第2話 十九時の壁
7:02
アラームの音で跳ね起きた瞬間、喉の奥が焼ける痛みがよみがえった。息が吸えなくて、床が冷たくて、甘い煙の匂いが鼻に残って――。
「……夢じゃ、ない」
言葉にしたのに、部屋はいつも通りで、制服は畳まれていて、窓の外では太鼓の練習が鳴っている。建国記念祭。今日も、同じ日。
私は洗面台に駆け込み鏡を覗いた。顔色は悪い。目の下に影。けれど火傷も煤もない。死んだ証拠は何も残っていないのに胸だけがまだ苦しい。
だったら残す。自分で。
油性ペンを掴み、左手の甲に書いた。
『17:20 火災報知/誤報扱い/地下』
書いている最中、手が震えて文字が歪んだ。これが、次の私に残るなら――私は一人じゃなくなる。
7:20
駅前のカフェは、昨日と同じ匂い、同じ騒がしさだった。違うのは私だけだ。
私はわざと入口に近い席に立ち、例の工事服の客を待った。港都インフラのロゴ。紙袋。スマホ。
――来た。
そして、昨日と同じように、ぶつかって、コーヒーがこぼれた。
「すみません!」
工事服の客は拭こうともしないで紙を丸め、早足で店を出る。私は反射で追いかけた。今なら、あの紙の中身が見えるかもしれない。
店を出た途端、潮の匂いと屋台の甘い匂いが混ざった空気が肺に入る。工事服の背中は人波に紛れそうで、私は小走りになった。
――その瞬間、スマホが鳴った。
署からの呼び出し。集合時間の確認だ。無視したら遅刻。遅刻したら、今日の観測が全部狂う。
ヒヤリとした。追えば手掛かりが取れる。戻れば現場に立てる。
私は歯を食いしばり、追うのをやめた。いま欲しいのは“真相”じゃない。“同じ日を生き延びる”ための地図だ。
リカバー。呼吸を整え、電話に出て、平然と返事をした。
8:05
中央駅の掲示板の前を通りかかったとき、私はわざと歩幅を落とした。
昨日は気づかなかった――いや、気づいても意味が分からなかった貼り替えの瞬間。
係員が一度紙を剥がし、別の紙を貼る。ほんの数秒。周囲は誰も見ていない。
私はスマホを構えた。撮れ。証拠を。
その肩に、誰かがぶつかった。観光客のバッグが私の腕を弾き、画面がぶれる。
「すみません」
謝られても、私は笑えなかった。こういう“偶然”が、昨日の地獄を作った。
それでも、画面の端に写った。貼り替えた紙の見出しだけ。
『設備点検のため 一部立入制限』
点検。昨日はそんな文言、あっただろうか。
9:40
地下へ降りる階段の手すりが、妙に冷たかった。人は多いのに、空気が重い。
昨日、鼻をかすめた甘い匂い。今日も同じ時間に来るのか――私は意識して息を吸った。
微かに、いる。甘い。溶剤みたいな、焦げとは違う匂い。
匂いは弱いのに、背筋が粟立った。まだ“溜まっていない”だけ。ここから増える。
11:00
巡回員が換気室の前で足を止めた。「うるせえな」と独り言ち、壁のスイッチに手を伸ばす。
昨日と同じだ。ここで換気が止まる。蒸気が溜まる。火がつく。
私は一歩踏み出し、声をかけようとして――口が乾いた。
誰だ、私は。救急実習生だ。駅の設備に口出しする権限はない。しかも、言ったところで信じてもらえない。
それでも、止めなきゃ。
「すみません、その換気――」
巡回員が振り向き、露骨に嫌そうな顔をした。
「なんだよ。救急が口出すとこじゃねえだろ」
次の瞬間、巡回員のスマホが震えた。画面を見た巡回員の表情が一瞬だけ固くなる。
そして、スイッチを下げた。
ヒヤリ。音が変わる。空気の流れが止まる。
私は言葉を失いかけたが、拳を握り、咄嗟に“別の勝ち筋”に切り替えた。
リカバー。止められないなら、見る。覚える。
巡回員のスマホの通知音。短い二音。画面に一瞬だけ浮かんだ送信者名の頭文字――『K』。
12:30
小さな事故の出動が入った。昨日と同じ交差点。昨日と同じ苛立った男性。
私は血圧計を取り出しながら、周囲を見た。スマホを向ける人の列。妙に“できすぎた”距離感。
その端で、若い男が小さく頷き、誰かにメッセージを打っていた。
偶然かもしれない。けれど、私は覚える。偶然の顔をした仕掛けは、偶然より厄介だ。
14:00
駅のコンコース。案内放送が流れ――ぷつり、と一秒途切れた。
昨日と同じ。心臓が嫌な跳ね方をする。
私は天井のスピーカーを見上げ、視線の端で、電気室の扉が閉まるのを見た。誰かが入った。作業服。急いだ背中。
追いかけたかった。でも、また“追うか、地図を守るか”の選択だ。
私は立ち止まり、代わりに扉の上のプレートを読んだ。『関係者以外立入禁止』。当然だ。
16:25
警察車両がサイレンなしで流れていく。花火警備。駅の周りが薄くなる時間。
私は昨日会った警備員、飯田さんを探した。入口で拡声器を握り、汗で髪が額に貼り付いている。
「救急さん……今日も、頼みます。迷子、出てて」
同じ言葉。なのに、胸の奥がずきりとした。同じ苦労を、あなたは毎回初めて味わう。
「ミオちゃん、ですよね」
私が名前を口にした瞬間、飯田さんの目が見開かれた。
「え、知って――」
ヒヤリ。言い過ぎた。私は慌てて笑い、昨日“たまたま聞いた”体で誤魔化した。
リカバー。「昨日、署の人から聞きました。見かけたら声かけます」
飯田さんは疑いながらも頷いた。少しだけ、距離が縮まった気がした。
17:18
私は非常口が見える位置に立った。人の流れの外側。壁際。転倒しにくい場所。
秒針が刺さるみたいに進む。来る。来る。
ガチャン。
非常口のドアが内側からではなく、“外から”押されるように僅かに開いた。隙間から手が伸び、何かを挟み込む。金属の薄い板――ストッパー。
女の手だった。爪が短い。右手の薬指に、光る指輪。錨みたいな形。
ドアはすぐ閉じ、何事もなかったように人の波が前を流れる。
私は息を止めた。見えた。昨日よりはっきり。
追いたい。けれど、追ったら私は巻き込まれる。今日は死なないと決めた日だ。
私は目を閉じ、指輪の形だけを頭の奥に刻みつけた。錨。右手。薬指。
17:20
火災報知器が鳴った。昨日と同じ音。昨日と同じ一瞬の静止。
そして、真壁の声。
「まず確認だ。誤報の可能性が――」
私は叫びたかった。誤報じゃない。止まるな。初動だ。
でも、叫べば私は“異物”として弾かれる。弾かれて、転んで、死ぬ。
ヒヤリ。正しさの衝動が、私の命を奪う。
リカバー。私は喉の奥の叫びを飲み込み、代わりに身体を動かした。
人の流れが膨らむ前に、壁際の抜け道へ誘導する。昨日、自分が作った“端”を、今日はもっと早く作る。
「出口はこちら! 押さないで! 壁沿いに!」
声は震えた。だけど出した。誰も私を見なくても、声は道になる。
17:30
迷子のミオちゃんを見つけた。昨日と同じ場所。昨日と同じ泣き方。
私は近づき、しゃがみ、袖を差し出す。
「袖、掴んで。ここ、危ない」
ミオちゃんは一瞬迷って、袖をつまんだ。その小ささに、胸が詰まる。
私は彼女を壁沿いに押しやり、飯田さんの姿を探した。
「飯田さん! 迷子、ここ!」
飯田さんが駆け寄り、ミオちゃんの肩を抱いた。
「ありがとう……!」
その言葉で、私はようやく“今日も人を救った”と感じた。たとえ、この先に地獄が来ても。
17:50
私は駅から離れた。ロータリーの外。煙が見える距離。熱気が届かない距離。
背中に罪悪感が貼り付く。中に戻れば、もっと助けられるかもしれない。けれど、今日は“生き残って”確かめる日だ。
私は拳を握り、足を止めた。
低い衝撃が来た。次いで、地面が揺れた。遠くで爆発音。空気が熱を孕み、悲鳴が遅れて届く。
私は胃の中が空っぽになる感覚に耐えながら、時計を見た。17:50。昨日と同じ。
18:10
煙は濃くなり、救急車のサイレンが増えた。佐伯さんの姿は見えない。
現場から戻ってきた隊員が「検知器が点検モードだった」と吐き捨てるのが聞こえた。
点検モード。11:00のスイッチ。8:05の掲示板。全部が一本の線で繋がりそうで、怖い。
私はポケットからメモ帳を出し、震える手で書いた。
『19:00まで生きる/指輪 錨/通知音 二音/K』
そして、左手の甲を見る。朝書いた文字は、まだある。これが持ち越せるなら――。
18:50
耳の奥で、アラームの音がした。
まだ鳴る時間じゃないのに。幻聴だと分かっているのに、背筋が冷える。
世界が「戻る準備」を始めているみたいだった。
19:00
空気が一瞬だけ薄くなった。誰かの声が遠のいた。
暗転。
7:02
アラーム。
私は飛び起き、まず左手の甲を見た。
真っ白だった。朝書いた文字が、ない。
ポケットを探る。メモ帳がない。油性ペンもない。
持ち越せたのは、私の頭の中だけだった。
私は息を吸って、吐いた。怖い。けれど、確かめられた。
死ななくても戻る。時間が来たら、強制的に切られる。
そして、世界は“証拠”を残させない。




