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第九十一話 常駐の空白/撤収の笑顔

 窓の外に、まだ“札の巨人”がいる。


 いる、というより――残っている、と言ったほうが正確だった。

 ガラスの向こう、薄い霧のような輪郭で、巨大な紙片の束が、ただこちらを覗いている。顔のない顔。目のない目。市長室の窓枠に、ぴたりと貼り付いたまま動かない。


 義弘はそれを見ない。

 見れば、見返される。

 見返された瞬間から、「健康管理」が始まるのは知っている。


 机の上には、紙の束が積まれていた。書類、稟議、議会資料、そして――議事録の“枠”。


 扉の前、廊下のほうから、足音が聞こえた。

 ……いや、聞こえない。


 廊下の途中で、音が消える地点がある。

 人が歩いても、台車を押しても、誰かが咳をしても、そこでだけ世界が吸い込まれる。

 職員はそこを避ける。避けている自覚もない。列が自然に曲がる。視線が自然に滑る。


 椅子の下で、苔色のウサギが鼻を鳴らした。


「なあ」


 トミーが言った。声は小さい。いつもなら遠慮なく毒を吐くのに、今日は音量を落としている。あの“地点”に、声を吸われるのを嫌がっているのだ。


「アリスのほう、もっと気にかけなくて大丈夫かよ」


 義弘はペンを止めなかった。


「気にかけている」


「気にかけてる“ふり”のほうだろ。お前、今――窓も見てない。廊下も見てない。全部“見ない”で仕事してる」


 正しい。

 正しすぎて、痛い。


 トミーは耳をぴくりと動かし、廊下の“無音”へ鼻先を向けた。


「あそこにいるやつ、絶対、アリスを狙ってる。……というか、お前を狙ってる。お前の弱いとこが、アリスだって嗅いでる」


 義弘は、ようやくペンを置いた。

 紙を押さえる指が、ほんのわずかに白くなる。


「だから、枠を先に作る」


 義弘は議事録の束を、机の中央に揃えた。


「先に“善意”を、記録で縛る」


 窓の外の巨人は、相変わらず覗いている。

 それでも義弘は、窓ではなく紙に向かった。


 病院の廊下は、優しい匂いがした。消毒液と柔軟剤と、誰かの菓子パン。

 そして――札。


《経過観察》

《要診断(診断待ち)》

《院内限定》

《外気浴:希望があれば(要申請)》

《安心のため:同伴推奨》


 優しい語彙が、優しい顔をして並んでいる。

 優しいほど、逃げ道が減る。アリスはもう、学習していた。


 アリスはベッドに座っていた。セーラー服ではない。貸与された薄い患者衣。フードもない。スカーフもない。ニーソもない。

 かわりに手首に、軽いタグ。札より薄い“札”。


 体が、勝手に整う。

 整う、というより、勝手に“最適化”される。


 呼吸のタイミングが、いつもと違う。

 瞬きの回数が、増えている。

 指先が、微妙に遅い。

 怒りが湧く前に、眠気が先に来る。

 言葉が尖る前に、喉が乾く。


(……ムカつく)


 アリスは唇を噛んだ。

 NECROテックの内側――翼の残像が、薄くちらつく。

 だけど、羽ばたけない。羽ばたく命令が、手順に引っかかる。


 ドアの外で、誰かが話していた。


「拘束ではありません。本人の意思を尊重し――」


「ええ、ええ。健康のためです」


 健康。

 善意。

 尊重。


 全部、嘘じゃない。

 だから厄介だ。


 アリスは視線を、病室の床に落とした。

 床の端――わずかな影が、音のない形で沈んでいるように見えた。


 見た、と思った瞬間、影は消えた。

 いや、消えたのは自分の認識のほうかもしれない。


 アリスの背筋に、冷たいものが走った。


(……あいつ)


 白い手袋。

 名前じゃない。所属でもない。

 ただ、手順に慣れた手つき。


 ――監査記録官。


 呼称だけが、胸の奥で鳴った。


 市長室に、連絡が入った。


 「親善大使団(視察団)より、市政協力の提案」と題された文書。

 薄い紙。丁寧な言い回し。笑顔の言葉。


 義弘は、それを読みながら、逆に背筋が冷えた。

 こういう文面は、撤収の匂いがする。撤収が“成果”として書かれている。


 トミーが机の端から紙を覗き込んだ。


「……撤退宣言? いや、謝罪じゃない撤退声明の系譜だろこれ」


「撤退なら、ありがたい」


「ありがたいけど、裏だ。あいつらが撤退するってことは、残すやつがいる」


 義弘は頷いた。

 残すのは誰か。

 残すのは何か。


 義弘は議事録の“枠”に赤ペンで線を引いた。


《匿名可》

《発言の動機のみ記録》

《負担軽減》

《短縮手順の定義要求》

《撤収手順の可視化》


 枠を作る。

 枠を先に、市民に見せる。

 善意の言葉を、善意のまま閉じ込める。


 そこまで書いたところで、廊下の“無音”が、少しだけ濃くなった気がした。


 トミーが耳を伏せる。


「来てる」


 義弘は立ち上がった。

 立ち上がったのに、足音が自分でも聞こえない。

 市長室のドアを開けると、廊下の途中で世界が途切れていた。


 そこに、誰かが立っているのではない。

 “立っていることにされない”空白がある。


 義弘は、あえてその地点から視線を外し、隣の職員に声をかけた。


「議事録を回せ。今日中に」


「は、はい……」


 職員は、廊下を避けるようにして走り去った。

 走ったはずなのに、途中から足音が消えた。

 義弘は、その消える地点を見ない。


 見ないまま、言葉だけを置く。


「撤収手順を“成果”として記録する。――提案してくれたのは、そちらだ」


 返事はない。

 しかし空白が、わずかに揺れた。


 トミーが小声で笑った。


「お前、刀いらないな」


「いる」


 義弘は言った。

 刀が必要な相手は、空白ではない。

 空白を許す“枠外”だ。


 その夜。

 新開市の配信が、また火をつけた。


 刀禰ミコトの善意の配信――「働きづめの市長さんと、休息を忘れがちな彼女へ。みんなで“おやすみ”を贈ろう」。


 画面には、ミコトの笑顔。綺麗に整えられた背景。視聴者に寄り添う声。

 意図は善意だ。煽りの自覚は薄い。だから強い。


『市長さん、休んで!!』

『アリスちゃんも休んで!!』

『健康管理って大事だよね!』

『病院の人たちも頑張ってる!』

『列できてて草』

『……今、音、抜けた?』

『え? なに? 無音区間あったよな?』

『編集じゃない、これライブ』

『いや、あれ、あの“無音”だろ』

『特殊作戦のやつじゃね?(言うな)』

『言うなって言うほど広まるやつ』

『見えないのにそこだけ風景が“重い”』


 コメント欄が、一瞬でざわついた。


 ミコトは気づかない。

 視聴者のほうが敏感だ。

 そして視聴者の“言葉”は、札より速く街を回る。


 親善大使団の事務局が、顔色を変える。

 ――露見回数が増える。

 ――“常駐”など論外だ。

 ――撤収を急げ。


 その焦りが、ひとつの文面になって、市役所へ飛んだ。


《短期視察:終了予定》

《安全確保:撤収手順》

《市政の自主性を尊重》


 笑顔の撤収。

 綺麗な撤収。

 完璧な撤収。


 だが。


 同じ夜、別の札が市役所の裏口に貼られた。


《保全:継続》

《確認:反復》

《安全:常態》

《健康管理:最優先(市長)》


 札は、矛盾した。

 矛盾したのに、どちらも“善意の顔”をしていた。


 翌朝。

 病院の廊下に、列ができた。


 列は患者ではない。見舞いでもない。

 善意の人々だ。アリスの快復を願う市民。差し入れの紙袋。手紙。小さな花束。

 「無理しないで」という言葉を、本人に言いたい人々。


 看護師が困っている。

 困っているのに、止められない。止めれば悪者になる。


 アリスは病室の中で、音を聞いていた。

 廊下のざわめき。笑い声。紙袋が擦れる音。

 ……そして、途中で消える音。


 列の途中に、無音の帯が混じっている。

 誰もそれを意識しないのに、列がそこだけ“整列”する。

 整列したまま、ゆっくりと動く。


(……やめろ)


 アリスが立ち上がろうとすると、体が一拍遅れる。

 最適化が、遅延になる。

 翼の残像が、窓ガラスに反射した気がした。


 そのとき、病室のドアが静かに開いた。


 誰もいない。

 のに、開いた。


 白い手袋だけが、ゆっくりとドアノブから離れた。


 アリスの喉が乾く。


「……監査記録官」


 呼んだ。声は小さい。

 白い手袋は、返事をしない。

 返事をしないまま、ベッド脇のタグに視線を落とす。


 そこへ、看護師が慌てて入ってきた。


「すみません、今、ここに――」


 看護師の声が、途中で消えた。

 無音の帯が、病室の中まで伸びている。


 アリスは、背筋が凍った。


 白い手袋が、手順に慣れた手つきで、紙を差し出した。

 柔らかい文面。優しい言葉。


《安心のため:同伴推奨(常態)》

《保全:継続》

《院内限定:延長》


 “拘束ではない”まま、範囲が狭まる。

 “善意”のまま、檻になる。


 アリスは紙を受け取らない。

 受け取らなくても、札は貼られる。


 その瞬間、廊下のほうから、足音がひとつ――だけ、聞こえた。


 消えない足音。


 義弘の足音だ。

 サムライ・スーツではない。市長の革靴。なのに、音が消えない。


「……アリス」


 義弘の声は、低い。

 病室に入るなり、空白を見ない。白い手袋も見ない。

 見るかわりに、紙を掲げた。


 議事録の“枠”。


「撤収手順を“成果”として記録する。短期視察の終了予定も、同じく記録する。――市政の自主性を尊重するなら、手順の定義を提出してもらう」


 白い手袋が、微かに止まった。

 止まったのは空白か、手か、手順か。


 義弘は続ける。


「同時に、こちらの札も提出する。市政の権限で」


 義弘が取り出したのは、白い紙ではなかった。

 新開市役所の印が押された、厚い“札”。


《市政指定:診断・治療は新開市医療系統にて実施》

《公式支援対象:市政キャラクター候補(暫定)》

《保護:市政の責務》

《健康管理:市政が担う(最優先)》


 言葉は同じだ。健康管理。最優先。保護。

 だが、主語が違う。


 “善意”の主語を、奪い返す札。


 白い手袋が、ゆっくりと手を動かした。

 紙が擦れる音。

 その音が、途中で一度だけ途切れ――


 途切れたはずの音が、戻ってきた。


 ――カツ。


 廊下の無音の帯が、苛立ったように鳴いた。

 吸音が、ほんの一瞬破れた。


 看護師が息を呑む。

 アリスの目が、わずかに見開かれる。

 トミーの耳が、遠くでぴくりと立つ。


 白い手袋は、何も言わない。

 だが、その沈黙が、初めて“焦り”の匂いを持った。


 親善大使団の撤収札と、監査記録官の継続札が、同じ場所で衝突した。

 矛盾が、音として漏れた。


 義弘は、その一拍の裂け目を逃さなかった。


「記録する」


 そう言って、義弘はペンを走らせた。

 枠の中に、矛盾を閉じ込めるように。


 そして――窓の外の巨人の残像が、ほんのわずかだけ、顔を巡らせた気がした。


 市長にも、病室にも、列にも。

 次の札は、どこへ貼られるのか。


 答えはまだない。

 だが“空白”は、確かに鳴いた。

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