第8話 B1の鍵
7:02
アラームで目が覚めた瞬間、私は反射で耳の奥を探った。まだ鳴っていないはずの音――十八時五十分の、あの気配。
当然、いまは静かだ。部屋の空気は冷たく、窓の外は白い。太鼓の練習音。建国記念祭。
「今日は、B1」
声に出すと、胸の奥の焦りが少しだけ整列した。
前のループで見た札。『保守用EV B1』。藤崎は非常口が塞がれたら、別の穴に回る。穴を塞げば、さらに別の穴を探す。
いたちごっこ――だけど、穴の数には限りがある。駅は迷路じゃない。鍵束で閉じられる扉は、必ずある。
問題は、その鍵が誰の腰にぶら下がっているかだ。
7:30
まだ人の少ない駅に着くと、警備詰所の前で飯田が鍵束を鳴らしていた。
私を見る。知らない顔を見る目。昨日も見た目。今日も初対面。
「飯田さん」
私は名札を見せた。救急実習の札。
「……救急?」
「はい。今日は、迷子が出ます。守りたいです。あの時の後悔ごと」
言った瞬間、飯田の喉が動いた。鍵束を握る指の力が緩む。
この人に刺さるのは、“正論”じゃなくて“守る理由”だ。
「……朝から何の用だ」
「保守用エレベーター、B1。そこを封鎖したいです。十七時十八分に、工事服の女がそこを使います」
飯田が眉を寄せた。
「また予言か」
ヒヤリ。ここで“変な奴”枠に戻されたら終わる。
リカバー。私は“予言”ではなく“昨日の現場”として言い換えた。
「昨日、サービス扉が動きました。非常口が静かな代わりに。扉の札にB1ってありました。……次はそこです」
飯田はしばらく黙って、駅の奥――関係者通路の方向を見た。
「B1の鍵は警備じゃ持ってない。設備管理だ。真壁の机に入ってるやつもある」
私は息を呑んだ。
真壁。運行責任者。神崎に縛られている男。
“机に入ってるやつもある”。つまり、マスターカードがある。
「真壁さんに頼める?」
私が訊くと、飯田は苦い顔をした。
「頼んでも出さねえ。あいつ、上(港都インフラ)に頭上がらねえんだ」
鎖は、やっぱりそこにある。
8:00
私は危機管理課に電話した。
繋がったのは短い声。
「篠原」
初対面の声のはずなのに、私の胸は一瞬だけ軽くなる。現場で動ける人の声。
「湊都中央駅です。今日、保守用EV(B1)を封鎖したい。真壁がマスターカードを持ってる可能性があります」
向こうが一拍沈黙した。
「あなた、昨日の実習生?」
昨日なんてないのに、彼女は“昨日”と言った。私の言葉のパターンを覚えるタイプだ。現場の人間は、異常を記憶する。
「はい。八時五分の掲示板裏も押さえます。その上で、B1です」
「……分かった。八時五分に行く。そこから話を進める」
8:05
掲示板前。紙の貼り替え。藤崎の錨の指輪。高瀬の顎の傷。
いつもの流れが始まる。根っこを潰す時間。
高瀬が掲示板脇の細い扉に手を伸ばした瞬間、飯田が前に出た。
「そこは通さない」
「点検です」
「点検なら、なおさら通さない。今日、人が多い」
高瀬の笑みが僅かに固まった。その目が藤崎へ流れる。藤崎は貼り替えた紙の端を押さえたまま、動かない。
――その“動かない”が怖い。余裕に見える。計画が一つじゃない目だ。
篠原が来た。腕章。早足。
「扉、開ける」
飯田が鍵を回し、狭い通路が開く。赤いレバー。『設備点検モード』。
篠原が一度だけ私を見る。
「今日は、触らせない」
「はい」
高瀬は逃げなかった。逃げる代わりに、スマホを取り出して二音を鳴らした。
ヒヤリ。計画変更の合図。ここで“別ルート”が動く。
リカバー。私は篠原の耳元へだけ囁いた。
「B1が動きます。今日の穴はそこです。真壁がカードを持ってる」
篠原の目が細くなる。
「……真壁、ね」
9:10
運行責任者室。真壁は机の上の書類を睨み、疲れた目でこちらを見た。
「朝から何だ。点検の件なら、港都インフラが――」
「港都インフラが、あなたを縛ってる」
篠原が遮った。言葉が短い。刃物みたいに迷いがない。
真壁の口元が引きつった。
「……何の話です」
「保守用EV(B1)のマスターカードを出して。危機管理課が預かる。今日だけでいい」
真壁の目が一瞬だけ泳いだ。
机の引き出し。そこに“ある”反応。
ヒヤリ。ここで拒否されれば、B1は押さえられない。飯田が言っていた通りだ。
私は口を挟む代わりに、真壁の机の端に置かれたスマホを見る。
画面が光り、送信者名が浮かぶ。
『Kanzaki』
真壁の顔色が変わった。指が震え、慌てて画面を伏せる。
鎖だ。鎖が見えた。
リカバー。私は真壁の“恐怖”に言葉を合わせた。
「真壁さん、今日だけでいいんです。あなたが責任を取らない形にします。篠原さんの権限で、預かる」
責任を取らない形。
真壁の喉が動いた。欲しいのは正義じゃない。生き残る道だ。
篠原が重ねた。
「あなたが止めてるのは“火”じゃない。“初動”だ。止めたら、人が死ぬ。あなたの机の鍵が原因になるなら、預かる」
真壁は数秒、固まったまま――それから、引き出しを開けた。
カードキーが一枚。青い。角が擦れている。
彼はそれを掴み、篠原へ差し出した。手が震えていた。
「……今日だけだ。神崎さんにバレたら、俺は——」
「バレても、責任はこっちが持つ」
篠原の声は淡々としているのに、真壁の背中が少しだけ軽くなるのが見えた。
11:00
換気室の前。巡回員のスマホが二音鳴り、彼が舌打ちしてスイッチへ伸ばす。
篠原が先に言った。
「触るな。点検モードは解除した。今日は動く」
巡回員が電話口で小さく呟く。
「神崎さん、無理っす。危機管理が……」
神崎の名前がまた落ちた。
換気の低い音は止まらなかった。甘い匂いも薄いまま。
“普通の日”に近づく感覚が、怖いくらい新鮮だった。
14:00
放送は途切れなかった。
ぷつり、が来ない。ノイズがない。
人は流れたまま、言葉が届いたまま。
篠原が短く言う。
「B1、位置を確認する」
飯田が先導した。関係者通路の奥、倉庫の脇。『保守用EV B1』の札。
扉はカードキーで開くタイプだった。篠原が青いカードをかざすと、電子音が鳴ってロックが外れた。
「ここを十七時まで封鎖する」
篠原が言い、飯田が警備テープを張る。
私は札を見つめた。これが、藤崎の次の穴。ここを塞げば、彼女は別の穴を探す。
15:10
階段の手すりにもたれていた作業員――サカイが、今日も汗だくで俯いていた。
手袋を落とす。私は拾って差し出す。
「落としました」
サカイは受け取る手を止め、低く言った。
「……あんた、関わるな。神崎さんに——」
「神崎が何をしてるか、知ってます」
私が言うと、サカイの目が揺れた。
ヒヤリ。ここで踏み込みすぎたら、サカイは逃げる。二度と近づけない。
リカバー。私は“助ける言葉”だけを置いた。
「あなたを使い捨てにさせない。逃げ道はある」
サカイの喉が動いた。
「……B1、押さえたのか」
「はい」
「なら、次は……階段だ。保守用階段。B1からも行けるし、別の扉からも入れる。鍵は……飯田さんが知ってる」
新情報が落ちた。
階段。別の扉。穴は、まだある。
16:25
花火警備へ警察車両が流れる。駅前の空気が薄くなる。
篠原は配置を変え、駅側に一台残すよう交渉していた。飯田はB1の扉前に立ち、テープの張り直しをしている。
17:10
B1付近は関係者通路で人が少ない。その“少なさ”が逆に怖い。ここで揉めれば声が響く。
私は壁に背をつけ、耳を澄ませた。
――そのとき、小さな泣き声がした。
サービス通路のさらに奥。子どもの声。
「……ママ……」
ミオだ。
いつもはコンコースの中央柱。なのに今日は、通路のテープで動線が変わったせいで、迷い込んだ。
新変数。想定外。
胸がぎゅっと締まる。助けに行けば、B1の張り付きが薄くなる。ここを離れたら藤崎が通るかもしれない。
ヒヤリ。救うか、守るか。
私は息を吸って、足を止めた。――違う。止めない。やり方を変える。
リカバー。私は無線を取って飯田へだけ短く言った。
「飯田さん、迷子がサービス通路奥に。ミオ。お願い、助けて」
飯田が一瞬だけ目を見開いて、それから迷わず頷いた。
「分かった!」
彼が走る。私はB1を離れない。
“全部自分でやらない”。それが、私がここまでで覚えたことだ。
17:18
足音。工具箱の角が壁に当たる乾いた音。
藤崎が現れた。作業服。錨の指輪。目が笑っていない。
彼女はテープを一瞥し、青いカードキーをかざした。
――開かない。
電子音が鳴らない。ロックが生きている。
藤崎の口元がほんの僅かに歪んだ。
「……真壁、裏切った?」
呟きが私の耳に刺さる。
彼女は一歩引き、別の扉――保守用階段の表示がある方向へ視線を投げた。
ヒヤリ。B1を塞いでも、階段が残っている。サカイが言っていた穴だ。
篠原が前に出た。
「港都インフラの藤崎。ここは封鎖。任意で話を——」
藤崎は肩をすくめ、工具箱を持ち替えて、すっと人の陰へ溶けた。
逃げ足が速い。追えば、私たちは“走る人”になる。走る人は群衆を煽る。
リカバー。篠原は追わずに命じた。
「階段を押さえる。飯田、戻ったら合流。ここは二重封鎖」
言葉が短い。迷いがない。現場は、こういう言葉で動く。
17:20
火災報知器が鳴った。
でも、空気は止まらなかった。放送は生きている。換気も生きている。
真壁の声がスピーカーに乗った。
「火災報知。確認は後だ。誘導を優先する。走らない、押さない。壁沿いに」
その“壁沿いに”が、胸の奥に刺さった。私が何度も叫んだ言葉が、ようやく駅の言葉になった。
煙は上がった。怖い匂いもした。
それでも、人は崩れなかった。泣き声はある。怒鳴り声もある。だけど将棋倒しにはならない。
私は喉が枯れるまで誘導しながら、心のどこかで思った。
鍵を一本抜くだけで、地獄は形を変える。
18:50
耳の奥で、アラームの気配が鳴った。戻る準備の音。
飯田が戻ってきて、息を切らしながら言った。
「迷子、保護した。母親に渡した」
私は頷いた。言葉が出ない。
“守れた”が、胸に残る。
篠原が私に言う。
「B1は塞いだ。次は階段だ。……それと、真壁がカードを持ってた理由、掘る必要がある。あれは脅されてる目だった」
私も頷いた。
鎖は、まだ神崎の手にある。鍵は一本抜けた。でも鎖そのものは残っている。
19:00
空気が薄くなり、視界が暗く落ちた。
7:02
アラーム。
私は飛び起き、胸の奥で青いカードの角の感触を思い出した。真壁の震える手。藤崎の呟き。
「真壁、裏切った?」
裏切ったんじゃない。救うために、鎖を少し緩めただけだ。
次は、階段。次は、神崎。




