Session.9 Straight Shooter Part.5
他の《保有者》と同じく、校門をくぐり特別棟に入ろうとしていた佐原は、不意に何者かに呼び止められた。声を聞くだけで分かる。月詠だ。
「副会長ー!」
朝の挨拶という調子ではない。焦燥がこもった声だった。こちらに駆け寄ってくる彼女の方へ振り向く佐原。その隣には世良の姿も見える。
「どうした?」
「あの……あの御剣 誠一が、また何かやらかしているんです! 今、一般棟の屋上で、F組の柳沢 興君と殴りあってるんです。いや、殴りあってる、のかはよく見えないんで分からないんですが、御剣が蹴られて血を吐きました。かなり激しい喧嘩をしてるみたいです」
「なぁにぃ~?」
『なんでそれが分かる』と聞くのは野暮を通り越して記憶障害の疑いだ。月詠の因子は、思い通りの場所に、監視カメラのごとく“眼”を生み出す。それで御剣と柳沢の決闘の一部始終を目の当たりにしたのだ。とはいえ、“眼”には高速で動く物体を追尾するような能力はない。一般生徒用の校門をくぐった御剣が、突如現れた柳沢もろとも消えたのには面食らったが、なんとかすぐに屋上で補足し直すことができた。しかし、視界に映った光景に、さらに面食らうことになった、といったところだ。
世良が続いて言う。
「すぐに向かいましょう。月詠の話では、御剣がかなり傷めつけられているようです」
「ざまぁ見……じゃなくて、問題児の御剣の方が柳沢君を挑発したのか、そうじゃないのかというのは後で考えるとして、このまま喧嘩が続けば、ただでは済まなくなるかもしれません。行きましょう!」
「うむ。分かった」
事情は飲み込めた。軽口ひとつ叩く前に、まずは行動した方が良さそうだ。すでに世良が、ワープホールを開いている。ここをくぐれば、一般棟の屋上へはすぐだ。
※
「ハァッ!」
つくづく拳法家のような喝破と共に、柳沢が右拳を繰り出した。弾丸よりも早い、物体を伝わる音――空気を伝わる音ではない。物体を伝わる場合は音は10倍以上早くなる――よりなお早い突きだ。
が、それを御剣は、僅かに頭を逸らすことで難なく回避した。次の瞬間には、彼の裏拳が柳沢の鼻先を捉えていた。
「うぶ……ッ!」
見切れなかったというわけではないが、あまりに自然な所作……食事中に醤油の瓶でも取るような何気ない所作だったものだから、反応が間に合わなかった。
「フン!」
反撃に、左アッパーを放つ。背後は壁だ、身を引いてかわすこともできない。が、御剣は、裏拳を放った右手で、そのまま顎へと激突しようとしていた拳を容易く受け止めた。カウンターに放った左フックが柳沢の頬を打ち、彼の頭がガクリと揺れる。
「グブッ!」
口が切れ、数滴の血しぶきを、唾に混じって吐き出す。が、うろたえることなく、次々と突きの連打を放った。が、その尽くを御剣は紙一重のところでかわす。彼の顔をすり抜けた拳が、コンクリートの壁に当たる。一発で屋上の出入り口など吹き飛ぶほどのパンチであるが、もし本当にそんなことをしたとして、修理するのは誰だ。弁償は?
こういう時に、物理を歪める《因子》の力は便利だ。
数発目に放った突きが、御剣の頬を捉えた。速さを追求したジャブのようなものだったから、直撃はしたが浅い。が、めり込んだ拳が彼の動きを完全に止めた。
――当たった、喰らえ!――
すかさず、強烈な右ストレートで追い討ちをかける。すでに何度もダメージを受けている鼻頭を、この一撃で完全に砕いてやる。《Aランク》の生命力と治癒力なら、比喩表現でなしに骨が粉になったとしても、紆余曲折あって完治するだろう。もっとも、脳ごと潰れれば話は別だが……
御剣の動きを封じていた左拳と入れ替わるように、右拳が正面から顔面にぶち当たる。手応えありだ。ボクシングのグローブをつけているわけでもないのに、空気が弾けるようなあの独特の音が響いた。
だが、肝心の感触がない。骨が砕け、頬骨まで陥没させながら進んだ拳が脳を圧し潰す感覚だ。俄然御剣は、拳の向こうで鋭い眼光をぎらつかせて、柳沢を見据えていた。
「何っ?」
思わず声をあげる柳沢。御剣は、鼻にめり込む拳にも構わず、強引に前に進もうとした。真っ直ぐに伸びていた柳沢の腕が、ゆっくりと折れ曲がっていく。力を弱めたつもりはない。だが、どうしても押し返すことができない。
「こいつ……」
眼を見開き驚愕した彼の左頬に、再度御剣のフックが直撃した。今度は先の左フックよりも強烈だ。先ほど頭突きでシェイクされかけた脳みそが、再び揺さぶられる。
「ブガ……ッ」
意識が“ト”びそうになる。白目を剥き力なくふらつく彼に、御剣は追撃を加えた。
「ッヘッヘヘ……オラァァーーーッ!!」
無防備な下顎に、右アッパーを叩きこむ。一瞬だけ、柳沢のつま先が床から浮いた。
衝撃と共に白濁した意識を蘇らせても、身体の方はまだ麻痺したままだった。さらによろめき、反撃することも、ガードすることさえできない。
「ぬうぅぅぅッ!!」
さらに、左拳が右瞼の辺りを打ち据える。
「ふぬッ!」
もう一度左をぶち込む。今度はこめかみよりやや前の辺りから痛みが広がった。
為す術もない。柳沢は、拳が命中する度に大きく揺れる視界を御剣の方へ向け直しながら、ただ「やる……!」と呻くことしかできなかった。
「どォーだオラアアァーーッ!!」
トドメのアッパーカットが再び顎を打ち、柳沢は勢い良く95°ほど回転して地面に叩きつけられた。
侮っていたというわけではない。御剣がそんじょそこらの雑魚ではないことは分かっている。だが、すでに内臓にかなりのダメージを負っているはずだ。《Aランク》は身体が丈夫だとはいっても、“壊れにくい”というだけで、壊れれば動かなくなるのは普通の人間と変わらないのだ。ここにきて、弱るどころかますます力を上げてくるなど、さすがに予想できなかった。
柳沢どころか、御剣と長らく共にいるロニーですら、彼の底力に驚いていたのだから。
「ほお~すごい! なるほど元気いっぱいだねぇ~」
人間の身体とは脆くできている。だが、柳沢はその当たり前の事実をこれまで知る機会がなかった。
視界がぼやける。鐘の音のような奇怪な耳鳴りがしている。頭の血管が破裂しそうなまでに脈打っているのをはっきりと感じる。身体が眠気に耐えているように、だるくて動かない。
こんな感覚は生まれて始めてだった。これが……これが“痛い”ということなのか?
「……」
立ち上がろうとする以上に、この初めての感覚に混乱していた柳沢。が、御剣は彼に容赦しない。第三者にやり過ぎと誹られようと、行動を止めるつもりはなかった。そもそも、この場で唯一の第三者であるロニーは“こちら”側なのだ。
「立て……どうした立てってよぉ」
倒れた柳沢の襟首を掴んで、無理やり引き起こした彼の身体を引きずりながら、転落防止の鉄柵の傍にまで近寄った。
「寝てんだったら、こいつで起こしてやる……よ!!」
気絶寸前の彼を、鉄柵に向かって投げつける。後頭部がちょうど、手すりの部分に激突した。太い杭を撃ち込まれたような激痛が襲う。
「ウルァッ!!」
そのまま柵にもたれかかるように座り込んだ柳沢の顔面に、さらに踏みつけるように蹴りを加える。御剣の靴底と鉄格子による板挟みだ。卵の殻が割れた音を、とびきり大きくしたような何が、体内で響く。頭蓋骨にヒビが入ったのだろう。
痛みの次は、ジェットコースターのごとく一気に死の予感がやってきた。こんな攻撃を何度も喰らえば、さすがに死ぬ。殺される。
殺される。そんなことを考えたことなど一度もなかった。むしろ柳沢はどちらかと言えば、これまでずっと殺す側の人間だったのだ。だが、今始めて、死へと近づく実感と、殺されることの脅威を知った。
だが、この瞬間彼の心の奥から起こった感情は、恐怖の類では決してなかった。
何故だか、とても楽しかった。泣きたくなるほどの痛みのオンパレードだというのに、この状況が楽しくて仕方がなかった。
彼は、何故瀕死と言ってもいい御剣が、ここまで動けるのかを理解した。そして、柳沢の身体にも、御剣の細胞を躍動させる、その“何か”が生まれた。
二発目の蹴りが命中しようという瞬間。柳沢は、自分でも信じられないほどの速さで身を翻し蹴りを回避しつつ、立ち上がった。すかさず御剣の背後に回りこみ、抱え込むように腹へと手を回す。
「ふぐ……ぬッ!!」
そのまま背を反り返しながら、御剣を背中から地面に叩きつける。ジャーマンスープレックスだ。御剣を投げ捨てると、逸らした背を元に戻して再度立ち上がりつつ、くるりと踵を返して彼の方を向く。
「野郎ォ!」
瞬時に御剣も、大きく後方に転がり膝をついてから立ち上がる。完全に姿勢を正すよりも早く、彼は柳沢に殴りかかっていた。柳沢もまた、それを迎え打たんと身構えている。
突き出された両者の拳が、互いに擦り切れながら交差する。凄まじい速度で皮一枚接触した拳は、皮膚を焦がし、小さな煙を起こしていた。
次はクロスカウンターだ。互いの右拳が互いの顔面を捉える。地球を覆う大気の殻が破裂し、遥か彼方――何百光年先まで届くソニックブームを発生させんばかりの盛大な音が響いた。
「ぬっく……」
「くあァ……」
二人共揃って気絶しそうになるところを何とかこらえる。大きくよろけながらも、ほぼ同時に次なる一撃を加えようと拳を引く。その拳がまさに突き出されんとした、その時だった。
突如耳朶を打った叫び声に、御剣も柳沢も、張り詰めた筋肉を、躍動する寸前のところで止めることになった。
「貴方達、なにやってるの! 即刻やめなさい!」
御剣にとっては聞き覚えのある声だった。声のした方に振り向いてみると、思った通り。あの月詠 眞子だ。生徒会副会長の佐原と世良の姿も見える。おおむね、月詠の《因子》で状況を察し、世良の《因子》でこの場に移動してきたのだろう。目的はおそらく、この決闘を止めることだ。
それが分かっていながら、御剣は早々に彼らを視界から外し、再度柳沢の方へと据え直した。向こうも同じだった。じっとこちらを見ている。互いに、これまで負ってきたダメージはそう軽いものでもない。不意の乱入で一旦動きを留めてみるとより実感できるが、頭がくらくらして、立っているのにも難儀といったところだ。それもまた、柳沢にしても同じだ。細められたその眼は、焦点を上手く合わせられていないのか、瞳孔が揺らいでいる。肩も大きく上下している。こちらと似たようなものだ。
こちらの声など聞こえていない様子の二人に、月詠は怒り心頭と言った様子だ。相変わらず彼女はどこか短気だった。
「御剣 誠一! 貴方、そんなことをすれば謹慎処分です。一般棟での授業の許可も取り消し、特別棟に強制移転させます。今すぐやめろって言ってるんですよ!」
ヒステリックに脅しをかける彼女を、佐原が制止した。
「まぁ待てってぇ」
「副会長?」
「現場に来てみて、事情がよく分かった。ここは自分に任せろ」
月詠の訝しげな視線を軽く流しつつ、彼は大声で御剣と柳沢の両方に問うた。
「お前ら! ひとつだけ聞きたい。そいつはお前らが互いに合意した上でやってることだな? 相手の事情を納得した上でのことなんだな?」
それに、数秒の沈黙を挟んで御剣が応えた。
「そうだ」
その返事を聞くと、佐原は軽く眼を閉じて頷いた。『それならよし』とでも言いたげだ。
さすがに驚いた様子の月詠が詰め寄ってくる。
「ふ、副会長、止めないんですかっ?」
もっともらしく腕を組み、それに応える佐原。
「《Aランク》には《Aランク》なりの“やり方”ってのがあるんだ。それは君らよりも自分がよく知ってる。今回に関しては異議は聞かない」
「……し、しかし暴力行為を見逃すわけには……」
ごねている月詠の声を、世良が遮った。
「会長が無介入を決めたっていうなら、俺はそれに従う。《Aランク》には我々に分からない何かがあるというのなら、それに関わるような真似はしない方が身のためなのかもしれん」
それから、次に佐原に呼びかける。
「となれば、この場で今我々にできることはほとんどない。どうします会長、一度この場から去るべきではないですか? こちらは明らかに、向こうにとっては邪魔者ですよ」
「……ふむ。確かにそうみたいだな。できれば不測の事態のために事の成り行きを見ているべきなんだが……それは月詠に任せられるしな。行くか」
「分かりました」
「そんな……いえ、分かりました」
副会長である佐原のことは尊敬しているし、そんな彼の考えであるなら、真っ向からは否定はしない。やむを得ず月詠も、彼に従うことにした。
「そういうわけだ御剣、柳沢。どういう経緯でそんなことになったのかしらんが、まあせいぜい楽しむといい。他人に迷惑かけなきゃ、お咎め無しにしといてやんよ。ただし、床やら手すりやらはもう壊すなよ。この前の喧嘩で割れたタイルだってまだ張り替えてないんだしなぁ」
そう言い残して、佐原達は世良の《因子》によってこの場から去っていった。突然現れて突然消えていく、はた迷惑な連中だ。まぁ、こちらもそれ以上にはた迷惑なわけだが。
が、この緊急の事態に対し、あえて不干渉を判断した佐原は、有難かった。彼に首筋を焼かれた仲である御剣としては、こういうところも彼の面白いところなのだと思えた。
「何だったんだい、さっきの人達」という柳沢。
「生徒会の役員達さ。空気の読める副会長さんだろ? おかげさんで、いいところで中断なんてことにならずにすんだ……ってなわけで、仕切りなおしといくかい?」
瞬きするだけの静寂を経て、再び互いの拳が、相手を叩きつけんと伸びた。今度は御剣の方がわずかに速かった。柳沢の拳が命中するよりも前に、こちらの右フックが相手の頭部を揺さぶった。が、すかさず反撃の右アッパーが顎に叩き込まれる。さらにそのお返しに放った左拳が、柳沢の頬骨の辺りに直撃する。それに応えるように、彼の左拳が瞼の辺りにめり込んだ。
両者の拳が交互に相手を打ち据える。常人の眼には、二人の周囲に嵐が吹き荒れているかのように見える超音速の打ち合いであるが、その一撃一撃には魂を小さくちぎって練りこんでいるかのような力が込められていた。殴られるたびに、切れた口腔から血が吐き出され、皮膚が裂け相手の拳に真紅の色を滲ませる。汗と共に吹き出した血が、数m先まで飛び散り、床面にへばりつく。
壮絶な殴り合いだった。顔の一部が腫れ上がり、いたることにできた裂傷から流れた血液が、いくつもの赤い線を描く。その線は、拳が肉を叩くたびに増えていく。
「ぬぅぅおおおッ!!」
何度目かの御剣の拳――身体ごと大きく上から振りぬいた一撃が、柳沢の額にめり込んだ。今度の一撃はデカい。頭蓋骨に入っていたヒビがさらに大きくなるのが分かった。が、次の瞬間には、柳沢の拳がこちらの頬骨を僅かに砕いていた。互いにクリーンヒット。度重なる打撃により疲労と痛みが困憊していた肉体が、一気に事切れてしまいそうになる。
だが、そこを堪えた。御剣も佐原もだ。倒れそうになる身体を、足を大げさなまでに広げて踏ん張る。身体が俄に重くなる。腕に山を丸々削ってできた土嚢を括りつけられたような気分だ。“暖簾”のごとく垂れ下がり、ぶらぶらと揺れる。
拳が空を切り皮膚を弾けさせる音は止み、乾いた呼吸と微風が吹き抜ける音だけが、この場を穏やかに通り抜けていた。それらの音に、呻くような柳沢の呟きが重なった。彼は、明らかに笑っていた。
「フ、フフ、クハハハ……痛い。なんて痛いんだ、こんなの始めてだよ。涙出てきそうだ。意識もはっきりしないしで、地獄に迷い込んだような気分だよ。でも……なんだか悪くない。ここにきて、さらに力が湧いてくるような気がする。僕の生命がうち震えているのが分かるぞ。まだまだ、まだまだ戦っていたい……このまま死んでしまってもいい!」
垂れ下がっていた腕がゆっくりと持ち上がる。さすがに、もう先程までの力強い緊張は、筋肉にはない。それでも、細胞の一片一片全てが、戦おうとする意志そのものを失ったりはしていなかった。
御剣も同じだ。柳沢の闘志に応えるべく、残る生命の燃料に火を灯す。
柳沢が、足を引きずるように前に出し、ゆっくりと近づいてくる。拳を握り締め、大きく振りかぶった。へばりついた御剣の血が滴り落ち、床面に染み付く。
「フンッ!」
打ち下ろすような鉄槌打ちが、御剣の頭部に叩き込まれる。腰が大きく下に下がり、膝をつきそうになる。だがその寸前で踏ん張り頭を上げ、拳を引く。
「ウルァ!!」
全体重を乗せた、タックルとパンチの中間のような一撃。それが柳沢の頬を打ち据える。
「ぬぅお!!」
返す刀で、身体ごと突き上げるような反撃の右アッパーが顎に叩き込まれる。砕けんばかりに歯食い縛りながら、御剣は柳沢の顔から視線を外さなかった。右拳が振りぬかれ顎から離れると同時に、こちらの大振りの右フックが柳沢の頬にめり込んだ。死力と意地を乗せた渾身の一撃がクリーンヒットし、相手が大きく一回転しながら後ろへよろめく。
が、脱力し、折れそうになる膝に喝を入れ、再度踏ん張る。お互いそろそろ限界が見えてきた。だが、後一撃、後一撃だけ……否、最早瀕死の肉体を動かす根性が続く限り、この狂ったような愉悦のひとときを味わいたかった。
「……ッ!!」
柳沢が、残滓となった力を振り絞り床を蹴った。苦痛に耐えているのか、怒りに昂ぶっているのか、あるいは笑っているのかも分からない彼の顔が迫ってくる。突き出された拳もまた。
血が滲む指の一本一本が強く引き締まり、こちらを倒そうという――勝利しようという気概を感じさせる。だというのなら、向こうに見える御剣の拳もまた、同じように見えていることだろう。
また、同時だった。まったく同時に放たれたふたつの拳が、互いに擦れ合い、摩擦で皮膚を焼きながら交差し、互いの顔面に命中した。
二度目のクロスカウンター。その衝撃が、八割がた気力だけで保っていた体力を、一気に持っていく。まったく同じように後ずさりし、崩れるように膝をつく二人。柳沢は上体を右後ろに逸らし、手のひらをついている。御剣は、右膝に胸を乗せるようにして前のめりになり、両腕を刃で裂かれた腹から溢れる腸のごとく床に垂らしていた。
だが、まだだ。まだ限界の一歩手前。何度となく打撃を受けた顔面は勿論、全身いたるところが痛くなっているが、後一度だけ立ち上がれる。本当に立てなくなるまで、腕一本動かせなくなるまで、正真正銘“最後の一撃”とは呼べない。
それは、柳沢にとっては、《保有者》として生まれた自分のことを不幸だったと思う弱さに決別を果たすためのケジメであり、この葦原学園で新たな人生を始めるための通過儀礼であった。
御剣にとっては、そんな柳沢に対する礼儀と、最早否定することもできない好意の証明であった。
荒い呼吸と共に全身の筋肉を痙攣させながら、ゆっくりと、吹き出した血が黒く固まるかのようにゆっくりと、二人は立ち上がった。立ち上がったというよりかは、何かに身体を釣り上げられたかのようだ。背中は猫のように丸まり、膝の震えは止まらない。だが、握りしめられた拳だけは、まったくその力を弱めてはいなかった。
「感謝……今はただそれだけだ。御剣……」
柳沢が、小さく呟いた。
それから、呼吸ひとつほどの間を挟んだ後のことだ。
突然、屋上の入り口のドアが開き、その向こうからひとつの人影が飛び出してきた。その影は、対峙する二人の前に踊り出ると、眼を開き息を呑んだ。
あやめだ。
御剣が彼女の方へ向き、腫れ上がった瞼の奥で揺らめく瞳にその姿を通した。柳沢の方は最早見向きもしない。決着が近づきつつある今、新たな部外者に意識を向ける余裕もないのだろう。
あやめは、何故今、自分の眼前にこんな光景が広がっているのか理解できない、と言った表情をしていた。この二人は一体何をしているのだ。何故御剣と――何という名前だったか――誰かさんは、腫れがあった顔を血まみれにしているのか。またしても、分からないことだらけ、疑問の袋小路だ。
だが、それでも彼女は、唖然とした顔に少しずつ落ち着きを取り戻すと、徐に口を開いた。
その声は、初めは自分の言葉を確かめるような、弱くたどたどしいものだった。
「……じ、自分でも、なんでこんなこと言うのか、よく……分かんないけど……」
それはやがて、叫ぶような大きな声へと転じた。それは紛れもなく、御剣に対する激励の声だった。
「いけぇー! 御剣くん!!」
なんでこんなことを言ったのか、やはり分からない。分からないことだらけの、抜ける手立てもない袋小路だ。それでも、分からないなりに自分のこの言葉にも、何か意味があるのかもしれないと信じた。
なんというか、普通じゃない。こんなことはおかしいと、自分でも思う。だが、御剣 誠一に対しては、いっそ普通じゃない方が、正しい気がした。だから彼女は、自分の胸の内より沸き起こった狂気のような衝動に、疑問を抱くことをやめた。
少なくともこの声が、御剣の身体に新たな力を呼び起こしているのは、確かなようなのだから。
「……ッ!!」
細められた御剣の両目。その中心にある暗褐色の瞳に、真っ赤な炎が見えた……ような気がした。
彼と柳沢、両者の身体が、最後の躍動を見せる。だが、御剣の方が明らかに早い。彼の中に沸き起こった新たな生命のエネルギーが、柳沢の死力を凌駕した。
柳沢の拳を引く動きより、御剣が上体を後ろに逸らす動きの方が早い。
「く……っ」
柳沢が思わず呻いた。それは、悔恨のためのものでも、逃れようのない未来に対する抵抗でもなかった。観念――あるいは、納得という言葉に近い。
負けだ。そう、悟ったのだ。
強烈な頭突きが、彼の額を打つ。大量のC4爆弾の爆発音をスローモーションで再生したかのような轟音が、満点の青空に向かって響いた。衝撃波が生んだソニックブームが、突風となってこの場を吹き抜けていく。
数秒の静止……写真に写したような静止の後に、互いの額が離れた。
虚ろな眼で御剣の顔を見つめていた柳沢の口から、微かな笑声が漏れ出る。
「は……は……は……」
乾いた声が数度空気を揺らした後、彼は、ゆっくりと受け身も取らないまま、後方に倒れ込んだ。御剣を見据えていた視線が大きくスライドし、青空に上書きされる。もう立ち上がることはできなかった。膝を曲げる気力すら、湧いてこない。
こちらの負けだった。
「……」
魂ごと入れ替えるような深呼吸を数度やってから、御剣が、柳沢の方へと歩み寄っていく。
「……なかなか面白かったぜ。柳沢」
「……こっちもだ」
柳沢がそう応えた瞬間、御剣もまた、これまで身体を支えていた見えない糸の断裂と共に、ガクリと両膝をつき、柳沢の隣へと臥せった。
眠るように倒れた二人の《保有者》を、あやめはただ眺めていることしかできなかった。周囲を見回してみると、散乱した血液が至ることに痕を残している。喧嘩をしていたということは察しがついたが、かなり壮絶なものだったのだろう。だが、それほどの殴り合いを終えた二人の顔は、とても満ち足りたものに見えた。あやめには、それが不思議で仕方がなかった。だが同時に、ぼんやりと曖昧に、その理由を理解できるような気がしなくもなかった。
やや遅れて、立花達が屋上へ上がってきた。あやめに次いで、喧嘩を終えた二人の姿を眼にした立花が、素っ頓狂な声をあげる。
「なぁにこれ~?」




