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Session.8 Massacre particles Part.4



「み……御剣くん! 月並みな台詞かもしれないけど、信じてたよ、来てくれるの!」

 あやめは、何も考えず素直な気持ちでそう口にした。御剣は得体の知れない人間だが、《因子ファクト》の脅威から人を守る。それだけはストイックにこなす者なのだということを、再認識した。自分の前に彼が、鉄板を棒にくっつけたような無骨な大剣を持ち立っているという光景を見て、いっそ心が落ち着いてくるのが分かる。

 が、それはそれとして、彼以外のあの二人――黒衣に身にまとった少女と、男は一体何者なのか。

「ねぇ、あ、あの人達は、なに? “仲間”って言ったけど……」

「窓枠に乗っかってるヤツは、《因子人ファクトリアン》だ。これからぶっ殺すから忘れていいぜ。で、もう一人は分からん。でもまぁ、“仲間”とは言ったな。確かに」

 そう応えつつ、こちらを見つめる黒衣の少女の顔を、見返す。彼女は顔色を全く変えず、交差点の向こうの雑踏を眺めるのと変わらない眼を向けている。

 が、今注意を向けるべきは、彼女ではない。彼女が担いでいる大鎌の刃を鼻先に突きつけられている、《因子人》の方だ。便宜的に、『偽前川』とでも表記する。間抜けた呼称かもしれないが、こう呼ぶ以外にない。

 御剣に分からないものが、その偽前川に分かるわけがなかった。

 彼は、下唇を噛み締めた。今度こそ、予想外の焦燥のために全身を強張らせる。

「チィィ……!」

 千載一遇とでも言うべきチャンスをみすみす逃した上に、どうやら敵がさらに一人増えたようだ。状況はあきらかにこちらに不利になり始めていた。

 だが、今更逃げ出すことはできない。彼には御剣と戦う理由も、目的もあった。理由がなければ、最初からやり合うつもりなどない。昨晩失敗した、夏目 貴靖抹殺の任務を下し、また、御剣を始末するという命も下した、正体も分からぬ“依頼主”。そいつが提案した任務成功の“報酬”が、萎えようとする戦意、逃走しようとする肉体を、寸前のところで踏みとどまらせた。

 やってやる。あの方法なら確実だったというだけで、失敗した今でも御剣との実力そのものは、互角のはずだ。問題は、新たに現れたあの黒ずくめの女……ヤツの実力如何いかんで、どうなるか決まる。

 ひとまず、こんな狭苦しい部屋ではまともに戦えない。

「仕切りなおしだ、ついて来なクソッタレ!」

 そう吐き捨てつつ、窓から飛び降りる。

「……」

 黒衣の少女――阿頼耶は、御剣とあやめにロクに自分の素性も説明しないまま、敵を追って窓から外へと出た。床を蹴って窓枠を飛び越えるその動きは、一枚の羽毛が舞うような軽やかさだった。

 御剣としても、それに続かなければならない。向こうは仕切りなおしと言ったが、このまま相手が逃げ出さないとも限らない。

 が、踵を返して再度音速で動き出そうとした瞬間、あやめの不安そうな視線に気が付いた。一瞬沈黙しつつ、もう一度彼女の方へ振り向き、笑みを浮かべる。

「大丈夫だ。また《因子獣ビースト》が出てきても、ロニーが教えてくれる」

「そゆこと~。わたしの感知レーダーは敏感だよぉ~。ココら辺一帯は完璧に察知できるわ」と、ロニー。

「そういうわけだ。お前は死なない、当然俺も死なない、さっきのいけすかねえ野郎は、お望みだったら首をちょん切って持ってきてやるよ」

 冗談に聞こえない冗談には慌てて、「いや、いいよそんなこと!」と返す。

「そうかい。そんじゃあ行ってくる。終わったらまた来るよ」

「わ、分かった。待ってる」

 そうあやめが言った瞬間には、御剣の姿は消えていた。《保有者》は、風も立てずに音の速さを超える。余韻も残さないまま去ってしまっては、散乱した本と、すでにほとんど消えてしまった《因子獣》の死骸と血痕だけの部屋で、現実味のない夢のような気分に包まれるだけだった。

 夢だと意識できるだけでも、まだいいのかもしれないが……




    ※




 敵は宣言通り、逃げずに戦闘が始まった時の場所へと戻って、御剣を待っていた。殊勝なことだ。相手の事情など知らない御剣としては、二対一となった――らしいこの状況で、逃げないことが不思議なほどだった。再びヤツの前へと躍り出た彼から数秒遅れて、阿頼耶もこの場に到着した。御剣より先に飛び出したのに、何故か来るのは遅い。

 ひとまず彼女のことは意識の片隅に留めておく程度にしつつ、大剣を地面に突き立て、もっともらしく指をポキポキと鳴らす。こんなことをすれば、また前回みたいに不意をつかれることになるというのが分かっていないのか。あるいは、不意をつかれても結構だという、余裕の顕れなのか。

「さぁ~て、そんじゃあお望み通り、仕切りなおしといきますかァ」

「……」

 御剣の表情に反して、向こうには余裕がなくなっているように見えた。ランスを固く身構えるその様には、幾分かの緊張を察することができる。こちらも剣を抜き取り、すぐにでも振れる姿勢になった。再び、《Aランク保有者ホルダー》と《因子人ファクトリアン》による攻防が始まろうとしている。


 と思いきや、今にも足を踏み出そうという御剣の視界に、黒い影が入り込んできた。比喩でなしに、本当に黒い影だ。街灯に照らされながらも、陰影程度の色彩しか映さぬ黒衣の揺らめき……阿頼耶だ。

「なんだ?」と問う御剣に彼女は、フードに隠れた横顔を口元だけ見せて、応える。

「あれは……私がやる。手出しは、いらない」

「何ぃ?」

 呆気にとられ、思わず力んでいた身体が緩みそうになった。偽前川の方も、あまりに予想外の言葉に、焦燥の次は唖然とした。

「今なんて言った。手を出すなって言ったな?」

 聞き返す御剣の声を、彼女は無視した。ランスを構えたままの姿勢で動けなくなった偽前川の方へと、ゆっくりと近づいていく。後数歩足を出せば、向こうのリーチに入る。

 一体何のつもりだ。御剣も、荒野のガンマンやら、巌流島で決闘した二人の剣豪やらに対する憧れというものはあるが、現実の戦いというのはそう綺麗にはいかないし、綺麗にいく必要もないというのは分かっている。どうやら彼女が、御剣と同じくあの《因子人》を仕留めることが目的なのは確かなようだが、それなら二人がかりでさっさと殺ってしまった方がいい。

 一騎打ちをするのには、何か意図があるのか? それとも、ただ格好つけてるだけなのだろうか。

 それならそれで結構だ。向こうの望みだというのならそれに乗ってやる。死にそうになった時に助けてやったんでいいだろう。それに、別に一人でもあの《因子人》は倒せる。

「分かった。とりあえずあんたに任せる、やってみてくれ」

 と、阿頼耶の背中に呼びかける。彼女が微かに頷くのが、ボロボロのフード越しでも分かった。


 偽前川としては、理解不能意味不明、青天の霹靂で困惑不可避といったところだ。しかし、これは逆に好機でもあった。敵の方から、一対一の戦いへとシフトチェンジしてくれた。あの阿頼耶とかいう女の実力次第なら、振り出しに戻った状態で御剣と第二戦に入ることができる。

 《因子獣》も、自由に呼び出せるというわけではない。その本体とも呼べる《因子》が周囲に存在する必要がある。今、実体化させられそうな《因子》は存在していないので、やむを得ず御剣との一騎打ちになってしまう。だが、この辺りを動き回りながら戦っていれば、また《因子獣》を呼び出すこともできるだろう。そうなれば、まだ勝ち目はある。

 そうとなれば、まず眼の前の女を、余計な消耗をせずさっさと挽肉に変えるまでのことだ。

「オアッ!!」

 むざむざとこちらに寄ってくる獲物に向かって、有無を言わさずランスを振り下ろす。相手が《Aランク》でないかぎり、このまま頭蓋骨を陥没されて、脳症を垂れ流して終わりだ。仮にそうでなかったとしても、御剣との勝負で神経が研ぎ澄まされ、筋肉が引き締まったこのコンディションなら、生半可な《保有者》には負けない。

 さて、鬼が出るか蛇が出るか。


 ……呆気ないほどだった。まっすぐに飛んだランスの刃は、阿頼耶の頭部にめり込み、そのまま胸から腹を通過し、股まで裂いて地面に打ち付けられた。あまりにあっけなく、手応えすら感じなかった。

「あァっ?」

 致命の一撃が強かに命中したというのに、偽前川はその実感も持てなかった。殺ったはずなのに、殺ったと思えない。

 が、それは正しい反応であった。


 阿頼耶の身体が突然、蒸発する水のごとく、四方へ霧散して消え失せた。肉がちぎれ飛ぶどころか、無数の粒子となって広がっていく。

「んだとォ!?」

 偽前川は咄嗟にその場から後方へと飛び退きつつ、周囲に目配せした。彼女の姿は見えない。こちらと同じく意表をつかれたような顔の御剣が見えるだけだ。一体彼女は何をしたのか。殺ったのか? 殺っていないのか?

 思考の渦へと呑まれようとしたその時、《因子人》としての勘が、背後から迫るドス黒い意思を察知した。

「させるか!」

 前へと飛びつつ、足が着くと同時に後方へ振り返る。前触れもなくこちらの後ろに回り込んでいた阿頼耶の大鎌が、眼前を通り過ぎていった。その動きは、御剣との攻防を経験した身としては、スローモーションとすら言えるほどに緩慢だ。この速度は……

「シェアッ!」

 すかさず、反撃にランスの刺突を放つ。これもまた、実にあっさりと彼女の右目を突き刺し、後頭部を貫通した。切っ先の太さもあり、脳の半分ほどが潰れたことだろう。

 だが、やはりまったく手応えがない。まるで霧を突いたような気分だ。

 そう、霧だ……

 明らかに即死であるはずの阿頼耶が、たじろぐ様子すら見せず、涼しい顔で言う。

「さすがに……速い」

「……ッ」

 こちらの攻撃が通用しない。だが、その原因が曖昧にだが分かったような気がする。驚愕と思案のために、偽前川が数秒動きを止める。その隙を逃さず、阿頼耶は大鎌を振りぬく。その動きの中で、頭がランスの先端からすり抜けた。肉を抉りながら強引に離れたのではない。スクリーンの上で、手を出して邪魔をしようと勝手に動き回る俳優のように、何事もなく串刺しの状態から逃れた。

 一方で偽前川には、この攻撃に対する恐怖自体は、微塵もなかった。大鎌の動きがあまりに遅すぎる。たとえ攻撃する行動が見えた後であっても、《Aランク》に相当する能力の彼には簡単に回避できた。

 先ほどからの不可解な事態の理由も分かった。彼の中で、余裕が戻ってくる。

「……フンッ」

 軽く地面を蹴り、数mほど後ろへと飛び退く。銀色の刃は、ただ空を掠めるだけに終わった。偽前川は、阿頼耶と一旦距離を取ってから、それ以上動かず、動きを止めていた。彼女の方も、大鎌の柄を肩で担ぐ。

 《因子人》の、再び小憎らしくなった声。

「なるほどなぁ。お前の《因子》……自分の身体を細かく分解できるんだな?」

「分かってしまったなら……隠す必要もない」

「やっぱりそうか。一体どれぐらい細かく分解できる? 細胞? 分子? まさか、原子レベルまでか? もしそうだとしたら、末恐ろしいこった……しかァし!」

 偽前川の手から、ランスが消滅した。一旦武器の構成を解除して、素手へと戻ったのだ。そのまま、ゆっくりと阿頼耶の方へと歩み寄っていく。完全な丸腰、警戒する様子がまったくない。悠々と、大鎌の間合いへと入っていく。このままでは、一方的に攻撃を受けるだけだ。が、彼としてはそれで上等だった。なぜなら……

「ホラよ、斬ってきな」

 その挑発に応えるように、阿頼耶が大鎌の刃を敵の眉間目掛けて突きつけた。が、その斬撃は、人差し指と中指に挟み込むように、いとも容易く受け止められてしまった。

「ヒヒッ」

 偽前川が笑みを漏らす。

 瞬間、掴まれていた鎌の先端が、霧のように消滅し、拘束を逃れた。

 阿頼耶の《因子》は、偽前川の推測通り、己の肉体と武器を細かく――原子レベルにまで分解するものだ。二度も斬ったのに手応えがなく、今も彼女が傷一つなくピンピンしているのは、ランスが命中したと同時に、自動的に能力を発動していたからだ。《Aランク》の攻撃速度であっても、完璧に反応できるということだろう。つまり、物理的な攻撃はまったく効果がない、ということである。それがいかに恐ろしい能力であるのかは、摩擦のない床の不便さが分かる程度の人間なら充分理解できるだろう。

 が、あくまでも自動発動。阿頼耶本人が攻撃を見切っているかと言われれば、否だ。

 先の攻撃で、偽前川は確信した。おそらく彼女の戦闘力は、《Bランク》に相当する。実体化し、《Aランク》相当の能力を得た自分には、相手にならないレベルだ。

 再び大鎌による斬撃を連続で繰り出してくるが、そのことごとくを彼は回避する。しかも、僅かに身体を逸らし、全て紙一重のところでかわす。あえてそうした、それぐらいのことは余裕でできると誇示しているのだ。

 数度の斬撃を回避した後、どこからか転がってきたボールをその持ち主の子供に蹴り返すぐらいの調子で――それでも、人間の頭ぐらいは破裂させられる――蹴りを放つ。阿頼耶の腹部へと命中した靴底が、彼女の胴体全体を再度霧散させた。

「フッ!」

 さらに、両の拳をそれぞれ二発づつ突き出し、頭部と腰、両腕の辺りを続けざまにかき消す。そのまま両足も風に吹かれた煙のように宙へと溶けていった。しかし、無数の原子となった阿頼耶は、なおも近くを漂っているのだろう。その彼女に向かって、偽前川は朗らかに語った。

「ダメダメダメダメ、ダぁ~メだね、雑魚なんだよ。そんなトロトロした攻撃で《因子人》である俺を殺そうと思えるその魂胆を細胞レベルで分析してもらいたいもんだ。いや、分解できんなら原子レベルか? まぁなんでもいいけどさァ、お前なんかじゃ相手にならねえよ」

 そう言って、今度は御剣の方へ向く。阿頼耶は最早問題にはならない。攻撃も、眼をつぶってかわせるレベルだ。少々意識を向ける必要があるというだけで、いないのとほとんど同じだ。意外な登場の仕方をしたものだから警戒してしまったが、まったく拍子抜けもいいところだ。

 このままダラダラと時間をかけて新しい《因子獣》が見つかるのを待つのもいいが、あまり戦闘を長引かせると、そのまま夜が明けてしまう。そうなれば確実に人目につくし、新しい《保有者》が駆けつける恐れもある。急ぎはしないが、時間に寛容になりすぎず、ほどほどに決着をつける必要がある。そうでなくとも、せめて人目が付かないところに戦場を変えたい。

 そのためには、御剣にいつまでもあの場で突っ立っていられるわけにはいかない。

「これじゃあ、あまりにつまらなくて立ったまま寝ちまいそうだ。なるほど、そうして気持よく寝息立ててる間に殺ろうってつもりなんだろうが、そうはいかねえ。お前もかかってきな、御剣 誠一よォ」

「……」

 阿頼耶は任せろと言った。確かに彼女の《因子》ならば、負けることは確実にない。肉体を原子レベルで細かくして、霧そのものになれるなど、正直、自分だって勝てるかどうか分からない。が、一方で勝つにはあまりに実力不足だ。申し訳ないとは思うが、ここは加勢した方がいいだろう。

 改めて偽前川を倒すべく、足を踏み出そうとする御剣。

 が、その時だった。彼の前に、阿頼耶が肉体を再構築させて現れた。黒い霧が寄り集まって濃厚な蒸気のベールとなり、その奥から生まれたかのように、彼女の姿が見えた。それと共に、黒い霧も薄まっていく。この霧が、原子レベルに分解した彼女の“集まり”なのだろう。

「それには……及ばない」

 御剣の考えを読み取っていたかのように、静かに言う。これには偽前川も、苦笑いするしかない。

「あのねェ~~っ、あのねぇお嬢ちゃあん……てめえがァー! そのチンケな鎌を死ぬまで振り続けたってなあ! 俺の身体を掠めることだって、できやしねえんだよ!! 邪魔だ、失せろやッ!」

 逆上し、ランスを再び出現させ、彼女の身体に突き立てようとする。


 だがその瞬間、彼はあることに気が付いた。

「いや、待て……鎌……その鎌が、ねえじゃねえか」

 阿頼耶は、大鎌を持っていなかった。箒のように緩やかにその柄を握っていた両手は、今は自由になり、力なく垂れ下がった黒衣の袖から、白い指を覗かせているだけだ。

「……」

 何故素手になっている。戦う意思を放棄した、と取りたいところだが、どうもそういう雰囲気ではない。何か……あの女は何かをしようとしている。

 俄に、心がざわついてきた。喉から冷気を孕んだ埃っぽい空気が入り込み、肺ではなく、何故か胃へと落ち込んでいくような、得体のしれない気持ちの悪さを感じた。

 そんな中、ふとあることを思いついた。彼は思わず、「待てよ……」と声を漏らした。

 そのまま、思考の海の中へと一時没入していく。


 あの《保有者》は、身体を原子大にまで分解できる。だが、その分解した原子ひとつひとつはどうなるのだろう。原子そのものとして宙を漂うのだとしたら、微風が吹くだけで遥か遠くへと飛んでいき、二度と肉体を再構築することができなくなる。《因子》である以上、それはあり得ない。おそらく、原子の粒子をひとつ残らず制御することができるだろう。自由に動かし、自由な位置で集合、再結合させられるはずだ。そうしてそれは、複数の原子が結合して形をなした後でも変わらないと思われる。

 だとすれば、身体の一部をその場に残して、別の一部を他の場所へと移動させるということも、できてもおかしくない。あの大鎌も《因子》の一部だとするなら、身体と同じく分解可能だ。先ほどからもそうしていた。あの銀色の切っ先も自由に分解し、好きな場所に出現させられる。原子が入り込めるような場所なら、どこでも。

 例えば……


 その解答に行き着いた時、偽前川は、全身の血液が凍りつく感覚を味わった。それとは逆に、胃の底へと落ち込んだ冷気が一気に圧縮、膨張し、胃液を焼き付くほどの熱になるような気がした。手足が俄に震えだし、体中の毛穴から皮脂が湧き出してくる。

「ま……まさか……ッ」

 彼は驚嘆した。

 違う。この考えは間違いだ。

 そう自分に言い聞かせたかった。だが、彼の余裕に満ちていた顔が、眼を見開き戦慄の色に転じた時、眼前の少女が見せた微笑が、心の声を壮大なノイズによって打ち消した。

「ふ、ふざけんなァーーッ!!」

 前川の絶叫が、街灯の灯りと相まって、広大なホールで繰り広げられる演劇の1シーンのごとく響き渡った。

「てめえ! な、な……な、なんて能力だッ。そんなことができるなんて、聞いて……聞いてねえぞ! こんなの、勝てるわけがねえじゃねえかァ!」

 喚き散らす声を軽く聞き流しつつ、阿頼耶は無明無限の闇を孤独に歩くように、淡々と足を踏み出し、偽前川の方へと近づいていった。彼は、身動きすら取れなくなっていた。下手に動けば、もしかしたら、どこかに“刺さってしまう”かもしれない。固く身構えた姿勢のまま微動だにせず、口だけを慌ただしく動かしている。

「ちくしょう、やめろぉぉ……ッ。お前、人間だろうが。人間がこんなこと平然とできるっていうのか。良心ってものがねえのか……ヒ、ヒヒ、ヒッ。お、俺だって生きてるんだぜ? いくら敵だからって、立派な他人の生命にこんな仕打ちができるなんて、お前、“我ら”よりもずっと下衆なヤツだなァ……そ、それでもいいのかい? 下劣で残酷で猟奇趣味の、最低なヤツでよぉ」

 阿頼耶は何も応えない。ただ、細めた瞼の奥で、真紅の瞳を怪しく輝かせる。その姿が、少しずつ視界の中で大きくなっていく。

 死神の姿だ。

「や……やめろって言ってんだ」

 阿頼耶は何も応えない。彼女はついに、手を伸ばせばその身体に触れられるという距離にまで近づいてきた。身長がひとまわり低い彼女の、上目遣いの眼、そして微かに引きつる口角は、いわゆる人間がする表情という概念とは、違うものに見えた。

「フフ……フ……」

「やめろッ!!」


 その叫びと、ほぼ同時だった。彼の腹部から、血しぶきと共に何かが飛び出した。三日月のごとく反り立った、冷たい光沢を放つ薄い銀色の鋼。

 大鎌の、刃だ。

 激痛が神経を通り、全身を微小な円盤ノコギリが血管を引き裂くかのように伝わっていく。あまりの恐怖と苦悶のために、周りの景色が水面に垂れた絵の具をかき回したかのように、歪んだように見えた。


「うおおああぁぁぁーーーッ!!」

 《因子人》の悲鳴が、響き渡った。



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