Session.0 Welcome
入須川 あやめは、当たり前の人間としてこれまで生きてきたし、これからもそうやって生きていくことを望んでいた。
それでいて彼女は、人一倍立派な人間だと言えた。自分を生み、育ててくれた両親に恩返しをしてやろうと、自分なりに精一杯努力し、有名な進学校へと晴れて入学することができた。それだけでも、もう十分な親孝行だと言ってくれた両親の顔はよく覚えている。
もちろん、世の中には彼女以上に努力している人間は大勢いるだろう。それでも彼女は自分を褒めてやりたかったし、これからも努力し続けて、あの世でも同じように自分を褒められるような生き方をしたいと思った。
きっと、それができると信じていた。
そのためにも、これから頑張っていこうと心に決めていた。頑張れば頑張るだけ、神様は応えてくれるのだと……
そしてそれは、この世に生きる多くの人がやってきたことと、同じことなのだ。
『みんながやってきたことなら、自分にだってできる』
それが、彼女のモットーだった。
しかし、その結果自分の前に来訪した現実が“こんなもの”であるということは、彼女の努力が、神が応じるには足りなかったということなのだろうか。
それとも、努力に応じる気などそもそもない捻くれた神が、手のひらの上で彼女の運命を弄んでいるのか。
あるいは、神は何者かに無残に殺され、彼女の未来は無秩序な混沌の中へと放り込まれてしまったのか……
平凡に努力し、平凡に親の幸せそうな死に顔を見て、同じように幸せそうな顔をして死にたいという彼女の願いはどうやら、叶うことはなさそうだ。
そしてそれは、彼女だけでなく、人間という種そのものの“当たり前の幸福”が崩壊する、前触れであるのかもしれない。
※
仄暗い闇に包まれた人気のない室内に、飛び散る肉片、床面にこべりつく真っ赤な血糊。その赤黒い液体は、離れた場所で壁にもたれかかってうずくまっていた彼女にまで届いた。
顔が、バケツの中の水をぶち撒けられたように、生温かい液体を浴びた。左半分が赤く染まる。
あやめは、自分の視界の中で何が起こったのか、よく分からなかった。
身の丈ほどの巨大な剣を持った男が、得体のしれない何かをバラバラに切り裂いた。と理解できたのは、今から十秒も二十秒も後のことだった。
その男は大剣を振りぬいた姿勢のまま、何千年も前の太古の時代から存在する、時の流れが凝集して出来た岩石のように微動だにせず、その力強く強張った身体のシルエットを暗がりと同化するように留めていた。
ふと視線を下の方に向ける。
赤い雨が降った後にできた血だまりに、何かが浸かっていた。巨大な腕や、足のように見える何か……
あやめは息が詰まった。だが、その腕に釘付けになりそうだった視線は、再び男の方を向くことになる。
男は不意に、静止していた腕を力なくだらんと降ろした。それと共に、巨大な大剣の刃が地面に触れ、乾いた金属音を響かせる。
そう思うと、今度はその大剣を空き缶でも放り投げるように軽々しく頭上へと投げ捨てた。瞬間、大剣は溶けるように消えてなくなった。
次に男は、くるりとあやめの方へ向き、ゆっくりと近づいてきた。
月明かりもロクに差し込まない屋内の闇の中、ほとんど真っ黒な影にしか見えなかった彼の姿が、少しずつはっきりとしてくる。それ従って、その身に着ている学生服が、血に塗れていることに気がついた。
また、その肩にところどころへばりついているもの。それはおそらく、あの得体のしれない何かの……
心臓が止まりそうになった。そのまま、父と母に生んで貰った身体が、血流が途絶えて少しずつ壊死していくのかと思った。
腰が抜け、足は震え、この場から逃げることも泣き叫ぶこともできなくなったあやめの目の前で、男は立ち止まった。
そうして、この場の凄惨な状況には不釣り合いなほど明朗な声で、言った。
その顔は、憎たらしいほどに笑っていた。
「どぉーだい、見たかよ入須川ァ。しっかり守ってやっただろう?」
これは夢なのだと思いたかったが、おそらく夢ではなかった。目の前の光景は、全て現実なのだ。
残念なことにあやめは、自分の目の前で血に染まり笑っているこの男のことを知っている。得体のしれない何かを解体してみせた、その力の正体を知っている。
男の名は、御剣 誠一。
その力を、《因子》という。
西暦2026年。
日本はこの《因子》によって、変貌していた。
《因子》によって成り立つ世界――さしずめ”因子郷”とでも呼べようか……
あやめは、自分がこんな冗談のような状況に巻き込まれることになった経緯を、思い返していた。