実録.閉鎖病棟1
話は自分で考えて文章はAIが書いてます。
ネカフェの夜は、昼よりも正直だった。
昼間は人が多くて、嘘が混じる。
学生、サラリーマン、暇つぶしの客。
誰もが「ここに一時的にいるだけ」という顔をしている。
夜になると、それが剥がれる。
隣のブースから、咳が聞こえる。
長く、湿った咳だ。
多分、何年も同じ咳をしている。
通路を挟んだ向こうでは、誰かが電話で怒鳴られている。
声を潜めているつもりだが、全部聞こえる。
「もう無理だって言っただろ」
それだけが、何度も繰り返される。
主人公は、自分のブースで横になっていた。
横になる、というより、折り畳まれていた。
シャワーは浴びていない。
金がもったいない。
ここが、今の住処だった。
死ぬほど不幸かと言われると、そうでもない。
腹は減るが、飢えてはいない。
寒いが、凍えるほどじゃない。
ただ、どうでもよかった。
生きている理由も、
死なない理由も、
同じくらい曖昧だった。
端末の画面をスクロールする。
求人サイト。
コンビニ。
倉庫。
警備。
どれも続かなかった仕事だ。
そんな中、目に止まった。
――患者役。
一瞬、冗談かと思った。
医療施設モニター。
演技指導あり。
身元保証人不要。
主人公は、少しだけ笑った。
「ちょうどいいな」
誰にも迷惑をかけない。
失うものもない。
そう思って、応募ボタンを押した。
そのときは、
それが“入口”だとは、思っていなかった。
メールの返信は、思ったより早かった。
応募してから、十分も経っていない。
画面右上に通知が出たとき、
主人公は一瞬、迷惑メールかと思った。
件名は、やけに事務的だった。
【ご応募ありがとうございます】
医療施設モニターバイトについて
本文は短い。
丁寧ではあるが、温度がない。
テンプレートをそのまま貼り付けたような文章。
日時。
場所。
持ち物。
それだけ。
電話番号は書いていなかった。
問い合わせは、すべてメールで、とある。
主人公は、少しだけ眉をひそめた。
(まあ、いいか)
どうせ短期だ。
続かなくても困らない。
そう思って、指定されたビルへ向かった。
指定された場所は、駅前の雑居ビルだった。
一階は空きテナント。
二階に、古い内科が入っている。
説明会の会場は、三階。
エレベーターはなく、
細い階段を上る。
壁紙が少し剥がれている。
踏み板が軋む。
「ここで説明会か……」
不安よりも、
場違いな感じが強かった。
ドアの前に、紙が貼ってある。
医療施設モニター説明会
ノックしてください
時間ぴったりにノックすると、
すぐに中から声がした。
「どうぞ」
中は、
がらんとした会議室だった。
長机が一つ。
椅子が二つ。
窓はあるが、
ブラインドが下ろされている。
担当者は、四十代くらいの男だった。
白衣ではない。
スーツでもない。
どちらともつかない服装。
「今日はお時間ありがとうございます」
淡々とした声。
主人公は、
自分が“面接される側”だという感覚を
なぜか持てなかった。
仕事内容の説明は、簡潔だった。
精神病院に入院し、
患者として数週間生活する。
病院側の対応や設備を確認し、
報告書を書く。
演技は必要だが、
重いものではない。
「こちらで設定した症状を
軽く演じてもらえれば十分です」
主人公は、
そこで初めて気になった。
「……他の人も、
同じタイミングで入るんですか?」
担当者は、
一拍だけ間を置いてから答えた。
「いえ。
基本的には、
皆さん個別です」
その言い方が、
少しだけ不自然だった。
次に聞かれたのは、
家族構成だった。
両親。
兄弟姉妹。
連絡を取っている人。
主人公は、正直に答えた。
「……いません」
担当者は、
それをメモしながら頷く。
「緊急時の連絡先は?」
「ありません」
「分かりました」
その返事が、
あまりにもあっさりしていて、
逆に違和感が残った。
普通なら、
一度くらい聞き返す。
だが、
この男は何も言わなかった。
説明の最後に、
報酬の話が出た。
現金。
分割払い。
「振り込みは?」
主人公が聞くと、
担当者は首を振った。
「履歴を残さないためです」
その言葉を、
冗談とも本気とも取れない
口調で言った。
一瞬、
空気が止まる。
だが、
主人公は笑わなかった。
笑えなかった。
説明会が終わり、
部屋を出るとき。
担当者が、
最後にこう言った。
「何かあっても、
自己判断で動かないでください」
「病院の指示が、
すべてです」
主人公は、
曖昧に頷いた。
その言葉が、
やけに重く残った。
入院前日、
再度「演技指導」があると連絡が来た。
今回も、
個別。
場所は、
別のビルだった。
中に入ると、
小さな部屋に通される。
机の上には、
紙が一枚。
そこに書かれていたのは、
自分の“症状設定”だった。
不眠。
被害妄想。
軽度の幻聴。
重くない。
だが、
演じるには、
微妙に難しい。
「完璧にやる必要はありません」
指導員は、
そう言った。
「むしろ、
少しズレているくらいが
自然です」
その言葉が、
後になって
何度も頭に浮かぶことになる。
指定された日は、妙に天気がよかった。
空が高くて、雲が少ない。
こういう日は、何かが始まるには向いていない。
主人公は、根拠もなくそう思った。
集合場所は、駅前だった。
迎えの車が来るとだけ聞かされている。
時間通りに着くと、
ワゴン車が一台、路肩に止まっていた。
運転席には、無表情な男。
制服ではない。
病院名も書いていない。
「……乗るんですか?」
主人公が聞くと、
男は一言だけ言った。
「はい」
それ以上、何も説明はなかった。
車は、街を離れていく。
コンビニが減り、
家が減り、
信号がなくなる。
山が近づく。
スマホを見るが、
電波は一本になったり、消えたりを繰り返す。
(まあ、病院だしな)
自分に言い聞かせる。
だが、
胸の奥に小さな違和感が溜まっていく。
病院は、山の中腹にあった。
想像よりも大きい。
想像よりも古い。
コンクリートの外壁に、
色あせた病院名。
正門はあるが、
人の出入りは少ない。
車を降りた瞬間、
空気が変わった。
匂いだ。
消毒液と、
湿った土と、
古い建物の匂い。
混ざり合って、
胸の奥に張りつく。
受付で、
書類を渡される。
名前。
生年月日。
同意書。
内容は、
ほとんど読まなかった。
事故や急変の可能性。
医療行為への同意。
どれも、
よくある文言だ。
ただ、
最後の一行だけが目に残った。
家族への連絡は、原則として行いません。
主人公は、
一瞬ペンを止めた。
だが、
結局サインをした。
どうせ、
連絡する相手はいない。
病棟は、
閉鎖病棟だった。
鍵のかかる扉。
厚いガラス。
通路は長く、
同じ景色が続く。
案内の看護師は、
にこりともせず言った。
「ここでは、
規則を守ってください」
「それだけで、
安全に過ごせます」
その言い方が、
少しだけ引っかかった。
部屋は、
二人部屋だった。
だが、
もう一つのベッドには
誰もいない。
荷物もない。
「相部屋ですか?」
と聞くと、
看護師は曖昧に笑った。
「そのうち、
入ってくるかもしれません」
“かもしれない”。
断定しない言い方。
白い病衣に着替える。
自分の服は、
ロッカーに入れられ、
鍵は預かられた。
「必要なときは、
言ってください」
その“必要なとき”が
いつなのかは、
説明されなかった。
夜。
消灯時間は、
きっちり決まっている。
照明が落ちると、
病棟は一気に静かになる。
だが、
完全な無音じゃない。
どこかで、
小さな声が聞こえる。
笑っているのか、
泣いているのか、
分からない声。
主人公は、
天井を見つめながら思った。
(……演技、だよな)
自分に言い聞かせる。
これはバイトだ。
仕事だ。
本物の患者じゃない。
だが、
次の日。
昼の活動時間。
集められた患者たちを見て、
主人公は一瞬、判断に迷った。
誰が、
本物なのか。
誰が、
自分と同じなのか。
皆、
中途半端だった。
上手すぎる人間もいない。
下手すぎる人間もいない。
それが、
一番不気味だった。
ある患者と、
目が合った。
年配の男。
一瞬、
「助けて」と言いそうな顔をした。
だが、
すぐに視線を逸らす。
何もなかったように。
主人公は、
胸の奥が
少しだけ冷えた。
投薬の時間。
看護師が、
紙コップを差し出す。
中には、
見慣れない錠剤。
「これは?」
と聞くと、
即座に返ってきた。
「必要な薬です」
それ以上、
説明はない。
主人公は、
飲んだ。
飲まない選択肢が
ないことを、
その空気が教えていた。
夜になると、
病棟の雰囲気が
はっきり変わる。
昼間は無表情だった患者が、
急に落ち着かなくなる。
壁を見つめる。
何かを数える。
小さく震える。
そして、
誰かが
連れていかれる。
反抗的だった患者だ。
二人の職員に挟まれて、
通路の奥へ。
「別室だよ」
看護師が、
軽く言った。
翌朝。
その患者は、
いなかった。
空いた椅子。
空いたベッド。
誰も、
何も言わない。
昼の活動の終わりに、
看護師が言った。
「昨夜、
症状が急変して、
亡くなりました」
それだけ。
質問は、
許されなかった。
主人公は、
初めて思った。
(……これ、
ちょっとヤバいな)
それでも、
まだ引き返す気はなかった。
まだ、
“違和感”の段階だった。
地獄は、
いつも
もう少し先にある。
朝の点呼は、名前を呼ばれて返事をするだけだった。
それだけの行為なのに、
主人公は毎回、ほんの一瞬だけ迷った。
返事をする“間”。
長すぎても不自然。
短すぎても、機械的すぎる。
ここでは、
普通でいることが一番難しい。
「はい」
自分の声が、
自分のものじゃないみたいに聞こえた。
日中の活動は、
集団療法という名目だった。
丸く並べられた椅子。
真ん中に、職員が一人。
話す内容は自由。
無理に話さなくてもいい。
そう説明されるが、
誰も本当には信じていない。
沈黙が長くなると、
誰かが焦って口を開く。
意味のない話。
昨日の夢。
テレビの記憶。
主人公は、
あえて少しズレた受け答えをした。
被害妄想の設定に合わせて、
周囲を気にする素振り。
だが、
それが“正解”なのか分からない。
問題は、
他の患者たちだった。
上手すぎる人間がいない。
かといって、
明らかに壊れている人間も少ない。
全員が、
中途半端だった。
演技しているようにも見えるし、
そうでないようにも見える。
主人公は、
ふと考えてしまう。
(……俺の方が、
浮いてないか?)
健常者が演じる“異常”と、
本物の異常の違いが、
少しずつ分からなくなる。
昼食の時間。
向かいに座った若い男が、
ずっと箸を動かさない。
「食べないんですか?」
主人公が聞くと、
男はゆっくり顔を上げた。
目が、
合わない。
焦点が、
微妙にずれている。
「……混ざってる」
男は、小さく言った。
「何が?」
聞き返すと、
男は黙った。
そのまま、
食器を下げられても動かなかった。
別の日。
年配の女性が、
急に泣き出した。
理由は分からない。
慰める職員はいない。
淡々と、
少し距離を取って見ている。
泣き声は、
しばらくして止んだ。
その後、
その女性は、
昼の活動に出てこなかった。
誰も、
理由を聞かなかった。
主人公は、
自分の“演技”が
だんだん雑になっているのを感じた。
疲れた。
常に自分を疑うのは、
思った以上に消耗する。
ここでは、
疑わない人間から壊れていく。
だが、
疑い続けるのも、
同じくらい危険だった。
ある瞬間、
主人公はふと思った。
(……俺、
本当に健常者か?)
その考えを、
慌てて打ち消す。
冗談じゃない。
でも、
それを完全に否定できない自分がいる。
境界が、
壊れ始めていた。
夜の病棟は、
昼とは別の場所だった。
照明は落とされ、
必要最低限の明かりだけが点いている。
影が、
やたらと濃い。
音が、
遠くまで響く。
巡回の足音。
一定のリズム。
それが聞こえるだけで、
主人公の体は少し緊張する。
何もしていなくても、
見られている感覚が消えない。
消灯後、
誰かが小さく叫んだ。
すぐに、
職員の声がする。
「落ち着いて」
「大丈夫ですよ」
だが、
言葉とは裏腹に、
対応は早い。
複数人。
腕を掴む。
抵抗する音。
主人公は、
布団の中で
身を固くした。
見ない方がいい。
聞かない方がいい。
本能が、
そう告げている。
翌日の昼。
昨日叫んでいた患者が、
妙に大人しい。
目が、
虚ろ。
手首に、
赤い跡。
主人公は、
何も聞けなかった。
聞いたところで、
答えが返ってこないことを
もう知っている。
その夜。
投薬の時間。
いつもより、
量が多い。
「今日は、
少し多めです」
看護師は、
何でもないことのように言った。
主人公は、
一瞬ためらった。
「……飲まないと?」
問いかけは、
ほとんど反射だった。
看護師は、
笑わなかった。
「ええ」
それだけ。
別の患者が、
拒否した。
「いらない」
はっきりと。
次の瞬間、
空気が変わる。
職員が集まる。
「別室に行きましょう」
穏やかな声。
だが、
逃げ道はない。
主人公は、
その様子を
見てしまった。
押さえつけられる体。
抵抗する脚。
金属音。
鎖。
そして、
電気の音。
短く、
乾いた音。
患者の体が、
跳ねる。
声が、
途切れる。
主人公は、
思わず目を逸らした。
吐き気が、
喉まで上がる。
(……違う)
(これは、
医療じゃない)
翌朝。
その患者は、
「症状が急変し、
手術中に亡くなった」
そう説明された。
看護師同士は、
淡々としている。
悲しむ様子も、
罪悪感もない。
そのとき、
主人公は理解した。
ここでは、
反抗する人間は
治療の対象から外れる
外れた人間は
説明可能な形で消える
そして、
誰も責任を取らない。
夜、
布団の中で
主人公は震えていた。
怖さだけじゃない。
理解してしまったことが、
一番怖かった。
(……これ、
バイトじゃない)
(……でも、
もう
やめられない)
外は、
静かだった。
山の中の夜は、
何も聞こえない。
助けを呼ぶ声も、
届かない。
主人公は、
初めて思った。
(……ここから
出られるのか?)
その問いに、
まだ答えはなかった。
「別室」という言葉は、
最初はただの単語だった。
看護師が使うときも、
職員同士の会話でも、
特別な抑揚はない。
まるで、
倉庫や会議室と同じ扱いだ。
それが逆に、
不気味だった。
別室へ連れていかれる患者は、
必ず反抗的だった。
薬を拒否する。
指示に従わない。
質問をやめない。
暴力を振るうわけでも、
叫び続けるわけでもない。
ただ、
言うことを聞かない。
それだけで、
十分だった。
主人公は、
ある夜、
はっきりと見てしまった。
巡回の時間。
廊下の角で、
職員が二人、
一人の患者を挟んでいる。
患者は中年の男だった。
昼間、集団療法で
ずっと黙っていた男。
「行きたくない」
そう言った声は、
驚くほど普通だった。
泣き叫びもしない。
狂った様子もない。
ただ、
怯えている。
「落ち着いてください」
看護師の声は、
穏やかだ。
「すぐ終わりますから」
“終わる”。
その言葉が、
胸に引っかかる。
男は抵抗した。
本気ではない。
逃げようとしただけだ。
だが、
それで十分だった。
腕を掴まれ、
床に押し倒される。
金属音。
鎖。
主人公は、
物陰から
その一部始終を見ていた。
男の足首に、
冷たい輪が嵌められる。
もう片方が、
床に固定される。
身動きが取れなくなる。
「やめてくれ」
声が、
震える。
次に出てきたのは、
見たことのない機械だった。
医療機器のようで、
そうでもない。
コード。
スイッチ。
主人公は、
それが何か、
直感で理解した。
短い音。
乾いた、
電気の音。
男の体が、
不自然に跳ねる。
叫びは、
途中で途切れた。
主人公は、
思わず口を押さえた。
吐きそうになる。
だが、
音はすぐに止んだ。
すべてが、
手際よく進んでいく。
「別室に移します」
誰かが言った。
男は、
もう抵抗していなかった。
生きているのか、
意識がないのか、
分からない。
その扉は、
病棟の一番奥にあった。
普段は、
施錠されている。
厚い扉。
窓は、
ない。
男は、
その中に
運ばれていった。
翌日。
何事もなかったように、
朝が来る。
点呼。
男の名前は、
呼ばれなかった。
誰も、
不思議そうな顔をしない。
昼の活動の終わり。
看護師が、
淡々と告げる。
「昨夜、
症状が急変し、
亡くなりました」
その一文で、
すべてが終わる。
主人公は、
その場で初めて
確信した。
ここでは、
別室に行く=戻らない。
それは、
暗黙の了解だった。
それから、
主人公は数えるようになった。
人数を。
朝の点呼。
昼の活動。
夜の消灯。
一人、
また一人。
少しずつ、
減っていく。
消える前には、
必ず兆候があった。
投薬量が増える。
記録が細かくなる。
看護師の態度が変わる。
急に、
優しくなる。
それが、
一番怖かった。
主人公は、
看護師たちの会話を
盗み聞きした。
廊下の曲がり角。
「昨日の人、
どうなった?」
「別室」
それだけ。
「じゃあ、
書類回しといて」
書類。
その言葉が、
妙に現実的だった。
人が一人消えるより、
事務処理の方が
重要そうに聞こえる。
ある日、
主人公は
決定的な会話を聞いた。
夜明け前。
看護師と、
白衣の男。
医院長だった。
「反抗的なのは
次で終わらせろ」
「説明は、
いつも通りでいい」
“いつも通り”。
つまり、
これまでにも
何度もあったということ。
主人公の背中に、
冷たい汗が流れた。
(……慣れてる)
(この人たち、
もう慣れてる)
その日、
消えた患者は
三人だった。
全員、
ここ数日で
質問をしていた人間。
昼の活動で、
主人公は
空いた椅子を見た。
誰も、
そこを見ない。
まるで、
最初から
なかったみたいに。
その夜、
主人公は眠れなかった。
布団の中で、
天井を見つめる。
数日前まで、
ここを
「ちょっと怪しいバイト」
だと思っていた。
今は違う。
ここは、
殺す場所だ。
治療の形をした、
処理場。
主人公は、
初めて
本気で考えた。
(……逃げられるか?)
(……外に出たら、
誰か信じるか?)
だが、
すぐに分かる。
証拠がない。
消えた人間は、
すべて
「説明」されている。
記録上は、
正しい。
主人公は、
歯を食いしばった。
(……だったら)
(……中を
見るしかない)
別室。
あの扉の向こうに、
すべてがある。
そう、
確信していた。
端末室は、
病棟の中央にあった。
患者が自由に使える場所、
という名目だが、
実際に使っている人間はほとんどいない。
古いデスクトップが数台。
動作は遅く、
ネットも制限されている。
それが、
逆に都合がよかった。
主人公が動いたのは、
深夜だった。
巡回の間隔は、
完全に一定ではない。
だが、
長く見ていると
“隙”が分かってくる。
来る。
行く。
戻る。
音で分かる。
足音が遠ざかった瞬間、
主人公は
布団を抜け出した。
心臓が、
やけにうるさい。
廊下は、
夜の顔をしている。
昼間よりも
距離が長く感じる。
端末室のドアは、
鍵がかかっていなかった。
開けると、
埃っぽい匂い。
電気をつけると、
白い光が広がる。
ここだけ、
現実に近い。
端末を起動する。
遅い。
ファンの音が、
やたらと大きく聞こえる。
主人公は、
息を殺して待った。
記録は、
思ったより
整理されていた。
患者名。
診断。
投薬履歴。
処置内容。
一人の名前を、
検索する。
別室に連れていかれた男。
数字が、
並んだ。
投薬量。
明らかに、
増えている。
通常の範囲を、
大きく超えている。
日付を追う。
増量。
さらに増量。
最後の項目。
手術
合併症
死亡
主人公は、
画面を見つめた。
(……これ)
(殺す前提だ)
別の患者も調べる。
同じ流れ。
症状悪化。
薬。
手術。
死亡。
偶然じゃない。
型だ。
そのとき、
足音が聞こえた。
近い。
さっきとは、
違う。
明らかに、
この部屋に向かっている。
主人公は、
慌てて身を低くし、
机の影に隠れた。
息を止める。
ドアが開く。
巡回の看護師。
端末を一瞥する。
一瞬、
何かを確認するように
画面を見る。
だが、
何もせず出ていった。
主人公は、
しばらく動けなかった。
やっと息を吐く。
翌朝、
看護師同士の会話が
耳に入る。
「端末、
今朝見たら
脚がついてたって」
「え?
一台だけ?」
「いや、
二つ」
二つ。
主人公の背中に、
冷たいものが走る。
(……俺じゃない)
(もう一人、
いる)
昼の自由時間。
主人公は、
まだ動けずにいた。
端末室に
再び行くのは、
無理だ。
痕跡が残っている。
そんなときだった。
一回り年上の、
太った男が
近づいてきた。
見覚えは、
ある。
だが、
強く印象に残るほど
関わってはいない。
男は、
周囲を一度だけ見てから、
小さな紙を
主人公の手に押し込んだ。
何も言わず、
去っていく。
活動が終わり、
部屋に戻る。
主人公は、
ドアを閉めてから
紙を開いた。
読んだら捨てろ
感づいてるなら
夜じゃなく
昼に来い
短い。
命令に近い。
罠かもしれない。
そう思った。
だが、
数日が過ぎる。
その間に、
研修会にいた人間が
また一人消えた。
このまま
何もしなければ、
いずれ自分も消える。
それだけは、
はっきりしていた。
昼の自由時間。
主人公は、
男の部屋に向かった。
ノック。
「どうぞ」
中は、
意外と普通だった。
男は、
笑った。
「やっと来たか」
その笑顔が、
ここに似合わなすぎて、
逆に安心した。
「俺も、
バイトだよ」
男は、
あっさり言った。
「芸人。
売れてない方」
どうでもいい自己紹介。
だが、
その軽さに
主人公は救われた。
男は、
事前に聞かされていたと言う。
「潜入者が、
何人かいるって」
「誰が誰かは、
知らない」
「でも、
人数だけは」
残りは、
自分たちと、
もう一人。
だが、
その“もう一人”は
すでに消えていた。
二人は、
世間話をした。
どうでもいい話。
芸人の夢。
くだらない失敗。
こんな場所で、
初めて
落ち着いた。
「なあ」
男が言った。
「証拠、
どうする?」
主人公は、
黙った。
端末室のことを話す。
だが、
それだけじゃ足りない。
検査を受けても、
誤魔化される。
そのとき、
主人公は思い出した。
紙。
紙の資料。
看護師たちが、
記録を回している光景。
「……別室だ」
主人公は、
呟いた。
患者が入れない。
外部からも見えづらい。
そこしか、
ない。
男は、
ゆっくり頷いた。
「じゃあ、
そこに行くしかないな」
軽く言う。
だが、
二人とも分かっていた。
それは、
死ぬ可能性が
一番高い場所だ。
その夜、
主人公の部屋に足音が近づいた。
遅い。
揃っている。
巡回じゃない。
「起きてください」
看護師の声。
「研修があります」
廊下には、
すでに数人が立っていた。
眠そうな顔。
だが、完全に寝ぼけてはいない。
皆、
“何か”を察している。
主人公は、
自然に人数を数えた。
そこで、
気づく。
――あの男がいる。
三人目の男。
年齢は、主人公と同じくらい。
痩せていて、
いつも端の席にいる。
派手な行動はしない。
だが、
妙に周囲を観察している。
目が合うと、
ほんの一瞬だけ頷いた。
それだけ。
会議室には、
医院長と幹部たちが揃っていた。
並び方が、
もう“審査”だ。
医院長が言う。
「最近、症状が不安定な方がいます」
「安全のため、
投薬量を調整します」
再検査。
経過観察。
言葉は柔らかい。
だが、
意味は一つだ。
主人公は、
三人目の男を盗み見た。
男は、
表情を変えない。
だが、
指先だけが
微かに動いている。
緊張している。
――俺たちと同じだ。
研修は、
短く終わった。
内容は薄い。
だが、
部屋を出るとき、
主人公は確信した。
これは“集められた”んじゃない。
“選ばれた”んだ。
翌日の昼。
集団活動の前、
三人目の男が
主人公の隣に座った。
今まで、
一度もなかったことだ。
「……昨日の研修」
男が、
小さな声で言った。
「どう思いました?」
質問が、
直球すぎる。
主人公は、
一瞬だけ迷い、
曖昧に答えた。
「……あんまり
良くない感じでしたね」
男は、
短く息を吐いた。
「ですよね」
それだけ。
だが、
その一言で、
主人公は確信した。
こいつも、偽物だ。
その後、
三人目は少しずつ話すようになった。
大した話じゃない。
前にやっていた仕事
ここに来た理由
報酬の話
芸人ほど軽くない。
だが、
現実的だ。
「証拠、
集めてます?」
突然、
そう聞かれた。
主人公の心臓が跳ねる。
「……何の?」
「とぼけなくていい」
男は、
主人公を見た。
真っ直ぐな目。
「俺、
端末室に入ったことがあります」
その瞬間、
主人公の中で
線が一本つながった。
“二つの端末”。
だが、
深く話す前に、
職員が来た。
「そろそろ、
始めますよ」
会話は、
強制終了。
その日の夜。
主人公は、
三人目の部屋を
見た。
明かりが、
点いていない。
翌朝。
点呼。
三人目の名前は、
呼ばれなかった。
昼。
看護師の声。
「昨夜、
急変がありました」
主人公は、
芸人と目を合わせた。
言葉は、
いらない。
夕方、
廊下で聞こえた。
看護師と、
誰かの会話。
「三人目、
処理終わった?」
「もう」
主人公の中で、
何かが
完全に切れた。
昨日まで、
話していた人間が、
今日は“数”になっている。
芸人が、
ぽつりと言った。
「……次、
俺たちだな」
主人公は、
はっきり頷いた。
夜のオリエンテーションが終わり、
患者たちはそれぞれの部屋に戻され始めていた。
いつも通りの流れ。
いつも通りの声掛け。
いつも通りの誘導。
主人公は、
芸人と視線を交わした。
ほんの一瞬。
言葉はいらない。
部屋に戻る直前、
主人公は突然、
廊下の真ん中で立ち止まった。
芸人も、
同じように動きを止める。
看護師が、
怪訝そうに言った。
「どうしました?」
主人公は、
答えなかった。
代わりに、
ゆっくりと笑った。
次の瞬間、
主人公は
壁に拳を叩きつけた。
ガンッ。
大きな音。
看護師が、
一歩引く。
「ちょっと――」
芸人が、
叫び声を上げた。
意味のない言葉。
文法も、
感情も、
ぐちゃぐちゃ。
完全に、
“壊れた患者”。
そのときだった。
火災警報が鳴った。
耳を裂くような音。
赤いランプが、
点滅する。
一瞬、
全員が固まった。
次の瞬間、
病棟が
一気に崩れた。
患者が、
叫ぶ。
泣く。
走り出す。
意味もなく、
暴れ出す。
主人公と芸人は、
完全に“触媒”だった。
二人の狂気が、
周囲に伝染する。
本物の患者が、
引きずられるように
壊れていく。
看護師の声が、
飛び交う。
「落ち着いて!」
「押さえて!」
「別室――」
だが、
もう制御できない。
人数が、
多すぎる。
誰かが、
非常口に体当たりする。
別の誰かが、
床に座り込み、
泣き叫ぶ。
主人公は、
その混乱の中で思った。
(……やりすぎた)
だが、
止められない。
止めたら、
終わりだ。
やがて、
どこかで
はっきりした声が響いた。
「警察を呼べ!」
その言葉で、
芸人が
一瞬だけ主人公を見た。
目が、
笑っていない。
(……今だ)
警報が鳴り続ける中、
主人公と芸人は
人の流れと逆に動いた。
誰も、
二人を気にしていない。
全員、
目の前の混乱で
手一杯だった。
病棟の一番奥。
厚い扉。
別室。
普段は、
必ず施錠されている。
だが、
この夜は違った。
警報対応のためか、
鍵は開いていた。
芸人が、
ドアノブに手をかける。
一瞬、
ためらう。
「……開けるぞ」
主人公は、
無言で頷いた。
扉が、
軋みながら開く。
中は、
真っ暗だった。
そして――
匂い。
腐敗と、
消毒と、
鉄の匂い。
芸人が、
震える声で言った。
「……やっぱり
ヤバいな」
照明のスイッチを探す。
一秒。
二秒。
カチッ。
光が、
別室を照らした。
床。
壁。
そこに、
人がいた。
正確には、
人だったもの。
布をかけられたもの。
そのままのもの。
袋に入れられたもの。
数は、
すぐに数えられなかった。
芸人が、
後ずさる。
「……三人目」
声が、
掠れる。
主人公は、
動けなかった。
足が、
床に縫い付けられたみたいだ。
奥に、
棚があった。
ファイル。
紙。
写真。
震える手で、
一枚を取る。
そこには、
死亡時の写真。
日付。
名前。
理由。
主人公は、
思わず
息を呑んだ。
(……全部、
残ってる)
「……証拠だ」
芸人が、
呟く。
その瞬間。
機械音。
低い警告音。
別室のどこかで、
何かが作動した。
同時に、
扉の向こうから
足音が聞こえた。
複数。
近づいてくる。
主人公は、
ファイルを抱えた。
「……戻るぞ」
二人は、
入口へ走る。
だが――
ガチャッ。
扉が、
開かない。
ロック。
閉じ込められた。
足音が、
確実に近づく。
警察か。
病院か。
分からない。
芸人が、
息を荒げる。
「……やべえな」
主人公は、
別室の奥を見た。
隠れる場所は、
ほとんどない。
だが、
探すしかない。
そのとき。
扉が、
開いた。
光が、
差し込む。
主人公は、
心の中で
必死に祈った。
(……警察であれ)
電気が、
点けられる。
立っていたのは――
医院長だった。
主人公の頭が、
真っ白になった。
別室の照明が、
完全についた。
白すぎる光が、
死体も、床も、
全部を同じ色にする。
医院長は、
その中央に立っていた。
白衣。
乱れていない髪。
呼吸も、落ち着いている。
まるで、
最初から
ここにいる予定だったかのように。
「……君たちか」
声は、
低くて、静かだった。
怒鳴らない。
焦らない。
それが、
何より怖かった。
芸人が、
一歩下がる。
主人公は、
ファイルを抱えたまま
動けなかった。
医院長の手には、
細長い機械があった。
黒い。
見覚えがある。
スタンガン。
患者を
“落ち着かせる”ための道具。
「そこにあるものを、
勝手に見るのは
感心しないな」
医院長は、
淡々と言った。
視線は、
主人公の腕に向いている。
ファイル。
「……全部、
分かってやってるんですか」
主人公の声は、
自分でも驚くほど
震えていた。
医院長は、
少しだけ首を傾げた。
「分からないまま
やっていると思うか?」
一歩、
近づく。
足音が、
妙に大きく響く。
「ここはね、
社会の外れに落ちた人間を
預かる場所だ」
「誰も、
本当には
面倒を見ない人間たちを」
芸人が、
叫ぶように言った。
「だからって、
殺していい理由には
ならないだろ!」
医院長は、
その言葉を
遮らなかった。
しばらく、
考えるような間。
「“殺している”と
言い切れるか?」
そう言って、
棚の一枚を
指で叩く。
「薬物反応」
「合併症」
「急変」
「全部、
説明できる」
「社会が求めているのは、
結果じゃない」
「説明だ」
主人公の背中に、
ぞわりとした感覚が走る。
「君たちみたいな人間は、
よく分かる」
医院長の視線が、
主人公に刺さる。
「孤立している。
繋がりがない」
「だから、
“事故”が起きても
波風が立たない」
「……だから
バイトで集めたんだ」
主人公が、
呟く。
医院長は、
初めて
微かに笑った。
「賢いな」
次の瞬間。
バチッ。
スタンガンの音。
芸人が、
悲鳴を上げて倒れた。
主人公は、
反射的に
走った。
逃げる。
ただ、
それだけだった。
別室の奥へ。
死体を避け、
棚を倒し、
無我夢中で走る。
背後で、
足音。
一定の間隔。
追ってくる。
「無駄だ」
医院長の声が、
響く。
「出口は
ロックされている」
主人公は、
振り返らない。
振り返ったら、
終わる。
曲がり角。
壁。
通路は、
思ったより狭い。
鬼ごっこみたいだ。
小学生の頃の。
だが、
捕まったら
終わりのやつ。
医院長が、
続ける。
「君たちは、
勘違いしている」
「私は、
悪をやっているわけじゃない」
スタンガンが、
壁に当たる。
火花。
主人公は、
床に転がる。
「私は、
“管理”しているだけだ」
「誰かが
やらなければならない」
主人公は、
近くにあった
金属片を掴み、
投げた。
医院長の足元に当たる。
一瞬、
距離が空く。
「だったら、
正面から言えよ!」
主人公は、
叫んだ。
「殺してますって!
必要だからって!」
医院長の声が、
少しだけ
荒くなる。
「理想論だ!」
「誰も、
責任を取りたがらない!」
主人公は、
息を切らしながら
立ち上がる。
体が、
限界に近い。
「……俺だって」
「最初は、
金のためだった」
「でも、
ここまで
踏みにじられて」
スタンガンが、
再び振り上げられる。
主人公は、
咄嗟に
棚の陰に隠れた。
「お前は、
選別する側だと思ってるのか?」
医院長の声が、
すぐ近くで聞こえる。
主人公は、
歯を食いしばった。
違う。
自分は、
たまたま
逃げているだけだ。
壁を挟んで、
二人は
ぐるぐると回る。
同じ場所。
同じ距離。
「……黙れ」
主人公は、
低く言った。
「お前は、
ただの
殺人鬼だ」
一瞬、
空気が止まった。
その隙に、
主人公は
飛び出した。
次の瞬間、
二人は
ぶつかった。
スタンガンが、
床に落ちる。
金属音。
武器は、
もう
意味を失った。
二人は、
そのまま
掴み合った。
最初に倒れたのは、
どちらだったか分からない。
気づいたときには、
二人とも床にいた。
息が、
近すぎる。
相手の呼吸が、
そのまま肺に流れ込んでくる。
主人公は、
医院長の白衣を掴んだ。
思ったより、
薄い。
簡単に破れそうだ。
医院長は、
主人公の首元に
腕を回した。
締める力は、
正確だった。
感情が、
入っていない。
視界が、
一瞬で狭くなる。
耳鳴り。
主人公は、
必死に腕を伸ばし、
拳を振り下ろした。
狙いは、
ない。
当たればいい。
骨に当たる感触。
硬い。
拳が、
割れた気がした。
医院長が、
短く息を吐く。
それだけで、
少し救われる。
二人は、
転がった。
死体に当たり、
棚にぶつかり、
床を滑る。
床は、
もう
何色か分からない。
血。
薬品。
埃。
全部が混ざって、
ぬかるんでいる。
拳が、
何度も
顔に当たる。
痛みは、
遅れてくる。
先に来るのは、
熱だ。
主人公も、
殴り返す。
フォームも、
技術もない。
ただ、
振り下ろす。
「……っ」
医院長の声が、
初めて
感情を含んだ。
苛立ち。
主人公は、
歯を食いしばった。
(……負けたら、
ここで終わりだ)
医院長が、
体重をかけてくる。
押し倒される。
背中を、
床に打ちつける。
息が、
全部
抜けた。
視界の端で、
何かが転がる。
金属。
遠くで、
声が聞こえた。
はっきりした、
複数の声。
足音。
警察だ。
その瞬間、
主人公の中で
何かが切り替わった。
勝てる。
そう、
思ってしまった。
「……もう終わりだ」
主人公は、
息を荒げながら
言った。
「外に、
警察が来てる」
医院長の目が、
一瞬だけ揺れた。
次の瞬間、
逆上したように
突っ込んできた。
衝撃。
世界が、
横に流れる。
主人公の体は、
壁に叩きつけられ、
床を滑った。
息が、
できない。
すぐ近くに、
スタンガンが落ちていた。
主人公は、
這う。
腕だけで。
医院長が、
迫る。
掴む。
振り上げる。
バチッ。
電気が、
確かに通った。
医院長の体が、
跳ねる。
倒れる。
主人公は、
その場に
崩れ落ちた。
「……終わった……」
――起き上がった。
医院長が、
立っていた。
当たり所が
良かっただけ。
一瞬の油断。
腕を掴まれ、
スタンガンを奪われる。
「……だから
甘いんだ」
スタンガンが、
向けられる。
だが、
動きが鈍い。
痺れている。
主人公は、
転がってかわした。
床に落ちていた
金属を掴む。
突き刺した。
一度。
二度。
それでも、
止まらなかった。
起き上がるのが、
怖かった。
何度も。
背後で、
誰かが叫んだ。
「やめろ!」
「警察だ!」
腕を掴まれ、
引き剥がされる。
主人公は、
床に
崩れ落ちた。
別室は、
白い光で
満たされていた。
その後のことは、
断片的にしか
覚えていない。
病院のこと。
別室のこと。
記録のこと。
全部、話した。
病院の全貌は、
明らかになった。
芸人は、
重傷だったが
生きていた。
事件は、
終わった。
だが、
主人公の手は
しばらく
震えたままだった。
終わったあとも、止まらなかった。
病室の天井は、白すぎた。
白い、というより、
何もない。
模様も、傷も、影も。
ただの面。
ただの光。
主人公は最初、
それが怖かった。
別室の照明を思い出すからだ。
目を開けた瞬間、
あの匂いが鼻の奥に戻ってくる気がして、
息を吸うのが遅れた。
吸って、
吐いて、
それでようやく、
ここが“別室じゃない”と分かった。
右腕に点滴。
左手に包帯。
拳は腫れていて、
指を曲げると鈍い痛みが走った。
胸も、肋も、
どこかがずっと痛い。
でも、
痛みはまだ良かった。
痛いということは、
今が今だと分かるということだ。
問題は、
意識がふっと空白になる瞬間だった。
何かの音。
何かの匂い。
何かの単語。
それだけで、
頭が勝手に別室へ戻る。
戻った瞬間、
胃が縮んで、
喉が乾いて、
手が震える。
あの夜、
止まらなくなった手。
止められなかった自分。
引き剥がされるまで、
“終わらせる”ことをやめられなかった。
目を閉じると、
今でもそこだけは
鮮明だった。
「起きてますか?」
看護師がカーテンの隙間から声をかけた。
主人公は頷いた。
声を出すと、
喉の奥が擦れて痛い。
看護師は、
薬と水を置いていった。
「無理しないでくださいね」
その言い方が、
ふと病棟の看護師の声に似ていて、
主人公の背中がこわばった。
看護師は気づかず去っていく。
主人公は、
呼吸を整えた。
(ここは違う)
(ここは違う)
心の中で、
同じ言葉を何度も唱えた。
警察は何度も来た。
事情聴取。
確認。
書類。
もう一度確認。
主人公は、
全部話した。
最初のバイト募集。
個別説明会。
家族構成。
投薬。
別室。
消えていった患者。
端末室の記録。
写真。
死体の山。
――そして、
医院長が何を言ったか。
「管理だ」
「必要な仕事だ」
「社会のためだ」
「説明さえできればいい」
主人公はそれを口に出すたび、
胃の奥が冷たくなった。
警察官の表情は変わらない。
職業的な顔だ。
同情も、怒りも、
外には出さない。
ただ、
何人かは質問の途中で
ペンを止めた。
言葉を探すように。
そしてまた、
何も言わず書き続けた。
「依頼主は、分かりますか」
何度目かの事情聴取で、
同じ質問が来た。
主人公は首を振った。
フリーアドレス。
現金。
個別説明会。
あれは最初から
“残さない”設計だった。
主人公が今ここにいること自体、
計算外だったのかもしれない。
あるいは――
最初から、
生き残りが出ることすら
計算に入れていたのかもしれない。
主人公は、
そこまで考えてしまって、
急に寒気がした。
考えても意味はない。
答えは出ない。
でも、
頭は勝手に
“誰だったのか”を探し続ける。
芸人のことは、
しばらく後で聞いた。
「助かったって」
警察官が、淡々と教えた。
主人公は、
そのときだけ、
本当に息が抜けた。
(生きてた)
その一言で、
現実が少しだけ戻った。
あの夜が、
夢じゃなかったという証拠みたいに。
退院は早かった。
医者は言った。
「身体の方は、回復が早いです」
「精神面は……」
そこで一瞬言葉を探して、
こう続けた。
「思ったより、
落ち着いていますね」
主人公は、
笑えなかった。
落ち着いているわけじゃない。
ただ、
どこかが麻痺しているだけだ。
もともと、
人生が静かに崩れていた人間が、
急に大崩壊を見せられた。
差は、
ある。
でも、
“ゼロ”が“マイナス”になっただけで
それを「大ダメージ」と呼ぶかは
人による。
主人公は、
自分がどっちなのか分からなかった。
カウンセリングも受けた。
週に一度。
白い部屋。
柔らかい椅子。
優しい声。
「辛かったですね」
その言葉に、
主人公は頷いた。
辛かった。
怖かった。
吐きそうだった。
死ぬと思った。
全部、本当だ。
でも、
もう一つの本当がある。
(あのとき、
俺は確かに生きてた)
ネカフェの個室で、
日々が薄くなっていく感じとは違う。
呼吸の一回が命だった。
一歩が境界だった。
判断一つで死ぬ場所だった。
怖い。
でも、
あれ以上に“現実”だった瞬間はない。
主人公はそれを言葉にできず、
ただ沈黙した。
カウンセラーは、
沈黙を尊重する顔で頷いた。
それが、
少しだけ救いだった。
世の中は、
あっさりしていた。
ニュースは一瞬だけ騒ぎ、
すぐ別の事件に上書きされた。
だがネットは違った。
主人公は、
ブログに書いた。
最初は迷った。
自分が書けば、
また“別室”に引きずり戻される。
でも、
書かなければ何も残らない。
死体は片づけられる。
記録は誰かが持っていく。
説明はまた“説明”で消える。
主人公は、
手が震えるのを見ながら
キーボードを叩いた。
タイトルを付けた。
大げさじゃないやつ。
でも、目を引くやつ。
【潜入】精神病院の閉鎖病棟で見た“別室”の話
記事は、
予想より早く伸びた。
最初は「釣り」「創作」扱い。
次に「怖すぎる」「証拠は?」。
その次に、
「これ、あの事件じゃないか?」と
誰かが過去ニュースを掘り起こした。
そこからは早かった。
まとめ。
拡散。
切り抜き。
考察。
動画化。
陰謀論。
主人公の文章は、
勝手に他人の物語になっていった。
陰謀論は、
笑えるものもあった。
「主人公は病院側の人間」
「全部、保険会社の工作」
「依頼主は政府」
「患者は実在しない」
誰かが勝手に
“真実”を作っていく。
主人公は、
最初は腹が立った。
だが、すぐに疲れた。
全部を否定して回るほど、
主人公は正義の人間じゃない。
そして正直、
どうでもよかった。
信じる人は信じる。
信じない人は信じない。
大事なのは、
もう隠せない形で
“別室”が世に出たこと。
それだけだ。
ブログの収益が入った。
広告。
投げ銭。
インタビュー依頼。
主人公は驚いた。
(俺の地獄が、
金になる)
その事実は、
気持ち悪かった。
でも、
主人公は止めなかった。
止める理由がない。
むしろ、
今までの人生で
“金になること”が
どれだけあった?
主人公は、
自分の浅ましさを
自覚していた。
自覚しているから、
たぶんギリギリでいられた。
被害者をネタにしている。
その罪悪感はある。
でも、
それでもなお
金が必要だった。
生活がある。
それが、
主人公の現実だった。
しばらく、
働かずに暮らした。
ネカフェを出て、
安いウィークリーマンションを借りた。
シャワーを浴びる。
布団で寝る。
それだけで、
妙に落ち着かない。
静かすぎる。
夜が暗すぎる。
電気を消すと、
別室を思い出す。
だから、
主人公は
小さな明かりをつけたまま眠った。
芸人から連絡が来た。
相変わらず、
軽い文章だった。
「生きてて草」
「お前、ネットで有名人じゃん」
「童貞卒業のために利用できない?」
主人公は、
笑ってしまった。
初めて、
ちゃんと笑った気がした。
笑ったあと、
急に涙が出た。
なんで泣いたのかは、
自分でも分からなかった。
芸人は生きている。
自分も生きている。
それだけで、
何かが少しだけ
ほどけた。
でも、
完全には戻らない。
戻る必要もない。
主人公は、
ある夜、コンビニへ行った。
弁当と、
安い缶コーヒー。
会計をして、
外に出る。
夜風が、
頬に当たる。
街は普通だった。
普通すぎて、
怖いくらいに。
誰も、
別室の匂いを知らない顔をして歩いている。
それが、
逆に不気味だった。
主人公は、
気づいたら
ネカフェの方へ歩いていた。
理由はない。
ただ、
足がそこを覚えている。
入り口の自動ドアが開くと、
あの匂いがした。
甘い消臭剤と、
古い布の匂い。
受付で会員証を出す。
「いらっしゃいませ」
何も知らない声。
個室に入る。
椅子に座る。
パソコンの電源を入れる。
画面が光る。
主人公の顔が、
青白く照らされる。
その光が、
妙に落ち着く。
求人サイトを開いた。
検索欄に、
指が勝手に動く。
短期 バイト
候補が並ぶ。
倉庫。
工場。
深夜清掃。
普通の仕事。
普通すぎて、
つまらない。
主人公は
スクロールした。
そのとき、
一つの募集が目に入った。
条件が良すぎる。
説明が薄い。
身元保証人不要。
主人公は、
マウスカーソルを止めた。
心臓が、
一拍遅れて鳴る。
(……まただ)
と、思った。
でも、
手は動かなかった。
クリックしない。
今回は。
主人公は、
深く息を吐いた。
画面を閉じ、
別の求人を開いた。
世界は変わっていない。
でも、
主人公は変わった。
変わったまま、
生きていくしかない。
ネカフェの天井は低く、
白いパネルが並んでいる。
病室の天井とは違う。
別室の天井とも違う。
ただの、
安い天井。
主人公は、
椅子にもたれた。
目を閉じる。
匂いはまだある。
音もまだ残っている。
夜はまだ怖い。
それでも、
ここにいる。
呼吸ができる。
主人公は、
小さく笑った。
自分の人生は、
相変わらずくだらない。
でも、
くだらないまま続く。
それは、
悪くない。
画面の光が、
消えないまま。
主人公は、
また求人を探し続けた。
今度は、
死なないために。
終




