Session.3 Leper Messiah Part.3
男の高らかな叫びがこだまする。
「出てこォい、“出来損ない”共! 美味しいぃ~餌が二匹もいるぜェーーッ!」
その声が、世界を破滅へ導く核弾頭のスイッチのごとく、次なる事態を引き起こした。
一瞬だけ、この空間のありとあらゆるものが、揺れた。建物や床が揺れた、というのではない。空気までもが、心臓が鼓動し血液が脈打つように、一度だけ震えた。
少なくともあやめにはそう感じられたし、御剣にも、そしてあの男にしてもそうだった。
続いて、何もないはずの空中が突然ひび割れ、窓ガラスにスレッジハンマーを当てたように歪な形の穴が開き、そこから何かが出てきた。
何なのかは分からない。ただ、尖った形の“何か”としか形容できないものだ。
しかしその“何か”は、次の瞬間には穴から更に這い出てきて、ひび割れた空間を削りとりながら、その全容を少しずつ露わにした。
御剣の登場により落ち着き始め、ようやく平常な心拍に戻りつつあったあやめの心臓は、またしても早鐘のごとく拍動することになった。
巌のように隆起した、黒々とした腕。左右合わせて十本ある指からはそれぞれ、あやめの太腿ほどの長さの爪が伸びている。先程、空間の穴から覗いていた何かは、この爪だったようだ。
そして腕が繋がっている前傾した胴体。そこから生える逆関節の、丸太どころか一本の木“そのもの”のような太い脚部。そして、鋭利な牙と、ナイフで切り込んだような細く鋭い眼窩で蠢く、赤く揺らめく眼光を持つ頭部。
どうやら“それ”は生物であるらしかった。だが、あやめはこんな生物は一度として見たことがなかった。
訂正する。あるにはある。
ファンタジーやSF映画の中で、見たことがあるような気もする。
そうだ。確かにある。“それ”を形成する言葉をあやめは知っていた。
“化物”
正真正銘の化物。
“それ”は、自分が這い出てきた空間の穴を背に、低い唸り声を上げている。
その穴から何かが見えているというわけではなく、穴の向こうをガラスのように映し出していた。穴の周囲にはしっていた白いひび割れも少しずつ薄まり、消滅しつつあった。
が、注目すべきはそんなところではない。
同じ穴が、さらに三つほど形成されていた。
すなわり、“それ”と同じものが、さらに三体も出現していた。
「………っ!?」
あまりの戦慄に、あやめはその場で飛び上がりそうになったが、緊張しきった筋肉がまともに働くこともなく、ただびくりと身震いしただけだった。
合計四体の化物は御剣を囲むように出現しており、その包囲の中にいる彼の身体は、貧相な人形のようだった。責任感も無ければ物の扱い方も生命の大切さも知らない無垢なことこの上ない子供に弄ばれるソフビ人形のような弱々しさだった。
その涼やかな笑みを除いて……
出現した化物共は、丸まった背中を震わせ、食いしばった牙からヌルヌルとした涎を垂れ流しながら、じっと御剣を睨みつけていた。獲物の隙を狙い、瞬く間に殺すその瞬間を待っているのか。
それを遠巻きから眺めながら、男が清々しい声をあげた。
「ンン~~ッ♪ 我々のように、依代となるべき人間を見つけられなかった哀れな負け犬共でも、お前をリンチするのには使えるもんだなぁ……自分で手を下さなくても、これもこれで気分爽快なもんだァ~、クァッハハハハ」
あやめは、こめかみから流れた汗が眼に入りそうになるのにも気づかず、息を呑んで御剣を見つめた。
化物には化物らしい凶暴さがある。
背丈こそ人並みであるが――それも、背中を丸めているからだ。体長自体は、人間より遥かに大きい――あの見るからに強靭な四肢を見れば、人がまともに戦えないような存在だと分かる。
何よりあの爪だ。いくら御剣が強かろうと、あんなもので一突きされたらひとたまりもない。
このままでは、彼は死ぬ。
せっかく助けにきてくれたというのに、彼が、この先に始まる殺戮の前座にさせられてしまうのか……
そんなあやめの落胆と失望を余所に、まだ御剣は笑っていた。むしろ、先程よりも一層楽しそうに。
「へぇ、これで気分爽快ねぇ~。見ろよ、俺まだまだピンピンしてんだぜ? こんなんでスッキリするなんて、中々単純なヤツなんだな。精神衛生上うんぬんとか考える必要あるのか?」
その言葉に、男の表情は一瞬固まった。次いで浮かべた笑みも、先程とは違い“苦笑い”と形容できそうだった。この期に及んでまだへらへらしているあの《保有者》に、いっそ呆れているのだろう。
男はそのまま、今まさに御剣に飛びかかろうとしている怪物の内の一匹に近づいた。
「ホントは血相変えて土下座して床を舐めてるところを見たかったんだが、まぁしょうがない。こいつらにズタボロにされた後、残った“顔”が苦痛に歪んでりゃ、それなりに満足できるだろ」
そうして、ゆっくりと右膝をあげる。
「さて、と……鞭を入れりゃ動き出すところは、馬なんかとおんなじだよなこいつ……らッ!」
怪物の右足を、勢い良く蹴る。
それを合図に、強張っていた筋肉が、破裂するかのように躍動した。
雄叫びを上げながら飛び上がったその黒光りする肉体が、御剣に迫る。
だが、突き出された右手の爪の一撃が、彼を捉えることはない。
弾けた。あやめには最早一部始終を見ることができなかったが、男の眼には確かにそう見えた。
怪物の肉体がバラバラになり、血飛沫を吹き上げて飛散しながら、御剣の身体をすり抜けていった。糸を引きながら飛び散った血糊が彼の頬に当たり、赤い模様を描く。
ハイウェイを走る貨物車両からこぼれ落ちた果物か何かのように次々と地面に落ちた肉塊は、湿った音を小刻みに鳴らし、そのまま床面を滑るように転がった後、壁面にへばりつき潰れるような音を立てた。
その行動は、音を超える速さで展開されていた。
あやめには、弾けたというより、最早消滅したようにさえ見えた。
御剣に飛びかかった化物が、突然嵐に吹かれた砂上の楼閣のようにバッと広がり、溶けるように消えていった。
何が起こったのか分からなかった。何もかも、分からないことだらけだ。今この場で分かっているのは、御剣 誠一の名前と顔ぐらいだった。
そして、分からないのは例の男も同じだった。
「何ィ……ッ?」
今頃御剣の身体を引き裂いているはずの怪物の身体は、50か60cm四方のサイコロステーキになって床に散らばっていた。その切り口は実に鋭利なもので、コンピューター制御された水圧カッターの切断面ごとく、一切の歪みもなくまっすぐだった。
一体何をしたのか。
その正体はすぐに分かった。
御剣の両手に、巨大な――彼の身の丈にも匹敵するほどに長大な剣が握られていた。
いつの間にそれほどの剣を手にとったのか。あれで、怪物を瞬時に切り裂いたのだ。
御剣の肩が震える。
笑っていた。やはり彼は笑っていた。
「あんまりにも滑稽だったもんだからつい手を抜いちまったけどよぉぉ……ヒッヒッヒッ! さすがにそろそろ、本気になる頃かなァーーッ!!」
何故、身体能力が強化される《因子》が、《騎士型》と呼ばれるのか。
それにはある理由があった。
一部の《騎士型因子》には、自身の中の超常的な力が形を成すのか、《因子》の力が宿った“武器”を生み出すものがあった。
武器を持ち、強靭な肉体を駆る彼らを象徴する意味でも、肉体強化という恩恵を受けた《保有者》をおおまかにひっくるめて、《騎士型》と呼ぶのである。
中でも、武器を形成するものはそれぞれのランクに応じて《特Cランク》、《特Bランク》、《特Aランク》と分類される。
さて、ここまで説明したところで、それでは、この御剣 誠一はいずれに分類されるのか。
そして、《騎士型保有者》の中で最も強力で最も危険なのは、いずれか……
「で、出来損ない共! 足りねえ脳みそでも分かるだろ、下がれ! 何のためにわざわざ出してやったと思ってんだ!!」
男は咄嗟に叫んだ。
が、時はすでに遅い。
残った三匹の怪物が、本能的に御剣から逃れようとするよりも早く、それは――その斬撃の嵐は起こった。
「オラアアアァァァーーッ!!」
怪物の雄叫びよりも響く絶叫と共に、彼は己の手に持つ大剣を乱雑に振り回した。
人間ひとりを振るほどのリーチを持つこの大剣ならば、数歩間合いを置いたところで身構えていた怪物達であろうと、切り裂くことができる。
先んじて肉塊の群れへと転じた一匹に続いて、残った怪物達も瞬く間に解体された。腕が飛び、足が飛び、首を撥ねられ、その首もさらに真っ二つに切断され、“ダルマ”を通り越して、等身大のガレージキットのごとく、“内部”まで精巧に作られた数個のパーツへと転じ、御剣の周囲を、鮮血の花吹雪と共に舞い散った。
今度はあやめの眼にも、“消滅”したようには見えなかった。それもそのはずだ。
バラバラに吹き飛んだ右腕と左足――らしきものが、彼女の方へと飛来し、足を伸ばせばつま先が当たりそうな位置に転がったからだ。
「……――ッ!!」
とうに声をあげるほどの余裕も失っていたあやめには、悲鳴をあげることもできなかった。
が、血みどろの体肢に吸い込まれた視線は、すぐに別のところへと向けられる。
まだ、生きていた。
先の斬撃で抹殺されたのは、二匹だけだった。
幸運にも、大剣のリーチの外に逃れることができたのだろう。まだ一匹だけ、四肢も頭も全て繋がっている状態で生き残っていた。
が、その怪物と対峙する御剣の姿を見れば、この瞬間を生き残ったことが本当に幸福であるとはいえないということぐらい、あやめにも分かった。
彼の身体は、先程の壮絶な惨殺のわりには、先に頬についた血痕を除いて、ほとんど返り血がついていなかった。高速で剣を振り回したことで、飛び散る血飛沫を、身体に付着する前に全て払いのけたのだろうか。
彼はやはり、笑っていた。彼には笑顔以外の表情がないのではないかと思えるほどに、その引きつった口角を維持し続けていた。
正直いってあやめには、その笑顔もまた、怪物じみたものに見えてきた。
瞳孔と虹彩が収縮し、四白眼となった眼で怪物を睨む。
「なんだ、まだ生きてやがったのか……ヒヒッ……ィッヒヒヒヒヒッ、ヒヒヒヒッ!」
逃げることも叶わないということを、本能的に察したのだろう。
怪物はヤケにでもなったのか。唸り声をあげながら両腕を突き出した。鋭い、合計十本の爪が御剣の眼前に迫る。
が、やがてその爪の動きは止まった。
というより、剣を振った動きが見えないほどの速度の斬撃により、両腕ごと切断された。
今まであやめが聞いたこともないような声をあげながらよろめく怪物の首が飛び、蛍光灯の外れた天井に放物線を描いた。
「ハァーッハハハハハハハハーーッ!!」
金属を切るような笑い声があがる中、高く掲げられた大剣がまっすぐに振り下ろされ、残った怪物の胴体を豆腐のように切断した。
音もない切断だった。肉が切れた音より、別れた身体が別々の方向へ倒れる時に、何かが体内からこぼれ落ちる音の方が、よく聞こえたほどだ。
突如現れた四体の怪物は、現れた意味も解さぬまま死んだ。元の形状が把握できないほど徹底的に、ストイックに、完全無欠に殺された。
一人残った例の男の顔が、驚愕に歪む。
御剣がゆっくりと男の方へ振り向き、体中から沸き起こってくる“何か”を隠しもしない不気味な声で、語りかけた。
「どうしたァ……こんなもん連れてきたところで俺を殺れると思うんじゃねえ。これじゃあ張り合いが……ねェーじゃねぇかァァーー!! ハハハハハハハハハァーーッ!」
あやめの眼に、彼はとても雄大で、勇壮なものに見えた。自分は彼に生命を助けられたも同然なのだ。御剣のことを今この瞬間においては、何者よりも頼もしく思えた。
だが同時に、はっきりと分かることもあった。
彼は“イカれている”。
御剣 誠一は、奇妙で、イカれた、変な奴だ。