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第3話 錨の指輪

7:02

アラームで飛び起き、反射で左手の甲を見た。真っ白。前の私が残したはずの文字は、どこにもない。

「残らない。残るのは、私だけ」

喉の奥にまだ熱がある。爆発の衝撃が、身体の奥で小さく鳴っている。眠気より先に、焦りが立ち上がった。


前のループで分かったことは二つ。十九時は壁だということ。もう一つは、証拠を残そうとするほど、世界は私を一人に戻すということ。

だったら方法は一つ。人の記憶を借りる。今日だけでいい。誰か一人に「同じことを見てもらう」。


私は息を整えて、頭の中で時刻を並べた。8:05、11:00、14:00、17:18、17:20。点が線になるなら、線の途中に立てばいい。

昨日、17:18に見た手。右手薬指の錨の指輪。ストッパーを挟む動作。あれを見て、止められるのは――駅の人間だ。

飯田さん。警備員。彼なら非常口に近づける。警備の目も、鍵も、言葉も持っている。


7:20

駅前のカフェは今日も騒がしい。私は敢えて入口の近くに立ち、昨日と同じ「こぼれる瞬間」を待った。

工事服。港都インフラのロゴ。紙袋。スマホ。――ぶつかる。こぼれる。紙が濡れる。


私は追わなかった。追えば、また別の“見たいもの”に飲まれて地図が崩れる。代わりに、こぼした客の右手を見る。

薬指に、指輪はない。違う。少なくとも、この人は“錨”じゃない。


8:05

中央駅の掲示板前。私は昨日より少し早く来て、壁際に背を付けた。人の流れに押されない位置。スマホを構えるのは諦めた。どうせ持ち越せない。目に焼き付ける。


係員が一枚、紙を剥がし、別の紙を貼る。たった数秒。

その横に、工事関係者らしい女が立っていた。作業服の袖をまくり、手際よくテープを押さえる。

――右手の薬指。錨の指輪。

背筋が冷えた。見つけた。17:18の手と同じ。


「藤崎さん、これでいいですか?」

掲示板の向こう側から声がして、女が軽くうなずいた。

藤崎。名前。私はその二文字を、舌で噛むように心の中で反復した。


その瞬間、女がこちらを見た。目が合った気がした。鋭い、測るような視線。

ヒヤリとする。私は無意識にスマホを握り直し、何かを撮っていたふりをしていた。――まずい。目をつけられたら、今日の17:18が変わる。


リカバー。私はすぐに視線を外し、制服の名札をわざと見せるように胸元を整えた。救急の実習証。駅の人間が怖がるのは「怪しい一般人」だ。救急は“厄介”でも“敵”ではない。

藤崎は一度だけ私の胸元を見て、興味を失ったように背を向けた。


9:40

地下へ降りると、甘い匂いが薄く漂っていた。昨日と同じ。まだ弱い。けれど、換気が止まれば濃くなる。

換気室の前には、巡回員がいた。昨日、11:00にスイッチを下げた男だ。私は時計を見た。まだ早い。

止めたい。止めれば、爆発までの時間を稼げるかもしれない。けれど今の私は、止めたあとに何が起きるかを知らない。今日は“勝ち方”ではなく、“敵の形”を確定させる日だ。


11:00

巡回員がスマホを見て、顔を固くした。二音の通知。昨日も聞いた音。

「……分かった。切る」

小さく呟いて、スイッチを下げた。空気の流れが止まる音が、耳に刺さる。

送信者は見えない。でも、あの“二音”は、命令の合図だ。私は拳を握りしめ、唇の裏側に味がするほど噛んだ。


12:30

交差点の軽事故は今日も起きた。人の視線、スマホの列、苛立った男。私は処置をしながら、周囲を探す。

あの時メッセージを打っていた若い男が、今日もいた。彼は私たちを見ず、遠くへ視線を投げ、短く頷く。

偶然の顔をした必然。私は顔の特徴――耳の形、顎の傷――を覚えた。


14:00

駅の放送が一秒途切れた。ノイズ。言葉が乗らない。私は音が切れた瞬間、電気室の扉へ視線を走らせた。

開く。閉まる。中に入ったのは、作業服の女――藤崎だった。右手が一瞬だけ見える。錨の指輪が光る。


ここまで繋がった。8:05、14:00、そして17:18。全部、同じ手だ。


16:25

警察車両が花火警備へ流れ、駅前の空気が薄くなる。私は入口で飯田さんを見つけた。昨日より少し顔色が悪い。声も枯れている。

「救急さん……迷子、また出てて」

「ミオちゃんですよね。十七時半、コンコースの中央柱のところに来ます」

言ってしまった。具体的すぎる。飯田さんの眉が跳ね上がる。


ヒヤリ。疑われる。止められる。17:18に辿り着けない。

リカバー。私はすぐに続けた。

「……さっき、母親の人が『いつも中央柱で待ち合わせしてる』って言ってました。私、見に行きます。飯田さんは動線、お願いします」

嘘だ。でも、悪い嘘じゃない。今日だけ、ミオちゃんを守るための嘘。


飯田さんはまだ半信半疑の顔で、それでも頷いた。

「……分かった。じゃあ、俺はこっちを見てる」

「それと、もう一つ。十七時十八分に、非常口が一度だけ開きます」

「は?」

「右手薬指に、錨の指輪をした工事関係者の女が、ドアに金属板を挟みます。……その瞬間だけでいい。見てください」

予言。賭け。言葉が口から落ちていく感覚がした。


飯田さんは一拍遅れて笑った。乾いた笑い。

「……何言ってんだ」

「私も、そう思いたいです。でも、見てほしい」

飯田さんの目が、少しだけ真剣になった。完全には信じていない。でも、捨ててもいない。


17:10

私はミオちゃんを先に探した。中央柱の周り。泣き声はまだない。代わりに、母親らしい女性が人混みの端で焦燥を滲ませている。

「ミオちゃん、探してますか」

女性が頷き、唇を噛む。私は一緒に目を走らせた。――いた。小さな帽子。人の膝の間。

ミオちゃんは泣く寸前の顔で、必死に背伸びしていた。


「こっちだよ」

袖を差し出すと、ミオちゃんは昨日より早く掴んだ。私は母親の腕にその小さな手を渡した。

母親が泣きながら頭を下げる。その視線の先に、市役所の腕章が見えた気がした。見間違いかもしれない。でも、覚える。こういう“立場”は、いつか鍵になる。


17:18

飯田さんが非常口付近に立っていた。私は壁際に寄り、息を潜めた。

ガチャン。金属が擦れる音。ドアが僅かに開く。白い手が伸びる。右手、薬指、錨。

飯田さんの身体が反射で動いた。

「おい! 何してる!」

女――藤崎が顔を上げた。初めて、はっきり見えた。短い髪。乾いた目。笑っていない口元。

彼女は金属板を落とし、すり抜けるように人波へ消えようとした。


飯田さんが追い、私は追わず、落ちたものに手を伸ばした。名札。港都インフラ。『藤崎 フジサキ』。そして、写真。

持ち越せないのに、私はそれを握りしめた。握った瞬間の硬さを、脳に刻むために。


17:20

火災報知器が鳴る。電子音が駅の天井を切り裂く。

真壁が腕章のまま、駅員に言いかける。

「まず確認だ。誤報の可能性が――」


「誤報じゃない!」

飯田さんの声が割り込んだ。

「今、不審者が非常口に細工してた! 港都インフラの、藤崎って女だ!」

真壁の表情が揺れた。迷いが一瞬、顔に出る。だが次の瞬間、習慣が戻る。

「……それでも確認だ。走るな!」


ヒヤリ。ここで止まったら、また同じだ。私は声を出す代わりに、真壁の視線を地下階段へ向けた。煙が、もう上がってきている。甘い匂い。

「見てください。もう出てる。確認は終わってます」

私の声は震えた。でも、逃げなかった。


真壁が一歩だけ踏み出し、鼻をしかめた。そこでようやく駅員が走り出す。遅い。それでも昨日よりは早い。

リカバー。私は飯田さんと目を合わせ、頷いた。やることは一つ。人を壁際へ流す。押し合いを作らない。


17:35

放送が途切れた。ノイズ。誘導の言葉が消える。

人がざわつき、誰かが押した。私の足元がふわりと浮く。嫌な感覚。転んだら終わりだ。

私は壁に手をつき、身体を支え、叫んだ。

「壁沿いに! 止まって! 押さないで!」

声が道になる前に、膝が誰かにぶつかった。痛み。視界が傾く。


17:45

床が近い。私は転んでいた。誰かの靴が目の前を横切り、踏まれる恐怖が背中に貼り付く。

息が吸えない。胸が潰れる。耳の奥で、アラームの気配が早すぎる。

――十九時じゃない。まだだ。まだ、戻るには早い。


誰かが私の腕を掴んだ。飯田さんだった。顔が青い。

「立て! 立てって!」

引き上げられた瞬間、遠くで低い衝撃が鳴った。17:50。爆発の音は、空気を裂いて遅れて届く。

熱が階段口から噴き上がり、私の喉がまた焼けた。世界が白く潰れる。


暗転。


7:02

アラーム。私は息を飲み込み、枕を握りしめた。痛みはないのに、胸が重い。足の感覚がまだ床に残っている。

そして、名前が残っていた。藤崎。錨の指輪。港都インフラ。

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