第5話 点検班
7:02
アラームの音で目が覚めた瞬間、私は息を止めていた。喉の奥が熱い。――違う、熱い“気がする”だけだ。
爆発はもう起きていない。けれど身体は、起きたことを忘れていない。
「神崎」「点検中」「確認だ」
四回目のループで拾った言葉を、起き抜けの舌で確かめる。真壁を縛っている鎖の名前。
そして、藤崎。錨の指輪。
止めるには、鎖を切る刃が要る。私ひとりの声じゃ足りない。権限の刃――危機管理課。篠原。
でも、篠原に会っても「信じてくれ」と言うだけじゃ駄目だ。私は予言者じゃない。証拠も残せない。
だから今日は、線を作る。神崎が誰を動かし、どこをいじらせ、何を起こさせているのか。
点を繋いで“説明”にする。
7:20
駅前のカフェ。こぼれるコーヒーは今日も同じように床を濡らした。
工事服の背中は慌ただしく店を出る。追わない。追っても、私の手には何も残らない。
私はただ、胸元のロゴを視界の端に押し込んだ。港都インフラ。駅の工事。神崎の会社。
8:05
掲示板の前。係員が紙を剥がし、別の紙を貼る。
藤崎がそこにいた。作業服。短い髪。右手薬指に、錨の指輪。
彼女はテープを押さえながら、隣の男に淡々と言った。
「“点検”って言葉、強いから。これ貼っとけば、誰も疑わない」
男が苦笑いする。「さすが藤崎さん」
私は一瞬、背筋が冷えた。点検。強い言葉。
真壁が首を絞められるのは、誤報の癖だけじゃない。“点検”という免罪符があるからだ。
藤崎がこちらへ視線を投げる。昨日もどこかで見たような、測る目。
ヒヤリ。気づかれている。私の動きが、少しずつ彼女の計画に“変数”として乗り始めている。
リカバー。私は救急の実習証をわざと見せ、スマホで時刻だけ確認するふりをした。
藤崎の視線が逸れる。救急は面倒だが、今この瞬間の敵ではない――そう判断した顔。
9:40
地下へ降りる階段で、甘い匂いが鼻を掠めた。溶剤。焦げとは違う、甘ったるい危険。
匂いの薄さが怖い。薄いのは「安全」じゃない。「まだ溜まっていない」だけだ。
私は深呼吸して地上へ戻った。今日は止めない。止めるには、まず“線”が要る。
11:00
換気室の前。巡回員が足を止め、スマホの通知で顔を固くした。二音。
「……了解」
彼は小さく呟き、スイッチを下げた。空気の流れが止まる。耳の奥で、何かが折れる音がした気がした。
私は巡回員の口元を見た。
「神崎さん……」
確かにそう言った。独り言みたいに、誰にも届かない声で。
命令の送り主は神崎。四回目で見えた“Kanzaki”が、今日は耳でも確定した。
12:30
軽事故の現場。交差点。苛立った男。スマホを構える群衆。
私は処置の手を動かしながら、視線だけで“若い男”を探した。昨日も一昨日も、観客の端で頷いていた男。顎の傷。耳の形。
いた。
若い男は、誰より落ち着いていた。救急車が来るタイミングを知っているみたいに、目線が動く。
そして、私たちがストレッチャーを出した瞬間――彼はスッと人の輪の外へ出て、スマホを操作した。
二音。
私は血圧計を片付けるふりをして、男の背後へ回った。
画面の上部に、グループ名が一瞬だけ見える。黒地に白文字。
『点検班』
その下に短い文が流れた。
『換気、切れた。』
送信者名:Kanzaki
ヒヤリ。心臓が嫌な跳ね方をする。線が一本、はっきりした。
神崎→点検班→巡回員、藤崎――ここに命令が流れている。
私は息を止めたまま、若い男の次の動きを待った。
男はスマホをしまい、裏通りへ歩き出す。
追う。今日の新変数はこれだ。追わなければ、また私は点のままだ。
でも、追えば署への戻りが遅れる。遅れれば佐伯さんに切られ、私の一日が崩れる。
ヒヤリ。追うか、守るか。
リカバー。私は佐伯さんに「現場の片付け手伝います」と先に声をかけ、用事を作った。
「お前、意外と気が利くな」
佐伯さんが短く笑う。その隙に、私は裏通りへ滑り込んだ。
12:50
裏通りは潮の匂いが濃い。若い男はゴミ置き場の陰で立ち止まり、紙袋を取り出した。
そこへ来たのは、作業服の女――藤崎だった。錨の指輪が、陽に一瞬光る。
「遅い」
藤崎が言う。若い男が頭を下げる。
「すみません。救急、思ったより早かったです」
若い男の声は震えていない。仕事の会話。役割分担。
藤崎が紙袋を受け取り、中身を確かめた。細い金属板が覗く。非常口に挟むやつだ。
「いい。これで十七時十八分は通る」
藤崎は淡々とそう言って、スマホを見た。二音。
画面に一瞬だけ表示された送信者名――Kanzaki。
私は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
線が、二本目になった。
12:30の若い男は、命令を流す“中継”だ。そして藤崎に物を渡す。
彼らが去ったあと、私は足元の小さな紙片に気づいた。若い男のポケットから落ちたのか、紙袋の端か。
拾い上げる。薄いレシートみたいな紙。
上に印字された名前だけが目に入る。
『高瀬』
持ち越せない。分かってる。
だから私は、紙の手触りより先に、名前を脳へ刻んだ。タカセ。点検班。神崎。
14:00
中央駅。放送が一秒途切れる瞬間に、私はコンコースの端で待っていた。
ぷつり。ノイズ。言葉が消える。
すぐ近くで「またか」と舌打ちする声。
腕章をつけた女が、駅員に短く指示していた。無駄がない声。冷静で、でも冷たいわけじゃない。
腕章の文字が読めた。
『危機管理課 篠原』
胸の奥が小さく跳ねた。見つけた。
篠原は放送設備の担当に何かを言い、電気室の扉を睨むように見ている。
私は迷わず近づいた。
「すみません。救急実習の、ハルです」
篠原がこちらを見た。目が鋭い。藤崎の“測る目”とは違う。現場を測る目だ。
「救急? 今忙しい」
「十四時の途切れ、今日も起きました。……この後、十七時二十分に火災報知が鳴ります」
言った瞬間、喉がカラカラになる。予言みたいに聞こえる。危ない。
ヒヤリ。ここで変人扱いされ、切られる。
リカバー。私は“線”を置いた。短く、要点だけ。
「原因は“偶然”じゃありません。神崎という男から、点検班というグループに指示が飛んでます。十一時に換気を切らせたのも、その指示です。
十七時十八分には非常口に細工が入ります。作業服の女――藤崎。右手薬指、錨の指輪」
篠原の眉が僅かに動いた。
「神崎……港都インフラの?」
「はい」
篠原は一拍だけ黙り、私の顔を見た。嘘を探る目。
「……あなた、何でそこまで知ってるの」
答えられない。ループだなんて言えない。言っても届かない。
私は正直に“嘘のない部分”だけを言った。
「現場で見ました。繰り返し見ました。偶然の顔をした動きが、同じ順番で起きてる」
篠原は唇を結んだまま、腕時計を見た。
「十七時二十分に何か起きるなら、こちらも動ける。……ただし、あなたの言う“点検班”とやらを裏が取れないと、権限は使えない」
「裏は、十七時十八分です」
私が言うと、篠原は短く頷いた。
「分かった。警備に一人付ける。あなたも巻き込まれないで」
小さな承諾。それでも、これは刃の柄だ。掴めた。
16:25
警察車両が花火警備へ流れていく。駅が薄くなる時間。
篠原は駅前でスマホを耳に当て、誰かと短くやりとりしていた。
「一台、駅に残して。……そう、今日だけ」
声が硬い。命令じゃない。交渉だ。それでも、彼女は動いている。
17:18
非常口付近。飯田さんが立ち、篠原が付けた警備員がもう一人いる。
ガチャン。
藤崎の手が伸びる。錨の指輪。金属板。
飯田さんが掴む。警備員が挟み撃ちにする。
藤崎は一瞬だけ笑った。
「……ここまでやるんだ」
そして、金属板を落とし、身を翻して人波へ消えた。
捕まえきれない。けれど、細工は失敗した。ドアは閉じたまま、戻った。
17:20
火災報知器。電子音。
真壁が言いかける。「確認——」
そこへ、篠原の声が割り込んだ。
「誤報扱いはしない。危機管理課の判断で“初動”を優先します」
真壁が固まる。神崎の鎖が一瞬だけ緩む。
駅員が動き出す。昨日より早い。四回目より早い。
それでも――人は多い。放送は途切れ、声は届きにくい。押し合いは始まる。
私は壁沿いに誘導しながら、喉の奥に熱が上がるのを感じた。
「押さないで! 壁沿いに!」
誰かが転ぶ音。泣き声。
爆発を止めるには、換気も、点検モードも、救急の誘導も、全部同時じゃないと足りない。まだ足りない。
私は歯を食いしばり、駅の外へ出た。今日は死なない。今日の収穫を、頭に持ち帰る。
18:50
耳の奥で、アラームの気配が鳴った。世界が“戻る準備”を始める音。
煙は空に薄く伸び、サイレンが重なっていく。
篠原の横顔が、一瞬だけ見えた。怒りとも悔しさともつかない表情で、誰かに指示を出している。
19:00
空気が薄くなり、視界が暗く落ちた。
7:02
アラーム。私は息を吸って、吐いた。
紙は残らない。でも線は残った。
神崎が糸を引き、点検班が動き、藤崎が手を伸ばす。
そして篠原は、動ける。




