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第6話 掲示板の裏

7:02

アラームの音で目が覚めた瞬間、私は自分の喉を押さえていた。焼ける痛みはない。それでも指先が「ここだ」と確かめたがる。

ベッドから起き上がり、息を吸って吐く。肺は普通に動く。世界も普通に白い。太鼓の練習音。建国記念祭。今日も同じ日。


私の頭の中だけが、普通じゃない。


「点検班」「神崎」「高瀬」「藤崎」「錨の指輪」

昨夜――いや、昨ループの夕方に積んだ線を、起き抜けの脳に並べ直す。

五回目で篠原を動かせた。彼女の声は真壁の「確認だ」を一瞬止めた。

なら、次はその前だ。十一時。換気。あそこを止められたら、蒸気の溜まり方が変わる。爆発の形が変わる。勝ち筋が見える。


問題はいつも同じ。篠原は私を知らない。私は紙を残せない。

だから今日は、“現象”を見せる前に人を動かす。自分の肩書きでは無理なら、佐伯さんの肩書きを借りる。


8:40

救急署の詰所で、私は佐伯さんの前に立った。声が震えないように、息を一つ置いてから言う。


「佐伯さん。中央駅で、午前中に設備の異常が起きます。換気が止まる。放送も途切れる。今日、事故が起きたら初動が遅れる」

佐伯さんは眉をひそめた。

「またその話か。お前、最近目が変だぞ」

「分かってます。でも……訓練です。駅と危機管理課を呼んで、午前中に“共同点検”の形を取りたい」

「危機管理課?」

「篠原さんって人がいるはずです。現場の人です。呼べたら、換気室の前を押さえられる」


佐伯さんはしばらく私を見た。冗談を探す目じゃない。私が崩れていないかを量る目だ。

ヒヤリ。ここで「お前は休め」で終わったら、私は十一時に辿り着けない。


私は言い方を変えた。真実を混ぜる。

「昨日――じゃない、前に祭りで駅前が混乱した時、救急が詰まりました。あの時みたいになるのが怖い」

嘘じゃない。私は何度も混乱を見た。何度も詰まった。


佐伯さんは唇を噛み、乱暴に頬を掻いた。

「……分かった。俺が駅に電話する。“救急として念のため”で話を通す。お前は余計なこと言うな」

リカバー。扉が一枚開いた。私は小さく頷いた。


8:05

中央駅の掲示板前。私はいつもより早く来て、壁際に立った。

係員が紙を剥がし、別の紙を貼る。藤崎がそこにいる。右手薬指の錨が一瞬光る。

その背後で、若い男――高瀬が、掲示板の横にある細い通路へするりと入った。


「……裏?」

通路の奥は見えない。けれど、私は覚えている。あそこは昨日まで“ただの影”だった。

高瀬が一度だけ腕を伸ばす仕草をした。壁のどこか。何かを押したみたいに。

そして何事もなかったように出てきて、藤崎に頷いた。


背中に冷たい汗が流れた。

掲示板は、ただの掲示じゃない。何かの“蓋”だ。


10:50

換気室の前に、篠原が来た。腕章。危機管理課。歩き方が速い。迷いがない。

佐伯さんが事情を説明し、篠原は私を一度だけ見た。


「あなたが言ってた実習生?」

私の喉が鳴った。五回目のループで会ったはずなのに、彼女にとっては初対面。

「はい。ハルです」

篠原は短く頷く。

「今日は“点検”で通す。現場は言葉で動く。いい?」

「……はい」


篠原が換気室の扉を見上げた。

「十一時に止まるって言ったね」

「はい」

「止まらなかったら?」

試す目。私は息を吸って答えた。

「止まらなかったら、私の勘違いです。でも……止まります」


11:00

巡回員が来た。昨日までのループと同じ顔。苛立ちを皮膚に貼り付けた男。

彼は壁のスイッチを見て、舌打ちした。

「うるせえな、これ……」

スマホが二音鳴る。巡回員の目が固くなる。

「……了解」

手が伸びる。


篠原が一歩で前に出た。

「触らないで。危機管理課の点検中」

巡回員は「は?」と目を剥いた。

「誰だよ。俺、駅の——」

「触ったら“点検妨害”になる。あなたの上も呼ぶ」

篠原の声は低い。冷たくはない。刃物みたいに短い。


巡回員の手が止まった。止まったはずだった。

私は息を吐きかけて――次の瞬間、背筋が凍った。


11:10

換気の音が、ふっと消えた。

誰もスイッチに触っていない。篠原も巡回員も、手は空中にある。

それでも空気の流れが止まる。重たい沈黙が地下に沈む。


「……何?」

篠原がスイッチを見た。位置は変わっていない。なのに、止まっている。

巡回員が青ざめ、咄嗟に言い訳を探す顔をした。

「俺じゃねえ! 知らねえよ!」


ヒヤリ。

私の言葉は当たったのに、止められなかった。

篠原の視線が私に刺さる。“だから何?”という刺し方だ。現場は結果で動く。


私は喉の奥の震えを飲み込み、言った。

「別の場所です。スイッチはここだけじゃない」

篠原が眉を寄せる。

「根拠は?」

「八時五分、掲示板の裏に入った男がいました。……点検班の高瀬です」

“高瀬”という名前を口にした瞬間、篠原の目がほんの僅かに動いた。覚えのある名字に反応するみたいに。


「掲示板?」

「はい。裏に何かあります」


リカバー。私は“感”じゃなく“観測”を置いた。篠原は結果しか信じない。結果に繋がる観測だけを渡す。


12:30

軽事故の交差点。救急車が来る前に群衆が膨らむ。

高瀬は今日もいた。歩道の端。顎の傷。落ち着いた目。

彼はスマホを取り出し、二音を鳴らし、どこかへ送る。


私は篠原と目を合わせ、頷いた。

篠原は小型の無線で短く言う。

「……今。確保」


人混みの向こうから、私服の警備員が二人、滑るように出てきた。高瀬の左右に立つ。

「ちょっといいですか」

高瀬の顔が一瞬だけ固まった。次の瞬間、踵を返して走る。


ヒヤリ。逃げる。群衆の中で追えば転倒が起きる。事故が増える。

私は反射で走り出しそうになって、足を止めた。五回目までの私は“追う”で何度も死にかけた。

代わりに私は、先回りの道を選んだ。高瀬が必ず通る狭い路地。八時五分に掲示板裏へ入るときと同じ、身体の使い方をする男だ。壁沿いに走る。


路地の出口で、高瀬が飛び出してきた。

私と目が合い、彼の手がスマホを握りしめる。投げる気だ。壊す気だ。

私は躊躇なく腕を伸ばした。


掴んだのはスマホじゃない。高瀬の手首だ。

彼が驚き、スマホが宙に浮く。落ちる。


世界が一秒だけスローモーションになった。

私は落ちるスマホに手を伸ばし、指先で弾くように受け止めた。

落としたら終わりだ――証拠は今日だけしか使えない。


「放して!」

高瀬が叫ぶ。私服が追いつき、高瀬の腕を取る。

篠原が遅れて来て、私の手からスマホを奪うように受け取った。


「……ありがとう」

篠原の声が、初めて柔らかかった。


13:00

篠原はその場でスマホを開いた。ロックはかかっていない。高瀬は仕事用にしているのか、油断なのか。

画面に出たのはメッセージ。黒地に白文字。グループ名。


『点検班』


固定メッセージの一番上に、今日の工程が箇条書きで並んでいた。


08:05 掲示板裏レバー ON

11:10 換気 停止確認

14:00 PA 瞬断

17:18 非常口 板

17:20 誤報で止める


篠原が息を呑んだ。私も喉が鳴った。

“掲示板裏レバー”。

だから十一時に巡回員を止めても、換気は止まった。

スイッチはここだけじゃない。掲示板の裏で切られている。


篠原は素早く自分のスマホを取り出し、画面を撮った。さらに、神崎の名前が出ているログを指で滑らせる。

『Kanzaki:予定通り。余計な火種は作るな。点検中で押し切る』

『Fujisaki:了解』

『Takase:掲示板裏、完了』


証拠は残せない。でも、私は文字列を目で噛んだ。

「掲示板裏、完了」

その言葉だけで、胸が冷えた。


14:00

中央駅。放送が一秒途切れる瞬間、篠原はもう動いていた。

「掲示板裏、開ける。警備、鍵」

飯田が走ってきた。汗だくで、でも目が真剣だ。

「裏って……あそこ、普段は倉庫扱いで——」

「開けて」

篠原の一言で、飯田は鍵束を鳴らし、掲示板の脇の細い扉を開けた。


中は狭い。埃と紙の匂い。壁に、レバーがあった。

非常時用のオーバーライド――みたいな、無骨な赤いレバー。

その横に小さな札が貼られている。


『設備点検モード』


篠原が唇を噛んだ。

「……“点検”って、こういうことか」

彼女はレバーを見つめ、私を見る。

「これ、戻す」

「戻してください」

声が掠れた。これを戻せば、換気が戻る。放送も戻る。検知器も戻る――はずだ。


篠原がレバーに手をかけた瞬間、背後で足音がした。

藤崎だった。作業服。錨の指輪。

彼女は狭い通路の入口に立ち、こちらを見た。


「……へえ。見つけたんだ」

声が乾いている。驚きより、興味。

ヒヤリ。藤崎の目が、私をまっすぐ捉えた。初対面のはずなのに、“またいる”と言いたげな目だ。


篠原が一歩前に出た。

「港都インフラの藤崎。ここは立入禁止。点検妨害で——」

藤崎は肩をすくめた。

「点検、でしょ? あなたも」

その言葉が、背中を冷やした。点検という言葉が、敵の武器でも味方の武器でもある。


リカバー。私は藤崎を見ずに、篠原へだけ言った。

「レバー、戻してください。今は言葉より、設備です」

篠原は一瞬だけ目を閉じ、レバーを引いた。

換気の低い音が、遠くで戻った気がした。放送のノイズが消えた気がした。

“気がした”だけでも、私は救われた。


17:18

非常口は、今日は動かなかった。金属音もしない。藤崎は現れない。

代わりに、どこか別の場所で機械が開く音がした。サービス用の扉の、重い音。

飯田が顔を上げた。

「……あっちか」

私の胸が嫌な形で跳ねる。

止めれば止めるほど、相手は道を変える。藤崎は一つの手じゃない。


17:20

火災報知器が鳴った。

けれど、空気は前より止まらなかった。放送が途切れない。篠原が先に言う。


「初動。地下確認。誘導は壁沿い。走らない。押さない」

真壁は顔を強張らせながらも、頷いた。

「……了解。確認はあとだ。先に動け」

その一言が、胸の奥で小さく鳴った。鎖が一つ、緩んだ。


煙は上がった。怖い匂いもした。

それでも、人の流れは昨日より整っていた。誰かが転んでも、すぐに引き上げられる。声が届く。

私は壁沿いに立ち、喉が枯れるまで誘導した。

“完璧”じゃない。でも、“地獄”からは離れている。


18:50

アラームの気配が、耳の奥で鳴った。今日も世界は戻る準備をする。

篠原が私に近づき、低い声で言った。

「あなた、これ……どうやって知ったの」

私は答えられない。

だから、答えの代わりに、頼んだ。

「次は、八時五分です。掲示板裏レバーを先に押さえてください。そこで全部が始まります」

篠原は数秒黙り、頷いた。

「……分かった。だけど、次は“神崎”を押さえないと、また別の手が出る」

その通りだ。藤崎は道を変える。神崎は言葉で人を縛る。


19:00

空気が薄くなり、視界が暗く落ちた。


7:02

アラーム。

私は飛び起き、胸の奥に残った文字列を反芻した。

08:05 掲示板裏レバー ON。

それが、換気も放送も検知も縛る“根っこ”だった。

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