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第九十話 署名しない署名

 市長室の扉に、紙が列を作っていた。


 人が並ぶのではない。紙が並ぶ。

 紙は時間を持ち、敬語を持ち、そして――正しさを持っている顔をしている。


《訪問予告(随行事務局)》

《移送判断の事前相談(任意)》

《健康管理に関するご案内(最優先)》

《視察対応:負担軽減のための短縮手順》

《配信者・撮影申請(善意)》

《支援団体:お見舞い(任意)》

《市民ボランティア:静かな列(推奨)》


 貼った人の名前はどこにもない。

 だが、貼り方が同じだ。角度が同じだ。余白の取り方が同じだ。

 まるで紙そのものが、ここに来たがっている。


 義弘はソファに沈み、膝を押さえた。痛みが、礼儀正しく脈打つ。


「……今日、何曜日だ」


 机の上で、苔色のウサギが前足を組むように座っていた。

 トミーは、紙の列を一枚ずつ目でなぞり、舌打ちの代わりに鼻を鳴らした。


「“確認曜日”」


「曜日を作るな」


「作ってるのはお前じゃない。ここだ」

 トミーは扉を指す。

「今日は“人”じゃなくて“紙”が市長に会いに来る日。で、紙はね、会えないと泣くんだよ。次は増える」


 義弘は笑いかけて、やめた。笑いは紙に勝てない。


 秘書が小さくノックし、顔だけ差し入れた。顔がすでに“手順の顔”をしている。

 上品で、疲れていて、なぜか謝っている。


「市長……本日の“移動相談”ですが。廊下に、列が……」


「人の列か?」


「いえ……最初は人でした。でも、途中から――紙が増えました」


 義弘は目を閉じた。

 市役所の廊下は、以前は人が雑に通り過ぎる通路だった。

 今は、誰かの善意が建てた“静かな寺”だ。


「通してくれ。会う」

 義弘は立ち上がろうとして、膝が先に拒否した。ほんの一拍遅れて身体が許可を出す。

 その一拍が、今は怖い。


 トミーが、床に落ちていた小さな札を前足で拾った。

 白い紙の端だけが、不自然に清潔だった。


《健康管理:最優先(市長)》


「ほら来た」

 トミーは札を義弘に見せる。

「次はお前だ」


「……最初から、次は俺だ」


 義弘は札を受け取り、破らずに机の引き出しにしまった。

 破ると“悪意”になる。

 残すと“同意”になる。

 札は、いつだって正しい形で刺してくる。


 廊下に出ると、列は確かに“静か”だった。


 市民、配信者、支援団体の腕章、自治会のベスト、ヒーローのマークを貼ったヘルメット。

 そして、列の前方の壁一面に――札。


 人は札を読んで、札に並んで、札の言葉で呼吸していた。


「市長さん……お疲れ様です……!」

「無理しないで……健康管理、大事……」

「今日は短縮手順でお願いします……」


 善意。善意。善意。

 善意でできた濡れタオルみたいに、息がしにくい。


 配信のカメラが、列の後ろからぬっと伸びる。

 刀禰ミコトの配信だ。本人の姿は見えないが、声が浮かぶ。


『みんな、静かにね。今日は市長さんの“負担軽減”の日だから。声を荒げないで。優しく見守ろうね』


 優しさが列を生成する。

 煽っている自覚は薄い。

 それが一番、長持ちする。


 義弘が進むたびに、列が自動で二つに割れる。

 紙が、道を作る。紙が、市長を通す。


 ――そして紙が、市長を逃がさない。


 会議室に入ると、親善大使の随行事務局がすでに座っていた。

 きれいに装飾されたバッジ。磨かれた靴。整った笑顔。

 卓上に並ぶ資料は、紙が分厚く、白が眩しい。


「本日はご多忙のところ、お時間を賜り――」


「短縮手順で」

 義弘は先に切った。

「あなた方が持ち込んだ“負担軽減”の札に従ってな」


 空気が一拍だけ、固まる。

 だがすぐに、笑顔が戻る。笑顔は“手順”だ。


「もちろんです、市長。私どもはあくまで善意で――」


「善意なら残せる」

 義弘は鞄から一枚の紙を出し、卓上に置いた。


 文面は柔らかい。字は丁寧。

 だが、柔らかさの下に金属がある。


《市指定病院:診断・治療枠(臨時)》

《移送判断:市政監督下の協議必須》

《委譲協議:公開議事録(匿名可)》


 担当者の目が、三行目で止まった。


「……公開、ですか」


「匿名可だ」

 義弘は微笑んだ。

「あなた方の善意を疑わない。だから善意のまま残そう。署名は要らない。だが発言は残す」


 “署名しない署名”。

 逃げ道の形をした檻。


 担当者が言葉を探している間に、義弘は続ける。


「君たちはいつも、署名を求めない。

 署名がなくても、手順は進む。善意で進む。

 なら逆もできる。善意の議事録で進める。善意で残す」


 担当者の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。

 薄くなった分だけ、紙の白が強く見える。


「市長、それは……負担が――」


「負担軽減」

 義弘は卓上の資料を指で軽く叩く。

「君たちが言い出した言葉だ。今さら言葉を捨てるな」


 会議室の隅で、トミーが椅子の脚を軽く蹴った。

 コトン、と音が鳴る。

 その音が、なぜか妙に遠い。


 ――吸音。


 空気の中に、見えない“空白”が立つ。

 義弘のスーツのセンサーが、瞬間だけ、何もない位置を示した。


 視界に映らないのに、いる。

 音がないのに、いる。

 そこに立っている“可能性”だけで、会議室の温度が下がる。


 義弘は、顔色を変えない。

 変えると、相手の“優位”になる。


「議事録、受けるか?」

 義弘は淡々と言った。

「拒否すれば悪意に見える。受諾すれば残る。匿名でいい。どうする」


 担当者は、短縮手順の紙を見下ろした。

 紙が、担当者を見上げている。


「……確認します」

 担当者が言った。

「関係各所に――」


「確認でいい」

 義弘は頷く。

「確認が好きだろう。君たちは」


 その瞬間、卓上端末のランプが、心臓みたいに点滅した。

 以前、リングの“胃袋”で見たのと同じリズム。

 市役所の端末が、同じ鼓動を刻む。


 担当者の手が、ほんの少し震えた。


 資料の隅に、小さな一文が見えた。

 義弘の目は、その一文だけを拾う。


《静音装備を含む運用は長期化を避ける。よって前倒し推奨》


 ……焦っている。

 “空白”の維持が危ない。

 だから前倒しで、決着を付けたい。


 義弘は、その焦りを顔に出さないまま、紙を指で整えた。


「いいだろう。確認しろ。

 その代わり――ここから先の“善意”は、俺の議事録に乗せる」


 同時刻。


 病院の白い廊下で、アリスは壁にもたれていた。

 限定的に解放されている。拘束ではない。

 そう書かれている。書かれているから、そうだ。


 だが、歩こうとすると、体が一拍遅れる。

 “許可待ち”が、骨の内側に染みている。


 セーラー服の襟が、やけに重い。

 フード付きパーカーのフードが、頭の後ろで引っ張る。

 スカーフの布が、首を優しく絞める。


 優しく。

 優しく。

 ――優しく殺す。


 廊下の掲示板に、札が増えていた。


《経過観察》

《診断待ち》

《保全》

《休養》

《点検》

《最適化》


 そして、見覚えのないものが混ざる。


《院内限定(負担軽減)》


 紙の言葉が、アリスの足首に巻き付く。

 黒ニーソックスの上からでも、冷たい。


 遠くで、ミコトの声がスマホから漏れる。病院の待合で誰かが見ている。


『アリスちゃんも、市長さんも、頑張りすぎ。

 今日は“休むこと”も正義だよ。みんな、静かに見守ってね』


 見守りが列を生む。

 列が札を生む。

 札が最優先を生む。


 アリスは、笑おうとして、失敗した。

 頬の筋肉が、一拍遅れて上がる。

 その遅れが、屈辱に似ている。


「……ふざけんな」


 翼の残像が、視界の端でちらついた。

 情報ではない。幻でもない。

 “身体感覚の外側”に、何かが生えている。


 NECROテックは、限界に近い。

 限界に近いと、身体は“善意”に似た動作を始める。

 自分を守ろうとして、自分を縛る。


 アリスは壁を指で叩いた。

 コン、と軽い音。

 音が――途中で消える。


 吸音。

 空白が、廊下の奥で立ち上がる。


 見えないのに、いる。

 聞こえないのに、来る。


 アリスの舌が、いつもの毒を探す。

 見つからない。

 代わりに喉から出たのは、短い息だった。


 市役所に戻る。


 会議室の外では、列がまだ静かに続いていた。

 紙が増え、紙が更新され、紙が“善意”の速度で増殖する。


 義弘が廊下を歩くと、職員が小走りで追いかけてきた。

 手には、印刷したばかりの紙束。


「市長! 新しい札が――」


「読まない」

 義弘は言った。

「読むと貼られる」


 職員は困った顔をした。

 困った顔が、また札語彙を呼ぶ。


「でも、市長の健康管理が……最優先……」


 義弘は足を止め、職員の目を見た。

 目を見てしまうと、人間になる。

 札から外れる。

 その一瞬が、こちらの武器だ。


「“最優先”は便利だな」

 義弘は静かに言った。

「最優先にしたいものを、全部最優先にできる」


「……」


「だから、俺が最優先を決める」

 義弘は職員の手の紙束から、一枚だけ抜き取った。


《適格性確認:追補(市長)》


 義弘は紙を折った。角を折った。

 破らない。

 捨てない。

 角だけ折る。


 紙は“迷う”。

 手順が一瞬、迷う。


 廊下の空気が、ほんの小さく緩んだ。

 列の中の誰かが、くしゃみをした。

 誰かが笑いそうになって、口を押さえた。

 元の愉快な新開市民が、ほんの一瞬だけ戻る。


 ――戻った瞬間を、札は嫌う。

 標的を選ぶ。


 義弘の背中に、冷たい視線の“空白”が貼り付いた。


 振り向いても見えない。

 だが、見えないまま、そこにいる。


 トミーが肩の上で耳を伏せた。

 動物の勘が、空白を嫌がる。


「……見られてる」

 トミーが言った。

「紙じゃないやつに」


「知ってる」

 義弘は折った札を胸ポケットに入れた。

「だから、残す。議事録も、札も、全部」


「正気かよ」


「正気じゃないと勝てない」


 義弘は歩き出した。

 膝が痛む。

 痛みが、礼儀正しくついてくる。


 市長室の扉に戻ると、また新しい紙が貼られていた。

 インクがまだ湿っている。

 誰かが今、置いていったみたいに。


《次回訪問:健康管理(市長)》


 紙の端だけが、白い。

 白すぎる。

 清潔すぎる。


 義弘は、その端を見つめた。

 白い手袋が触れた痕。


 “空白”が、扉の向こう側で、微かに身をずらした。


 ――音がしないのに、動いた気配だけがする。


 義弘は扉に手を置いた。

 紙の列が、外で静かに息をしている。


 そして義弘は、たった一言、口の中でつぶやいた。


「……次の札は、俺を狙う。なら――俺が先に貼る」


 引き出しの中で、さっきの《健康管理:最優先(市長)》が、紙のまま脈打っている気がした。


 遠く、病院の方角で、誰かの足取りが一拍遅れた。

 その遅れが、偶然ではない気がした。


 善意が、次の手順を用意している。

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