第九十二話 善意の齟齬
病院の廊下は、いつもより静かだった。
静か——という言い方は正しくない。呼吸の音も、靴底の擦れる音も、機械の低い唸りも、ちゃんとある。ただ、それらが「ここにあるべき順番」で鳴っていない。
受付の端末だけが、一定の間隔で“点滅”している。心電図のように。
ぴ、……ぴ、……ぴ。
その脇に貼られた札が、昨日より増えていた。
《要診断(診断待ち/経過観察)》
《健康管理:最優先》
《定期確認》
《同伴推奨》
《同伴推奨:常態》——見覚えのない語尾。
義弘は、札の紙質を指先で確かめる癖がついてしまっていた。薄い。乾いている。印刷のインクが、必要以上に濃い。
背後で、真鍋佳澄が咳払いをした。
「津田さん。……音声ログ、欠損してます」
「欠損」
「昨夜、院内の廊下カメラ、映像はある。でも音が“抜けてる”。特定区間だけ。しかも、欠損の仕方が規則的です」
「規則的?」
真鍋はタブレットのグラフを見せた。波形が、階段のように消えている。
「ここ。ゼロ。ここ。ゼロ。ここ。ゼロ。——“切られてる”ってより、最初から録れてない。……それと、警備ドロイドの巡回ログが、同じ区間だけ“未実施”になってます」
未実施。
実施されていないのではない。「未実施になっている」。
義弘は目を細めた。
「原因は?」
「原因として扱える言葉が、まだ無いです。だから、扱える言葉に落とします」
真鍋の顔は、仕事の顔だった。
「“院内セキュリティ空白”。それと“手順逸脱”。……ここまでなら、会議ができます」
義弘は小さく笑いそうになった。笑う場面ではないのに。
「会議ができる、か」
会議ができるなら、議事録が作れる。
議事録が作れるなら——相手を「主語」で縛れる。
その時、廊下の奥で、乾いた音がした。
カツ。
小さすぎる音。靴の音にしては、軽い。
誰かが歩いたのか。あるいは、歩いたことにしたのか。
義弘が顔を上げる前に、音はもう無かった。
市長室の会議机には、紙が並んだ。紙、紙、紙。
電子ではなく、紙。紙なら「出所」を問える。紙なら「差し戻し」ができる。
鳴海宗一が腕を組み、真鍋が端末を開き、そして——義弘の隣に、トミーがちょこんと座っていた。苔色の毛並みが、薄い光を吸う。
「まず確認したい」義弘は言った。「アリスは“拘束”ではない。現状は《要診断》だ。——ここ、いいな」
議事録係の若い職員が、頷く。
「ええ……“表向きは”。」
鳴海が言葉尻を拾った。
「表向きじゃなく、法的にも、です。拘束なら手続きが要る。——だから、向こうは“善意”に寄せてる」
善意。
その単語が、この街を何度も焼いてきた。
そこへ、別ルートの文面が届いた。
オールドユニオン側の、親善大使——“窓口”からの通知。丁寧で、美しい文体。
《短期視察:終了予定》
《市政の自主性を尊重》
《安全確保:撤収手順》
義弘は机に置いた。
「撤収するらしい」
真鍋が眉をひそめた。
「……なのに、病院の札は増えてます。しかも、語彙が違う」
鳴海が頷く。
「撤収の語彙と、継続の語彙が混ざってる。混ざるのは、内部で噛み合ってない時だ」
トミーが、ぴょこんと耳を立てた。
「なあ、ジジイ」
「何だ」
「アリスの札、増えてる。ジジイの札も増える。次はどっちだ?」
義弘は、答えを躊躇わなかった。
「——俺だ」
自分で言って、胃の奥が冷えた。
トミーは鼻で笑った。
「ようやく気づいたか」
「……言い方が悪い」
「悪い言い方の方が、真実に近い」
義弘は深く息を吐いた。
息を吐くたび、机の上の紙が、わずかに揺れた。
「よし。枠を作る」
義弘は議事録係の職員に言った。
「撤収するなら撤収。継続するなら継続。——“善意の主語”を明記させる。誰の善意か。誰が責任を持つか。責任を持つなら、範囲はどこまでか」
「市政として、ですか?」
「市政としてだ」義弘は頷いた。「病院は新開市の病院だ。ここから先は、こちらの語彙になる」
鳴海が鋭く言った。
「向こうが嫌がるぞ」
「嫌がらせない。撤収派は“揉めたくない”」義弘は言った。「揉めたくないなら、枠に乗る」
——問題は、撤収派ではない。
“常駐させたい側”が、姿を見せないことだ。
義弘は、会議机の端に置いた白い封筒を見た。
病院から回ってきた、無記名の紙。
ただ、端に——白い繊維が一筋だけ残っていた。
手袋の繊維。
一方その頃、アリスは病院の「限定解放」を歩いていた。
“解放”と言うには、廊下が狭すぎた。
“限定”と言うには、札が多すぎた。
歩くと、体が勝手に整う。
首の角度。肩の力。呼吸の深さ。歩幅。
《最適化》が、彼女を「正しい患者」にしようとする。
(——うるさい)
怒りの言葉が、喉まで来て、そこで薄まる。
薄まる分だけ、笑顔が出せてしまう。
それが一番、気持ち悪い。
アリスは足を止めて、壁の掲示板を見た。
そこにも札。
《親善視察:終了予定》
《安全確保:撤収手順》
《健康管理:最優先》
《保全:継続》
《確認:反復》
《同伴推奨:常態》
……混ざってる。
しかも、混ぜ方が雑になってきている。
アリスは、指先を掲示板の端に当てた。
紙の重なり。インクの匂い。糊の乾き方。
(撤収するって言ってるやつと、残したいって言ってるやつが、同じ壁で喧嘩してる)
喧嘩してるのに、声を出さない。
声を出さない喧嘩は、手順だけが増える。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
——“見られている”。
視線ではない。センサーでもない。
「視線という概念が、そこに固定されている」感じ。
アリスは、何もないはずの廊下の角を見た。
何もない。
なのに、空気が“重い”。
吸音。光学迷彩。対ハック。ステルス装甲。
知らない人は「何もない」と言う。
知っている人は、息を潜める。
クウィラス。
アリスは、ゆっくりと笑った。
笑うと、頬の筋肉が勝手に“正しく”動く。最適化が、笑顔を守る。
「……来るなら来いよ」
小さく呟いた声は、廊下に吸われた。
吸われるはずのない声が。
その日の昼。
刀禰ミコトが、病院前で配信をしていた。
背景は明るい。彼女は綺麗に映る。
言葉は優しい。
『みんなー、今日も新開市は、がんばってます! アリスちゃんの“診断待ち”はね、拘束じゃないから! だから安心して、祈ろう!』
祈ろう。
その単語が、「列」を作る。
病院前に、人が自然に並び始める。
誰も指示していないのに、並ぶ。
誰も怒鳴っていないのに、従う。
列の先頭には札が貼られていた。
《面会:整理》
《健康管理:最優先》
《同伴推奨:常態》
《安全確保:撤収手順》
撤収手順の札が、列の先頭にあるのが滑稽だった。
撤収するなら、列は解ける。
なのに列は太くなる。
視聴者コメントが流れる。
【優しい世界】
【診断待ちなのに人多すぎ草】
【これ“列”じゃん…まただよ】
【親善大使さん、撤収するんだよね?】
【撤収(継続)ってこと?】
【同伴推奨:常態ってなにw】
【いや笑えん 病院の外でやるな】
【ミコトちゃんは悪くない】
【悪くないけど燃料だろ】
善意の配信は、撤収派を追い詰める。
撤収したいのに、撤収できない。
撤収すれば「善意を捨てた」と言われる。
撤収しなければ「常駐の正当化」に利用される。
——そう。
“常駐させたい側”にとって、これは最高の状況だ。
市長室に、返答が来た。
親善大使側からの、丁寧な返答。
義弘の作った「枠」に、乗ってくる。
《撤収手順:協議可能》
《院内限定:合意》
《語彙統一:検討》
《市政の自主性:尊重》
義弘は、紙を机に置いた。
鳴海が言う。
「撤収派は乗った。——勝てるぞ、これ」
義弘は首を振った。
「“勝てる”のは、相手が出てくる場合だけだ」
真鍋が静かに言った。
「監査記録官側……返答、ありません」
「返答はない」義弘は言った。「札だけが増える。つまり、姿を見せずに常駐の布石を打ってる」
トミーが前脚で机を叩いた。
「ほらな。お前の札も、もう貼られるぞ」
義弘は、窓の外を見た。
遠いはずの残像が、確かに近い。
札でできた巨人が、市長室を覗いている——そんな幻が、離れない。
そして、その瞬間。
机の端に、いつの間にか一枚の札が置かれていた。
紙は、丁寧で、清潔で、触るのが怖いほど滑らかだった。
そこに印字された文字は、優しかった。
《健康管理:最優先(市長)》
《同伴推奨:常態》
義弘の指先が止まる。
会議室の空気が、一段冷える。
真鍋が息を呑み、鳴海が椅子を引く。
トミーだけが、薄く笑った。
「来たな」
義弘は札を持ち上げない。
持ち上げた瞬間、手順が始まる気がした。
「……俺の番か」
声にした途端、部屋の隅で——カツ、と音がした。
誰もいない場所で。
誰も見ていないはずの場所で。
義弘は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「議事録を更新する」
「え?」と職員が言う。
「“市長も対象”だ。主語を奪い返す。——次の会議は、病院じゃない。市政だ」
札の巨人の残像が、窓の外で、ほんの少しだけ——笑ったように見えた。
同じ時刻。
病院の廊下で、アリスは掲示板を見つめていた。
撤収の語彙。継続の語彙。
混ざった札の重なり。
そこに、ほんの小さな“裂け目”があった。
《撤収手順:終了予定》
《保全:継続》
《確認:反復》
——撤収するなら、反復は要らない。
継続するなら、終了予定は嘘になる。
矛盾。
矛盾は、裂け目になる。
裂け目は、手順を裂ける。
アリスは、目を細めた。
(怪談を潰すんじゃない。怪談を……使う)
その背後。
何もない廊下の角で、空気が、わずかに沈んだ。
白い手袋が、どこかで擦れる気配がした。
音はしないのに、気配だけが“記録”される。
アリスは振り返らずに言った。
「……善意って、便利だよな」
返事は無い。
ただ、札が一枚、床に落ちる音もなく増えた。
《健康管理:最優先(対象:未記載)》
対象が、まだ書かれていない。
書かれていないのに、札だけが先に来る。
アリスは笑った。
笑顔は最適化に守られ、怒りだけが胸の奥で燃える。
(書かせるなよ。——私が、書き換える)
廊下の奥で、カツ、と小さな音がした。
吸音が一瞬だけ破れた、その証拠みたいに。
そして、物語は次の札へ進む。




