「不吉な納棺師はいらない」と王宮を追われました――ですが、棺の中の女公爵はまだ生きています
「棺の蓋を閉めないでください。この方は、まだ死んでおりません」
私の声は、思ったよりも遠くまで届いた。
黒い喪服で埋まった身廊が、水を打ったように静まる。祭壇の前に置かれた白樺の棺。その蓋に手をかけていた王宮葬儀局の男二人が、動きを止めて、こちらを見た。
蓋は、あと指二本ぶんで閉じるところだった。
私は控えの間の扉を離れて、喪服の列の間を抜け、祭壇へ歩いた。誰も止めなかった。止めるにはあまりに突然だったのだと思う。
棺の中には、エーレンフェルト女公爵ロザリンデ様が横たえられている。二十歳。若くして爵位を継ぎ、領地の水路と賦役を改め、その報告のために王都へ上がってこられた方だ。三日前の夜、王都の別邸で心の臓の発作を起こして急死した――と、王宮侍医長の死亡証明にはある。
その侍医長が、祭壇のそばで振り返った。
「……何のつもりだ、イルゼ・ローデン」
ゲルハルト・フォン・エーレンフェルト侍医長。先代公爵の弟であり、未婚で弟妹のないロザリンデ様が亡くなれば、次に爵位を継ぐ方だ。王宮侍医長として死亡証明を書き、最も近い親族として国葬の日程を早めるよう求めた方。そして三年前、私を王宮から追い出した方でもある。
法が求めるのは、王宮侍医一名の署名だけだった。証明する医師が親族かどうかを問う決まりは、この国にはない。
私を見据える目が、細くなった。三年前のことを、忘れてはいなかったらしい。
「なぜお前がここにいる」
「公爵家の家令ヨーゼフ様より、女公爵様の最後のお身支度を依頼されました」
私――イルゼ・ローデンは、納棺師だ。
亡くなった方の身体を清め、衣装を整え、髪を結い、遺されたご家族が最後にその顔を見て、別れを言えるようにする。それが仕事だ。今は王都の下町で、職人や商人の家の葬儀を請け負って暮らしている。
今朝早く、私の小さな店を訪ねてきたのは、白髪の老家令だった。
「奥様のときのように、お嬢様を送ってやってほしいのです」
四年前、ロザリンデ様のお母君――先代の公爵夫人がお亡くなりになった。あの頃まだ王宮葬儀局にいた私が、その納棺を担当した。長い病で痩せた頬に色を戻し、生前お好きだったという青いリボンで髪を結った。棺の脇で、十六になったばかりの娘が私の手を取って言った。
「母が、こんなに穏やかな顔で……ありがとう」
あの手の温かさを、私は覚えている。
「奥様の葬儀のあと、お嬢様は『自分のときもイルゼに頼みたい』と、家令帳へ記しておられました」
ヨーゼフ様は、店の戸口で帽子を握りしめて言った。
「封棺前の身支度を決める権利は、今も公爵家にございます。……あなたのお名前は、侍医長閣下には知らせておりません。知らせれば、入れてはもらえなかったでしょう」
だから引き受けた。国葬の納棺は本来、王宮葬儀局の役目だ。追放された私が関わることを、侍医長が喜ぶはずはない。それでもヨーゼフ様は、私を大聖堂の控えの間へ、裏口から招き入れた。
そして私は、そこで見てしまった。
三つの、小さな、けれど見過ごせない違いを。
三つ目の正体を確かめようとしたところで、侍医長が控えの間に入ってきた。私の顔を見て一瞬止まり、それから「もう十分だ」と私の手から布を取り上げ、葬儀局の男たちに棺を運ばせた。私が口を開く前に、棺は身廊へ運び出されていた。
「ヨーゼフ」
侍医長の声が、鞭のように鳴った。
「誰を入れたのか分かっているのか。この女は、王宮葬儀局を追われた者だぞ」
「存じております。奥様を送ったのは、この方です。お嬢様ご自身が、そう望んでおられました」
老家令は、震える声で、けれど背筋を伸ばして答えた。
侍医長は私に向き直った。喪服の襟を正し、参列者へよく聞こえるように声を張る。
「皆様。この者は三年前、王宮で医師に口答えをして追放された納棺師です。死人に触れる不吉な女が、その腹いせに、亡き姪の国葬を穢しにきたのです。――兵を。この女をつまみ出せ」
左右の壁際にいた警備の兵が二人、こちらへ歩き出す。
膝が震えた。三年前と同じだ。あのときも、こうして大勢の前で「不吉な女」と呼ばれ、腕を掴まれて外へ出された。
でも、あのとき私が黙っていれば、あの若い兵は土の下に入っていた。
私は棺の縁を握って、そこから離れなかった。
「お待ちください。私は――」
「待て」
私の声に、別の声が重なった。
祭壇の脇。国葬の監督官として黒い法衣を着け、ずっと黙って座っていた男が、立ち上がっている。
王室司法官、コンラート・エッカート。国葬の手順が王国の法と慣例に沿っているかを見届ける役目の方だ。ロザリンデ様の棺が聖堂に入ってから今まで、一言も発していなかった。
「兵はそこで止まれ。王室司法官の監督下にある国葬で、根拠を述べようとする者を、述べる前に排除することはできない」
司法官は侍医長ではなく、私を見た。
「納棺師。あなたは今、女公爵は死んでいないと言った。何を根拠にそう言うのか」
「司法官、こんな女の――」
「侍医長。あなたには後で聞く。今は納棺師に聞いている」
抑揚の少ない声だった。私を庇う響きでもなければ、疑う響きでもない。ただ、答えを待っている。
その目には、死人に触れる不吉な女ではなく、根拠を持つ職人が映っていた。それだけで、震えていた膝が止まった。
私は息を吸った。
「三つあります。順にお見せします。……蝋燭を、一本お借りできますか」
司法官が目で促すと、助祭が燭台から一本を抜いて持ってきた。司法官はそれを受け取り、自分で棺の枕元に立った。灯りを、ロザリンデ様の手元へ寄せる。
私は前掛けの腰袋から、小さな銀の壺を取り出した。
「納棺師の、銀の清め油です。蜜蝋に、薬液で処理した銀粉を混ぜたもので、亡くなった方の肌を清め、最後の顔を整えるために塗ります」
私はロザリンデ様の右の手袋を外した。冷たい。けれど――冷たすぎない。
壺に収めていた塗布用の小さなへらで油を取り、その甲へ、薄く伸ばす。
「亡くなった方の、清めて乾かした肌では、水面に落ちた油膜のように、薄い膜になります。肌がもう、何も返さないからです」
蝋燭の光の下で、手の甲に塗った油が、ゆっくりと変わっていく。
広がらない。
銀色の膜が、細かな露のように、粒になって立ち上がっていく。
「……粒に、なっている」
司法官が呟いた。
「はい。生きた肌では、拭ったあとにも新たに滲むわずかな塩気を拾って、銀粉がこうして粒になります。三日前に亡くなった方のお身体では、まず起こらない反応です」
「油が古いだけだろう。あるいは、聖堂が暖かいのだ」
侍医長の声に、私は頷いた。
「この油だけで、生きていると断言するつもりはありません。ですから今朝、私は、ほかの二つを確かめました」
私はロザリンデ様の手を、絹の上にそっと戻した。
「二つ目です」
その顎に、指の背を添える。
「亡くなった方のお身体は、半日ほどで固くなります。顎から始まり、首、腕、脚へと。そして二日、三日と経てば、また少しずつ緩んでいきます。ですから三日目の今日、顎が柔らかいこと自体は、生きている証拠になりません」
顎に添えた指を、わずかに押す。口が、眠っている人の、力の抜けた柔らかさで、ほんの少し開いた。
「けれど、三日のあいだ仰向けに横たわっていた方なら、背や首の下、肩の後ろに、沈んだ血の紫の痕が残ります。半日で現れ、一日も経てば、身体を動かしても、もう消えません。今朝、衣装を替えるためにお身体を横向きにして、確かめました。……どこにも、ありませんでした」
私は、参列の貴族たちにも聞こえるように言った。
「顎が柔らかいからではありません。死んだ身体に残るはずのものが、残っていないのです」
ざわめきが漏れる。
私は顔を上げた。
「三つ目を、お見せします。これが一番大切です」
ロザリンデ様の唇を、指で静かに開いた。人前で亡き方の口に触れることは本来、納棺師でもしない。けれど今は、しなければならない。
「司法官様、灯りをこちらへ」
蝋燭の光が、口の奥へ差し込む。
奥歯。上の、いちばん奥。舌をよけなければ見えない、歯の裏側に、溶け残った薄い琥珀色のものが、飴のように固まって張りついている。
「今朝、口の中を清めたときに、これに気がつきました。拭おうとして松脂のような粘りに気づき、それ以上は触れておりません。……匂いを、確かめてください」
司法官が身を屈め、そしてすぐに顔を上げた。
「甘い。松の……いや、もっと重い匂いだ」
「《冬眠樹脂》です」
言った瞬間、侍医長の肩が、わずかに揺れたのを私は見た。
私は口の中に、樹脂のほかに詰まりがないことを確かめ、胸の動きを見ながら、顎の下へ指を当てた。
長く、待った。
一度だけ。震えとも鼓動ともつかないものを、指が拾った。
「北方軍が、重い傷を負った兵を仮死のまま後方へ運ぶための薬です。温めれば、戻る可能性があります」
私は司法官を見上げた。
「軍医と、湯と温石を。身体を起こさず、棺を傾けずに運んでください。説明は、手を動かしながらいたします」
司法官は、蝋燭を持ったまま、しばらく私の顔を見ていた。それから、棺の中のロザリンデ様を見た。
「私は、あなたを信じたわけではない」
静かな声だった。
「だが、あなたの説明は具体的だ。油、背の痕、口の中の樹脂。一つ一つが、この場で確かめられる。侍医長の証明は、署名が一つあるだけだ。……封棺は延期する。王室司法官の名において、再検査を命じる。――まず救命だ」
司法官は棺から離れ、声を上げた。
「兵は棺を暖炉の前へ。傾けるな。助祭は軍病院へ走り、《冬眠樹脂》を扱ったことのある医師を呼べ。厨房は湯と温石を。聖堂の者は手伝え」
「司法官、国葬の棺を動かすなど――」
「棺ではなく、人を運ぶのだ」
司法官は振り向きもしなかった。
「侍医長は席に戻られよ。この聖堂を出ることは許さない」
兵二人が、侍医長の両脇へ回った。
「書記官。運ぶ前に、口内の樹脂を採取して封を」
書記官が、司法官の検分箱から、未使用のへらと小瓶を二つ取り出した。私は採る場所だけを示し、書記官が琥珀色の欠片を削り取って、二つの瓶に分ける。ヨーゼフ様と葬儀局の男の立会いのもと、司法官が封蝋を押し、小瓶は検分箱へ収められた。一つは司法院へ、一つは軍の薬師の同定へ回す、と司法官は言った。
温める前に、取っておかなければならないものだった。溶けてしまえば、二度と取れない。
助祭たちが動き出す。そのとき、参列者の後ろの方から、声が上がった。
「あたしらも手伝います!」
領民の席からだった。御前報告に同行して、王都へ上がっていた村々の代表たちだ。日に焼けた顔の中年の女が、粗い喪服の裾を掴んで前へ出てくる。
「あの方は、うちの村に水路を引いてくださった。去年の日照りのとき、御自分で馬に乗って来て、井戸の底を覗いてくださった方だ。……生きてらっしゃるなら、あたしらが運びます。湯だろうと石だろうと」
その後ろで、幾人もの領民が立ち上がった。
私は、頷いた。
◇
白樺の棺は、兵の手で、水平のまま、聖堂の脇にある暖炉のそばへ運ばれた。
私はまず、ロザリンデ様の首元を飾っていた黒い喪の襟を外した。胸の上に組まれていた両手を、そっとほどいて、身体の脇に置く。
納棺のときと、逆の手順だった。
三年前、北の兵を温めた軍医の手順を、私は一つも忘れていなかった。あの日、追い出される前の最後の時間、私は部屋の隅で、それを全部見ていたから。
「胸と背中から温めます。手足は、あとです」
厨房から届いた最初の湯で布を絞り、胸の上に置く。布越しにも分かるほど、冷たい。もう一枚、背中の下へ差し入れる。温石を布で包んで、両脇に。
「どこを持てばいい」
司法官が、蝋燭を置いて隣に膝をついていた。私の手順を奪わず、死者に触れた私と同じ湯へ、ためらわず手を入れる。
「首を。少し、支えていてください。……手足を先に温めると、弱った心の臓へ急な負担をかけることがあると、軍医が言っていました。だから胸と背から、ゆっくりと」
「その薬は、温めれば本当に戻るのか」
司法官は、首を支えたまま訊いた。
「ただ眠らせる薬ではありません。身体の熱と、命の巡りそのものを冬の川のように緩め、わずかな息と脈だけで身体を保つ、北方軍の秘薬です。放っておけば、四日から五日は解けません。部屋の暖かさでは足りず、身体の中心を長く温め続けて初めて、巡りとともに意識も戻ります。効き目が薄れるとき、身体より先に耳だけが戻る者もいる、と軍医は言いました」
「なぜ納棺師が、軍の薬を知っている」
当然の問いだった。私は、布を替える手を止めなかった。
「三年前、王宮葬儀局にいたころ、北の戦線から運ばれてきた若い兵を納棺することになりました。侍医長様が死亡を確かめられた後でした。けれど清め油を塗ったら、粒になった。口の奥に、この琥珀色がありました。私は……申し上げました。この方はまだ死んでいないのではないか、と」
私は、祭壇の脇を見なかった。
「戦線から一緒に来ていた軍医が飛んできて、樹脂だと言いました。兵は湯と温石で温められて、翌朝、目を覚ましました。暗闇の中で私の声を聞いていた、と言ったそうです。……記録には、侍医長の再診で蘇生した、とだけ残りました。私の名は消され、その日のうちに、私は葬儀局を追われました。死人に触れる不吉な女が、医師に口答えをするな。葬儀局に、不吉な納棺師はいらない、と」
あの日、この薬で人を死者に見せられると知ったのは、私だけではなかった。侍医長様もだった。
そして彼は、それを見破れる私を、王宮から追い出した。
司法官は、しばらく黙っていた。
「……薬は、どこから出る」
「王都でこの薬を正式に保管しているのは王宮薬庫だけで、軍への出庫もすべて帳簿に残ります。誰が、いつ、どれだけ持ち出したのか。帳簿が答えます」
司法官は、ロザリンデ様の首を支えたまま、書記官を呼んだ。
「王宮薬庫を封鎖し、出納帳と、侍医長のこの四日間の投薬記録を原本のまま持ってこい。……侍医長。薬庫の鍵の所在を」
祭壇の脇から、答えはなかった。
「所在も答えないなら、薬庫番立会いのもとで開錠せよ」
書記官が走り出す。侍医長の顔から、初めて血の気が引いた。
「――馬鹿馬鹿しい」
声は、すぐに戻ってきた。両側に立つ兵――朝、私を捕まえに来た二人だ――に肩を押さえられたまま、侍医長は参列者へ向かって叫んだ。
「あの兵は神の御慈悲で息を吹き返したのだ。それを手柄にした女の妄言です。皆様、それより聞いていただきたい。姪は、高い熱を出して死んだのです。私は疫病の恐れを考えていた。疫病の恐れのある身体を暖炉の前で温め、湯気を立てるなど、王都に病を撒くようなものだ。それとも司法官は、王都を疫病に晒す責めを負われるおつもりか」
ざわめきが、恐れの色を帯びた。後ろの方で、誰かが後ずさる音がする。
私は、布を替える手を止めなかった。
「熱があったかどうかは、私には確かめられません。疫病ではないと決めるのも、私の役目ではありません。ですが、疫病を疑う遺体の扱いなら、納棺師の仕事です。隔離も、防疫の覆いも、公の葬儀の取りやめも、この方には何一つされていない。だからこそ、利害のない医師の再検査が要るのです」
司法官が言った。
「侍医長。あなたの出した死亡証明は、私が預かっている。『心の臓の発作による急死』。熱の一文字もない」
「……死因は心の臓だ。熱は、その前にあった。疫病の恐れは、念のためだ」
「疫病を疑っていたのなら、なぜ死亡証明へ記さず、なぜ開いた棺をこの聖堂へ運び込んだ」
侍医長は答えなかった。
司法官は、参列席へ声を向けた。
「念のため、参列者は後方へ。介助は必要な者だけとし、口と鼻を布で覆え」
領民の女たちが、喪服の袖を裂いて口元に巻いた。誰も、暖炉から離れなかった。
「それに」と、私は続けた。「今朝、私が身支度を終える前に、葬儀局の方々に急いで棺を運ばせたのは、侍医長様です。……急いでいらっしゃるのは、疫病のせいではないと、私は思います」
沈黙が落ちた。侍医長は、そこで口をつぐんだ。
布が冷める前に、次の布を。温石は湯に浸けて、また包む。領民の女たちが、厨房と暖炉の間を、何度も往復してくれた。
私は、ロザリンデ様の顔を見ながら、手を動かした。
納棺師は、亡くなった方に話しかける。師から教わったことだ。もう聞こえない、と分かっていても、身体に触れるたびに「腕をお借りします」「少し、頭を上げます」と声をかける。物ではなく、人を送るのだから。
だから私は、今も声をかけた。
「ロザリンデ様。お母様のときにお会いした、納棺師のイルゼです。今、背中に温かい布を入れます。……首を、少し支えます」
耳だけが先に戻る、と軍医は言った。届いているかどうかは、分からなかった。
どれほどの時間が経ったのか。聖堂の高い窓から差す光が、床の上で少しずつ位置を変えていく。参列の貴族たちは席に戻ることもなく、遠巻きに、ただ黙って見ていた。
私は、ロザリンデ様の顔を、また見た。
額の生え際に、一粒の汗が浮いていた。
温石を包み直す手を止めて、その顎の下に、指を二本、そっと当てた。
……いた。
先ほどより、はっきりしていた。蛾の羽ばたきのような、とぎれとぎれの鼓動。
「司法官様。ここを」
私が言うと、司法官は何も聞かずに、私の指の横へ自分の指を置いた。長い間、黙っていた。それから、息を吐いた。
「……ある」
「はい」
唇に、色が戻り始めていた。灰色がかった白から、薄い桃色へ。眉の間に、ごくわずかに皺が寄る。眠っている人が、寝返りを打つ前のような。
私は湯で湿らせた布で、唇の外側だけを濡らした。目を開け、呼びかけに応え、自分で唾を飲み込めるまでは、口にものを入れてはいけない。それも、軍医から覚えた。
「ロザリンデ様。もう少しです。もう少しで、朝になります」
胸が、動いた。
布の下で、ゆっくりと、大きく膨らんで――細く、長い息が、唇から漏れた。
誰かが、短く悲鳴のような声を上げた。領民の女が、口を両手で覆って、その場に膝をついた。
二度目の息。三度目。
睫毛が震えて、瞼が、重たげに持ち上がる。
灰色がかった緑の瞳が、天井の高い闇を映し、それから、私を映した。
「……さむ、い」
掠れた、ほとんど音にならない声だった。
私は、笑ってしまった。泣きながら。
「はい。今、温めております。もうすぐ、温かくなります」
聖堂中が、震えるようなざわめきに包まれた。貴族の婦人が倒れかかって隣に支えられ、領民たちは互いの肩を掴んで泣き、助祭は祭壇に向かって跪いた。
その中で、侍医長だけが、石のように動かなかった。
◇
数刻後。軍病院から駆けつけた医師の診察が終わり、陽が傾き始めた頃だった。
医師は、三年前のあの軍医ではなかったが、樹脂の眠りから戻った兵を何人も診てきた人だった。脈と息を長く確かめ、呼びかけに答えるのを見て、水を一匙、飲み込めるのを確かめてから、ようやく私に言った。
「よく、手足を先に温めなかった。……樹脂の眠りは、正しく温めれば、体力をほとんど失わない。数日で、元どおりだ」
湯で温めた蜜水を、私は小匙で一口ずつ、ロザリンデ様の口へ運んだ。三口目で、彼女は自分で匙を持とうとした。
書記官が戻ってきたのは、その頃だった。
息を切らした書記官は、革の帳簿を二冊、司法官に差し出した。
「侍医長閣下は鍵の所在をお答えになりませんでしたので、薬庫番の立会いで、司法院の錠前師に開けさせました。こちらが出納帳。こちらが侍医長の投薬記録です」
司法官は、参列者の見ている前で、一冊目を開いた。
「《冬眠樹脂》。保管総数三瓶。……四日前、一瓶、貸出。目的の欄は『品質検査のため、侍医長へ』。返却の欄は――空白。貸出の印は」
顔を上げる。
「侍医長。あなたの印だ」
「棚には、二瓶しか残っておりませんでした」
書記官が付け加えた。
「検査だ」
侍医長の声は、掠れていた。
「返却が遅れたに過ぎん」
「貸出から四日。品質検査に四日はかからぬ。瓶は今どこにある」
「……検査で、使い切った」
「使い切った検査の、記録は」
侍医長は答えなかった。
司法官は、二冊目を開いた。
「投薬記録。三日前の夕。『エーレンフェルト女公爵、長旅の疲れと不眠を訴えるにつき、眠り薬を一服処方。侍医長の手ずから服用させる』。侍医長印」
聖堂が静まる。
「眠り薬だ」侍医長が言った。「姪は翌日の御前報告を控えて眠れずにいた。医師として当然の処置だ」
「では聞こう。その眠り薬は、どこから出た。出納帳のその日にも、前の日にも、眠り薬の記載はない。出ているのは樹脂だけだ」
「私の手持ちの薬だ。侍医長が薬鞄を持たぬとでも」
「なるほど。あなたの薬鞄は、司法院が預かる」
司法官は淡々と言って、私の方を向いた。
「納棺師。口の中の樹脂について、侍医長はこう言うだろう。あなたが仕込んだのだと」
言われる前に、私はその問いを予想していた。
「今朝の納棺は、公爵家の慣例に従って、家令のヨーゼフ様と侍女のお一人が立ち会われました。私は一度も、お二人の目の届かないところへ行っておりません。私の道具袋は、そこにあります。中に琥珀色のものは、清め油の壺のほかに、何もありません。樹脂は、私の手を経ずに、司法官様の封のまま検分箱にあります。……それに」
私は、暖炉のそばの寝椅子に移されたロザリンデ様を見た。
ヨーゼフ様が、その肩に毛布を掛け直している。
「三日前の夕方に何を飲まされたかを語れる方は、もう亡くなっておりません」
司法官が、寝椅子に近づいた。片膝をついて、目線を低くする。
「女公爵。お話しいただけますか。無理であれば、後日でも」
「……いいえ。今、話します」
ロザリンデ様の声はまだ細かった。けれど、その言葉は、はっきりしていた。
「三日前の夕方、叔父上が別邸の私の部屋に来ました。明日の御前報告のことで、眠れていないだろうと。……琥珀色の、甘い、松のような匂いの薬を、銀の杯に溶かして、手ずから渡されました。脚に蛇の刻印のある、叔父上の診療用の杯です。飲んで、すぐに手足が重くなって……」
彼女は、一度、目を閉じた。
「暗いところにいました。身体が動かず、目も開かず。けれど、声だけは、ときどき聞こえました。叔父上の声です。『三日以内に土へ入れよ』と、誰かに言っていました。それから……『蓋を、早く』と」
顔を上げる。灰緑の瞳が、祭壇の脇に座る男を、まっすぐに見た。
「私は、その声を聞きながら、叫んでいました。誰にも届かなかった。……あの人は、私が聞いていることを、知らなかったのでしょう」
ヨーゼフ様が、震える声で付け加えた。
「三日以内に埋葬を、貴族の方々が王都を離れる前に、と。侍医長閣下が私にそう命じられたのは、事実でございます。この老いぼれは、それを疑いもしませんでした」
司法官は、立ち上がった。
「侍医長。あなたの姪の口には樹脂があり、王宮薬庫からあなたが借り出した一瓶は戻らず、あなたの印のある記録は、その夕あなたが手ずから薬を飲ませたと言っている。そして飲まされた本人が、蛇の刻印の杯で、あなたの手から琥珀色の薬を受け取ったと証言した。杯のことは、この聖堂で誰も口にしていない。一つずつなら、言い訳は立つだろう。……四つ揃って、なお言い訳が立つとお思いか」
侍医長は、しばらく黙っていた。
それから、私を見た。
「……死人に触れる女が」
絞り出すような声だった。
「はい」
私は、頷いた。
「死んだ方の手を、何百も清めてきました。だから、生きている方の手も、分かるのです」
彼は、それきり何も言わなかった。
寝椅子から、声が上がった。
「王室司法官」
ロザリンデ様が、ヨーゼフ様の腕に支えられて、上体を起こしていた。毛布が肩から落ちる。その下は、まだ白い埋葬の衣装のままだった。
「エーレンフェルト公爵家当主、ロザリンデ・フォン・エーレンフェルトとして、告発します。王宮侍医長ゲルハルト・フォン・エーレンフェルトは、爵位を継ぐために、私を眠らせ、生きたまま土に埋めようとしました。捕らえてください」
「承った」
司法官は、祭壇の脇に立つ兵たちへ、短く命じた。
「王宮侍医長ゲルハルト・フォン・エーレンフェルト。エーレンフェルト女公爵殺害を企てた嫌疑により、王室司法官の名において、取り調べのため身柄を拘束する。司法院へ連行せよ」
朝、私を捕まえるために歩いてきた二人の兵が、今度は侍医長の両腕を掴んだ。
彼は抗わなかった。ただ、聖堂を引かれていく間、一度も姪の方を見なかった。
扉が閉まる音が、高い天井に響いた。
◇
事の後、私は暖炉のそばで、道具を片付けていた。
清め油の壺の蓋を閉め、布を畳む。人が去った後の始末をするのも、納棺師の仕事だ。
「納棺師の方」
声に振り向くと、ロザリンデ様が、ヨーゼフ様と領民の女に両側から支えられて、立っていた。
「まだ、横になっていらっしゃらないと」
「軍医殿が、少しなら、と。……あなたに、言わなければならないことがあるから」
彼女は、私の前に立った。まだ膝が震えているのが分かる。それでも、立っていた。
「イルゼ・ローデン。母を送ってくれたのも、私を呼び戻してくれたのも、あなたの手でした。私は、あなたを王宮葬儀局に戻してほしいとは、陛下に申し上げません」
私は、少し驚いて、目を上げた。
「戻ったところで、また医師の判定に従わされるだけです。王室司法官が立ち会うのは、国葬だけ。下町や遠い領地の棺には、今日のように声を聞く者がいない」
彼女は、司法官を一度見て、私に戻した。
「あなたに必要なのは、医師の下ではなく、医師と並ぶ場所。……王立埋葬監察官。死因を決めるのではありません。死が確かかどうかを、医師から独立して確かめ、疑いがあれば埋葬を止め、中立の医師へ再検査を求める役目です。国葬だけでなく、下町や遠い領地で疑いの出た棺にも、その権限が届くように。今はどこにもない。だから、作ります。陛下への御前報告は、改めて願い出ます。その席で、私が推薦します」
言葉が、出なかった。
三年前の私には、医師の判定に疑いを述べる資格さえなかった。それを――止める側に立て、と言われている。
「そんな……私は医師ではありません。納棺師です。死人に触れる――」
「その手が、私を生かしたのです」
ロザリンデ様は、私の手を取った。
四年前と同じ、温かい手だった。
「あなたが死を確かに見てくれたから、私は生きています。同じ目に遭う誰かのために、その目を、この国の役目にしてください」
私は、頷いた。声は出なかったけれど、頷いた。
司法官が、いつの間にか、そばに立っていた。
「司法院からも、上申します。今日のことは、私が全て見届けましたから」
彼はそう言って、それから、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「それとは別に、一つ。……イルゼ殿」
納棺師、ではなかった。
「はい」
「今度は――誰の葬儀でもない日に、お会いしたい」
私は、布を畳む手を止めた。
意味が、すぐには分からなかった。
「葬儀でない日に……何かの、検分のご用でしょうか。監察官になるのなら、司法院に伺うことも」
「違います」
司法官は、はっきりと首を振った。
「仕事の話ではありません。私が、あなたと話をしたいのです。棺のない場所で、棺のことでなく」
喪の黒に囲まれたこの場所で、頬に、熱が上がるのが分かった。
私は、初めて気がついた。
誰かに会う日は、いつも、誰かが死んだ日だった。
この人は、そうでない日に、私に会いたいと言っている。
「……私は、日を選べません。死は、日を選びませんから。約束をしても、その朝に誰かが亡くなれば、私はそちらへ行きます」
「知っています」
司法官は、頷いた。
「その日に誰かが亡くなっていたら、あなたの仕事が終わるまで、私は待ちます。何日でも」
私は、しばらく黙っていた。
それから、答えた。
「……七日後の午後なら。今のところ、誰の葬儀も入っていません」
「七日後の午後」
彼は、それを、判決を言い渡すときのような真面目さで繰り返した。
「伺います」
ロザリンデ様が、支えられながら、小さく笑ったのが聞こえた。
やがて、大聖堂の扉が開かれた。
傾いた陽の光が、身廊の石床の上に、長い道を作る。
ロザリンデ様は、ヨーゼフ様と領民の女の腕を借りて、その光の中を、一歩ずつ歩いていく。白い埋葬の衣装の裾が、床を引いた。貴族たちが、左右に分かれて頭を下げた。領民たちは、泣きながら、その名を呼んだ。
私は、暖炉のそばに残された、白樺の棺の前に立った。
白い絹の内張りには、まだ人の形の窪みが、薄く残っている。私はそれを、手のひらで、ゆっくりと撫でて整えた。それも、納棺師の癖だった。
扉のところで、彼女は一度、振り返った。
私に向かって、公爵家の当主が、深く頭を下げた。
私も、頭を下げた。
そして、光の中へ、彼女は出ていった。
自分の足で。
私は、蓋に両手をかけて、静かに閉じた。
木の合わさる、低い音がした。
誰も入っていない棺の蓋を閉めるのは、生まれて初めてだった。
――これからは、この音を、増やしていこう。




