Session.1 Beginning Part.2
この葦原学園は、ある目的のために設立された教育機関である。
その目的がなんであるのか説明する前に、“彼ら”について記さなければならない。
《因子》
と呼ばれるものがある。
今から七年前の、2019年。当時大学教授であった草薙 魁によって発見された概念――あるいは現象だ。
草薙元教授は現在、若くして《先導会》の会長を務めている。
年齢性別問わず、それは偶発的に人間に宿り、肉体に何らかの作用をもたらす。
時に人間から逸脱した身体能力をもたらし、時に何もない空間から物理的、化学的エネルギーを生み出し、あるいは脳細胞を活性化させた。
発見されてから間もなく《因子》は徐々にその数を増やすと共に、すぐさまその強大な能力を発揮していった。
《因子》を宿した者が、ありとあらゆる場面でめざましい活躍をしたのだ。
スポーツで冗談のような記録を叩きだし、警官でもないただの素人が、武装した凶悪な犯罪者を素手のまま現行犯で捕まえるようなことすらあった。
脳の中で眠っていた細胞を目覚めさせたある者は、革新的な技術や理論を発見し、あらゆる科学、工学を、一歩どころか、大陸間弾道ミサイルで海の彼方にふっ飛ばしたかのように進歩させた。
すぐさまその驚異的な力は世界に広まり、《因子》を宿した者達が、あらゆるところから必要とされた。
理由は定かではないが、何故か《因子》は、日本でしか発現しなかった。
そのため、半ば《因子》という革命的な力を独占することになった日本という小国が、途端に世界に対する強大な発言力を持つこととなった。
因子を宿した者達は、多大な援助を受けて世界各国に派遣され、すぐさま秀逸なる成果を発揮した。医学、工学、災害救助、難民救済や文化交流、そして政治的問題への仲介に、時には紛争地帯への武力介入も行った。
それからは、日本が世界最大の国家に成長するのに、それほど時間はかからなかった。
《因子》によって、各工学、そして産業は、発展の階段を一段飛ばしで駆け上がり、経済は一気に活性化した。大規模な災害が発生した時には、《因子》を宿す者達が救助活動に協力し、何百という生命を救うこともあった。
世界は、《因子》が発見される以前に比べて、一切の疑いもなく繁栄し、平和にもなった。
因子を宿す者達は、いつしか《因子保有者》と呼ばれるようになり、この世の英雄として――それどころか、奇跡が人の姿を成した存在として、尊敬されるようになった。
最近では、発展途上国で発生した民主化運動を、明晰なる頭脳と客観的視点を持った《保有者》が、約一年の歳月をかけて平和的解決へと導いたという事例もある。その過程においても、対立する勢力同士の武力衝突を可能な限り食い止め、千単位の国民が生命を散らすことを防いだと言われている。
《因子》の発見から七年という歳月が過ぎ、《保有者》の数は、日本の総人口の約1%を超え、百万人以上にまで膨れ上がった。
《保有者》はすでに、安定を一手に担う、日本においてはもちろん、世界においても必要不可欠な人材になっていた。
それでもなお、《因子》の発現は、日本でしか起こり得なかった。
本題に戻る。
葦原学園の目的とは、そんな《因子保有者》の教育にあった。学園を設立した《先導会》とは、《保有者》の管理と援助を行なっている組織だった。
将来、社会において活躍するであろう有能な《保有者》に対する豊かな教育を行うためにこの学園はある。
各地方にも、同じ“先導会葦原学園グループ”の学校は存在するが、それらの中心となるのはあやめの通う、この葦原学園である。
葦原高には、あやめ達が授業を受ける校舎から離れた場所に、《保有者》専用の特別校舎があった。そこで、彼らは授業を受けている。
一学年2クラス、各クラス約30人、全校合わせて180人程度しかいないが、葦原学園の目的上。その180の《保有者》が、学校のありとあらゆる権力を掌握していた。学校の職員を差し置いてだ。
この学校は、《保有者》を中心に動いている。
それでも、この学園が因子をもたない《非保有者》を多数受け入れているのには、単純な理由があった。
いくら《保有者》が人間離れして優秀であっても、たった百万人足らずでは日本は動かない。社会の上位に立つ彼らの下で働く、下級の者達はいる。
要するに、“そういう下級の者達”の教育も行なっているというわけだ。
葦原高は大学までエスカレーター式であり、将来は《保有者》達が就職する大企業への内定をほぼ確実に獲得できる。その分、実質《保有者》の使いっ走りとして働くことになるのは確かだが、そんなことを言えば、世のサラリーマンはひとり残らず使いっ走りなのだ。大企業に就職できる分魅力的だ。
非保有者としては安定した将来が望めることも確かであるし、この学園を志望する生徒は多かった。誰にとっても、葦原は魅力的ではあるのだ。
ただひとつ。
社会が自分達だけで成立しているわけがない、ということを知らない若い《保有者》達の傲慢さ。
その傲慢さが、時折牙を剥くことを除けば……
※
その男もまた、《保有者》だった。盾と剣をあしらった襟章は、身体能力が強化される《騎士型》と分類される《因子保有者》であることを示す。その中でも銀色に輝くものは、《騎士型》の中でも上位に位置する、《Bランク》に区分される者達の証明だ。《Bランク騎士型因子保有者》――正式に書くとかくも仰々しくなる。
その気になれば、50mを一秒強で駆け抜け、1tの物体なら片手で持ち上げられる。
そういう者達だ。
鼻だけを赤くして顔面蒼白になっている男子生徒は今、そういう連中に絡まれているというわけだ。
手足がガタガタと震える彼の方に、《保有者》の男が近づきながら、言った。
「君ぃ、さっきなんて言った? ちょっとよく聞こえなかったんでもっかい言ってもらいたいなぁ。オペラ歌手みたいに、大ォォ~! きな声でさ」
と、オペラ歌手の真似をして語りかける。
「……す、すみません! なんでもありません、すみません許してください!」
男子生徒はただひたすら、頭を下げて懇願していた。だが、《保有者》は聞く耳を持っていないようだ。その姿を嘲るように、続ける。
「すみませんとか許してくださいとか、そういうのどうでもいいからさぁ……大体ねぇ、君一年だろ? 俺二年生よ? にぃねぇんんせぇーいっ」
恐怖のために俯いた生徒の顔を下からすくい上げるように覗きこみながら、ニタリと口元を歪ませる。
あやめには、その《保有者》の踵が、彼のくるぶしのあたりにひっかかっているのが見えた。何をしようとしているのかは、言われなくても分かった。
「まぁ、さっきのは百歩譲って俺にも落ち度があるかもしれないけどさぁ。それでも、先輩に対する礼儀ってもんを忘れちゃあ、駄・目・で……しょっ!」
《保有者》が足を勢い良く引くと、男子生徒は体勢を崩し尻餅をついた。その様を指さして笑う。
「ハッハッハッハ! またコケやがったよ! お前の足腰生まれたてのヤギとおんなじだなぁ。もしかしてお前、ヤギの股から産まれてきたんじゃねぇのか? 精子の方は人間の父ちゃんでよぉ、ハハハッ!」
下卑た冗談に続くように、《保有者》の後ろにいる他の三人も大声で笑った。おそらく彼らも《保有者》だろう。
《因子》の力を手に入れた者の中には、特別な存在になった自己に陶酔し、他者を見下し、時には暴力行為をしでかすような者もいる。今がまさにそれだ。
それが時には、因子の力を悪用した凄惨な事件に発展することさえある。
もちろん、そのような事態を防ぐべく、法関係も整備されてはいる。《保有者》は、やむを得ず必要な場合や正当な理由がない限りは、日常生活において《因子》の能力を発揮してはならない。殊、《因子》の能力を用いた傷害、強盗、殺人などを犯した場合は、非保有者以上の厳罰がくだされる。
更生の余地がなければ、殺人未遂であっても死刑判決が出ることもあるという話だ。
そのような法律を、《因子》の管理を担う《先導会》が施行している。
世の中が《因子》中心に動こうとも、最低限の節度は守らせなければならない、というわけだ。
しかしそれも、あくまでも《因子》の力を使った場合だけの話であり、身体能力を抑え、非保有者と同等程度までしか発揮していなければ――例えば相手の負傷が比較的軽ければ、犯罪を犯しても非保有者と同程度の罰則しかない。むしろ、喧嘩程度の暴力沙汰なら、あっさりもみ消されることも多い。
被害者が非保有者で加害者が《保有者》であるなら尚更だ。後遺症も残らない軽傷程度の傷害なら、社会に貢献する素質を有する《保有者》の将来を考え、お咎め無しになるというケースの方が、むしろ多いほどだ。
それがこの国の現状である。
この葦原学園にもそういう、《保有者》以外の人間は全員、同性なら“アクションゲームのトレーニングステージで現れるダミーキャラ”、異性なら“体感できるAVの女役”ぐらいにしか考えていないものは少なからずいる。
そういう者達が、時折特別棟からやってきて、一般生徒にちょっかいを出すわけだ。
勿論、そういう者達に対する厳しい取り締まりはされてある。一般生徒の勉学に支障を来さないよう、努力している者達はいるのだ。
だが、その事実を鵜呑みにして、将来の安定性に惹かれてこの学校に入学した者は、後々思い知ることになる。
完璧な取り締まりなどできる訳がない。運が悪い者はこうやって、神様が作った落とし穴にはまって災厄の深みに落ち、硬く針のように尖った岩盤に身も心も叩きつけられる。
仕返しをしようにも、さらなる仕返しに何をされるのか分からないので、できない。教師達に相談しようにも、その教師達ですら《保有者》には頭が上がらないのだ。当然、生徒が助けてくれるわけがない。
助けてくれるような者にすがりつこうにも、脅されてそれもできない。《保有者》はその気になれば、素手で人を殺せる。
口止めされたのをいいことに、その後も《保有者》から体よく弄ばれ続ける。
そうして人間不信に陥って、学校から去っていく者だっている。
そして、大人は汚い。入学する者達に対して、このような事実をほのめかす程度にしか開示してこないのだ。余程学校の事情に精通しているものでないと、《保有者》の非保有者に対する差別を知ることはできない。
あくまでも、直接的に一般生徒が被害を受けるような事例は稀である。
ごく少数であるなら、それがどれほど悲惨な事実であろうと、“例外”として片付けられてしまう。
これがこの国の現状である。《保有者》が世界を動かすが故に、そうでないものは彼らの下につくしかない。
この葦原高校での賑やかな学園生活の裏には、そんな現実が冷気となって漂っている。
そしてその冷気が今、存在感を放ち、氷の刃となってこの中庭にいる者達の胸に突きつけられていた。
あやめは、自分の足がかすかに震えていることに気づいた。
――やっぱり、こんな学校くるんじゃ……――
そんな後悔の声が頭の中で反響した……ような気がする。
尻餅をついた男子生徒は、そのままの姿勢で動けなくなった。筋肉が緊張して、動こうにも動けないのだ。
春先なのに、凍えているかのように声を震わせながら、なおも懇願する。
「す、すみません、勘弁してください! 金なら払います! 十万でも二十万でも、払えって言ったら払います! だ、だから……っ」
しかし、相変わらず《保有者》の男はその声に耳を貸さない。いや、聞いてはいる。
ただ、アンビエント音楽のように、単なる空気の揺れとして聞いているだけだった。心には届かない。
男がゆっくりとした口調で言う。
「んん~~♪ 俺は別にねぇ、金なんかこれっぽちもいらねぇんだよォ~。 なぁ、さっきお前質問したよなぁ? 『喧嘩売ってんのか』って……その通り、売ってんだよ。喧嘩の悪徳商法だ、そっちに買う気がなくても無理やり押し付けるぜ。おら、かかってこいよ」
そうして、両手でクイクイと手招きした。挑発しているのだろうか。
最早逃げようがない。八方塞がりだ。男子生徒は腰を抜かしたまま眼を見開き、ガタガタと震えるしかなかった。
「あ? 来ないのかよ。それじゃあこっちから、宣戦布告ぅ、といきますか? ヘッヘッヘッヘ……」
《保有者》が、右足のつま先をゆっくりと上げた。もう三秒も先に何が起こるのか、この場にいる誰もが理解できた。すぐ傍で事の経緯を見ていたあやめは、思わず男を止めようとした。
だが、できなかった。
下手に《保有者》と関わりを持ってしまったら、この先どうなる?
親を喜ばせることはおろか、泣かせてしまうことになるかもしれない。
それは嫌だった。あやめは立派な少女ではあるが、普通の人間以上にはなれない。あくまで自分の身が第一な、当たり前の人間以上には……
心の中に渦巻いていた恐怖やほんの少しの憤り、そして芽生えかけていた勇気だとかが、あるひとつの感情に置き換わっていくのを感じながら、視線を男子生徒から外した。
諦めだ。
このまま、ここからなるべく離れて、穏やかな日常へと戻ろう。
そう思った。
だが、一歩だけ踏み出した足は、それ以上動くことがなかった。凍えた岩盤を貫く炎の槍のように、ある声が耳朶を打ったからだ。
「あのぅ~……先輩?」