自転車と恋語り
「待たせたな」
俺は自転車置き場でたたずんでいたある一人の女性に話しかけた。女性の、白い肌とは対照的な真っ赤な唇がかすかに動いた。その言葉は他の生徒の話し声で聞こえなかったが、優しく見つめる様を見れば怒っていない事がわかる。自転車の前かごに学生鞄を放り込み、待たせてしまった女性を荷台に座らせた。
そう、俺はこの女性こと 渚沙とつきあっていた。今日みたいに俺と渚沙の二人とも部活がない日は、こうして一つの自転車に乗って一緒に帰っていた。
校門を抜けた自転車は、大通りから一本外れた人通りの少ない田舎道を走る。田圃と住宅地に挟まれたこの道で、蝉の声を聞き流しながら、俺はいつものように話を始めた。
「本当に今日はごめん。放課後にさ、担任の 森淵がかったるい話をしてきて、まあ、俺がこんな時期になるまで進路を決めなかったのが悪いんだけどさ。まあ、そういうことで遅くなった。ごめんな」
俺はちらりと後ろを見る。だが、渚沙の表情は帽子の大きな丸いツバに隠れて見えることはなかった。俺は前を向き直して、狭い道を進んだ。
自転車は俺がペダルを漕ぐ度にカラカラと軽い音を立てていた。会話があまり弾まないのもあって、この音がやけに耳障りに思えた。
「チェーンの音、うるさいだろ。三ヶ月前に直したけど、この有様。元からボロボロだからいつ壊れてもおかしくないな」
俺は笑いながら言った。しかし、渚沙は笑うことはなかった。やはり、顔には真っ黒な陰が落ち、何を考えているのかわからなかった。
しばらく進むと、小さな公園が見えてきた。俺の記憶では、そこは錆びついたブランコと小さな砂場、あとは休憩できるベンチだけしかない。そのせいか、まだ四時を回ったところなのに子供が一人もいない。
公園についた俺と渚沙は屋根のついたベンチに腰掛けた。見上げると、雲を寄せ付けない透き通った青い空が一面に広がっていた。
「もう九月か。夏休みも案外あっという間だったな」
渚沙は顔を上げながら小さくうなずいた。俺は少しの間、ぼーっと空を眺め続けていた。すると突然、渚沙が立ち上がり、田圃の方へ歩きだした。縁に着くと、薄緑の可愛らしいチュニックを汚さないように手押さえながらしゃがみ込んだ。そして、俺の顔を見ながらある花を指した。
「なんだよ、いきなり。ああ、それ? 確か名前は…… 曼珠沙華だったっけ?」
俺が不安そうに答えると、渚沙は口の端を上げながら首を縦に振った。俺は一本だけちぎり取ると、茎を指の腹で回しながら観察した。イチゴ味の飴細工のように繊細で細い花びらが中心から弧を描くように伸びている。この独特な花びらは一見不気味だが、どこか脆く儚い綺麗さを含んでいた。
隣を見ると、渚沙は俺の持っている曼珠沙華をじっと見つめていた。俺はあることを思い出した。
「ああ、渚沙はこの花が好きだったんだよな」
俺の言葉に渚沙は嬉しそうにうなずいた。花を持った手を差し出すと、渚沙は小さく口を動かした。小さすぎて聞き取れなかったが、すぐに顔を逸らしたところから、照れながらありがとうと言ったのだろう。
「そろそろ、行こうか」
俺は先に自転車のところに戻った。けれど、渚沙はまだ縁にしゃがんだままだった。そこで俺はちょっとだけ意地悪をした。一人だけ自転車に乗り、渚沙の横を通り過ぎた。びっくりした渚沙は急いで俺を追いかける。もちろん途中で止まったが、渚沙は少し不機嫌になってしまった。
***
「こっから歩こうか」
帰り道の中で唯一二人乗りができないところがあった。それが目の前にあるこの長い長い坂だった。もともと、俺と渚紗が住んでいる地域には坂が多い。だから、初めに田舎道を通ったのも、人通りが少ないのも理由としてはあるが、坂道がないのがもっともな理由だった。なんで坂道が嫌かというと、渚沙をあまり歩かせたくないからだ。
俺が一生懸命自転車を押している横を、渚沙は手をたたきながら応援してくれる。残暑のせいか、足取りが非常に重たく、ただでさえ長いこの坂が普段の倍以上の長さに思えてしまう。俺の着ている夏服であるポロシャツは汗でべっとりと濡れて、肌に張り付いていた。
やっと頂上に着いた頃には、もうどこもかしこも汗まみれになっていた。しかし、こんな汗はこの下り坂の前ではどうってことはない。
俺は渚沙を後ろに乗せて、ペダルを一漕ぎした。のろのろと動き出した自転車は、徐々に回転を速め、やがて風を切る早さに達する。
風がとても気持ちいい。汗も乾き始めていた。自転車は速くなることしか知らない。だが、俺はあえて、ブレーキをかけなかった。
――きゃっ!
渚沙の小さな声が俺の耳の届いた。ブレーキをかけながら振り返ると、渚沙の白い帽子が風にさらわれ、空高くに舞っていた。渚沙は手を伸ばたが、遠くに飛んでしまった白い帽子に届くはずもない。俺も無意味とわかっていたが、片手を空に突き出した。
***
俺は自転車は坂の下で止めた。空を見渡すが、どこにも白い帽子は見当たらない。空は青かった。しかし、先ほどまでなかった小さな白い雲がぽつんと浮かんでいた。じっと眺めていると、その小さな雲がとうとう太陽を覆い隠してしまった。ひんやりと肌が冷える。ただ日差しが遮られただけなのに、先ほどの暑さが嘘のように消えてしまった。
「涼しな、渚沙」
俺が振り向くと、荷台に座っていたはずの渚沙はいなかった。あるのは荷造りひもで縛られた一輪の曼珠沙華だけだった。
ふと、道の端に目をやる。申し訳なさそうにたたずむ小瓶が一つ、しおれた曼珠沙華が入っていた。俺は静かにため息を吐き、花を今日取ったのと交換した。それが終わると、手を合わせ、目をつぶる。
「なあ、渚沙。今日決めたんだ。渚沙と一緒にが行きたかった大学、やっぱりそこに行くことにしたんだ。でも、ごめんな。俺のせいで渚沙は一緒にいけなくて」
小瓶近くのアスファルトが丸く濡れる。ぽつぽつとできた小さな丸は、俺が帰る頃には大きな丸になっていた。
自転車にまたがり、一度だけ荷台の方に視線を向けた。
だが、渚紗はもういない。
ため息を交えて、ペダルに力を込めた。その時、初めて実感した。自転車が俺の思う以上に軽くなっていたことに。
つい、笑ってしまった。どうしようもないこの笑いは帰るまでずっと続いた。
終わり
―この小説は叙述トリックでできています―
話を練る段階では別に狙おうとなんて考えてなく、短編で驚く話を書こうと思ったら、叙述トリックさんがしゃしゃり出てきました。
張った伏線の数は正直多いぐらいです。でも、どの伏線も最後はオチに集まるから、見落としたりしても安心して読めたと思います。
補足としては「曼珠沙華=彼岸花」。作中で書かなかった理由は察してください。ちなみに田圃の縁に彼岸花を植えると、もぐらとかの害獣の対策になるらしいですね。
最後に、初めての投稿で手がぶるぶる震えています。