Session.6 Neoplasm Part.3
それがいつ、どこで行われたのかは明確にはなっていない。今が一体西暦何年の何月何日の何時なのか、昼なのか夜なのか、それを明記する必要もない。
山中の研究所にて、己の目前で繰り広げられた異常事態に戦慄した男も、少しずつ落ち着きを取り戻しはじめていた。尻餅をついていた腰を上げ立ち上がりつつ、すぐ傍に佇んでいた大国 八千穂に呼びかける。
「そもそも私としては、何故、《ピリグリム》と《ミッショナリー》を複合させるのかが、理解できなかったのです。《ピリグリム》はあくまでも“必要な細胞分裂の過程を早急に経過させること”が目的であるのです。そこに到達した後は、存在する価値は希薄です。無限に増殖する細胞と組み合わせて、貴女は一体何をしようというのです。何より、そこから生まれたものを“制御”することができるとは私には思えなかったのです。《ピリグリム》は外部からの電磁波照射によりDNAを破壊することで細胞分裂の加速を停止することはできますが、調節することはできない。“1か0”。“全か無”。永遠に肉体を膨張させ続けるか、常人並みの成長に留まるか。ふたつにひとつです」
大国はただ黙して、助手の言葉に耳を傾ける。
「しかし今、我々の前で起こっているこの事態はッ……博士、先程貴女は仰りましたね。『細胞分裂を調整することと、増殖した細胞の自主的な壊死――アポトーシスのようなものですか?――それが課題である』と。このふたつは、《ピリグリム》ではどうあっても実現できないものです。しかし、貴女はそれを実現させた。そうですね?」
今一度、強化ガラスの向こうへ視線を移す。
大国の研究により誕生した、少女の姿をした怪物――“No.9”の背中から生えていた第三の腕。それが突然、千切れるような音を立ててから地面に落ちた。その瞬間にはすでに、真っ白な装甲は溶けるように消滅しはじめていた。
男が再び語る。
「腕が急激に風化し始めている。あれが有機的に構成されたものであるなら、身体から切り離すことも不可能ではないだろうし、腐敗し、やがて風化するのも納得できます。しかしあの早さはどうですか。自然に発生した腐敗にはとても見えません。明らかに、“肉体を壊死させるプログラム”が作用しているとしか思えない。しかも、《ピリグリム》が“逆方向”に作用していると言ってもいい、細胞分裂ではなく、細胞の死という方向に……貴女は何らかの形で、ご自分で生み出した技術の、新しい可能性を開拓された。一体どのようにして、この結果に到達なさったのです!」
男は、明らかに興奮していた。彼もあくまで学者である。人類の叡智が新たな境地へと辿り着くことに無上の喜びを感じられるし、他人がそこに到達したのなら、妬みはするが、決してその人物を卑下にしたりはしない。妬みはあくまでも敬意の変異体でしかない。本当の屑というのは、妬みもしなければ、誰からも妬まれることすらない、路傍の石も同然の連中を言う。
まして男にとって、大国は敬意を変異させずに済む数少ない人物であるのだ。そんな彼女が、《ピリグリム》だけでなく、“不老不死”という、人類の長年の欲望を叶えようとしている。それだけでない、さらに別の革命を、生物学の世界に打ち立てようとしている。心躍らずにはいられなかった。彼女の背を押した“何か”の正体を、知らずにはいられなかったのだ。その先にある大いなる恐怖に対する予感を抱きながらも。
再び、熱気を孕んだ視線を向ける助手の問いに、大国は、
「簡単なこと。《ピリグリム》にできないことを代行する、新しい“要素”を加えたのよ」
「新しい……要素?」
「いえ、“要因”――“因子”と言ってもいいかもしれないわね」
「“因子”……《因子》?」
その名を口にした瞬間、男の脳裏で、何かが瞬時に構築され始めた。バラバラだった正体不明の何かの大群が、瞬く間に合体を初め、ひとつに集まっていく。大国が何をしたのかが、判然としてくる。
「《因子》! 貴女は“No.9”の身に《因子》を宿した! 確かにその力なら、自身に起こる細胞分裂を自在に操作できてもおかしくはない。“急激なアポトーシス”もまた同様……っ」
しかし、その解答に至った瞬間にはすでに、新しい違和感が生じ始めていた。身体の奥からこみ上げてきた熱が一気に引いていく感覚を味わいながら、男はひとりで次々と言葉を続けた。最早、大国に語りかけているのか、自分自身に語りかけているのかも、はっきりとしない。
「いや、《因子》が人の身に宿るのはあくまでも偶然のこと。意図的に、しかも望んだ通りの《因子》を与えることなど、不可能では……しかし、博士は今回の実験は確実に成功すると言った。一体何故?」
正答に至ってなおも深まる混乱など、聞いたこともない。思考の迷宮に呑み込まれそうになった男に、大国は“タネ明かし”を始めた。
「“可能”なのよ。無限かつ高速の細胞分裂は、人体にとってはむしろ“有害”である。“有害”なものに対しては“免疫機構”が働く。細菌しかりウイルスしかり移植臓器しかり。そしてそれは、超常的なものに対しても例外ではない。生物学的な“免疫”はなくとも、魂が“有害”なるものを拒絶し、それを封じる術を求める。私はそれに気づいた。もっとも、哲学畑の人達にとっては今更珍しくもないことでしょうがね。だけど、“ここ”に至ったのは古今私だけでしょう……魂は、自身が求めるべき“方法”を見つけた時、それを取り込み己のものにしようとする」
「……」
彼女の言いたいことが、段々と分かってきた。ただじっと耳を済ませ、大国の言葉を理解しようと神経を研ぎ澄ませる。
「知ってる? 《因子》がその性質を確定させるのは、人間の身に宿ってからなの。それまでの間この世界のどこかに漂っている《因子》は、《騎士型》でも《魔導型》でもない曖昧なもの。そして私はようやく発見した。《ピリグリム》DNAをある特定の配列で“不老不死”の肉体に添加した時、その《因子》は生まれると……これ以上は、言わなくても分かるわね?」
男は、これまで生きてきた中で最大級の衝撃を受けた。大国 八千穂が何を為したのかを、完全に理解できた。そしてそれは、過去連綿と続いてきた人類の進歩を全て無価値なゴミにするほどの成果であると言えた。
「ま、まさか、貴女は……!」
最後まで言えなかった。
まさしく“まさか”だった。大国は、人為的に《因子》を生み出したのだ。《ピリグリム》を制御し、無限に発生する細胞分裂を自在に操作する《因子》を。
そしてそのことにより、恐るべき生物が誕生した。“No.9”だ。
あの第三の腕は、一瞬にして背中から生えてきたように見える。それほど細胞の増殖が早いということだ。おそらく、人一人分の肉体を形成するのにも、数秒とかからないだろう。その上で、細胞分裂に限界が存在しない。
すなわちそれは、いかなる負傷をしても瞬時に肉体が再生するということだ。《因子》が関わっているとしたら、脳まで吹き飛んでも問題無いだろう。細胞が一片残らず消滅しない限り、何をやっても死なない。
しかし、それでは……
男は叫んだ。
「しかし、それでは最早、地球の生態系に対する反逆です! 《ミッショナリー》により生まれる“不老不死”は完全ではない。“不死”と言いながらも死ぬ手段はいくらでもあります。しかしあれは、あの“No.9”は違う! 確かに人造の悪鬼です。さながら全身が癌細胞でできたホモサピエンスですよ。あれは全ての生物を超越した“新生物”だ!」
捲し立てるような助手の言葉に、大国はただ微笑した。嘲るように。男の、賞賛とも憤怒ともいえない感情が、この場においてはあまりにも遅すぎるものであること。それを無言のうちに伝えるように。
「フフフッ。新生物ぅ? 今更それを言うの? “彼ら”の存在がすでに充満しつつある今、この日本で?」
「……」
彼女の言葉が理解できずただ絶句する男への興味は、やがて失せた。大国は彼から視線を逸らし、また強化ガラスの向こうを食い入るように見つめた。
男には、彼女は自分とは別の次元にいるとしか思えなかった。そうして、もう彼女に対して何も言うことができなくなった。今はただ、彼女が生み出した存在を、観察する。
それだけしかできない。それだけしかしたくない。
どれほど生命に対し挑戦的かつ冒涜的なものであろうと、彼女が生み出したものに対する絶大なる畏敬の念だけは、否定することができない。
少女の身体より切り離された第三の腕は、完全に消滅した。塵ひとつ残さずだ。壁に叩きつけられ無数の肉片と化した左腕も、いつの間にやら消えてなくなっていた。壁にへばりついた巨大な血痕もまた同様だ。部屋の様相はあの少女が目覚める以前に戻った。
そして、過ぎた時間を修復するのは、この部屋だけではない。醜く腫大し、やがて失われた彼女の左腕もまた、修復を開始した。腕の切断面から、再び触手のようなものが伸びてきた。が、それは先程発生した触手とは別物であるらしい。数本発生したそれは、糸を束ねて縄にするかのように寄り集まってひとつの塊になり始めていた。やがて歪な形だったそれが、次々に増殖した細胞により文字通り肉付けされていく。骨ができ、筋肉と腱ができ、やがて皮膚ができる。左腕は完全に再生した。もって約二秒。目にも留まらぬ出来事だった。
手のひらを眼前にかざし、確かに修復が完了したことを確認し、また下ろす。
その瞬間だった。不意に視線を下に降ろした彼女は、そこでようやく、自分が一糸まとわぬ全裸であることに気が付いた。大国が何気なく言う。
「あ、そうそう忘れていたわ。彼女にはすでに、培養液中で脳に直接信号を送ることで、必要な知識は大体教えてある。エデンの園で蛇に唆された我らが祖先は、知恵の実から恥じらいを覚えた。『裸じゃ恥ずかしい!』、とね」
まるで、少女が顔を真赤にして恥ずかしがり、胸と性器を手で隠すことが分かっているような口ぶりだった。先程の凄惨な事態があった後では、それは滑稽を通り越して不気味に見える光景だった。腕が千切れてもすぐに再生するような生物が、裸で恥ずかしいなどと。
とはいえ、年端もない少女をいつまでも素裸にしておくわけにもいかない。大国に対するある種の憎愛に似た感情も鳴りを潜めた助手の男は、そういうことをすぐに察することができた。後ろに振り返りつつ、少女の姿を呆然と眺めていた研究員達に呼びかける。
「いつまでも見ているなよ。服を持って行くんだ。女性が……そう、君だ。近くの部屋に検査着があったろ。あれでいいから彼女に着せてやれ。いいか、あまり見るんじゃない。女の死体なんて何度も見てきただろうが、あれは生きてるんだからな……そう、生きてるんだ」
指示を受けた女性の研究員が慌てて立ち上がり、部屋を飛び出していった。他の研究員達も我に帰って、各々コンピューターの画面に眼を向け直し、役割に戻る。
が、かく言う当人は、すぐにガラスの向こうへと向き直した。仕方がないのだ。あの少女に対する、頭蓋を突き破るほどに巨大な畏怖と好奇心のために、今は片時でも眼を離したくはなかった。次の瞬間にもまた、何かしでかすような気がしてならない。
その予感は的中した。またしても、男は眼を見張ることになる。
少女の背中から、再び何かが突き出した。今度はふたつ左右に出現している。薄い膜状の何かが、一瞬にして少女の身体よりも大きく広がった。
あれは……翼だ。白い翼。第三の腕と同じ白い装甲と薄い桃色の翼膜が合わさった、機械のごとく洗練されたフォルムをしている。
龍と分類される空想上の生命体が、おそらくクジラよりは軽い程度の重さの身体を悠々と浮き上がらせるあの翼のように見える。先程の第三の腕といいこれといい。ますます彼女がこの世の生物と思えなくなってきた。あんなものを生やして何をするのか……
……なんてことはない。二枚の翼をたたみ、全裸の身体を包み込むようにして、隠した。ただそのためだけに、あんな大仰な翼を作り出したというのだ。
少女は安心した様子でほっ、と息を吐いた。頬の紅潮も失せていく。
その暢気な様子とは裏腹に、男は絶句した。結局、各々の役割に戻った研究員達も、またしても視線をガラスの向こうに磔にされてしまった。この状況で笑っているのは、ただひとり、大国 八千穂だけだった。
彼女は、口元を歪ませて呟いた。
少女に対して語りかけていた。
「そうね。それでもう恥ずかしくはないわね。あなたのことはもう、“No.9”と呼んではダメでしょうね。何か名前を付けなければ……さぁ。朝、目が覚めた時は?」
強化ガラスの向こうにいる少女に、その声が聞こえているはずはない。向こうの部屋に声を届けるためには、マイクからスピーカーを通してでなければならない。逆に、向こうの部屋の音は、壁面に埋め込まれた複数のマイクが拾い、こちらの部屋のスピーカーから聞こえてくるが。
だが少女は、はっと大国の方を見た。そして、微笑みながら静かに言った。
おそらく、聞こえるはずのない声が聞こえた。などというわけではないのだろう。彼女の方へ向いたのは単なる偶然。その言葉も、ただ大国により大脳皮質へ直接インプットされた世間一般の常識を、思い出したが故にすぎない。
「……おはよーございます。博士。《先導会》のみなさんも」




