第7話 八時五分の根っこ
7:02
アラームで目を開けた瞬間、最初に浮かんだのは時刻だった。
八時五分。
十一時でも十四時でもない。全部の根っこ。掲示板の裏の赤いレバー。あれが入ると、点検の名で換気も放送も検知も縛られる。
――潰すなら、今日だ。朝だ。
私は枕元で深呼吸を数え、心臓の跳ね方を落ち着かせる。紙は残らない。持ち物も残らない。だから、残すのは“人の手”だ。
飯田。駅警備員。鍵を持ち、扉を閉める理由を口にできる人。
ただ問題がある。
飯田にとって私は、今日も初対面だ。
「信じて」と言うだけじゃ、門は開かない。開けるための言葉が要る。
7:30
早めに駅へ向かった。まだ祭りの客が押し寄せる前で、コンコースの床が少しだけ静かに光っている。
警備詰所の前に、飯田がいた。ベルトの鍵束を鳴らしながら、扉の施錠を確認している。顔は疲れているけど、目は真面目だ。
「飯田さん」
私が声をかけると、飯田が振り向いた。知らない顔を見る警戒。
私は先に名札を見せた。救急実習の札。敵ではない、と伝えるための布。
「救急署から来ました。今日は――迷子、出ますよね」
飯田の眉が動いた。
「……何で知ってる」
来た。疑いの入口。ここで間違えたら閉じられる。
ヒヤリ。焦って“予言”を出したら終わる。
リカバー。私は“当たり前”を言った。
「祭りの日は、毎年出ます。去年も、一昨年も」
飯田が苦く笑った。
「……去年は、ひどかった。俺の目の前で、手が離れて……」
言いかけて、口を噤む。自分の後悔を、口に出したくない顔。
私はその沈黙に、言葉を置いた。短く。
「迷子は、守りたいです。あの時の後悔ごと」
飯田の目が、ほんの一瞬揺れた。鍵束を握る指の力が緩む。
私の言葉が刺さったのが分かった。
「……それで、救急が朝から何の用だ」
「掲示板の裏、開けたいです。八時五分に、誰かが“点検モード”を入れます」
「点検モード?」
「昨日――前の祭りで、放送が途切れて混乱したって聞きました。あれの原因が、そこです」
嘘と真実の境目を、私は踏み外さないように歩く。
飯田はしばらく私を見て、それから溜息を吐いた。
「……分かった。だが俺ひとりじゃ面倒を見る理由が弱い。危機管理課、呼べるか」
篠原の名前が出た。飯田も彼女を知っている。現場の人間だ。
私は頷いた。
「呼びます。…来なくても、まず扉を押さえたい」
飯田が鍵束を鳴らした。
「八時前に一回だけな。中は狭い。揉め事は起こすなよ」
8:00
市役所の代表番号を経由して、危機管理課へ繋いでもらう。篠原は短い声で出た。
「篠原」
初対面の声。胸がぎゅっとなる。でも、迷ってる暇はない。
「湊都中央駅で、八時五分に設備点検モードが入ります。掲示板裏の赤いレバーです。今日の夕方、火災報知が鳴った時、初動が止まる原因になります」
電話の向こうが一拍静かになった。
「……あなた、誰」
「救急実習のハルです。いま駅にいます。飯田さんもいます。八時五分、現行で見せます」
予言じゃなく、現行。
それが篠原に効く言葉だと、私は前のループで学んだ。
8:05
掲示板前。人の流れが薄い。紙を剥がす音がやけに大きく聞こえる。
係員が紙を貼り替える。藤崎が横に立つ。錨の指輪が光る。
そして、少し遅れて高瀬が来た。顎の傷。落ち着いた目。掲示板脇の細い扉へ、迷いなく手を伸ばす。
――飯田が一歩前に出た。
「そこ、関係者以外は通さない」
高瀬がにこりと笑う。
「港都インフラです。点検——」
「点検なら、なおさら通さない。今日、人が多い」
高瀬の笑みが僅かに固くなる。視線が掲示板の向こうへ流れる。藤崎を探している。
藤崎は気づかないふりをして、紙の端を指で押さえたまま動かない。
ヒヤリ。ここで高瀬が押し通したら、レバーが入る。
私は口を挟む代わりに、飯田の耳元へだけ低く言った。
「今、腕章の女が来ます。危機管理課」
言い終わる前に、早足の靴音が来た。
篠原だった。腕章。目が鋭い。
「そこで何してる」
高瀬が即座に名刺を出す。
「港都インフラの——」
篠原は名刺を受け取らず、扉の方を見た。
「開ける。中を確認する」
飯田が鍵を回し、扉が開く。狭い通路。埃と紙の匂い。壁の赤いレバー。札に書かれた文字。
『設備点検モード』
篠原が一度だけ私を見た。
「……これを、八時五分に?」
「はい。いま、まさに」
高瀬の顔色が変わった。逃げるタイミングを計っている顔。
篠原が言った。
「このレバー、触るな。今日は危機管理課が封鎖する」
高瀬が口を開く。
「勝手なことをされると——」
「勝手じゃない。人命が絡む」
高瀬の瞳が細くなり、次の瞬間、踵を返して人波に紛れようとした。
飯田が肩を掴む。
「逃げるな。名乗ったなら、話せ」
一瞬、揉み合いになりそうになる。
ヒヤリ。ここで騒ぎが大きくなれば、藤崎は別ルートへ動く。点検班は“計画変更”する。
リカバー。私は高瀬の前に立ち、声を落とした。
「逃げたら、あなたの“点検”はもっと疑われます」
ただの事実。脅しじゃない。
高瀬が歯を噛み、篠原の方を見た。篠原は冷たく言う。
「任意でいい。ここで説明しろ」
高瀬は、言葉を飲み込んだ。逃げるのを諦めた目になった。
11:00
換気室。巡回員が来た。二音。スマホが鳴る。
いつものようにスイッチへ手を伸ばす――が、篠原が先に言った。
「今日は封鎖。触るな」
巡回員は舌打ちし、スマホを耳に当てる。
「……神崎さん、無理っす。危機管理が張り付いてる」
神崎の名前が、はっきり聞こえた。
換気の音は止まらなかった。
甘い匂いも、薄いまま。
私の胸の奥に、初めて“今日は違う”という感覚が生まれる。
14:00
放送は途切れなかった。
ぷつり、が来ない。ノイズもない。
人は流れたまま。言葉が届くまま。
篠原が短く息を吐く。
「少なくとも、今日は“点検”で首を絞められない」
飯田が頷き、私を見る。
「……お前、何者だ」
私は答えられない。だから、答えの代わりに言った。
「十七時十八分、別の扉が動きます。昨日、そっちが開きました」
私の声が少しだけ掠れた。止めれば止めるほど、敵は道を変える。それを私は知っている。
16:25
花火警備へ警察車両が流れる。駅前の空気が薄くなる。
篠原は配置を変え、駅側に一台残すよう交渉していた。
飯田は扉の鍵を握り直し、いつもより早く非常口付近へ人を置いた。
17:18
非常口は静かだった。金属音もしない。
代わりに、離れた場所で“重い扉”が開く音がした。
ゴン、と鈍い音。サービス扉。保守用。
飯田が顔を上げる。
「……あっちだ」
私たちは走らない。走れば群衆を煽る。
壁沿いに、速足で移動する。
扉の隙間から、作業服の女が出た。藤崎。錨の指輪。
手には工具箱。視線はまっすぐ、電気室の方へ向いている。
“非常口が駄目なら、放送を殺す”。そういう動きに見えた。
ヒヤリ。ここで止めないと、十七時二十分がまた止まる。
でも、ここで揉めればパニックの火種になる。
リカバー。篠原が一歩前へ出て、藤崎の進路を塞いだ。
「港都インフラ。どこへ行く」
藤崎は一瞬だけ笑った。
「点検ですよ。あなたも好きでしょ、その言葉」
篠原の表情が動かない。
「点検は終わった。帰れ」
藤崎は肩をすくめ、工具箱を持ち替えた。
その動きで、箱の側面に貼られた小さな札が見えた。
『保守用EV B1』
保守用エレベーター。B1。
彼女は扉の陰へすっと消え、私たちの視界から消えた。追えば危ない。追わなければ、行き先を失う。
私は札の文字だけを、頭に叩き込んだ。B1。保守用EV。
17:20
火災報知器が鳴った。
でも、空気は止まらなかった。篠原が先に言う。
「初動。地下確認。誘導は壁沿い。放送は生きてる。いける」
真壁が一瞬だけ迷い、そして頷いた。
「……了解。確認は後回し。先に動け」
爆発の衝撃は、今日は来なかった。
小火は起きた。煙も出た。泣く子もいた。
それでも将棋倒しにならず、声が届くまま、人が外へ流れていった。
私は喉が枯れるまで誘導しながら、胸の奥で思った。
“完璧”に近づいている。
でも、藤崎はまだ動いている。神崎はまだ糸を握っている。
そして、保守用エレベーター――あれが次の穴だ。
18:50
耳の奥で、アラームの気配が鳴った。戻る準備の音。
篠原が私に言う。
「掲示板裏は封じた。次は何だ」
私は息を吸う。
「保守用エレベーターです。B1。藤崎が“非常口の代わり”に使います」
篠原の目が細くなる。
「……分かった。次はそこを押さえる」
次。彼女は“次”と言った。今日は初対面のはずなのに、次を口にする。
私はその言葉だけで、少し救われた。
19:00
空気が薄くなり、視界が暗く落ちた。
7:02
アラーム。
私は飛び起き、胸の奥に残った札の文字を反芻する。
『保守用EV B1』
藤崎は非常口が塞がれたら、別の穴から回り込む。次は、その穴を塞ぐ番だ。




