第4話 誤報の鎖
7:02
アラームの音が鳴った瞬間、私は枕を掴んでいた。爆発の衝撃が、まだ骨の内側に残っている。喉の奥は乾き、鼻の奥に甘い匂いの幻が貼り付いていた。
「……藤崎。錨の指輪。港都インフラ」
声に出して、舌で確かめる。消えるのは紙だけだ。私の頭に刻んだ名前は消えない。
三回目のループで、私は17:18の手を掴み損ねた。飯田さんが声を上げても、真壁は止まった。止まった瞬間に、全部が崩れた。
だったら、崩れる前に揺らす。真壁の「誤報扱い」という癖に、ひびを入れる。
鍵は十四時だ。放送が一秒途切れる。そこを“当てる”ことができれば、真壁は私をただの厄介者としては捨てられない。
8:40
救急署の詰所で、佐伯さんがヘルメットの紐を直してくれた。昨日と同じ言葉、同じ手つき。なのに私は、昨日が三度あったことを知っている。
「顔、白いぞ。寝てないのか」
「……少し、考え事してました」
私の声は自分でも固い。佐伯さんは眉をひそめ、ボードの「中央駅」を指で叩いた。
「祭りは混む。無理すんなよ。お前が倒れたら、俺が面倒見る羽目になる」
その言葉に、胸の奥が妙に痛んだ。面倒を見てもらうのは、私じゃなくて、駅の中で倒れる人たちの方だ。
私は一度息を吸って、言った。
「佐伯さん。十四時に、中央駅の放送が一度途切れます」
佐伯さんが笑う気配を見せたが、私の顔を見て笑いを引っ込めた。
「……何だそれ。予言か?」
「予言じゃないです。確認したいです。放送が途切れると、誘導が遅れる。今日、火災報知が鳴ったら致命的になる」
“火災報知が鳴る”と言い切れず、舌が上顎に張り付く。言い過ぎれば、私は守られる側に回される。
ヒヤリ。ここで切られたら、今日の十四時に辿り着けない。
私は言い方を変えた。
「訓練です。事故が起きた時の連携確認。駅の運行責任者に、放送設備の点検をお願いしたい」
佐伯さんは数秒黙り、それから大きく息を吐いた。
「……分かった。変な空回りするなよ。俺も同行する。お前だけだと揉める」
リカバー。私一人で突っ込めば弾かれる。佐伯さんの肩書きは、扉を開ける。
9:40
地下へ降りる階段の手すりが、妙に冷たかった。甘い匂いが薄く漂う。焦げではない、溶剤みたいな匂い。まだ弱いのに、背筋が粟立つ。
“溜まる前”。この時間帯なら、止められるはずだ。でも、今日は止めない。今日のゴールは十四時に楔を打つこと。私は匂いの方向だけを頭に刻み、地上へ戻った。
11:00
換気室の前。巡回員がスマホの通知音に足を止めた。二音。短い合図。
「……了解」
彼は周囲を見て、スイッチを下げた。空気が止まる。
私は歯を食いしばりながら、スマホ画面の上部に一瞬だけ浮かぶ送信者名を盗み見た。
『Kanzaki』
“K”。やっぱりKは神崎だ。港都インフラの上の人間。巡回員に命令が飛ぶ。
12:30
交差点の軽事故。今日も起きた。救急車を呼ぶほどじゃない、と苛立つ男。周囲のスマホ。できすぎた観客。
処置の隙間で、私は“若い男”を探した。昨日もいた、あの誘導役の顔。
彼は確かにいた。歩道の端で誰かとすれ違い、紙袋を受け取って、短く頷く。そしてスマホを操作する。
画面に浮かんだ送信先は見えなかった。でも通知音が、さっきの巡回員と同じ二音だった。
点と点が繋がる感覚に、胃が冷えた。救急を引っ張るのも、換気を止めるのも、同じ合図で動いている。
13:50
中央駅の事務区画。受付の駅員に佐伯さんが名刺を出し、「救急として安全確認の相談がある」と言うと、駅員の態度が一段柔らかくなった。
通された先に、運行責任者の真壁がいた。腕章。疲れた目。声は低い。
「何ですか。今、忙しい」
佐伯さんが淡々と説明する横で、私は喉が鳴るのを抑えた。ここが山だ。ここで外されたら、今日の勝ち筋が消える。
「十四時に、放送が一度途切れます」
私が言うと、真壁が顔を上げた。
「……誰だ君。そんなことは——」
「一秒だけです。でも一秒で、人は止まります。止まったら押し合いが始まる」
真壁の口元が歪んだ。
「君、煽ってるのか? 火災でも起きると言いたいのか?」
ヒヤリ。真壁の声色が“排除”に寄る。ここで警備を呼ばれたら終わりだ。
私は言葉を選ぶ代わりに、時間を示した。
「見てください。十四時ちょうどです。もし当たったら、放送設備の担当をすぐ見てもらいたい。それだけです」
佐伯さんが「念のための確認です」と重ね、真壁は渋々腕時計を見た。
14:00
ぷつり。
天井のスピーカーから流れていた案内が一秒だけ切れ、ノイズが混じった。駅員が一瞬、顔を見合わせた。
真壁の眉が跳ねた。
「……今のは」
「電気室です」
私は反射で廊下の先を見る。電気室の扉が開き、作業服の女が出てくる。短い髪。右手薬指の指輪が一瞬、光った。錨。
藤崎。
真壁もその背中を見た。視線が硬くなる。
「工事の……」
彼はポケットからスマホを出し、画面を見て顔色を変えた。着信表示。
『神崎』
真壁は一歩離れた場所で電話に出た。
「神崎さん、今の放送——いや、分かってます。点検中? でも、現場は……」
点検中。言葉が刺さった。だから“誤報扱い”が癖になる。最初から「鳴っても信用するな」と刷り込まれている。
電話を切った真壁が戻ってくる。佐伯さんが「設備側に確認を」と言う前に、私は言ってしまった。
「真壁さん。今日、十七時二十分に火災報知が鳴ります」
佐伯さんの空気が凍った。真壁の目が細くなる。
「……君、何を言ってる」
ヒヤリ。踏み込んだ。引き返せない。
リカバー。私は“予言”ではなく“手順”に言い換えた。
「鳴ったら、誤報扱いしないでください。今みたいに、点検を理由に止まったら——人が死にます」
言い切った瞬間、自分の声が震えているのが分かった。佐伯さんが私を睨む。やめろ、と言いたい顔。でも言わない。私が崩れたら、今ここで全部終わるから。
真壁はすぐには答えず、唇を薄く結んだ。
「……君の言う通り、放送は途切れた。だが、手順は手順だ。確認は必要だ」
それでも、昨日よりは迷いが見えた。ほんの僅か。そこに楔を打てた。
15:10
駅前の階段。作業服の男が手すりにもたれ、汗だくで俯いていた。あのときの“逃げる背中”だ。
男が立ち上がった拍子に手袋が落ちる。私は拾い、差し出した。
「落としました」
男は受け取る手を止めた。手袋の内側に名札の切れ端が見えた。『SAKAI』。
「……ありがとう。余計なこと、するなよ」
声が震えている。恐怖の震えだ。男——サカイは周囲を見回し、私の胸の救急実習証を見て、低く呟いた。
「神崎さんに……見られると、終わる」
私は息を呑んだ。神崎。ここにも。
16:25
駅前を警察車両が流れていく。花火警備。人の流れが厚くなる。
私は飯田さんを見つけ、「藤崎」と「錨の指輪」を短く伝えた。
「またその話か……」
飯田さんの顔は険しい。それでも、十四時に真壁が動揺したこと、神崎の名前が出たことを話すと、飯田さんは口を閉じた。
「……分かった。十七時十八分、見張る」
それだけで十分だ。
17:18
金属が擦れる音。
非常口が僅かに開き、白い手が伸びる。錨の指輪。藤崎だ。
飯田さんが一歩で詰め、腕を掴んだ。
「やめろ!」
藤崎は驚かない。むしろ薄く笑った。
「……警備さん、真面目ね」
彼女の目が私を一瞬だけ捉えた。まるで、こちらの“予定”を測るみたいに。
ヒヤリ。背筋が冷える。私はただの一度も彼女に名乗っていないのに、彼女は私の存在を覚えているように見えた。
藤崎は金属板を落とし、するりと腕を抜いた。人波へ消える。飯田さんが追うが、私は追わない。追えばまた足元が崩れる。
リカバー。私は落ちた金属板を拾い、飯田さんに渡した。
「これを、真壁に」
飯田さんが頷く。証拠は残らない。それでも“今この日”には使える。
17:20
火災報知器が鳴った。電子音。ざわめき。止まる空気。
真壁が駅員に言いかける。
「まず確認——」
その手に、飯田さんが金属板を突き出した。
「さっき非常口に細工だ! 港都インフラの藤崎! 十四時に放送も切れてる!」
真壁の喉が動いた。迷いが、顔に浮く。
けれど次の瞬間、彼は目を伏せた。
「……それでも、確認だ。走るな」
鎖はまだ切れない。点検中という言葉が、彼の首を締めている。
私は群衆の端へ声を投げた。
「壁沿いに! 押さないで! 止まって!」
放送はまた途切れ、声が届かない。押し合いが始まる。誰かが転ぶ音。泣き声。
“戻りたくない”。その感情が、喉の奥で暴れた。中へ行けば、もっと救えるかもしれない。でも今日は、死なないで十九時まで生きて、神崎の鎖を確かめたい。
私は踵を返し、駅の外へ出た。
18:50
煙は見えるが、熱は届かない場所に立つ。遠くで誰かが泣いている。救急車のサイレンが重なる。
耳の奥で、アラームの気配がした。まだ鳴らないはずなのに。
19:00
空気が薄くなり、世界がふっと暗くなった。
7:02
アラーム。私は跳ね起き、掌を見た。何もない。けれど、耳に残った。
『神崎さん』『点検中』『確認だ』
誤報の鎖は、神崎が握っている。




