ入須川」

「っ?」

「もしそれが本当だとしたら、あんた、俺にどうして欲しい? 俺に、あんなクズ共みんなやっちまうぐらいの力があったらさぁ」

「ど、どうしてって……」

「なんでも望みどおりにしてやるよ。『あんな小悪党なんか、やっつけて懲らしめて欲しい』って言えば、俺ぁ今すぐにでもあの特別棟に乗り込んであいつらの歯ぁ全部引っこ抜いて、どっかの壁に縫いつけてやる。なんなら、その後代わりに手頃な大きさのネジを歯茎に一本一本丁寧に植えこんでやるぜ? 麻酔なしで。それをあんたがお望みなら……ねぇ」

「……」


「ヒ……ヒ……ヒ……ヒ……ッ!」


 あやめは、先程よりも激しく、指先が震えるのを感じた。

「じょ……冗談でしょ?」




 現れるのが突然なら、消えるのも突然だった。

 あやめの目の前には、前触れもなく“あの”御剣の緩みきった顔が戻っていた。


「その通ぉ~り! じょおだんだよぉ~っ! ひっひひ」

 彼は愉快そうな顔で笑いながら、大声で応えた。


「……」

 つくづく、まったくもって、とことんまでにわけの分からない奴だ。

 あやめは、彼の顔面を一発ぶん殴ってやりたい気持ちをなんとか堪えて、胃液まで蒸発させて吐き捨てるような大きなため息を吐いた。


 それに続いて、御剣がおもむろに立ち上がる。

「ふぅーっ。ま、もう過ぎたことだし、忘れようぜ、入須川よ」

「そりゃあ、忘れるけど……」

 あやめも彼に続いて立ち上がりながら、応えた。

 そうして御剣が、その飄々とした性格を表すような笑みを彼女の方に向けた。

「それより、もうそろそろお昼の時間だろ。確か、“学園”の敷地ン外にファミレスがあったなぁ。 今から一緒に食いに行こうぜぇ」

「いや、お断りします。なんでそういう話になんの?」

「……」




    ※




 《Bランク保有者》、夏目(ナツメ) 貴靖(タカヤス)は、特別棟へと向かって進んでいた歩を、不意に止めた。

 彼の後ろにひよこみたいについてきていた取り巻きの三人も、釣られて足を止めた。

 そうして、その内のひとりが「どうしたんですか」と聞く。

 彼らの方に振り返る夏目。


「おい。あのクソ生意気な一年の、名前とクラス調べろ。で、明日の放課後、屋上に呼び出しとけ……一般棟でいい」


 その言葉に、取り巻き達はしばらく黙り込んでいたが、やがて意地汚い笑みを浮かべた。

「へへ。やっぱりボコり足んなかったっスか?」

「まぁ、そういうとこだ。任せたからな」

 そう言い捨てつつ、夏目はくるりと踵を返して、再び歩を進め始めた。


 彼の頭の中には、もやのように立ち込めるある疑念があった。

 いかに高慢であろうと、彼も《因子(ファクト)》をその身に宿すものだ。あの一年――御剣が、あの時わざと倒れてこちらの拳をかわしたことぐらい分かっていた。


 それだけではない。夏目は、あるひとつの仮定を抱いていた。

 確証はない。しかし、否定し切ることもできなかった。


 彼は、誰にも聞こえない程度の声で、呟いた。


「あいつは、もしかしたら……」

 その声が、どこに響くともなく吐き出された傍から宙に溶けて消えていったのを確かめて、彼は不意に、口元をきつく歪めた。


 次にその口から漏れ出た声は、先程までの彼の声とは、何かが確実に違っていた。

 先程までいた夏目 貴靖が何者かに殺され、その何者かが、彼にすり変わったと言ってもいいほどだった。

「グッ、クッ、クッ……どうだろうと構わねぇ、よくも俺をコケにしやがって。思い知らせてやる。野郎、思い知らせてやる。思い知らせてやる……思いィィ、知らせてやる……」



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