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大宮駅

作者: 三矢光司

 午前5時。カーテンの外は闇に包まれている。冬至を過ぎたばかりのこの時期、夜明けまではまだ時間がある。携帯電話から流れる4度目の「ペールギュント『朝』」を聴いて、何とか体を起こすと「23℃」と表示されたリモコンのボタンを押す。冷え切った部屋の中で、冷え切った右手を動かして、丁寧に歯を磨きながら、左手で冷え切った朝刊をめくる。静かに数字を刻み続ける電波時計を横目に、いつもの情報番組のスポーツ情報が終わり、次のコーナーが始まったのを合図に、洗面所へ向かう。アクセルを踏もうとする脳と、ブレーキを踏もうとする体の葛藤を繰り返しながら、今日もまた、大宮駅6時35分発、上野行きの電車に乗るのに、その5分以上前には、ホームに降り立った。

 6時29分、ブルーの車体の電気機関車が、同じくブルーの客車を引き連れて現れる。眠りから覚め切らない駅の中で、6番線ホームだけが一瞬、ざわめきを増す。特段、珍しい車両でもないだろうが、何人かカメラを向ける人々がいる。高価な一眼レフカメラを持つ者もいれば、携帯電話を向ける者もいる。さほど興味を持たない風を装って、対面の4番線ホームで待つ通勤・通学客も、窓の中の様子に視線を注いでいるようだ。まだ夢の中なのか、カーテンが下りている窓もあれば、既に起きて身支度を整えている乗客もいる。

 こちら側の日常の人々は、向こう側の非日常の人々に憧れの眼差しを向けているのだ。

 そのブルーの車体とともに雪が運ばれてきた。昨夜の青森は、かなりの雪が降ったらしい。朝、満面の笑みで女性アナウンサーが伝えていた。その雪が、目の前にある。僕にとっては、とてつもなく遠く感じる青森の雪を「あけぼの」は、いとも簡単につれてきた。


 「別れよ」。その一言は、突然、彼女の口から発せられた。4年間ですっかり、青森の訛りが抜け、その髪型や服装とともに、すっかり東京の大人の女性になった彼女。まさに寝耳に水の一言だった。

 「何、言ってんの? 今日、バレンタインだろ? エイプリルフールじゃないって」

 思い出すだけで、顔が火照ってくるほど、情けない姿だったと思う。ただ、その時の僕は、きっと、なりふりかまっていられない、その言葉の意味を十分すぎるほどに体現していたのだ。

 大学入学直後。4年前の4月、最初の英語の授業で一目ぼれした僕は、密かに見つめるだけで1年間を過ごした。2年生になって、友達の先輩の彼女の友達の後輩というつながりで偶然、話す機会を得てからは、少しの接点ができた。そして、2年目の1年間は、週1回とはいかないまでも、月2、3回の関係を持つことができた。もっとも関係というのは、学食で顔を合わせて、友達の友達(彼が彼女の友達の彼氏だった)の話をしたり、ノートのコピーを渡したりといった程度のものだけど。

 こうして、1年生より進歩した僕は、3年生になった。このままではいけないと思って、意を決した僕は、彼女のことも知っている友達を飲みに誘い、彼女への思いを伝えた。

 「分かってたよ。別に言わなかったけど」

 驚かれるだろうと思ったけれど、友達の返事は、意外にもあっさりしたものだった。その返事に驚いたのは僕の方だった。

 「いつから知ってた?」

 「1年のゴールデンウィークぐらいだったかな」

 何てこった…。

 「何で言わなかったんだよ」

 「何で言わなきゃいけないんだよ」

 そりゃ、確かに…。

 「だいたい、彼氏いるらしいよ」

 「え、何で」

 「何でってことないだろ」

 そりゃ、確かに…。

 「いてもおかしくないだろ。ていうか、いない方がおかしいだろ。ルックスは悪くないし、ていうか、可愛い方だし、たぶん、駅前を歩いていたら、1人や2人に声を掛けられるだろう。確かに入学当初は田舎っぽさが抜けきれてなかったけど、今は、変わっただろ? そもそも、田舎っぽさが、純朴でいいっていうヤツだって多いからな。それに、スタイルも良い。お前だってずっと見てたんだから知ってるだろうけど、おっぱいは大きい。どんなに小さく見てもDはある。弘子のFとは訳が違う。あのスタイルでDだ。そして、性格も良い。俺にしてみれば八方美人っぽくてイヤだけどな。奈美と比べたらすべてにおいて奈美が優っていると思うけど。そういえば、佐藤っているじゃん、アイツ、告白してフラれたらしいよ。もう1年以上前だけど。今の彼氏とどうなのかは、よくは知らないけど、仲良くやってるんじゃない? いろんなことを」

 そう…。

 一気にまくし立てられた。途中、自分の彼女の自慢や、他人への失礼な言い回しを含めながら。

 こうして、奪うために努力するか、あきらめるために頑張るか悩みながら、3年生が終わり、大学生活も1年を残すのみとなった。

 4年。大学に顔を出す回数もめっきり減ったが、ゼミで一緒になったこともあり、彼女とは話す機会が一気に増えた。自分でも驚くほどに距離が縮まった。卒業までの時間が迫っていることに焦りを感じた僕は、告白するという暴挙に出た。どうにでもなれ、という気持ちが強かった。

 「ありがと。考えさせて」

 当然、フラれるものと思っていた僕は、思わぬ猶予を与えられた。そして、ケータイの着信音が鳴る度に、飛び上がる日々が3日続き、思わぬ結果を受けた。

 彼女と付き合い始めた僕は、今までの鬱憤を晴らすかのように、彼女と会いまくった。幸い、就職は決まっていた(決して、満足する会社ではなかったけれど)し、彼女も地元の青森で就職することが決まっていた。4月からは離れ離れになることは分かっていたけれど、その時の僕には「別れる」なんて発想はなかった。遠距離恋愛という響きに、ちょっとした憧れを抱いていたのかもしれないし、心配は月額何万円になるんだろうという電話代のことぐらいだった。

 遠距離恋愛になるのが分かっていたから、それまでにいろいろなことをしようと思っていた。もっとも、自由な時間を持てる最後の年だった。今を逃すと、これだけの自由な時間を持てるのは40年も先のことになる。ドライブにも行った(レンタカーだけど)し、夏には海にも行った(泳げないけど)、ディズニーランドにも行った(「プルート」について説明してくれた彼女に「ネズミが犬を飼ってるの?」と言ってしまい、後悔した)。実家から送ってきたみかんを甘いねと言って、2人で食べ、彼女は、実家から送られてきたりんごをむいてくれた。キスもしたし、彼女の胸(Eカップだった)も触った。一日中、セックスをして過ごしたこともあった。僕は、彼女が初めての相手だったけれど、彼女にとっての僕が何人目の男なのかは聞けなかった。それでも、そんなことはどうでも良かった。幸せな時間は永遠に続く。本気でそう思えた。

 「別れよ」

 その一言を最後に彼女との連絡は途絶えた。もちろん、メールを何度も送ったし、何度も電話をかけた。けれども、メールが返ってくることはなかったし、電話が繋がることもなかった。


 社会人になり、早朝から夜遅くまで、仕事に追われるようになった僕から彼女の記憶は少しずつ薄れて言った。

 ただ、朝、大宮駅で「あけぼの」を見る時、その時だけ、一瞬彼女のことを思い出す。青森発上野行き。この「あけぼの」と接する大宮駅での2分間だけ、彼女が僕の中に現れるのだった。雪は車体に必死にしがみついているようにも見えた。そして、どう考えても僕の勝手な妄想なのだけれども、彼女からのメッセージを運んでくれてきているようにも思えた。あまりの自分のキモさに苦笑していると、回送列車が僕と「あけぼの」の間に割り込んで現実に引き戻した。

 あと、どのくらいたつと、ブルーの車体から雪がなくなるのだろう? そして、その頃には、僕の心の中の雪も融けてしまっているのだろうか。そうであればいいと願う。でも、季節は巡って、いずれ雪の季節になる。その時、僕の心にも再び君がやってくるのかもしれない。青森の雪とともに。

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