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第九十八話 患者未満

 新開市立総合病院には、列が二つあった。


 一つは、受付の列。

 もう一つは――受付に“向かうための列”。


 どちらも札は貼られていない。

 だが、人は自然に並び、自然に黙り、自然にスマホを掲げ、自然に「診断」という言葉を口にする。


 診断は、善意だ。

 善意は、手順だ。

 手順は、街の癖になる。


 津田義弘は、病院の正面玄関に立って、膝の痛みを踏みしめた。

 スーツではない。市長のスーツ――布の方だ。

 それでも背中に、戦場の冷えが残っている。


「ここも列かよ……」


 足元から、苔色の影が跳ねた。


「お前が言い出したんだろ、“市立病院の医療導線”って」


 トミーが鼻を鳴らす。


「言わなきゃ、あいつらが“外部搬送”で全部持っていく」


「だからって……病院までショーにするなよ。頼むから」


「頼んで止まるなら、最初から誰も暴走しない」


 トミーは、病院の壁を見上げた。

 壁には観光案内のポスターが貼られている。

 “新開市へようこそ!”

 “サムライ・ヒーローの街!”

 なぜか、義弘の横顔と、アリスの小さなシルエットが並んでいる。


 義弘は目を細めた。


「……勝手に刷るな」


「刷る。売る。配る。並ぶ。これが新開市だ」


 トミーは悪態を吐きながらも、耳をぴくりと立てた。

 動物の勘が、もう一つの列の“匂い”を嗅いでいる。


 義弘も気づく。


 正面玄関の影に、やけに整った人たちがいる。

 白衣ではない。警備でもない。

 だが、視線が“導線”を測っている。


 その中に――白い手袋があった。


 顔は見えない。

 腕章もない。

 ただ、手袋だけが白い。


 義弘は、喉の奥が冷えるのを感じた。


「……まだいるのか」


「撤収命令が出たって? 知るかよ。手順は撤収しないんだよ」


 トミーが吐き捨てる。


 白い手袋――監査記録官は、こちらに歩いてこない。

 代わりに、病院の入口付近で“列”を整える。

 さっき市長室にいた説明係が、ここにもいる。

 声だけが聞こえる。


「本日は混雑が予想されます。皆さま、落ち着いて。診断は安心のためです。拒否もできます」


 拒否もできる。

 拒否すると面倒になる。

 面倒は悪。


 それを、病院でやる。


 義弘は一歩前に出た。


「市長権限で告げる。ここは市立病院だ。新開市の医療導線に外部の手順は入れない」


 監査記録官は、こちらを見ない。

 見ないまま、白い手袋が小さな紙束をひとつ、説明係へ渡す。


 説明係は、それを見て、微笑んだ。


「もちろんです。市長。ですので――“市長も同じ導線に入ってください”。公平は安心です」


 公平。

 安心。

 善意の言葉が、喉元に手を伸ばす。


 その瞬間、病院の外で歓声が起きた。


「市長だ!」


「本当に来た!」


「診断受けるんだ!」


「アリスちゃんもいるの!?」


 スマホのカメラが、義弘へ向く。

 レンズは銃口に似ている。

 撮影=戦場。義弘はもう、逆算が染みついている。


 トミーが、ぼそっと言った。


「おい。お前が“公平”で並んだら終わりだぞ。列の勝ちだ」


 義弘は頷かない。

 頷かないが、視線だけで答える。


 分かっている。


 分かっているから、次の一手を持ってきた。


 義弘は、懐から封筒を出した。

 市役所の封筒だ。

 封を切って、中の紙を一枚だけ抜く。


 紙の上には、太字で印刷されていた。


《新開市 公認キャラクター 医療保全協定(暫定)》


 義弘は、それを監査記録官の前に“置いた”。


 置き方が、戦いの置き方だ。

 机上ではなく、空気の上に置く。


「アリスは市の公認キャラクターだ。市の資産であり、市の責任だ。市立病院で診断する。治療継続性は新開市が担保する。外部搬送は不要」


 周囲の市民が、ざわめく。


 “資産”。

 その単語が嫌な形で響く。

 だが今は、嫌でも盾が必要だった。


 説明係の微笑が、一瞬だけ硬くなる。


「それは……素晴らしい決断です。市長。では、なおさら――“市長も同じ導線へ”。市長の健康も市の資産です」


 同じ言葉。

 同じ角度。

 同じ刃。


 監査記録官が、白い手袋で、もう一枚の紙を取り出す。

 紙の質が、さっきより薄い。

 薄い紙ほど、手順は速い。


《同意確認:搬送補助》


 義弘の視界の端で、トミーの耳が跳ねた。


「来るぞ、ジジイ」


 義弘は、膝の痛みを無視して、半歩だけ体をずらす。

 紙が狙うのは手首だ。

 触れて、保全具、搬送、患者。

 患者にすれば、統制権限委譲が滑る。


 だが――触れない。


 触れないまま、義弘は言った。


「同意確認なら、先に“主語”を明確にしろ」


 説明係が眉を動かす。


「主語、ですか?」


 義弘は、紙の上の小さな印字を指でなぞった。


「この文面の責任主体は誰だ。新開市か。病院か。外部の“本件担当”か」


 “本件担当”。

 義弘はあえて、以前の警告文の主語を口にした。

 札の言葉を、奪い返す。


 監査記録官の白い手袋が、ほんの一瞬止まった。

 止まったのは感情じゃない。

 順番だ。


 順番が止まると、手順は脆い。


 その瞬間、義弘の端末が震えた。

 短い通知。


 ――そこ、主語ズレてる。

 ――次、優先順位が割れる。


 アリスだ。


 義弘は、呼吸を一つだけ深くする。

 アリスは生きている。

 だが、その通知の文字が、どこか“薄い”。


 トミーが小さく呟く。


「……あいつ、指が震えてる」


 義弘は答えない。

 答える余裕がない。


 病院の奥。隔離ではない、しかし自由でもない部屋。


 アリスはベッドに腰掛けていた。

 セーラー服にフード付きパーカー、スカーフ、黒ニーソックス。

 いつもの格好だ。

 いつもの格好で“患者未満”を演じる。


 部屋の片隅には、シュヴァロフの胴体と片腕、頭部。

 動く。

 掃除ができる程度に。


 シュヴァロフは、床を拭いている。

 拭く。止まる。

 拭く。止まる。


 アリスは、指先を見つめた。


 動かせる。

 でも、遅い。


 NECROテックが、勝手に《最適化》している。

 勝手に《休養》へ寄せている。

 勝手に――戦いを奪う。


 アリスは、口の中で悪態を転がす。


「……ふざけんなよ」


 そのとき、部屋の照明が一瞬だけ揺れた。

 揺れたというより――誰かがスイッチを“触れた”みたいに。


 アリスは眉をひそめる。

 ハックでは説明できない。

 NECROテックでも観測できない揺れ。


 そして、廊下の奥から――足音が聞こえた。


 未完成リングの怪談で聞いた足音。

 でも、ここは病院だ。


 足音は、規則正しい。

 列の足音じゃない。

 ドロイドの足音でもない。

 “人間の訓練された足音”。


 アリスは、息を止める。


 カーテンの隙間に、白いものが見える。

 白い手袋。


 監査記録官は、ここまで来られる。

 善意の札で。診断の札で。搬送の札で。


 アリスは、端末を握る。

 握る指が遅い。

 それでも、文字を打つ。


 ――来る。

 ――列の外から刺してくる。


 送信。

 送信した瞬間、指先が冷えた。


 シュヴァロフの頭部が、きゅ、と小さく鳴る。

 家事の音。

 だけど今は、警告音に聞こえた。


 病院の入口。列の中心。


 義弘は、アリスの通知を受け取った直後、すぐに判断した。


 “入口で勝つ”必要はない。

 “奥で守る”必要がある。


 義弘は、列に向き直る。

 笑顔を作るのではなく、声を作った。

 市長の声だ。市長は声で戦う。


「皆さん。市立病院は、市民のための場所です。撮影は迷惑になります。診断は必要です。ですが――診断の順番は病院が決める。列が決めるものではありません」


 ざわめき。

 反発。

 善意の反発は、正義面をする。


 そこで、別の声が割り込む。


「みなさん! 落ち着いて! 市長の言う通り! 病院は病院の導線で!」


 刀禰ミコトの声だ。

 配信の声ではなく、生身の声。


 義弘が振り向くと、ミコトは病院の敷地の端に立っていた。

 派手な装飾。明るい笑顔。

 だけど目だけが真剣だ。


「善意って、暴走すると迷惑になるんです! ね! みんな、善意は“整列”じゃなくて“後退”!」


 市民が笑う。

 笑いながら、一歩引く。

 笑いは、手順を崩す。

 暴走の空気を少しだけ薄くする。


 義弘は、その隙に、トミーを抱えたまま、入口の横へ抜けた。

 病院の裏口へ向かう導線を選ぶ。


 監査記録官は、それを見ているはずだ。

 見ていなくても、手順は追う。


 トミーが耳を立てる。


「……やっぱ来てる」


 義弘も感じる。

 背中に、冷たい“整理”の気配。


 白い手袋が、列の外側から、別の列を作っている。

 “市長専用の導線”という名の檻だ。


 義弘は、走り出した。


 膝が痛む。

 痛みが、遅れを生む。

 遅れは、手順に食われる。


 だが――その遅れを、都市が一瞬だけ助けた。


 裏口へ向かう廊下の角で、清掃員のドロイドがぶつかりそうになり、慌てて止まる。

 ぶつかるはずの位置が、ほんの少しズレていた。


 誰かが、床に落ちた紙片を拾っている。

 紙片には、薄い文字。


《確認》


 誰が落としたのか分からない。

 でも、その紙片があるだけで、手順は一瞬迷う。


 義弘はその迷いの隙を抜け、裏口のドアを押し開けた。


 冷たい外気。

 裏庭。

 そして――音が消える。


 消えたのは人の声だけじゃない。

 足音も、機械音も、遠くなる。


 義弘は歯を食いしばる。


「……来たか」


 目の前に、“何もいない”空間がある。

 だが空間が、わずかに歪んでいる。

 光学迷彩。吸音。対ハック。ステルス装甲。


 クウィラス。


 義弘は、反射で刀に手を伸ばしかけて――止めた。


 刀を抜けば、“暴力の市長”になる。

 ここは病院だ。

 病院で暴力は、相手の勝ち札になる。


 クウィラスが近づく。

 音がない。

 影がない。

 なのに、圧だけがある。


 トミーが唸る。


「ジジイ、これ……善意の顔して噛むやつだ」


 義弘は、低く言った。


「……患者にする気か」


 クウィラスの“何もない腕”が伸びる。

 触れて、保全具。

 搬送。

 患者。


 その瞬間、義弘の端末が震えた。


 ――裏口。

 ――右。

 ――“触らせるな”。


 アリスの文字。

 薄いが、鋭い。


 義弘は、膝の痛みを無視して、半歩だけ“落ちる”ように体を沈めた。

 クウィラスの腕が空を切る。

 空を切っても音はない。


 義弘は刀を抜かない。

 代わりに、札を抜く。


 市役所の封筒から、もう一枚。


《医療導線:市長は“診断対象外”》


 乱暴な文面。

 だが、乱暴な札でしか止まらない瞬間がある。


 義弘は、その紙をクウィラスに“見せる”ように掲げた。


 意味はない。

 機械は紙を読まない。

 だが、手順を読んでいる“誰か”には意味がある。


 空気が、ほんの一瞬だけ止まる。


 クウィラスの動きが、わずかに鈍る。

 確認が入った。

 優先順位が割れた。


 その刹那、病院の奥から、微かな“家事の音”が届いた気がした。


 きゅ。


 シュヴァロフが、どこかで床を拭く音。

 ありえない距離。

 でも新開市では、ありえない音が、時々助けになる。


 義弘は、その“助け”に賭けるように、裏庭の角を回り込んだ。


「トミー、走れ!」


「俺を抱えて走るな!」


 悪態。

 でも声がある。

 声があるうちは、生きている。


 背後で、何もない空間が動く。

 クウィラスが追う。


 そして、遠くで――白い手袋の足音が、急いでいる。


 撤収命令が出ている。

 時間がない。

 時間がない手順は、最も危険だ。


 義弘は、歯を食いしばった。


 アリスを守る札は、思いついた。

 市の権限と、病院の導線と、都市伝説の味方。


 だが――札は、守るだけでは勝てない。


 勝つためには、相手の札を“割る”必要がある。


 義弘は走りながら、端末に短く打った。


 ――アリス。

 ――今から“割る”。

 ――主語を寄越せ。


 送信した瞬間、膝が悲鳴を上げた。

 視界が一瞬だけ暗くなる。


 その暗さの中で、義弘は見た。


 病院の壁に、薄い影。

 札の巨人の残像が、まだへばりついている。

 口を開けているように見える。


《健康管理:最優先》


 巨人が、笑っている。


 義弘は、笑わなかった。

 代わりに、低く息を吐いた。


「……いいだろう。来い」


 患者未満の戦いを。

 札で殺される前に、札を殺す。



 病院の屋上。冷たい風。


 白い手袋――監査記録官が、通信端末を耳に当てていた。

 相手の声は苛立っている。親善の口調だが、命令は硬い。


「撤収を決定する。クウィラスは戻せ。露見のリスクが過ぎる」


 白い手袋は、静かに答えた。


「……理解しています」


 理解している。

 だからこそ――次の言葉が冷たい。


「しかし、撤収には“整理”が必要です。最後に、市長へ同意を取り付けます」


 通信が荒くなる。


「勝手をするな。監査の範囲を越える」


 白い手袋は、ほんの一瞬だけ沈黙した。

 そして、白い手袋だけが印象に残る所作で、ペンを取り出した。


 紙に書く。


《緊急確認:最優先》

《患者化:安全確保》

《統制権限委譲:同意》


 札の語彙が、加速する。


 白い手袋は呟いた。


「――間に合う」


 屋上の端で、何もない空間が揺れる。

 クウィラスが、再び動き出す。


 そして病院の奥、ベッドの上で。

 アリスの指が、さらに一段だけ遅くなった。


 遅くなる分だけ、怒りが戻る。

 怒りが戻る分だけ、翼の残像がちらつく。


 彼女は、薄い文字を打つ。


 ――主語。

 ――主語を奪え。


 送信した直後、画面が一瞬だけ白く飛んだ。

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