第1話 アラームは7:02
7:02
耳元でスマホのアラームが鳴った。いつもの音なのに、なぜか「間に合え」と急かされている気がした。
寝ぼけたまま天井を見て、胸の奥が軽く締まるのをやり過ごす。救急隊の実習初日から三日目。今日を乗り切れば、ひとまず「現場で邪魔にならない」くらいには見てもらえる――はずだった。
窓の外では、港町の空がすでに白い。遠くで太鼓の練習音。建国記念祭。人が増える。事故も増える。
頭では分かっているのに、私は「大丈夫」を口の中で転がし、制服のボタンを留めた。
7:20
駅前のカフェで、コーヒーをテイクアウトした。祭りの日は朝から屋台が出るせいで、店の中も落ち着かない。
私の隣で、工事服の客が紙袋を抱えたままスマホを見ていた。胸元のロゴがちらりと見える。港都インフラ。駅の改修を請け負っている会社だ。
その客が急に振り向き、別の客の肩にぶつかった。紙コップが傾き、コーヒーがテーブルに広がる。紙の束――図面のようなもの――に黒い染みができた。
「すみません!」
「……いい、急いでる」
工事服の客は拭きもせず、乱暴に紙を丸めて立ち去った。変な光景だと思ったのに、私はそのまま飲み物の熱さに意識を戻した。
8:40
救急署の詰所は、祭りの日特有の落ち着かなさに満ちていた。無線が短く鳴り、誰かが笑って、すぐ真顔に戻る。
先輩の佐伯さんが、私のヘルメットの紐を指で弾いた。
「緩い。今日みたいな日は、転んだら終わりだぞ」
「はい」
「覚えとけ、ハル。現場は“初動”で決まる。迷ったら遅れる。遅れたら、全部が崩れる」
初動。救急の教科書で何度も見た単語が、佐伯さんの声だと別物に聞こえる。私はうなずきながら、今日の自分の役割を反芻した。
運転しない。判断もしない。記録と搬送の補助。言われたことを、速く正確に。
「今日は駅前に張り付くかもな」
佐伯さんがホワイトボードを見上げる。救急隊の配置図に、赤いマーカーで「中央駅」と書かれている。
「祭りの日は、駅が一番揉める。酔っぱらい、転倒、迷子、パニック。……火事が起きたら最悪だ」
12:30
最初の出動は、駅から少し離れた交差点だった。自転車同士の接触で、膝を擦りむいた男性が座り込んでいる。
大事に至らない――はずなのに、周囲の視線は熱く、スマホがこちらに向けられていた。祭りの日は、人の心も煽られる。
「呼吸、意識、出血量。声、掛けて」
佐伯さんの指示に、私は膝をついた。
「大丈夫ですか。名前、言えますか」
男性は苛立ったように笑い、「救急車呼ぶほどじゃないだろ」と吐き捨てた。胸がカッと熱くなる。救急はタクシーじゃない。それでも私は、言い返さない。
その代わり、手を伸ばして脈を取った。少し速い。緊張のせいだ。
ここで一瞬、ヒヤリとした。自分が“正しいこと”を言いたくなる衝動に飲まれたら、目の前の人を見失う。
私は息を吸って、声の温度を下げた。
「転んだ拍子に、どこかぶつけてませんか。頭、打ってないですか」
男性の目が一度だけ私を見て、ふっと肩の力が抜けた。
「……手首も、ちょっと」
「ありがとうございます。確認します」
リカバー。小さな成功が、胸の奥の締め付けを少しほどいた。
14:00
署に戻る途中、中央駅のコンコースを横切った。人の数は午前より増えている。駅の天井に吊られた垂れ幕が揺れ、スピーカーから案内放送が流れ――一秒だけ、ぷつ、と途切れた。
誰も気にしない程度の短さだった。私は足を止めかけたが、佐伯さんが首を傾げただけで歩き出したので、ついて行った。
「放送、今――」
「祭りの日は機材も疲れてんだよ」
15:10
駅前の救護所に寄ったとき、工事服の作業員が階段の手すりにもたれていた。汗だくで、顔色が悪い。
その人が立ち上がった拍子に手袋を落とした。私は反射で拾い上げ、差し出した。
「落としました」
作業員は手袋を受け取る手を一瞬だけ止めた。手袋の内側に、破れた名札の端が貼り付いている。『SA…』とだけ読めた。
「……ありがとう」
作業員は目を合わせず、すぐ背を向けた。逃げるみたいに。
なぜだろう、私はその背中が“追われている”ように見えて、喉が乾いた。
16:25
警察車両が何台もサイレンなしで流れていくのが見えた。花火警備だろう、と佐伯さんが言った。
湊都中央駅のロータリーは人で埋まり、屋台の匂いと汗と潮の匂いが混ざっている。
駅の入口で、警備員が拡声器を持って立っていた。胸のプレートに「飯田」とある。
「立ち止まらないでくださーい。通路、空けてくださーい」
声がかすれている。飯田さんは私たちの制服を見ると、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「救急さん、今日は……頼みます。迷子も出てて」
「迷子、ですか」
「八歳くらいの子。名前は、ミオって言うらしい。母親が泣いて探してる」
その言葉が、胸の奥に小さく引っかかった。
「ハル、聞いたか。こういう日は、救うのも探すのも、同時だ」
佐伯さんが私に言う。私はうなずいたが、同時、という単語が胃のあたりを重くした。
17:18
駅構内に入った瞬間、金属が擦れる音がした。ガチャン、と鈍い音。振り向くと、非常口のドアが人の流れの向こうで一度だけ揺れて、すぐ静かになった。
その瞬間だけ、工事服の影が見えた気がする。女の人だったような。
確かめようにも、波が視界を塞ぐ。私は足を止めかけたが、佐伯さんに肩を押されて前へ出た。
「ぼーっとすんな。人の流れに逆らうな」
「はい」
17:20
火災報知器が鳴った。耳を刺すような電子音が、駅の天井から降ってくる。
一瞬、誰も動かなかった。次の瞬間、駅員の声がスピーカーから漏れた――が、途切れた。ノイズが混じり、言葉にならない。
「誤報じゃないの?」
誰かが言った。誰かが笑った。
運行責任者らしい腕章を付けた男――真壁と呼ばれていた人が、駅員たちに低い声で言うのが聞こえた。
「まず確認だ。走るな。誤報の可能性が――」
その一言で、初動が止まった。
佐伯さんの言葉が頭の中で反響する。迷ったら遅れる。遅れたら崩れる。
私は、喉の奥が冷えるのを感じた。これが、ヒヤリの本体だった。
17:27
地下階段の方から、白い煙がゆっくり上がってきた。甘い、変な匂いが混じっている。焦げの匂いだけじゃない。
人がざわつき、スマホを向ける。子どもが泣く。誰かが「地下だ!」と叫ぶ。
佐伯さんが私の肩を掴んだ。
「ハル、誘導。出口、こっちだって叫べ。俺は地下の様子を見る」
「地下、行くんですか」
「行く。初動だ」
私は反射でうなずき、声を張った。
「出口はこちらです! 走らないで! 押さないで!」
声が震える。だけど止めない。喉が焼けても、出す。
人の目が一瞬こちらに向き、すぐ別の不安へ飛ぶ。ひとりが動くと、群れが動く。動き出した瞬間に、押し合いが始まった。
私の肩が誰かにぶつかり、よろける。ヘルメットの紐が頬を擦った。転んだら終わりだ――佐伯さんの声がよぎる。
私は足を踏ん張った。リカバー。身体で覚えたことを信じるしかない。
17:30
人混みの端で、小さな女の子が泣いていた。迷子。腕を伸ばしても届かない距離。母親らしき人影は見えない。
「ミオ!」と誰かが叫んだ。名前。さっき飯田さんが言っていた。
私はその音だけを頼りに近づいた。
「大丈夫? 手、握れる?」
女の子は私を見て、首を振った。怖い。知らない大人に触られたくない。分かる。
私はしゃがんで、できるだけ目線を合わせた。
「ここ、危ない。いっしょに、明るいところに行こう。手は――袖でいい。掴んで」
女の子は逡巡して、私の袖をつまんだ。その瞬間、背後で人の波がうねり、私たちは押し流された。
「押さないで! 止まって!」
誰かの叫びが、怒鳴り声に変わる。転倒した音。床に手が擦れる音。泣き声が増える。
倒れた人を跨ごうとして、別の人がつまずく。連鎖。教科書にあった“将棋倒し”という言葉が、目の前で肉を持つ。
私は袖を掴む小さな手を離さないように、肩を入れて人の流れをずらした。
「こっち! 壁沿いに!」
誰も私の顔を見ない。それでも、声だけが通路の端に刺さる。端に寄れば、押される力は少し弱くなる。
私は、必死に“端”を作った。救急実習生の私にできる、唯一の初動。
17:35
スピーカーがまた途切れた。ノイズ。言葉が乗らない。誘導の声が届かない。
誰かが「放送、何言ってんだよ!」と怒鳴った。
そのとき、煙が少し濃くなった。甘い匂いが強くなる。女の子が咳き込む。
私は自分のハンカチを取り出し、女の子の口元に当てた。
「これ、当てて。息、短く」
女の子はうなずき、必死に真似をした。小さな手が震えている。
17:50
地下から、低い衝撃が来た。
最初は「遠くで何かが落ちた」程度の揺れ。次の瞬間、熱い空気が階段口から噴き上がり、視界が白く潰れた。
爆発――と頭が理解するより先に、肺が焼けるように痛んだ。音が消えた。耳が詰まる。女の子の袖の感触だけが、異様に鮮明だった。
私は倒れた。床が冷たい。なのに、肌が熱い。息が吸えない。
“初動”が遅れた。たった一言で。たった一度、止まっただけで。
暗い。音が遠い。アラームの音が――
7:02
アラームが鳴っていた。さっきまでの煙の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がする。
私は飛び起き、喉を押さえた。咳は出ない。息はできる。胸の痛みだけが、理由もなく残っている。
窓の外は白い。遠くの太鼓。建国記念祭。
さっきまでの出来事が、夢じゃないと、身体が言っていた。
「……戻った?」
口に出した声が、部屋の壁に吸われた。
スマホの時計は、7:02。さっき見たのと同じ。偶然? 錯覚? いや、私は死んだはずだ。
心臓がうるさい。耳の奥で、まだ火災報知器が鳴っている。




