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Session.8 Massacre particles Part.5



 腹部から広がる激痛は、痛みというより“熱さ”と形容してもよかった。引き裂かれた胃から溢れ出てきた胃酸が肉を焼いているのだろうか。立つことすらままならなくなった偽前川は、その場で両膝をつきながら、鮮血を吹き出している己の腹を押さえてうずくまった。

「うッ! うぅ……ううぅぅぅッ」

 が、そんな彼に対して、死神の刃はまったく容赦というものをしなかった。阿頼耶の手元から消えた大鎌は、原子大に分裂した後、口腔から胃の中に侵入し、そこで刃だけ実体化させていた。その妖艶に輝く銀の刃先が、ゆっくりと胸の方へ向かって上がり始めていた。胃袋をさらに切り裂き、偽前川の腹の上に、長い一条の血の線を描こうと。

「ブグッ! ゲッホ……!」

 食道から喉元にこみ上げてきた血が、咳と共に吐き出される。その量はかなりのものだ。消化器のほんの一部に傷がついただけでも、人間は吐血することもある。ましてや偽前川は、胃を麻酔無しで切開されているも同然だった。骨格筋はおろか、全身の内臓平滑筋が、突然の事態のために痙攣を来していた。胃液と血液が混ざった液体が、逆流したのだ。

「うおぁぁ……や、やめろォクソォォ!」

 反射的に、上へと進もうとする刃を両手で掴むように押さえつける。が、彼は最早、錯乱と苦痛のために、まともな判断力すら欠如しているようだった。上向きの刃を上から押さえつければどうなるのかさえ、分かっていないのだから。

 両手の親指が、付け根から削げ落ちた。音もなく、柔らかいゼリーの塊が切られたかのように滑らかに切断され、一秒弱ほど宙をきりもみした後、ポトリと地面に落ちた。

「あぁ!? ぎえああぁぁーーッ!!」

 思わず刃から手を離し、この世の終わりと言うような表情で、親指が繋がっていたはずの場所から小刻みに噴水のように噴き出してくる鮮血を眺めながら、《因子人ファクトリアン》は悲鳴をあげた。両手が離れたことで、止めようとするもののなくなった大鎌は、なおも動き続ける。とうとう、胃袋を上まで引き裂き、胸にまで到達した。胸骨に食い込み、その奥にある心臓に、冷たい切っ先が達しようとする。

「ううぅぅぅ……ッ!!」

 死にたくない。

 その一心で、偽前川は手のひらで挟みこむようにして、再度刃を押さえた。指一本なくなってもまだ、《因子人》としての力がある。腕に力を入れようとする度に腹の痛みが強くなり、ロクに踏ん張ることもできないが、それでも、《Aランク》に遠く及ばない貧弱な人間ごときの攻撃を食い止めるだけの力はあった。

 が、しかし。彼女の《因子ファクト》の前に、力による抵抗などというものは、完全に無意味だった。どれほど強大な力を振るおうと、原子を叩くことも押さえこむことも、できるわけがない。

 大鎌がまたしても分解され、両手の間をすり抜けた。そのまま黒煙の塊となって、偽前川の身体から離れていく。その向かう先は、持ち主である阿頼耶の下だ。

 無数の粒子の集まりであるのだから当然不定形ながらも、あえて形容するなら球型に近かった漆黒の蒸気が、その形を棒のように引き伸ばしていく。やがて、彼女の手の中へと収まり、また鎌の姿へと戻った。

 その過程を、痛みのために身動きも取れずただ震えながら、偽前川は眺めていた。逃げることも、抗うこともできない。振り下ろされた刃が胸元へと迫るのを、恐怖と絶望に満たされた心で、眺めていることしかできない。

 深々と心臓にまで突き刺さった刃が、そのまま強引に胸骨と肉を抉り取った。

「カ……バ……ッ!」

 心臓の拍動によって全身へと巡るはずの血液が、全て胸から噴き出してくる。数m先まで届くほどの勢いの飛沫が、阿頼耶の黒衣へとかかった。だが、赤が黒に上塗りされることはない。血が染み込んだとしても、そのボロボロの黒衣は、変わらぬ漆黒を絶対的な無の象徴のごとく保っていた。

 脳への血流が途絶え、意識が一瞬で喪失する。偽前川は白目を剥き、口を半開きにしたまま、両膝をついた姿勢のまま動かなくなった。脳だけでなく、全身の細胞が血液を通して酸素を得ることができず、少しずつ死に絶えていく。生命ある者から、“ただの物”へと転じることを示す――死の沈黙だった。


 御剣としても、さすがに言葉を失うしかない。とはいっても、戦慄や畏怖のためではない。こうも鮮やかに敵を殺して見せた彼女の残虐性に対する敬意のためだ。それに、御剣も、仮に今この場で彼女と戦えば、あの偽前川と同じ結末を迎えることになるだろう。実際はともかくとしてそう思わせる、あまりに強力な《因子》に対する賛辞のためでもだった。彼女では勝てない、助太刀に入らなければと考えた数秒前の自分を、戒めたい気分だった。彼女は……阿頼耶は強い。

 そして、決着がついておきながら、彼女による処刑はまだ終わっていなかった。生物の身体を内側から引き裂くということに何の罪悪感もない猟奇性は、さらなる凶行を求めていた。どうやら彼女は、御剣以上に“結構な”性格であるようだ。

 彼女は大鎌の柄を、片手で器用にくるくると回していた。さながら曲芸だ。刃が円を描く度に空を切る、ヒュンヒュンという心地の良い音に混じって、不気味な笑みが、喉元から沸き起こっていた。

「フ……フフフ、フ……クスクスクスクス……」

 数度回転したところで、大鎌の動きは止まった。次いで彼女は、両手でその柄を握りしめ、今までの幽霊のような佇まいから転じ、力強く地に足をついて大きく振りかぶった。紅蓮の双眸に、喜悦の色が満ちる。殺人を仕事にし、趣味にしているような眼だった。

 横一閃の斬撃が、死体と化した偽前川の首を音もなく通り抜けた。数秒の沈黙を置いて、彼の頭部がぐらりと傾き、肩にぶつかりながら、こぼれ落ちるように地面へと落ちた。側頭部が砂利を鳴らす幽かな音が聞こえた。

 首を斬った時には、もう殆どの血液は胸から流れた後だったのだろう。曝け出された頸動脈からは、血液は出て来なかった。

 全身の力を抜き、また幽鬼のような佇まいに戻った彼女の手元から、大鎌が消え失せた。今度は黒い霧になりながら、そのまま薄らいでやがて見えなくなっていく。完全に消滅したのだろう。戦闘は終わったということだ。


 黒衣は血に染まらずとも、彼女には大型のペットボトルが二本分一杯になるほどの血がかかっていた。フードの奥の顔は、真っ赤になっていた。まるで赤鬼だ。血流が途絶え青白くなった偽前川の生首は、青鬼ということか。

 だが、生命活動を停止した彼の身体は、《因子》のご多分に漏れず、消滅を始めていた。顔にへばりついていた血も、光の粉のようになって剥がれていく。

 そんな中で、御剣は改めて彼女に問うた。

「あんたは、一体……何者なんだ」

 それに彼女は、背中を向けたまま彼の方を向こうともせず、応えた。

アズマ 託朗タクロウの名を……知っているでしょう」

 その言葉だけでも、彼女が何者なのか、大まかには理解できた。

 知っているも何もその名は、御剣に《因子人》の存在を伝えた者の名だ。彼との出会いによって、御剣の人生は良くも悪くも大きく変化することになった。

 彼は、表の世界にはまったく姿を表していない。彼と別れて《因子人》と戦うようになってから、個人的に素性を調べようと思ったが、御剣に出来うるありとあらゆる手を使っても、氷山の一角どころか、北極海に浮かぶ薄氷の一枚ほどの情報すら得られなかった。彼と世間との繋がりは、ほぼ“無”だったのだ。

 そんな彼の名を知っているということは、すなわち。

「そうか、あんたは……」

「《因子人》の存在を知り、それを……処刑せんとする者」

「……なるほど、確かにさっき言った通りだったってわけか。あんたは俺の、仲間なんだな」

 自分と同じ目的の人間が他にもいるということは、東から教えられて知っていた。そもそも彼は、《因子人》に対抗できる人材を全国を奔走して探している。そう本人直々に教えられた。それなら、御剣以外の人間にも、《因子》の真実を伝えているのだろう。

 だが、そんな同志の姿を見たことは、これまで一度もなかった。それが今、目の前にいる。

 別に古くからの知り合いでもないし、前触れもなく許嫁だと言われたわけでもない。が、奇妙な親近感と、微かな緊張感のようなものが、胸の内から起こっていた。

 阿頼耶が続ける。

「あの人から、頼まれたの。貴方を助けるように……って」

「俺を? 一体どうして」

「教えて……くれなかった」

 彼女の喋り方は、随分低血圧そうだ。が、宵の闇の中でなら、似あっていると思える不気味ながらも落ち着く声でもある。

「そうか……あの人、何故か大事なことを教えてくれないんだよなぁ。いつだってそうだ。でも、何か理由があるのは確かだよな。例えば……」

「強大な敵がいる……とか」

「そう、それだ。協力してそいつを殺れ、ってことなのかなぁ」

 東は、御剣の言葉通り、本当に重要なことは何も教えてくれない男だった。《因子人》の存在は教えてくれる。だが、それを知って、何をすべきなのか、彼の目的は何なのかは言わない。自分達で考え、自分達で選択しろ、ということなのだろうか。強大な存在が人類を侵食しようという状況においては、あまりに悠長すぎる考え方かもしれない。だが、御剣はこの考え――が正しいのであれば、個人的に気に入っていた。

 そもそも、今は何も考える必要もないのだ。自分達が何をするべきなのかは、決まっている。

「ま、どうでもいいか」

 楽観主義の極みとも言うべき台詞を吐く。だが、阿頼耶は御剣のこのだらしなさを批難したりはしない。むしろ、その言葉に全面的に同意しているようだった。

 そう、今は東の考えだとか、そういうものはどうでもいい。

「俺とあんた、二人で《因子人》共をブッ殺す。やることはそれだ、強い奴がいるとか、そんなことも関係ない。殺しちまえばおんなじだ。力を合わせりゃ、何が来たって負けやしない」

「そうね……これから、よろしく。私、葦原高の生徒なの……入学のために引っ越してきた。貴方を手助けするために……ね」

 返事しながら、阿頼耶が右手を差し出してきた。その顔は微かに笑んでいる。感情が希薄なのだろうか、ただ口元を引き攣らせているだけで、いまいち笑っているように見えないが、こちらを歓迎する気持ちだけは、伝わってきた。

 頼もしい、というか、正直自分よりも遥かに有用な人間がやってきた。これで、この街にはびこる《因子人》共の誅戮ちゅうりくは、その効率を増す。人々の生命を危険に晒すこともなくなるのだ。誰かの、そして、御剣の大切な人達を、より強く守護することができる。

 だが、気分を一新させる中で、漠然とした、言いようのない感情もまた胸の奥底に隠れているのに気づいた。

 自惚れるつもりはないが、これまで御剣は、特に《因子人》相手に苦戦をしたわけでも、民間人に深刻な被害を出したわけでもない。わざわざ新しい人員を寄越してもらう必要は、正直言って無かった。だが、何故か東は阿頼耶をこちらに呼んできた。

 そうするほどの“敵”が、どこかにいるということなのだろうか。御剣一人では、到底勝つことができないほどの、強大な敵が。

「あぁ、よろしく。正直、めっちゃくちゃ頼もしいよ」

 そう応えて、阿頼耶と握手をかわす。


 御剣とて、恐れを知らないわけではない。だが、恐れを打ち消すだけの衝動と勇猛さもまた、併せ持っていた。

 来るならいつでも来い。もたついているなら、いつかこちらから出向いて、鮮血の池に顔を突っ込ませて溺死させてやる。阿頼耶と二人がかりでだ。

 そう、心の中で呟いていた。

 まだ、陽光が立ち並ぶビルが作る歪な地平線の向こうから顔を出すには早い。その燻るような光の前触れさえも、見えてはいなかった。このまま朝になるまでぼんやりと立っているわけにもいかない。御剣達は、《因子人》が目覚めた拍子に気絶していた偽じゃない方の前川を、ひとまず男子寮の前に寝かせて放置し、それぞれ戻るべき場所へと戻っていった。




    ※




 そうして夜が明け、何事もなかったかのように一日が始まる。

 それまでの、ほんの数時間でのことだった。

 芦原高の一般生徒用男子寮。その玄関の前で、野ざらしの状態でほったらかしにされていた前川は、ふと昏睡状態から覚醒した。

 横になった姿勢でもはっきりと分かる、身体が地面に沈み込むような疲労感と、何故自分がこんな場所で寝ているのかという疑問に対する困惑よりも前に、彼は、視界の中でこちらの顔をのぞき込んでいるその男に意識を奪われた。

「竹早さん……?」

 竹早 戴郷がいた。心配そうな眼差しをこちらに向けながら、言う。

「君、二年の前川だろう。こんな時間に何をしてるんだ?」

 自分もまたこんな夜遅くに外にいることは棚に上げている。しばらく抜け殻のように黙り込んでいた前川は、徐に上体を起こした。

「大丈夫なのか? 何かあったのか」と、身を案じてくる竹早。

 だが、前川が頭を抱えて考えこんでも、その、何かあったのか、という質問に応えられない。何があったのかを、忘れてしまって思い出せないのだ。その記憶を収納していた脳の部位が、綺麗に切除されたような気分だ。自分がこんな深夜に何をしていたのか、どういう経緯でこんな場所で寝ていたのか、まったく分からない。

 ただ、ひとつだけ思い出せることがあった。それを想起した瞬間、前川は、深い落胆のためにさらに頭を抱え込み、その場でうずくまることになった。

「あぁ……クソッ」

 と、ため息混じりに吐き捨てる。

 何をしていたのかは思い出せない。だが、その何かという行動をすることになった理由だけは、頭の中に残っていた。何者かから送られてきた謎のメール。そこに記されていた“依頼”。そして、その遂行の条件――喉から手が出るほどの“報酬”。そのために、彼はここで、その何かを遂行しようとしたのだ。それには、御剣 誠一という一年生が関わっていた。

 そして、その“依頼”に失敗したのだ。それは考えるまでもなく、“報酬”の消失を意味していた。それが、彼の落胆の理由だった。

 この、骨が少しずつ崩壊していくのではないかと思えるほどの疲労感。おそらく、“任務”の遂行に相当苦労したのだろう。だが、その結果、残るものは何もなかった。マイナスにゼロを足せばマイナスのままだ。これが、徒労という言葉の好例というものか。自分自身に対する失望と、運があっても手に入らないような“報酬”を得られなかったことへの虚無感に、肉体が支配されていた。

 が、しばらく頭を抱えて何度もため息を吐いていた前川は、あることに気がつき、はっとした。


 そういえば、その“依頼”の内容というものも忘れてしまっていた。絶望する原因になるほどに、魅力的だったはずの“報酬”すらも思い出せない。一体御剣に対し何をしようとしていたのだ? 理由も分からないのに何故自分は悔しがっているのか。これでは馬鹿みたいだ。

 だが、“依頼”のメール自体は携帯のメモリに残っているはずだ。それを見れば容易に思い出せるはず。ズボンのポケットから携帯を取り出し、操作しようとした前川に、竹早が唐突に呼びかけた。

「携帯で何かしないといけないことがあるのかもしれないが、何も今する必要はないんじゃないか? 今はとにかく、帰るべき場所に帰ろう。君は、寮暮らしだったか?」

「……そうですね。まずは帰りましょうか。俺は寮生ですよ。こんなしみったれた場所にいつまでもいたくない」

「そうしよう……今、随分と悔しがってたけど、どうかしたのか?」

「いや、なんでもありませんよ。そういえば、なんで竹早さんはこんなところ……」

「あっ。そ~だ」

 前川の言葉を遮って、竹早がまたしても唐突に声をあげた。何も思い出せない前川に当てつけるかのごとく、何かを思い出したような様子だ。

 何事だろうか、と訝しむ前川に、にこやかな笑みを向け、彼が言った。

「やっぱり君、帰る必要ないわ。どこにも帰る場所なんか、ないよ」

「……は?」


 瞬間だった。前川は、何かに喉元を挟まれるような感覚に見舞われた。相当な力で締め付けられている。気道が潰され、息をすることも出来ない。筋肉がギリギリと音を立てる音が、耳元で聞こえてきた。

「ク……グ……ッ!?」

 うめき声すら上げられない。どうやら、何者かが喉を掴んでいるらしかった。その何かは、座り込んでいた彼の身体を、軽々と持ち上げた。腰が浮き上がり、つま先が地面から離れ、プラプラと宙を揺れる。痛みと共に、焼けるような息苦しさが、胸元からこみ上げてきた。

 何が起こったのか、皆目見当もつかない。まさかと思い、眼下でゆっくりと立ち上がる竹早に眼を凝らすが、彼の両手は前川の首には伸びていなかった。彼は何もしていない。

 だが、竹早は前川を襲ったこの正体不明の事態に、まったく驚いていなかった。平素な顔をして、姿の見えない何者かに首を吊るされている彼の姿を眺めている。

 いや……むしろ笑っている。葦原高の多くの者が知っている、竹早 戴郷という健康優良そのものといった男が、誰も見たことがないような気味の悪い笑みを浮べている。

「笑ってしまうよなァ、まったく笑ってしまうよ。こう、モノの見事に不出来なもんだと、思わず俺自らが始末しに来てしまった」

 何を言っているのか分からなかった。首を締め付ける力は、ますます強くなっている。だが、何もない。本当に、何も前川の首に触れていない。だというのに、彼の皮膚は、手のひらのような形に陥没し、うっ血を来しているのか、紫色に変色し始めていた。肺に空気が届かず、全身の細胞という細胞が苦しみ喘いでいる。力なく垂れ下がった両足と両手が、ピクピクと痙攣する。

 細めた目元から涙を流し、必死に口を動かしても、断末魔の叫び声さえあげることはできなかった。やがて前川 亮次は、白目を剥き、息を吸おうと口を大きく開いたままの悪鬼のような表情で息絶えた。木の幹のごとく強張り硬直した四肢は力を失い、枯れ木にひっかかった蛇の死骸のように微かに揺れていた。

「……フン。さて、そこら辺に手頃な“出来損ない”がいるかどうか……」

 小さく息を鳴らし、独りごちる。竹早は踵を返して、どこかへと歩きはじめた。彼が普段住まっている、《保有者》用の寮とは真逆の方角である。進路上には目立った施設はない。このまままっすぐ歩けば、学園の敷地外に出る。

 緩慢なる歩行は、五歩かそこらで終わった。不意に彼は音速を超えその場から離れ、夜の闇へと消えていった。何より奇怪なのは、前川の死体がまだ地面に降りず、タンパク質の塊となった身体を大きく揺らしながら、竹早に追従していったことだ。死体が自ずと動いている、わけではない。明らかに、何かに運ばれているという様子だった。ただ、その何かの姿が見えないというだけのことだ。

 五秒とかからず葦原学園の敷地外へと出た竹早は、ズボンの右ポケットから携帯電話を取り出すと、慣れた手つきで操作した。メールの入力画面に、素早く次々と文字が映し出される。


『前川はしくじった。

また手頃なヤツを見つけておいてくれ。

御剣以外に新手が一人増えたが、ひとまず当面の標的は御剣に絞っておく。

もう因子人でなくても構わない。有能そうであれば、無関係の人間だろうが自由にスカウトしてくれ。後の処理がこちらでやる。

交渉もお前に一任する。

頼んだ。』




    ※




 後日、前川 亮次が行方不明になったという報せを聞いて、御剣は、己の詰めの甘さを悔やむと共に、強く実感した。

 彼は、《因子人》の餌食となった。

 だが、ロニーは、その気配をまったく察知することができなかった。おそらく事は男子寮の前で起こったのであろう。御剣達が部屋に戻ったその後に、《因子人》は前川を襲ったのだ。寮の中というすぐ近くの場所にいながら、それに気づくことすらなくスヤスヤ眠っていたのかと思うと、彼に対し、謝罪する言葉も見つからない。人々を完璧に守り抜いているという自負は、やはりただの自惚れだったと、自分に殺意すら覚える。

 そして、あの東 託朗が阿頼耶に協力を頼んだことに、納得した。

 ロニーが《因子人》の存在を察知できるのは、同族ゆえのシンパシーのようなものがあるからだ。量子の世界すら支配できる彼女達ならば、同族の存在ぐらいは簡単に分かる。だが、今回はそれが通用しなかった。“そいつ”は、《因子人》でありながら、完全に己の存在を隠蔽することができるほどの能力を持っている。そんな者が、近くにいるのだ。生半可な敵であるわけが、ない。

 今一度、ヤツらを皆殺しにする意志を、固めなければならない。


 あの日――かけがえの無いものと共に、正常な心を失うことになった、“あの日”に誓って。



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